藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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「青天を衝け」(4)がより面白くなる 町田明広先生の解説 3/7 1頁目

2021年03月07日 23時36分02秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
リンク貼りに時間が掛かって途中になっています。

*膨大な情報をデータとして集積しております。
データの使い方は自分次第。
*大河ドラマの性格上、歴史に詳しくない人も居られる前提として、
 ある程度説明が必要な場合もあるかと、
 語句に説明のリンクを付けております。
 気になったら読まれても良いし、スルーしても良いでしょう。
 但し参考程度と考えてください。
*他の先生方のTweetも入れているのが他のまとめサイトと違うところです。
  講師料は払ってませんが・・・。

 
「青天を衝け」(4)「栄一、怒る」
内容:
多額の御用金をもとめる代官・利根、その理不尽な態度に、栄一は怒る!
慶喜は新たな家臣に平岡円四郎をむかえる。
ペリー再来航で幕府は混乱、ついに日米和親条約を締結する・・・
 
栄一は仕事により励み高品質の藍を作るため試行錯誤し、あるアイデアを思いつく。
江戸では斉昭が慶喜の家臣にと平岡円四郎を小姓に据える。
そしてペリー再来航を巡り幕府は混乱、遂に日米和親条約を締結する。
そのうわさは血洗島にも届き惇忠たちは愕然とする。
そんな中、市郎右衛門の名代として多額の御用金を申し渡された栄一は、
その理不尽さに怒りをおぼえる。

*ワインレッドの所はリンク貼っております。

01>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
本日は「青天を衝け」4回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
02>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
「青天を衝け」4回目を拝見!今日も盛りだくさんで、まさに大河ドラマの醍醐味を堪能しました!中でも、慶喜円四郎のやり取りは思わず吹き出してしまうほど、非常に面白かったですね。橋本左内井伊直弼など役者も揃い、かつ安定の時代考証も相まって、これからも期待大です。
03>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
まずは、冒頭に登場した浜田彌兵衛から始めよう。江戸初期の貿易商で寛永2年(1625)、長崎代官末次平蔵の命で台湾に渡航したものの、交易を図ったが台湾に根拠地をもつオランダ総督の妨害で失敗した。
04>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
浜田彌兵衛は、この報復のために武装兵を率いて台湾にわたり、オランダ人の根拠地に切りこみ捕えられた。結果はオランダ側の謝罪で終わったが、この事件のため、日蘭貿易は一時中絶した。なお、生没年不詳。
05>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
さて、まずはペリーの話題から。1年後と言い残して立ち去ったペリーであったが、嘉永7年(1854、11月27日に安政に改元)1月16日、半年程度で早くも再来を果たした。これは日本への再航に障害が生じるのではないかと、ペリーが焦燥感を募らせたことによる。
06>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
その理由として、ピアース新大統領が対清(中国)政策に重点を置き、ペリーの使命に対して消極的になったことがある。また、清国駐在公使マーシャルがペリー艦隊に居留民保護の援助を求め、彼と軋轢が生じたことも、ペリーには日本行きの妨げになると感じたのであろう。
07>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
ペリーは、中国進出の中継基地として、また捕鯨産業の維持・発展に極めて重要な日本を開国させた名誉を、何としても自分のものとして手に入れたかったのだ。ペリーは間違いなく、焦っており、それがこの短期間での再来となった。
08>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
これを迎え撃つことになった、老中阿部正弘を首班とする幕閣の対応を見てみよう。阿部は当時の実力者である徳川斉昭を取り込むため、彼を嘉永6年7月に海防参与に任命した。斉昭は盛んに建白をしたが、その中で「内戦外和」の主張を繰り返した。
09>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
斉昭の主張の中身は、国内で危機感を煽って武備を充実させ、それまでは交渉を引き延ばそうという消極策で、いわゆる「ぶらかし」戦法である。そして、嘉永6年11月1日、幕府はペリーの再来を見越し、「大号令」を発してどのように対応するかの方針を世に示した。
*ぶらかし=たぶらかし・・・だまして惑わす事。
