「青天を衝け」(22)「篤太夫、パリへ」
内容:
パリに到着した篤太夫は早速万博会場を視察。
最先端の西洋技術を体感し、度肝を抜かれる。
そして日本の展示ブースに掲げられた薩摩の旗。
幕府使節団は薩摩に抗議するが、
五代とモンブランが裏で手を引いていた。
そんな中。昭武はなプレオン三世の謁見式に出席し、
堂々と慶喜の名代としての役目を果たす。
その頃日本では、慶喜が次々と幕政改革を断行していた。
(これ良いです)
本日は「青天を衝け」22回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
2>
「青天を衝け」22回目を拝見!本日からパリ編がスタート!現地ロケがないので、いかがかと思っていたが、技術の粋を集めた圧巻の映像、また栄一らの高揚感、昭武の貴公子振りに圧倒された幕府VS薩摩も巧みに分かり易く描かれ、素晴らしかった!一方、慶喜の凛とした姿にも息を呑んだ。
3>
慶応3年(1867)1月11日、渋沢栄一は、徳川昭武に従い横浜より乗船して、フランスに向け出航した。御勘定格陸軍附調役として随行し、約1年半の渡欧中、庶務・経理等を担当した。ドラマでは船上でのやり取りも描かれ、面白かった。
4>
本日の準主人公とも言える徳川昭武について、朝日日本歴史人物事典によると、生年は嘉永6.9.24(1853.10.26)、没年は明治43.7.3(1910)。幕末の水戸藩最後の藩主。徳川斉昭の第18男。母は万里小路睦子。慶喜の実弟。
5>
徳川昭武は、元治1(1864)年兄昭訓の急死により、御所守衛に任じられ、7月の禁門の変時に常御殿東階付近を警衛、11月京都警衛の功を賞されて従五位下、民部大輔となる。同年末、天狗党の西上に対し禁裏守衛総督の慶喜の命で追討軍先鋒として東近江路を進軍した。
6>
徳川昭武は、天狗党征討のため出陣したが、総攻撃予定日に武田耕雲斎らが加賀藩に降伏したため帰京。慶応2(1866)年11月清水家襲封。慶喜の営内に居住。従四位下左近衛権少将。翌3年パリ万博に向山黄村以下28名を率い将軍慶喜の名代として参加。
7>
徳川昭武は、締盟各国訪問後にフランス留学、徹底したフランス語教育を受ける。明治1(1868)年明治維新により慶喜が水戸で謹慎中と知り留学を断念、帰国後水戸藩襲封。同2年旧幕軍追討のため江差へ。同年版籍奉還、藩知事となる。
8>
徳川昭武は、明治3年(1870)に北海道開拓を志し旧藩士と天塩5郡に入植、のち帰藩。同4年廃藩置県により藩知事免官。同9年フィラデルフィア万博見学のため渡航後、フランスに再留学。同14年帰国し松戸に隠居。
9>
徳川昭武が隠居した戸定邸は、松戸市HPによると、明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物。約2年の建設期間を経て1884年4月に座敷開きが行われた。増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23に及ぶ。旧大名家の生活空間を伝える歴史的価値が高く評価されている。
10>
松戸の戸定邸、船橋市在住の私の自宅から車で20分程度。併設の博物館は頻繁に企画展を開催されるので、既に何度も伺っている。今回の時代考証をお努めの戸定歴史館名誉館長の齊藤洋一さんとは懇意にしたいただいており、先日も伺った際にはバックヤードで、暫しご歓談いただいた。
11>
徳川昭武のパリ行きの同行者は、外国奉行・向山一履、博役・山高倍離、医師・高松凌雲、田辺太一、杉浦譲、昭武督護役の水戸藩士7名、伝習生、 商人で万博に参加した清水卯三郎なども含め総勢33名であった。維新後、新政府で活躍する人物も少なからず含まれた。
12>
渋沢栄一一行に同行したアレクサンダー・シーボルトSiebold、 Alexander Georg Gustav von(1846-1911)について、ドイツ人外交官。1846年8月16日オランダのライデン生まれ。P.F.シーボルトの長男。安政6年(1859)再来日の父とともに長崎に来る。
