出典『芸藩志第12巻(第82巻)』
〇番頭岸九兵衛に命し兵を以て長藩の家老等と御手洗港に會合し
之を大阪に護送せしむ (の項より抜粋)
長藩に在ては同廿五日昧爽に家老毛利内匠以下山田市之允片岡十郎等は汽舩鞠府號に乗り諸兵隊(奇兵游撃整武鋭武振武膺懲第二奇兵の七隊)は貳艘の帆舩に分乗し鞠府號にて曳き夜半一齊に出帆す廿六日夕より漸次御手洗港に乗着せり依て岸九兵衛湯川静次郎黒田益之丞等は御手洗港金子某の宅にて毛利内匠以下左の諸人と會合して左の諸件を議定したり
慶應3年11月25日、家老毛利内匠率いる長兵は汽船鞠府號が、
二隻の帆船をけん引する形で三田尻(防府市)を出航し、
26日に御手洗(呉市大崎下島)に着港した。
この時の長兵の諸隊名が書かれている。
但し、木戸準一郎等と共に陸のルートで尾道に集結する諸隊も居る為、
どちらに割り振られたのか詳細は解らないが、
長藩の要人の名は判っている。
長藩出張之要職人名
家老 毛利 内匠
参謀 楫取 素彦
同 國貞 直人
小荷駄奉行 石部 禄郎
同吟味役 飯田 行□
祐筆密用掛 長松 文輔
小荷駄本締役 高津 忠助
同 神田源兵衛
諸隊駈引役 山田市之允
同 庁野 十郎
長藩の諸隊名も記載されているが、詳細はネット検索を願う。
奇兵隊・游撃隊・整武隊・鋭武隊
振武隊・膺懲隊・第二奇兵隊
これらは数ある長藩諸隊の中でも精鋭部隊なのだろうと推測されるが、
問題はその精鋭部隊が、作戦の必要上やらされた事にあるというのが、
の見解である。
それは、御手洗金子邸で長藩より受け取った頭書の一文にある。
フラフハ御當藩之分薩藩之分と取交相用度尤七艘之内貳艘分位ハ自国の印を相用度事
(旗は芸藩の分、薩藩の分と取混ぜて用います。尤も、七隻の内二隻分は長藩の印を用います。)
要は、長藩船二隻を芸藩船と薩藩船で護送するという形を取って、長兵を出兵させましょう。という事を再度文書で確認したという事になる。
これを約束させられたという事が、明治に入って「薩長討幕」と喧伝する際に、そもそも長州は正規軍として扱われていなかったという事を如実に著している。しかも、自らこの様な手筈でやりますと書かされていた、という屈辱を世に公表する事は絶対に認められないという事なのだ。
因みに別の巻には、長州藩主のことを『渠』と記している箇所もある。
『渠』とは、悪党の頭を意味する。
則ち朝敵の頭であるという立場を明確に示している。
しかし、毛利家と浅野家の関係は良好であった事も記録されているので、決して長藩に対して悪意があったわけではなく、この時の状況を正確に伝えようとしたものと考える。
明治政府の中の長州出身者にとっては、それ以上に屈辱だったのは、その後にあった文章にある。
両藩協議の諸項は已に定まり依て同夜八時汽舩震天號は先発として出帆す本舩へは長藩國貞直人石部禄郎神田源兵衛等便乗せり之に継て長兵乗載の諸舩皆碇を上く此行や長兵の一半は我藩兵を装ふを以て軍旗徹章等皆我藩と同し同廿八日諸舩は淡路島に碇泊す獨り震天號は進航を継續し同廿七日兵庫沖にて川合三十郎及長藩人を同地に上陸せしめ(三十郎は萬年號へ誘引舩として淡路島へ進航を命ずるが為め上陸せり)而して朝六時大阪に着し藩兵は盡く上陸して大阪藩邸へ屯集す(後十ニ月十三日に至り入京す)同廿九日我か汽舩萬年號は誘導の為め兵庫より淡路島に到り諸舩を誘ひて西宮に向ふ然るに長兵は西宮へ上陸の豫定なりしを此時歸府の藩兵通過するありて或は其衛突あらん事を慮り進て打出濱より上陸し同村に含營し後日(十二月朔日)西宮に轉営(本營は六湛寺諸兵隊は諸寺に分屯す)せり
これによると、上陸する部隊は芸藩兵に偽装したという。
軍人にとってこれは相当な屈辱になり、当時はその中の一人に過ぎなかった明治政府の長州出身者達にとってはひた隠しにしたい汚点であった事は間違いない。
外にも、『芸藩志』を読めば、それまでの芸藩の活躍に対して、長藩は何も出来ておらず、政治的にも商業的にも、芸州に頼るしかなかった事が浮き彫りになってくる。
『薩長同盟』とよく聞くが、実際のところ、薩摩と長州が直接取引したのも幕末も終わり頃になってからなのだ。
明治政府の作った歴史観からして、幕末長州の実態を晒されるなど許容できるものではなかっただろう。
では何故、浅野家家史『芸藩志』は手垢が付く事無く残されたのか。
それは同時期に編纂されていた毛利家家史が、井上馨(個人的には伊藤博文の間違いかと思う)に事実でない事を書く様強要されていた為、不満を募らせた編纂者たちが編纂事業を放棄してしまった事が影響していると思われる。
外部委託により編纂は継続されたが、当時の新聞で大きく報道されたという。
明治に入って芸藩出身者の多くはあらゆる分野で冷遇されて不満を募らせていた様なので、ここで『芸藩志』に改竄命令、或は焚書をした場合、編纂に拘わった300人が何をするか判らない。騒ぎになれば事が公になってしまうので、ひたすら隠して公開させない様にしたのではないか。
その影響が現代にも継続されているのだろうか、芸藩の政治的な内容(国内政治は別)を含む文書が悉く公にされない。
そのおかげで『芸藩志』は手垢が付く事無く、現在まで残されていたとも考えられる。
但し、『芸藩志』の完全な復刻は難しくなっている。
言葉自体も古く、今は使われなくなった漢字、そもそも墨が滲んで読めない字があり、次第に読み取り難くなっていき、あと50~100年もすれば、
一般人には読めない埋もれた文書になってしまうかもしれない。