10>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
大号令では、ペリーの要求に対する諾否は留保したままで、なるべく平穏に処理するという漠然としたレベルのものであった。まさに、「ぶらかし」戦法そのものであった。また、アメリカが武力を行使する可能性に対する覚悟を促し、万一アメリカから戦端を開いたら開戦止む無しを厳命した。
11>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
しかし、その主意はあくまでも「ぶらかし」にあって、本心から戦闘をする意志などなかった。阿部は、斉昭に諮って対外方針を決定する一方で、諸侯・幕閣・幕臣らに大統領国書の訳文を示して、広く意見を聴取した。家康も驚いた、前代未聞の「言路洞開」である。
「言路洞開」・・・目上の者が目下の者の意見をくみ取る事。
12>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
その結果、おおむね「ぶらかし」論に沿った意見が中心で、祖法である鎖国体制を堅持し、武備充実までは交渉を引き延ばすというものであった。残念ながら、将来的な生産性のある意見は乏しかった。
13>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
一方で、勝海舟などの一部の幕臣は、寛永期以前、鎖国は祖法などではなかったとし、通商を認めて貿易の利潤によって軍艦を建造するなど、武備充実を図ることを提言した。しかし、大号令はこれら少数意見に斟酌しなかった。
14>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
嘉永7年3月3日、日米和親条約がペリーと日本側全権の林復斎との間で締結された。主な内容は、下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、漂流民の救助と保護、アメリカへの最恵国待遇であった。
15>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
開港というと、まるで開国したような印象を受けるが、日本のすべての港で物資の供給などをすることはできないので、下田と箱館の2港を指定したという意味である。開港というよりは、寄港を許したとする方がより正確である。
16>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
また、アメリカ人の行動の自由が保障されたが、行動範囲が厳しく指定されており、これをもって外国人の国内への侵入を許すことになったわけではない。あくまでも、物資の供給を受けるための一時的な居留を認めただけで、恒久的な居住を認めたわけではないのだ。
17>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
なお、日本にとっての最大のポイントは、通商を回避して和親に止めたということである。つまり後世の我々が開国と位置付けている日米和親条約は、当時の日本人にとって見れば、アメリカとは国交を樹立したものの物資の供給(施し)を認めたに過ぎず、鎖国政策を順守したことに他ならない。
18>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
確かに、正式な国家間の条約ではあったものの、これ以前に天保の薪水給与令があり、内容的にはその考え方と何ら矛盾していない。これは撫恤政策と言えるもので、外国船を追い払う鎖国と、貿易を開始し外国人を国内に受け入れる通商の中間のような対外政略である。
*撫恤(ぶじゅつ)・・・憐れみ慈しむ事。(慈悲)
19>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
もちろん、日米和親条約は国家間の正式な条約であり、一時的であれ居留を認めた事実などから、天保の薪水給与令から通商に大きくシフトしたことは否めない。しかし、日米和親条約はあくまでも鎖国の枠内であり、この段階では開国はしていないのだ。
20>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
1年半後にその報告を受けた孝明天皇が嘉納、つまり了解している事実からも、鎖国体制の堅持と同時代人は認識していたと言えよう。和親と通商では、それほど大きな違いがあった。このあたり、なかなか理解が難しいかも知れない。
21>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
幕府はアヘン戦争南京条約の締結について、十分な情報を入手していた。戦争には負けたものの清は南京条約を和親条約と位置付け、現に正式な通商を認めていないことがその後分かってきた。アヘン戦争によって清が英国の植民地になったような物言いもされるが、それは決して事実ではない。
22>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
清(中国)は東アジア的華夷思想の中にまだ浸っており、イギリスに対して撫恤を施したとしか認識していなかった。このことから、幕府にはアメリカも和親条約で了解するとの読みがあったのかも知れない。