13>
アレクサンダー・シーボルトについて、文久2年駐日イギリス公使館の通訳官となり、慶応3年幕府の遣欧使節一行に随行した。明治3年から日本政府にやとわれ、ベルリン駐在日本公使館書記官などをつとめた。1911年1月23日死去。64歳。今回は英国のスパイとして重要な役回りの人物。
14>
向山一履(黄村、1826−1897)について、日本人名大辞典によると、幕末-明治時代の武士、漢詩人。文政9年1月13日生まれ。向山誠斎の養子。幕臣。箱館奉行支配組頭、目付をへて慶応2年(1866)外国奉行。翌年パリ万国博使節団に随行し、駐仏公使となる。
15>
向山一履は、維新後は静岡藩の学問所学頭をつとめ、のち東京で漢詩人として知られた。明治30年8月12日死去。72歳。本姓は一色。名は一履の他に栄。通称は栄五郎。著作に「游晃小草」など。
16>
徳川昭武・渋沢栄一ら一行は、上海・香港・サイゴン・シンガポー ル・セイロン・スエズ・カイロ・アレキサンドリア・マルセイユ・リヨン等を経て、3月7日にパリに到着し、カプシンヌ街のガランドホテルに宿泊した。
17>
渋沢栄一一行を出迎えたカションCachon、 Mermet de(1828-1871)について、フランスのカトリック宣教師。1828年9月10日生まれ。安政5年(1858)フランス使節グローの通訳として来日。後に駐日総領事ベルクールや公使ロッシュの通訳をつとめ、日仏間の親善につくす。
18>
カションは、幕府に横浜に仏語伝習所を設立させ、校長となる。慶応3年帰国。ここで徳川昭武・渋沢栄一ら一行と接点が生じる。しかし、幕府がカションを嫌っていたのもドラマ通り。享年43歳。レブーシュー出身。日本名は和春。編著に「仏英和辞典」。
19>
慶応3年(1867)3月24日、徳川昭武は向山一履らを従えて、フランス皇帝ナポレオン3世に謁見した。この時、渋沢は陪席しておらず、皇帝への献上品を宮中へ届ける役割を果たしていた。渋沢は28日、昭武と軽気球を観覧。翌29日、昭武はナポレオン3世主催の観劇会に出席、渋沢も陪席した。
20>
ナポレオン3世Napolon III; Charles Louis Napolon Bonaparte([生] 1808.4.20. パリ[没] 1873.1.9. ロンドン近郊チズルハースト)について、ブリタニカ ・オンラインによると、フランス第2帝政の皇帝 (在位 1852~70) である。
21>
ナポレオン3世は、ナポレオン1世の弟オランダ王ルイ・ボナパルトとオルタンス・ド・ボーアルネの第3子。ルイ・ナポレオンと呼ばれた。 1815年のナポレオン1世の没落で、ボナパルト家は国外へ逃れ、彼は母親によってドイツ、スイス、イタリアで養育された。
22>
ナポレオン3世は、ナポレオン1世のひとり息子が世を去ると、ルイ・ナポレオンがボナパルト家の宗主となり、ナポレオン1世の後継者として、また有能な扇動家として知られるようになった。1836年 10月七月王政打倒の反乱に失敗、アメリカに追放された。
23>
ナポレオン3世は、1840年8月再度反乱を企てたが、失敗。終身禁錮を宣告され、投獄された。 46年5月ロンドンに脱出。二月革命の報でパリに帰り、48年 12月の大統領選挙で圧倒的勝利を博した。 51年 12月2日武力で議会を解散し、翌年クーデター記念日に帝位につき第二帝政を開始。
24>
ナポレオン3世は、産業革命を推進する機能を果し帝国は経済的繁栄をみた。しかし対外政策はイタリア問題でフランスを国際的に孤立化させ、特にメキシコ遠征の失敗は帝政の威信を内外に失墜させた。69年議会帝政に入ったが、70年9月普仏戦争に敗れ、自らも捕虜となり帝政は崩壊した。
25>
大昔、日本テレビで「アメリカ横断ウルトラクイズ」なる番組があり、後楽園球場からスタートしたが、〇✕クイズの問題で「ナポレオン3世はナポレオンの孫である」が出た記憶ありもちろん、✕。どうでもいい情報でした。
26>
