「青天を衝け」(24)「パリの御一新」
内容:
新年早々、昭武一行は、
慶喜が政権を朝廷に返上したとの知らせを受け大混乱する。
篤太夫は留学費用を捻出し、更なる節約策を講じる。
そんな中、篤太夫はエラールと証券取引所を訪れ、
債権の仕組みを教わる。
一人一人の小さな力が合わさり、この世を変えられる事を知り、
新たな決意を抱く。
一方日本では、成一郎、淳忠、平九郎が新政府軍と戦っていた。
1>町田 明広@machi82175302 2021年8月15日
本日は「青天を衝け」24回目です。今回も可能な限り、
地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、
よろしければご一読ください(^^)
なお、本日で幕末(パリ)編が終了します。
本大河では、今回が私の最後の事後ツイートになります。
どうかよろしくお願いいたします。
2>
「青天を衝け」24回目を拝見!幕府瓦解の報に接し、
不安と絶望に苛まれながら、
判断と決断を迫られる徳川昭武と渋沢栄一ら。
苦悩して、絶望に押しつぶされながら
「不滅」を信じ、前に進む姿が感動的で涙腺を刺激した。
そして、次週に迫った様々な悲劇を彷彿させ、まさに神回であった。
3>
徳川昭武と渋沢栄一。
乗馬の昭武が将来への不安を渋沢に吐露するやり取り
(ここもセーヌ河畔か)、
そして最後のセーヌ川河畔で渋沢に将来を託す昭武とのやり取り、
ぐっと来るものがあった。
一方で渋沢の胸中にはいつも上様こと慶喜があり、
渋沢の複雑な胸中が痛かった。秀逸なドラマ展開。
4>
オリンピックに伴う休止期間があったので、
少々復習を兼ねて渋沢栄一のパリ渡航の経緯などを振り返っておこう。
慶応2年(1866)11月14日、
15代将軍徳川慶喜は実弟昭武をパリ万国博覧会使節として
フランスに派遣し、かつ5年間留学させることを決定した。
5>
徳川昭武の渡仏目的は、江戸幕府を代表してパリ万博に出席し、
その後に欧州各国を訪問することによって幕府の存在を
国際的にアピールすることにあった。
さらに、昭武を将来の指導者とするため、
長期留学も計画されていた。
6>
慶応2年11月28日、
水戸藩家老へ昭武のフランス派遣を申し渡し、
かつ御三卿の一つの清水家の相続を沙汰した。
昭武の随行員は事務全般を司る幕府官僚と身辺警護の水戸藩士となるが、
両者の折り合いが悪くなることは自明であり、
潤滑油的な存在が必須でった。
7>
徳川慶喜は、こうしたことに打って付けであり、
しかもこのところ不平不満が多く、
政務に精彩がない渋沢栄一を起用することを決断した。
11月29日、原市之進から慶喜の内命として随行の打診をうけた渋沢は、
まさに明日への希望を感じて快諾した。
8>
12月7日、渋沢栄一は渡仏時に俗事(会計・書記)担当を拝命し、
21日に勘定格に栄転した。この時、渋沢にはまだ男子がなかったため、
義弟の渋沢平九郎(次週、飯能戦争の悲劇が..)