23>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
なお、清が文字通り、欧米列強による帝国主義支配を受け、植民地にされ始めたのは、アロー戦争(1856-60)後の天津・北京条約(1858・1860)によってである。なお、この戦争の余波による日米修好通商条約の締結経緯は、いずれ放送回時に述べたい。
24>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
通商を求めたペリーに対し、林復斎は人権を振りかざすペリーを逆手にとり、来意は漂流民の救助と禁錮や虐待の禁止を求めるためで、通商は人命にはかかわらないと論破、和親は受け入れるものの、通商は断固として拒否。通商拒否に対し、ペリーは熟考の後、棚上げにすることを了承している。
25>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
交渉の経過は、幕府が単なる弱腰外交一辺倒でなかった証拠であるが、米国が日本との貿易には多くを期待していなかったことの裏返しでもある。米国書にも、貿易については5年ないし10年間試験的に実施し、利益がないことが分かれば、旧法に復することもできると明記されていた。
26>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
ペリーにとって、和親条約では必ずしも使命達成とはいかなかったが退役が近づいており、日本を開国させたという名誉をもって退く決意であった。通商条約を結べなかったが、アメリカに帰国後、あたかも通商を開始し、日本を開国させたというプロパガンダをメディアに対して行っている。
27>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
ペリーの夢であった通商条約の締結であるが、その実現はもう4年後に迫っており、日本は次なる試練を早くも迎えることになる。ペリーは皮肉にも、日米修好通商条約の締結目前の1858年3月に亡くなっているが、彼によって間違いなく、日本の開国は秒読みに入ったと言えよう。
28>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
本題の渋沢栄一について、忘れてはいけない。安政元年(1854)から2年にかけての13、14歳頃までは、連日にわたって読書・剣術・習字等の稽古三昧の日々であった。この頃からは家業を手伝い始め、近隣村々を廻り藍葉の買い付けも1人で行っていた。
29>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
渋沢栄一は、藍葉を藍玉にして取引先の紺屋に値段を決めずに先に送付した。そして、紺屋が使用した分だけの代金を徴収するために出張し、次の注文の確認をした。春・秋は様子を見に出かけ、正月(1月)・盆(8月)にはは集金に出かけるなど、年に4回は得意先を訪問していた。
30>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
安政4年(1857)頃、渋沢栄一は17歳頃から信州・上州・武州秩父にある得意先廻りを1人で担当した。家業に対する熱意も沸き、当時の特産地・阿波の藍に負けないものを作りたいと近隣村々から藍葉を買い集め、作った人々を招待して番付を作成した。
31>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
渋沢栄一は、藍の出来に応じて席順を定め、一番良い藍を作った人を上席に据えて饗応した。競争意識を高め、一層良い藍を作ることを奨励した。この話は渋沢の異能を物語るエピソードとして、あまりにも有名な話かも知れない。
32>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
安政3年(1856)、16歳の時、岡部藩は血洗島村に御用金1500両を要求、渋沢栄一の生家「中の家」に500両を割り当てた。ちなみに、既にこの段階で、累積で2000両以上を生家は負担させられていた。
33>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
父の名代として岡部陣屋に出頭、代官に対し、一旦帰宅して父に報告の上、改めて回答する旨陳述した。しかし、代官は渋沢を侮辱し直ぐにこの場での受諾を強要した。この前後の展開は、おおよそドラマ通りであったらしい。渋沢の勇気、恐れ入る。
34>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
渋沢はこうした代官の態度に憤り、その原因を幕政の在り方と考え、社会矛盾を実感する起点となった。これを契機に後期水戸学に傾倒し、尊王攘夷を唱える師匠・尾高惇忠の影響も受け、渋沢は尾高長七郎渋沢喜作らと天下国家を憂え議論する関係となった。
35>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
渋沢栄一は、尊王志士の長州藩士多賀谷勇坂下門外の変で捕縛)、宇都宮藩広田精一禁門の変で自刃)らが血沈島村周辺に来訪した時には、共に詩作し時勢を論じた。更に、幕府を批判するなど、こうした交流を通して、尊王攘夷思想に深く共鳴するに至った。