慶応3年4月1日、渋沢栄一は大臣官邸での舞踏会に陪席し、2日に凱旋門を見学した。3日、徳川昭武はチュイルリー宮殿で皇帝招待の舞踏会に出席し、渋沢も陪席した。ドラマ通り(^^)12日、渋沢は杉浦らとシャルグラン街30番のアパートメントに引っ越しした。
27>
渋沢栄一は、慶応3年4月15日に大砲器械貯所、24日にパリ市街上下水道視察を視察した。4月晦日には、昭武とともにフランス皇帝・ロシア皇帝らとブーローニューで競馬を観戦し、競馬賭博の紹介を受けた。
28>
慶応3年5月4日、昭武はナポレオン3世の大観兵式にロシア皇帝らともに招待され、渋沢も陪席した。帰途ロシア皇帝暗殺未遂事件、が勃発している。5月7日、昭武はフランス皇帝・ロシア皇帝・プロイセン帝王とベルサイユ宮殿で会食し、渋沢は陪席した。
29>
慶応3年5月11日、渋沢栄一は徳川昭武に従い、パリ・パツシー郷ペルゴレイズ街53三番家に転宿した。5月18・29日、6月2・21日、8月3日、渋沢は、昭武とともにパリ万国博の展示会を場視察した。当時の世界最高水準を見せつけられ、一同の驚嘆ぶりは想像に余りある。
30>
渋沢栄一は、この間に日本出品に関する批評を調査し、徳川昭武の水道貯水池・ブーローニュー競馬・パリ郊外観光に追従し、かつ各国巡遊の準備を始めていた。渋沢のような実務的能吏が同行したことは、まさに奇跡であり、近代日本にとって、まさに僥倖(ぎょうこう)であった。
僥倖:思いがけなく得た幸運
31>
なお、外国奉行兼箱館奉行栗本鋤雲「安芸守」が渡仏するのは慶応3年6月であり、8月にパリに着いている。つまり、昭武と同行していない。借款実現にテコ入れのため、投入された。
32>
ちなみに、パリ万博の開催期間は1867年4月1日~10月1日、入場者数は有料での入場者のみで906万3、000人に達している。当時の公式ガイドブックは、現在もヤフオクに高額ですが、出ていますね。興味がある方は、検索を!
33>
なお、パリ万博での幕府VS薩摩藩について。JBpress「渋沢栄一と時代を生きた人々」で現在、徳川慶喜の連載中ですが、その次のシリーズでこの問題を連載して、掘り下げます。申し訳ございませんが、本日のTwitterでは控えますので、そちらを、乞うご期待ください 。
34>
余計な話をもう一つ、今年の町田ゼミのある回で、事前に「歴史探偵 渋沢栄一inパリ万博帰郷」を視聴いただき、渋沢栄一とパリ万博そのもの、さらに幕府VS薩摩藩などについて、様々な意見交換を行った。非常に刺激的な意見が頻出し、楽しかったちなみに、毎回、刺激的で楽しいです 。
35>
では、ここからは、徳川慶喜と薩摩藩を中心に、国内の政治動向に目を向けよう。慶応2年(1866)12月に将軍の座に就いた慶喜は、薩摩藩を始めとする雄藩との協調を求め、諸侯と合議して兵庫開港や長州藩処分の決定を呼びかけた。
36>
こうした機運を敏感に察知した薩摩藩家老・小松帯刀は、慶喜が薩摩藩を中心とする西国雄藩と連携して政局運営を図るのではないかと期待し、当面は朝廷工作を控えて直接幕府と交渉することを選択した。それに応じて慶喜は、側近の原市之進を小松のもとにしばしば派遣した。
37>
小松帯刀と原市之進は、明治天皇の践祚を機に行われた大赦や五卿の京都復帰などについて、意見調整を行うなど蜜月関係が構築された。折しも長州藩の処分をどのようにするかという問題に加え、通商条約に定められた兵庫開港の期日が切迫していたため、小松はこの機会を逃さなかった。
38>
小松帯刀と西郷隆盛は、慶喜サイドからのアプローチを逆手に取り、諸侯会議を至急開催して外交権を幕府から朝廷に移管することによって、なんとか廃幕に持ち込もうと画策した。慶応3年(1867)2月1日、西郷は鹿児島に帰藩し、久光に上京を促し、賛同を得た。
39>
西郷隆盛は伊達宗城と山内容堂もとに駆けつけて説得し、双方からも上京の了解を得た。一方で、京にいる小松は越前藩の家老を説得し、松平春嶽の上京を約束させた。4月12日、久光は700人の藩兵を率いて京に入り、春嶽、宗城、容堂もそれに続いたため、四侯会議のメンバーが出揃った。
40>
