※芸藩兵被害:死者4名、重傷者24名、軽傷者12名 計40名
(但、帰営後死亡1名…重傷者含め286名生存)
<戊辰役戦史> 新山に集結した平潟軍主力は、第1次戦闘の失敗から、慎重な作戦計画を立てる。($①P541) 前日一戦もしなかった(と書いてある)長洲、芸州兵を第一線とした。浪江正面は高瀬川の狭い橋梁一本しかない為、ここには一部を進め、他の一部は高瀬川下流を渡り、浪江の東、幾世橋を攻撃する。長州・岩国各1中隊は浪江西方を遠く迂回して浪江の背後から攻撃する。 8月1日、大雨の中、これを決行した。 正面には芸2小隊と砲1門で高瀬川の線に於いて前面堡塁の敵を攻撃したが、敵の陣地は堅固で容易に進撃できない。 長1中隊と津藩兵は高瀬川下流で渡河に時間を費やし、幾世橋付近の敵陣地をやや遅れて攻撃を開始した。 早朝出発した西方迂回部隊は雨中3回も渡河を重ね、浪江駅北300mの高地にある砲台に突撃した。($①P542) 不意を食らった砲台の相馬兵が逃げ散ったので、背後から浪江に突撃した。バラバラに逃げ散った為、隊伍も組まれておらず、この大敗が相馬藩の命取りに繋がった。 この戦闘で長洲兵の死傷は無い模様。津藩兵も死傷はない。正面攻撃の芸州兵は死2、傷13を出し、因州兵は戦闘に参加しなかったらしく、筑前兵も正面後方で余り戦闘はしなかった模様である。 相馬兵は死12、傷1を出しただけだが、第一線の有力部隊が壊滅したのだから、もはや防戦の道尽きた有様である。仙台兵は相馬中村以北に去り、米沢兵も帰途につき、旧幕諸隊も北方に引き上げ、相馬藩は裸になってしまった。($①P543) <芸藩志第十八> 〇明治元年八月朔日昨夜督府より浪江駅進撃の令あり官軍は本山海の三道より進撃の軍配にして我藩は本道の先鋒たり而して長州藩之れに継けり抑浪江屯在の賊兵たるや昨日筑前伊州両藩兵七八百人を以て之を攻撃せしに賊は之を挟撃して其勢ひ猛烈なるを以て兵器弾薬を捨て新山に敗走せり今や我は傷余の寡兵を以て驕傲なる敵に対す非常なる奮戦ならされは我々目的の達し難きを知るを以て頗る注意して進兵する所なり此日降雨を冒して先頭に大砲を以て進ミ次に銃隊其右側に備へ進行せり沿道には昨夜筑伊両藩兵の放棄せし小銃其他兵器は路上に狼藉たり死屍も未た収歛せさるあり駅前十幾丁前の地は間道ありて賊の挟撃の策を施せし地なるを認むるを以て槗本素助等は一分隊を以て左側山脈に上り賊の伏兵を探索して進めり而して浪江駅口に敵は二重の胸壁を築き前の胸壁には大砲を列し守備頗る備はるか如し駅前貳丁に橋あり賊は火を放ちて之を焼き我か進路を遮らんとす我か兵は急に火を滅し該橋を通過して進撃す此時賊は大小砲を連発して霰雨の濺くか如く我か兵は地物の倚る可きなきも亦発砲猛進して橋を越て進む此地の地形たるや前面は平担なる田畝にして又樹木の遮て拠るへきなく暴露して只激戦するの外なし其開戦して砲熕激発し天地の震動せんとするや西方なる山林の内に埋伏したる賊兵一隊は潜行し来り将に我か軍後を襲ひ再ひ筑伊両兵の如く挟撃を試ミんと謀れり然るに我に在ては既に之を慮り素助等か率ゐる一隊は之を誘致せんと欲し寂然として声無し賊は我か山下に迫るを視るや突然として之に一斉射撃をなしたるを以て賊兵大に狼狽