36>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
先週予告した藤田東湖について、まずはJapanKnowledgeを基にご紹介。江戸後期の水戸藩士、水戸学者。文化 3年3月16日、藤田幽谷の次男として、水戸上町梅香に生まれる。幼名武次郎、のち虎之介。諱は彪(たけき)、字は斌卿(ひんけい)、東湖はその号。
37>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
東湖の父の家塾青藍舎で儒学などを修め、江戸に出て剣を岡田十松に学んだ。学問は一派に偏せず広く学び、朱子学にはこだわらなかった。1826年(文政9)父の死に遭い、22歳で家督を継ぎ家禄200石を受け、彰考館編修となった。
38>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
徳川斉昭の藩主就任の時、斉昭を擁立する改革派の先頭にたって活躍した。水戸の天保の改革では終始斉昭の側近として改革を推進した。1840年(天保11)35歳で側近三役の一つ、側用人の重職に抜擢され、やがて役料も加え500石を給せられた。父が町家出であるのを思えば、破格の昇進である。
39>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
藩校弘道館の建設では、斉昭の意を受けてもっとも尽力した。建学の方針を示した「弘道館記」は、東湖が成文の中心で、その解説『弘道館記述義』は、会沢正志斎の『新論』とともに、水戸学の教典とされ、東湖作の「正気歌」などとともに、幕末の尊攘運動家に大きな影響を与えた。
40>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
1844年(弘化1)斉昭の失脚とともに東湖も幕命をもって罷免され、謹慎を命ぜられた。やがて斉昭が幕府の外交に参与するに至り、東湖も中央で活躍する機会に恵まれ、1854年(安政1)には側用人再勤となり、翌1855年9月には学校奉行兼職となり600石を給せられた。
41>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
安政の改革推進役となったが、1855年10月2日、江戸大地震(次週放送)のため官舎で50歳の波瀾の生涯を閉じた。著書には力のこもった内容のものが多く、東湖流といわれる独特の書風と水戸人としては珍しく度量の広い人柄と相まって、水戸学普及のうえに大きな役割を果たした。
42>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
今日から橋本左内が登場しました。左内は、現在の私の推しメンの1人です。オープニングのタイトルロール、松平慶永(春嶽)、橋本左内が続けてクレジットされると、グッときて落涙しそうになりますね(´;ω;`)ウッ…まずはここに至る、ややその先までの簡単な左内紹介から。
43>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
橋本左内は天保5年(1834)生まれの越前藩士で、嘉永2年(1849)、16歳で緒方洪庵の適塾に入門して2年4ヶ月ほど在塾(父の病気で帰藩)し、蘭学・医学を修めた。洪庵をして「彼は他日わが塾名を揚げん、池中の蛟竜(雌伏して待ち、時機を狙う人物)である」と、将来の大器と絶賛させた。
44>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
橋本左内は、嘉永4年(1851)5月頃、横井小楠と2度面会。緒方や横井から直接薫陶を受けたことは、大きな財産になったと考える。その後、安政元年(1854)、21歳で江戸遊学。3月から蘭学、漢学塾に入門し、4月9日には吉田松陰下田渡海事件を報じている。
45>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
橋本左内が面識のない吉田松陰に関心を持っていたことは、その後の運命から感慨深いものがある。なお、嘉永4年(1851)8月頃、水戸藩の党争を憂い、水戸藩士原田八兵衛を訪問している。既に政治的事件に関心を持ち、水戸藩士との交流を始めている点に注目すべきであろう。
46>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
このころ、橋本左内は蘭学だけでなく、英語・ドイツ語にも堪能であったとされ、漢学のレベルは学者以上であった。さらに、医学だけでなく、兵学や理化学の原書にも手を出していた。左内の好奇心の対象は幅広く、何度も言うけど、ダビンチ並の万能の天才とでも言うべきか。
47>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
安政2年(1855)6月14日、橋本左内は藤田東湖から海防の示唆を受けて師事するが、東湖も左内を絶賛し、その存在を越前藩に報知している。なお、7月から11月にかけて、左内は士分に列するため帰藩する。春嶽は既に4月3日に江戸到着しているが、士分前の左内にはさすがに会っていないか?