しかし、慶喜はこれら諸侯の上京を待たずに、諸外国公使に兵庫開港を明言し、独断で開港勅許を要請した。これは明らかに諸侯をないがしろにした裏切り行為に他ならず、四侯会議の前段階ですでに慶喜と四侯間に亀裂が入っていたのだ。
41>
しかし、上京した四侯による会議は慶応3年5月4日以降、わずか3回しか開催されず、慶喜に謁見したのも14、19、21日のわずか三日間で、容堂に至っては14日のみの出席だけであった。薩摩藩の島津久光が意図したものとはほど遠く、実質的な成果は全くなかった。
42>
ちなみに、慶喜が二条城で四侯の写真を撮影したのは事実。島津久光の写真は、これしか知らない。現物は確か福井にあるのでは。。
43>
四侯会議がうまく機能しない中、慶応3年5月23日、丸1日に及んだ朝議「慶応国是会議」は紛糾を極めたものの、慶喜の粘りに屈し、長州藩への具体的な処分内容は曖昧なまま、長州への寛大な処分と兵庫開港が同時に勅許された。四侯側は要求をすべて退けられ、完敗であった。
44>
この結果は島津久光にとって大いに不満であり、小松や西郷らも慶喜を排除した上で、朝政改革を断行すべきと考える契機となった。長州藩との共闘による武力発動、これは多数の藩兵を上京させ、武力を圧力装置として慶喜に将軍辞職を迫ることにした。
45>
これは、王政復古を企図するものだが、それも辞さないとの方針に薩摩藩・島津久光は大転換した。もちろん、無血による王政復古を第一に志向していたが、時と場合によっては武力衝突、つまり幕府との戦争も辞さないという姿勢である。
46>
慶応3年6月16日、久光は藩邸内に匿っていた長州藩士の山県有朋と品川弥二郎に面会の機会を与え、薩摩藩の新しい方針を直接伝達した。山県らは久光の発言から、薩摩藩は「武力討幕」を決意したと判断した。そして18日、久光は藩主・忠義に対して藩兵の派遣と率兵上京を要請した。
47>
しかし、久光父子の誤算が生じる。薩摩藩内には率兵上京への反対意見が渦巻き、事は容易に運ばなかったのだ。ここに、後藤象二郎が坂本龍馬を伴って長崎から上京し、薩土盟約へと転換する。このあたりは、来週に。
48>
一方で、徳川慶喜は幕府の慶応改革を進めた。人材登用・軍事力強化・外交の信義など8ヵ条の改革綱領を実行に移した。このあたり、ドラマでは言及がなかったが、慶喜の異能さを如実に示すものであろう。
49>
徳川慶喜は、老中を専任の長官とする「五局体制」(陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁)を確立、老中首座の板倉勝静が五局を統括調整する首相役とする事実上の内閣制度を導入した。
50>
慶喜は、人材登用の強化を図り、実務能力をもった小栗忠順・栗本鋤雲などの親仏派官僚を抜擢した。また、新税導入による財政改革、旗本の軍役を廃止(銭納代替)、シヤノワン大尉他のフランス軍事顧問団の指導による歩兵・砲兵・騎兵の三兵のフランス式訓練(陸軍改革)を推進した。
51>
さらに、徳川慶喜はフランスの支援による最初の本格的な造船所となる横須賀製鉄所の建設を技師ヴェルニーによって推進し、海軍強化に務め、仏公使ロッシュの全面支援の下、超大型の借款計画を進めたが、それがダメになったのはドラマの通りである。
52>
いよいよ、次週は大政奉還の模様。幕末編も大詰めを迎えそうである。私の事後ツイートもカウントダウンが始まったが、最後まで、お付き合いをお願いいたします(^^)
53>
最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。途中からの参加も可能です。
54>
7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件
9/18(土)海援隊と薩土盟約
10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺
55>
JBpressで明日の朝6時、
全6回シリーズの3回目が公開されます。ぜひ、ご覧下さい!