を養嗣子と決定している。
9>
慶応3年(1867)1月11日、
徳川昭武に従い横浜より乗船してフランスに向け出航し、
御勘定格陸軍附調役として随行、
約1年半の渡欧中は庶務・経理等を担当することになる。
昭武同行者は、幕府からは外国奉行・向山一履、博役・山高倍離、
医師・高松凌雲、田辺太一、杉浦譲であった。
10>
徳川昭武の同行者について、
幕臣以外では昭武督護役の水戸藩士7名、
伝習生、商人で万博に参加した清水卯三郎なども含め総勢33名であった。
上海・香港・サイゴン・シンガポール・セイロン・スエズ
・カイロ・アレキサンドリア・マルセイユ・リヨン等を経て、
3月7日にパリに到着した。
11>
これ以降、渋沢は昭武に随行してヨーロッパ各地、
スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを歴訪し、
11月22日にパリに帰着した。
ようやく昭武の各国訪問は終了してこれより
専心就学に従事することになったが、
渋沢の公私の事務の負荷はまったく寸隙なしの状態が続いた。
12>
新生活が始まってほどなく、
慶応4年(1868)1月2日、徳川昭武らが新春祝辞を交換している最中、
大政奉還の一報があり一同驚愕した。
渋沢栄一は、
「夕五時半、御国御用状着、御政態御変革之儀其外品々申来る」
(渋沢公務日記「巴里御在館日記」、1月2日粂)と記録する。
13>
「雨夜譚」によると、
「此歳の十月中に日本の京都に於て大君が政権を返上したといふ評判が
仏国の新聞に出てから、様々の事柄が続々連載されて来るのを見たが、
御旅館内外の日本人は勿論、公子に附添の仏国士官(中略)までが
皆虚説であらうといつて、一向に信じませなんだ」とある。
14>
続けて、
「独り自分は、兼ねて京都の有様は余程困難の位地に至つて居るから、
早晩大政変があるに相違ないといふことは
是までにも既に屡々唱へて居つたことであるから、
右の新聞耗を信用して他の人々にも其事を論弁しました」と、
渋沢栄一は語っている。
15>
渋沢栄一は政変の気配を察知していたが、
滞仏中の昭武一行の多くは大政奉遷に半信半疑であった。
しかし、現地の新聞報道、電信、御用状により王政復古クーデター、
鳥羽伏見の戦い、旧幕府軍の敗北、
慶喜の大坂城脱出と上野寛永寺での謹慎などの情報が続々と到着した。
16>
徳川昭武らは進退を議論するも、全貌が分からないため、
今後の方針を決定できずにいた。
ただ、日本からの知らせを待つしか術がないというのは、
どれほどキツいことだろうか。。
そんな中で、2月14日に渋沢栄一は外国奉行支配調役を拝命した。
17>
3月16日、徳川昭武宛の御用状・慶喜書簡がパリに到着した。
大政奉還以降の状況、鳥羽伏見の戦いの顛末、
慶喜の恭順姿勢などが全て事実であることが判明した。
一方で、慶喜は昭武の留学継続を命令している。
18>
渋沢栄一は、徳川慶喜の態度・行動に不満の意を抱き、
その思いを昭武の名前で書簡に記して慶喜に送付した。
「徳川昭武書簡草塙綴(渋沢栄一筆)」によって、
その内容を確認したい。
「元来蒙昧之私、殊に幼年にて」「いまた少年之私」と、
昭武の立場で記述する。
19>
渋沢栄一は、王政復古クーデターを批判し、
「正月中討賊之御一挙は至誠之公道天下之所仰望と奉存候」と、
鳥羽伏見の戦いは「至誠の公道」であり、
天下が望むものと戦の大義名分を主張する。
20>
しかし、「御帰府後は、御趣意御恭順に相替候とは、
乍恐首尾御徹底無之儀と奉存候」と、
徳川慶喜が戦を始めたにもかかわらず、
帰府後に「恭順」を貫くことは、思慮が不徹底であるとして、
渋沢栄一は慶喜の姿勢に不満を大いに吐露した。
21>
渋沢栄一は続けて、
「神祖以降三百年之御鴻業一朝御自棄被為成、
到底彼之黯略に御陥り被成終には御挽回も難被為成」と、
慶喜の態度は徳川300年の歴史を自ら捨てるものであり、
これから挽回は不可能であると突き放した。
22>
渋沢栄一は、「徳川昭武書簡草塙綴(渋沢栄一筆)」によって、
慶喜を強く批判しており、
渋沢が真の幕臣へ転換したことの証左と言えるのではないか。
尊王志士として幕府転覆を計画した渋沢が、
最後には真の幕臣となったのは、歴史の皮肉であろうか。
23>
ここからは、大政奉還後の国内動向を概観しておこう。
慶応3年12月9日の王政復古クーデターが勃発した。
薩摩・土佐・広島・尾張・越前の5藩兵が