48>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
橋本左内は安政2年12月9日に江戸到着しているが、18日林鶴梁が左内へ宛てた書翰に、過日彦根人と面談の際、一橋西城(継嗣)の議があったが、その場合でなく身のためにならぬ故、くれぐれも口外することがないよう申し聞かせた旨記載がある。つまり、左内はもう一橋慶喜に注目している!
49>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
橋本左内は『安政丙辰日記』(3年4月2日条)において、一橋慶喜の人物評を叙して「英明特絶と申す事」と特記している。左内には、水戸藩士からの影響が色濃く見られる。なお、春嶽は嘉永6年(1853)8月10日、阿部正弘に慶喜継嗣を入説している。春嶽は、水戸斉昭の影響か。
50>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
ちなみに、西郷隆盛が初めて橋本左内に会ったのは、安政2年(1855)12月27日、水戸藩士・原田八兵衛の屋敷で、左内は22歳で西郷より7歳も若く、しかも小柄で眉目秀麗、婦人のような容姿であった。
51>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
左内は、初対面の西郷を「薩芝上屋敷 御庭方 西郷吉兵衛 鮫島正人友人、卯年極月二十七日始於原八宅、相会す、燕趙悲歌之士なり」と慷慨家と評しており、好印象を得たとは言い難い。違った見方も存在するが。。また、西郷は当初、橋本左内の華奢な容姿から軽蔑的な態度で接したらしい。
52>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
しかし、早熟の天才で学識において同時代人を遥かに凌駕し、理路整然と時事を談ずる左内に一度まみえると、誰もが圧倒され虜にされた。西郷も例外ではなく、これ以降、「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」と繰り返すほど左内に傾倒した。
53>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
橋本左内について、第1弾はここまで!またいずれ、この続きを!しかし、橋本左内、評伝を書きたい人物の1人ですね。本日から登場した永井尚志についてもお話したかったのですが、左内さんで尺を使い過ぎました。永井については、次回以降に!
54>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
【NHKさいたまアリーナ教室・オンライン講座】渋沢栄一とその時代(3/13から全3回)
いよいよ、来週からスタートです。激動の人生を紐解き、キーパーソン将軍慶喜についても迫ります!レジュメも分厚く、大河ドラマをより楽しむために、ぜひ(^^)
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
55>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
【オンライン】渋沢栄一とその時代
3/13(土)「渋沢栄一とその時代① ― 生い立ちから一橋家仕官まで」
4/3(土)「渋沢栄一とその時代② ― 一橋家仕官後から明治官僚まで」
4/24(土)「徳川慶喜と幕末政治― 将軍時代を中心に」
*いずれも10:30~12:15
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
56>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
【NHK青山講座・対面】幕末人物伝2-知られざる英雄の実像
3月20日(土)10:30~「武市半平太」
1回のみの参加も可能です。
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
57>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。幕末政治史の中で、龍馬を位置付けます。
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
58>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」
4/17(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
5/15(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
6/19(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
7/17(土)薩長同盟と寺田屋事件
8/21(土)海援隊と薩土盟約
9/18(土)大政奉還と龍馬暗殺
http://nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
59>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
近刊の共著『新説の日本史』(SB新書)では、第5章幕末の「新説12 薩長同盟は軍事同盟ではなかった!?」「新説13 日米修好通商条約は不平等ではなかった!?」を担当しています。
https://sbcr.jp/product/4815609054/ 
60>町田 明広@machi82175302 2021年3月7日
おまけツイート。橋本左内の本物の「啓発録」を前にしたら、想像を絶する長時間、佇んでいる自信あり。前回の福井でもそうであった。 


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