56>
「大河ドラマで語られなかった橋本左内-将軍継嗣活動を中心に-」 日時:8月1日(日) 13:00~16:00 オンライン 町田明広氏「将軍継嗣問題と橋本左内」 角鹿尚計氏 「橋本左内の道中日記を読む」
57>
高知県立坂本龍馬記念館
8月28日(土)
「薩摩藩と坂本龍馬」
講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授)
58>
9月11日(土)(午前10時30分)
「薩摩藩と大英帝国」 神田外語大学 町田明広
59>
渋沢栄一記念財団渋沢史料館編
が重版され、オンライン販売しております。私は「薩摩スチューデントについて」を執筆しました。#青天を衝け
60>
おまけ情報
薩摩藩パリ万博使節団(1867)
使節団長兼博覧会御用 岩下方平
側役格 市来政清
博覧会担当 岩下方美
博覧会担当 渋谷彦助
博覧会担当 蓑田新平
博覧会担当 野村宗七
測量士 烏丸啓助
留学生 岩下長十郎
秘書 堀壮十郎
秘書 斎藤健次郎
1>桐野作人@kirinosakujin 2021年7月11日
本日の大河ドラマ「青天を衝け」。渋沢篤大夫(栄一)の見立て養子となった尾高平九郎。慶応4年(1868)5月、従兄の渋沢成一郎が彰義隊から離脱して組織した振武軍に加わり、飯能戦争で戦死した。墓は深谷市下手計にある尾高家の墓所にあり、「渋沢平九郎昌忠」の名で刻んである。
2>
本日の大河ドラマ「青天を衝け」四侯会議編。四侯とは、島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城の4人。発端は慶応3年(1867)5月、西郷吉之助が久光に長州処分、五卿処遇、兵庫開港の3懸案の解決のため、雄藩諸侯と提携して、将軍慶喜を動かそうとしたもの。
3>
四侯は慶喜に対して、長州寛典を実現して長州藩を京都に復帰させてから、兵庫開港を断行すべきだと主張した。当時、武備恭順を唱えて割拠していた長州藩は日本から離脱していたという見方もある。その統合を実現してのち、兵庫開港を実現すべきだというのが薩摩藩の主張だった。
4>
薩摩藩は長州復帰→兵庫開港の順序にこだわり、他の三侯の了承も得た。その狙いは朝廷の勅命による兵庫開港を実現することによって、慶喜=幕府から外交権を奪うことにあった。だが、朝廷も勅命には消極的だったこともあり、四侯の思惑は暗礁に乗り上げ、久光と慶喜の対立が露わになった。
5>
ドラマで慶喜が二条城で四侯に写真撮影を進めていた5月14日、慶喜は兵庫開港予定日(1868年1月1日)が迫っているとして、長州処分よりも兵庫開港を優先したいと訴えた。そのため、久光は会談の成り行きに不満となり、不機嫌な表情の写真が後世に伝わってしまった。
6>
伊達宗城が長州再々征があるのかと尋ねると、慶喜は不戦を明言して四侯側に歩み寄った。しかし、四侯側の足並みが揃わず、とくに久光と容堂の対立が大きくて、容堂は持病を理由に帰国すると言い出し、結局、四侯が分解してしまった。
7>
慶喜はそれを横目に見ながら、5月23日に参内すると、徹夜して朝議に臨み、ついに兵庫開港と長州寛典の同時勅許を得た。慶喜の勝利だった。しかし、長州の寛典も認めたことで、慶喜には禍根を残すことになった。その後、慶喜は長州赦免のハードルを上げたので、薩長との対立を深めていく。
8>