会津・桑名藩兵に代わって御所を固め、
小御所会議が開かれて摂関制・幕府の廃止、
総裁・議定・参与の三職の新設などが宣言された。
24>
そして、16日に至り、
徳川慶喜は正式に英仏など6カ国の外交団を大坂城に招いて会見し、
外国側が日本国内の問題を心配する必要はなく
、政府の形が定まるまで外国事務の執行は自分の任務であると表明した。
これに対し、各国公使は概ね好意的であり、
慶喜に異議を唱えるものはいなかった。
25>
さらに、徳川慶喜にとっても、
旧態依然とした摂関制度の廃止を伴う朝廷改革は望むところであった。
しかし、慶喜の予期せぬ事態が生じていた。
翌12月10日、徳川慶勝と松平春嶽は二条城で慶喜に対面した。
26>
慶勝・春嶽は小御所会議での決定事項、
つまり辞官・納地(内大臣の辞官と幕領の半分の200万石納地)
を迫る旨、伝達した。
慶喜にとって、辞官はやぶさかではなかったが、
納地は徳川家の勢威を削ぐものであり、
幕領400万石は実収200万石と弁明して事実上、
拒否することを表明した。
27>
その後、慶喜の辞官・納地をめぐって、
クーデターに参加した諸藩の中で深刻な対立が始まり、
また会津・桑名両藩の藩士はその措置に激昂した。
12月12日、慶喜は京都での不測の事態を回避するため、
大坂城に下向した。
28>
そして、16日に至り、
徳川慶喜は正式に英仏など6カ国の外交団を大坂城に招いて会見し、
外国側が日本国内の問題を心配する必要はなく、
政府の形が定まるまで外国事務の執行は自分の任務であると表明した。
これに対し、各国公使は概ね好意的であり、
慶喜に異議を唱えるものはいなかった。
29>
徳川慶喜は、「辞官」は朝廷の御沙汰次第としながらも、
「納地」は天下の公論によって、
諸藩も含めた全国の高割での公平な決定を強く要請した。
徳川家だけに、
新政権の財政を担わせるのは不公平であるとの慶喜の主張は、
理に適っており、新政府もそれを認めざるを得なかった。
30>
こうして、徳川慶喜の復権は既定事実となり、
慶喜の入京、そして議定就任が内定したのだ。
薩摩藩の敗北は目前に迫り、
慶喜の大逆転は成功するかに見えた。
しかし、事実は小説よりも奇なり、驚天動地の出来事が、
慶喜が不在の江戸で勃発したのだ。
31>
慶応3年12月25日、
三田品川戦争(いわゆる薩摩藩邸焼き討ち事件)が勃発した。
関東一円で乱暴狼藉を働く浪士を匿っているとし、
薩摩藩邸を取り囲んだ庄内・松山(庄内支藩)軍が一斉に砲撃を開始し、
邸内に突入したのだ。
32>
立て籠もる170名ほどの浪士や薩摩藩士との戦闘は5時間に及び、
一帯は烈しい戦闘と化したのだ。
一部の浪士らは脱出に成功し、
追手を撹乱するため放火しながら品川方面に遁走、
薩摩藩・翔鳳丸で上方への脱出に成功した者もいた。
33>
12月28日、薩摩藩への強硬派の目付滝川具挙・勘定奉行小野広胖が上坂し、議定就任が内定した慶喜に三田品川戦争の一報をもたらした。
三田品川戦争については、
拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察-「三田品川戦争」への再定義」(軍事史学 56(3)、2020年12月)を参照。
34>
強硬派に押されたためか、堪忍袋の緒が切れたためか、
慶喜は慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)元旦、
滝川に「討薩表」を授けて上京を指示した。
それを受け、1月2日に旧幕府軍の率兵上京が始まったのだ。
35>
一方で薩摩藩・西郷隆盛は、
江戸藩邸を脱出した秋田藩浪士から
慶応3年12月30日(大晦日)に三田品川戦争の勃発を確認し、
翌元旦に「残念千万之次第ニ御座候」と述べ、
新政府内が分断され、薩摩藩が狙い撃ちにされることを懸念していた。
そこに、起死回生の大事件が起ったのだ。
36>
慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発し、
旧募兵5000人、会津3000人、桑名1500人、
これに高松・大坦・浜田・小浜・忍等の諸藩兵が加わった
大兵力を擁する旧幕軍は、
薩藩兵3000人、長州藩兵2900人の新政府軍と激突した。
37>
数的には圧倒的に有利な旧幕軍側が完敗し、
6日午後10時、慶喜は老中板倉勝静、松平容保、松平定敬、
目付榎本道章、奥医師坪井信良らを従えて大坂城を脱出し、
