<戊辰役戦史>
同盟軍は敗戦の連続で士気が低下し、相馬藩の行動に怪しむべき点がある等と相互信頼が揺らぎ、仙台兵は第一線から遠く相馬中村付近に後退してしまい、相馬藩だけになってしまった。自国領内であるから必死で防戦するが、一方では和平工作もあったらしい。($①P539)
敗戦に継ぐ敗戦で各隊は四散し、28日の熊ノ町戦闘後に浪江駅付近に集結できた兵力は僅か二小隊に過ぎず、その後徐々に集合したが、その数は把握できていない。
新政府軍は7月29日、熊ノ町に集合した。本道からは筑前、津兵を先鋒とし、因芸長が後発。
敵の一部が野上村(熊ノ町北西5Km)に在ると聞き、筑前一中隊を派遣。交戦2時間程で野上を占領し、追撃せずに新山駅に転進して主力隊と合流した。
本道の筑前、津兵は進路上の微弱な敵を撃退して新山駅を占領、なおも前進する。敵が新山隣の長塚を放火した為、消化してなおも前進する。藍ノ茎(新山北北西2Kmの鴻ノ草の先の狭隘)に於いて若干強めの抵抗に会ったが、筑前砲2門によって打開し、高瀬まで前進した。高瀬川は連日の降雨により増水しており、援護射撃を得ながら橋梁を渡って高瀬川左岸に進出。浪江の敵堡塁を攻撃するが、戦闘2時間余り、午後6時頃になっても突入できず、後続は到着しない。
浪江から遠く西方の河内村に岡田部隊(相馬5小隊)が居り、本道方面の危急を知って急進。午後6時頃、浪江南堡塁に攻撃中の新政府軍の側面に現れ攻撃した。
全く予期しない敵の攻撃に新政府軍周章狼狽して後退したが、唯一の退路の橋梁に集中した。($①P540)
これを見た堡塁内の相馬兵が背後から斬り込んだ為、乱戦悪闘の末、辛うじて退却したが、筑前藩は砲2門をはじめ、銃器18挺を捨てて退走。因州兵4小隊と砲2門が藍ノ茎南に到着した頃には、前方から筑前兵、津兵が敗走して来た為、隊形を整えて前進し、藍ノ茎北端を保持した。
敗兵は鴻ノ草に収容して夜を迎える。
この戦闘に於いて、筑前兵は死10、傷41を出し、砲2門、多数の兵器・弾薬を喪失した。津兵は死5、傷9を出し、これも多数の兵器を喪失した。
相馬兵は死8、傷7を出したに過ぎない。($①P541)
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