しニ三百人の兵は隊列を乱し紛々として敗走せり是に於て此一分隊は山を下り本道の兵に合併せんと欲し山下各所の農家より潜伏発砲せる賊兵を捜撃して進む此時長藩兵は山中を迂廻して浪江駅の後面を突かん事を謀り是と同時に我か本道の兵は突貫して砲台に乗り縦横斬殺す賊兵狼狽遁走す此戦や我か兵の将に砲台に突貫せんとする一刹那一弾来り省三の右鼻側より脳後に貫通して倒る其他砲手等大砲に属する兵員は死傷頗る多し甚た遺憾とする所なり此夜高間省三の屍は新山駅に後送し標葉郡新山駅自性院に葬る而して本体は浪江駅へ舎営す而して諸藩兵は皆哨兵の命ありしに我か藩兵は之を免せられ休憩す蓋し今日の苦戦を労ふなり 絶命詩並序 高間省三 余受君命役京在京未幾而奉朝命討東賊閏四月達江都品海五月戦子武州王子邑又追残賊到甲府城終戌甲府城預備箱根邊之賊六月帰江戸七月到奥常之間将攻賊城而去敵営尚三五里矣是余之死生決三五里之間也此時余偶有所感而作此詩也何則朝廷詔諸藩勤王之師曰自是築弔魂場於京都東山祭勤王戦死士之魂也嗚呼方今天子聖明愛士民如赤子此徳澤可不報乎是男児可死之秋也夫今日之役皇道興廃之所関也余雖白面恵生亦欲斃王事更無生還之志也而唯患父母之哀憚而已矣雖然父母聞余之死知東山弔魂祭之辱之則當喜而不哀也聊か以此志作絶命詩云其詩曰 自辞郷里幾艱難 七月又来東海端 生死地纔三五里 千金身是一弾丸 姓名唯願高天下 骸骨固甘埋野山 父母共存何以慰 洛陽城外上神壇 ※日本海海戦での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 」という有名な文言の元になった文章と謂われている。三笠に乗艦していた参謀長加藤友三郎の兄加藤種之助は、神機隊一番小隊長であった。又、『忠勇亀鑑・軍人必読』を士官全員が所持していた。 ※文中に「ことさら生還の志無く王屍を欲す」と気迫が凄すぎる。 前日倍近い兵力の筑前藩、伊予藩の兵が惨敗して逃げ還ってきたのだから、全滅覚悟だったと思われる。 ★高間省三:大砲隊長、銃隊頭(死後褒賞時の肩書) 十八歳で藩学問所助教 武具奉行、築城奉行高間多須衛の長男 享年二十歳。広島護国神社筆頭祭神 *回天軍第一起神機隊は銃隊6小隊、砲隊1隊の編制なので、 銃隊頭の肩書は、小隊長より上、総督不在の隊に於ては、 参謀、軍監の次になる。 五十石加増は破綻寸前の芸藩で唯一最高の褒賞であった。 ※高間省三の扱いが尋常ではなく、藩内でも相当重要な人物と考えられていたことが判る。 忠勇亀鑑・軍人必読 ★素助:橋本素助 神機隊監察、『芸藩志』編修責任者 ※此日、砲隊を先頭に攻撃するも、橋から砲器を渡す事が出来ず、砲隊員が自ら先鋒として敵陣に銃突撃した為、砲手の死傷が多かった。 ※芸藩兵人数概算 7月26日時点生存者286名(重症者含む) 7月27日広島に増援要請2名帰広。 7月28日平潟にて1名病死。 8月1日 戦死2名、重傷5名、軽傷8名 8月1日夜時点総員281名(内重症者31名、病気不明) ※8月11日には、大きな犠牲が無かったにもかかわらず、軽傷者含め、実戦配備の兵卒が僅か80人残留と記述あり。尚、怪我人、病人は後方平潟の病院に搬送されて、戦闘現場から離れていた事も理由と考えられる。 |