一方、薩摩藩は久光が慶喜のやり方に激怒していた。久光の命を受けた小松帯刀は大久保一蔵邸に潜伏中の山県狂介と品川弥二郎を呼んで、久光と対面させ、久光の重大な決意を伝えるとともに、小松も「幕府の譎詐奸謀には尋常な手段では太刀打ちできない。薩長連合して大義を天下に訴えたい」
9>
小松は尋常な手段以外、すなわち武力行使という強硬方針もありうることを長州側に伝えた。以降、薩摩藩は鳥羽伏見の戦いまで一貫して、武力行使を選択肢のひとつとした。もっとも、これを武力倒幕路線の確定とするのは時期尚早で、要は慶喜の「反正」(失政の謝罪)の有無によるとした。
10>
この時期、慶喜の側近、原市之進と春嶽の側近、中根雪江が会談して薩摩藩の印象を語っている(『続再夢紀事』第六)。 原は「薩藩中、小松帯刀は能く世とともに変化する所があるが、大久保一蔵は頑固で動かず、ついには天下の害を引き起こすだろう」。 中根も「いかにも帯刀・一蔵は姦雄である。
11>
この姦雄の画策する余地をなくさないと、天下は治まらないだろう」と。 原や中根は小松がやや柔軟性があるが、大久保は頑固で、共に姦雄であることは変わりないと。幕府側の薩摩への評価がよくわかる。一方、薩摩は慶喜の「譎詐奸謀」こそ元凶だと非難する。対立は次第に深まっていく。
12>
本日の大河ドラマ「青天を衝け」二条城での写真撮影。これは史実で、四侯のうち、『続再夢紀事』、『島津久光公御実紀』、『伊達宗城在京日記』にも見える。ほかにもあるかもしれない。撮影日は慶応3年(1867)5月14日。場所は二条城の庭。
13>
「この日、ご酒肴晩餐のご饗応中、大樹公(慶喜)のご所望にて、ご一同にご庭前にて写真をとらせられたり、ご相伴は閣老板倉伊賀守殿、稲葉美濃守殿、所司代松平越中守殿、若年寄松平豊前守殿、永井玄蕃頭殿などにて、帰邸は夜六ツ時過ぎ(午後6時過ぎ)なりき」
14>
二条城の「御庭前」はやはり同城二の丸御殿の内庭だろうか。写真のあたりか。 なお、撮影後、写真のネガ(湿板か)を松平春嶽がもらい受けて焼き、それぞれに裏書きをしたと『島津久光公御実紀』にあり。久光のは「従四位上行左近衛権中将兼大隅守源久光字君輝号雙松」と裏書き。
15>
日の大河ドラマ「青天を衝け」。渋沢篤大夫(栄一)の見立て養子となった尾高平九郎。慶応4年(1868)5月、従兄の渋沢成一郎が彰義隊から離脱して組織した振武軍に加わり、飯能戦争で戦死した。墓は深谷市下手計にある尾高家の墓所にあり、「渋沢平九郎昌忠」の名で刻んである。
16>桐野作人@kirinosakujin 2021年7月13日
大河ドラマで小栗上野介が幕府のエリート官僚として登場している。有名な人物だが、私は門外漢。これまで彼については、2回ほど語ったり書いたりしただけ。語ったのは、TV番組でいわゆる赤城山埋蔵金伝説が生まれたのかについて、当時の史料や新聞記事などを使って紹介したことがある。
17>
もう一つは戦前の経済記者、神長倉眞民(かなくら・まさみ)が著した『仏蘭西公使ロセスと小栗上野介』をマツノ書店が覆刻したときに推薦文を寄せたこと。ロセスは大河ドラマにも登場したロッシュ。幕末史家の西澤朱実さんがメインで、私はサブだったので大したことは書いていない。
18>
目次一部紹介。小栗の立場や活動、600万ドル借款や終末期幕府の体制立て直しをめざした六局取建の舞台裏などが生々しく語られている。読んだ印象では小栗とロッシュよりも栗本鋤雲とカションが陰の主役という印象を受けた。栗本が上方と江戸の鉄道・電信整備を構想していたのが興味深い。