開陽丸に乗船して上方から江戸に向かってしまった。
旧幕府軍は、大将に見捨てられた格好となったのだ。
38>
そして、1月11日夜に慶喜は品川沖に到着し、
翌12日に江戸城に将軍就任以降、初めて入城を果たした。
とは言え、もう将軍ではなかったが。
三田品川戦争という不測の事態から、
戊辰戦争の導火線として鳥羽伏見の戦いが勃発したが、
慶喜にとって新政府入り目前に起きた、まさに痛恨事であった。
39>
慶喜がこの時、単独で上京していれば、
その後の歴史は大きく相違したのではなかろうか。
歴史の展開は、まさしく紙一重である。
江戸に戻った慶喜は、当初は新政府に対して徹底抗戦を画策し、
慶応4年1月中に3回も仏公使ロッシュと会談して
援助を受け入れる意思を示した。
40>
また、江戸城内では小栗忠順を始めとした主戦派による
徹底抗戦論が沸騰していた。
一方で、新政府は1月4日に仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に補任し、
かつ諸道に鎮撫使を派遣して、
7日には慶喜を朝敵として追討令を発した。
41>
慶応4年2月3日、明治天皇親征の詔が発布され、
9日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に補任された。
東海・東山・北陸の鎮撫使を先鋒総督兼鎮撫使に改め、
三道から江戸に進撃を開始した。
42>
御三家の紀州・尾張両藩、
西日本の譜代藩が雪崩を打って新政府側に恭順を示し、
厳正中立を唱える列強の動向が追い打ちをかけた。
そして、何より朝敵となった事実から、
復権は難しいと判断したためか、
慶喜は2月に入ると急速に恭順に傾き、
12日には江戸城を辞して寛永寺に逼塞した。
43>
西郷隆盛は東征大総督参謀となり、
実質的な軍事責任者として参軍し、
3月7日に旧幕府の若年寄格・陸軍総裁の勝海舟の使者、
山岡鉄舟と会見し、江戸城明け渡しなどの絶対恭順を条件に、
慶喜助命・徳川家存続を約束した。
44>
西郷は3月14日に勝と正式な会談を行い、
江戸城の総攻撃を中止し、
4月4日に江戸城を接収した。
新政府は、慶喜の死一等を減じ、
水戸での謹慎を許可する勅旨をもたらした。
慶喜は、11日に謹慎所の寛永寺から水戸へ出発した。
ここに、慶喜の政治生命は終焉を迎えたのだ。
45>
本日で、幕末編(血洗島・青春編、一橋家臣編、パリ編)が終了した。
今回の大河幕末編で世に知れ渡った人物として、平岡円四郎を挙げたい。
安政期政局を研究する際、必須の人物である。
将軍継嗣問題において、この平岡・橋本左内・西郷隆盛の連関性は重要。
また安島帯刀、岩瀬忠震も注目。
46>
最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、
志士・周旋家・交渉人・政治家として、
多様性を持つ龍馬の動向を検証し、
新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。
途中からの参加も可能です。
47>
8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件
9/18(土)海援隊と薩土盟約
10/16(土)大政奉還と龍馬暗殺
48>
JBpressで明日の朝6時、
全4回シリーズの2回目が公開されます。ぜひ、ご覧下さい!
なお、1回目は以下となります。
49>
高知県立坂本龍馬記念館
8月28日(土)
「薩摩藩と坂本龍馬」
講師:町田明広(神田外語大学外国語学部准教授)
50>
9月11日(土)(午前10時30分)
「薩摩藩と大英帝国」 神田外語大学 町田明広
51>
これにて、事後ツイートは終了です。半年間、お付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。多くの方と繋がりができて、うれしく存じます(^^) それにしても、実際に終わってみるとあっという間ですね、寂しい思いです。またいずれ、幕末大河でツイートしようと思います。
52>
皆さまのおかげで、大河幕末編を完走できました。これにて、ご縁がなくなる方もおられるかと存じますが、今後も幕末維新期の様々な情報発信、拙著(新書、書きます!)や講演の情報をツイートいたします。このままフォローいただける皆さま、引き続き、どうかよろしくお願いいたします