藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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「青天を衝け」がより面白くなる 町田明広先生の解説 第四話 3/7 2頁目

2021年03月08日 20時13分30秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話

*桐野作人@kirinosakujin
大河ドラマ「青天を衝け」第4回。今回は血洗村での出来事と、ペリー来航に伴う幕府の混乱状況が主な話だった。血洗村で岡部藩の代官が領内の有力者に献金を命じ、父の名代として出頭した渋沢栄一が代官に抗弁する場面。栄一が封建制の理不尽に目覚め、その後の生き方にも影響与えたか? 
*桐野作人@kirinosakujin
この場面は渋沢の自伝『雨夜譚』に書かれており、ほぼ忠実に再現されていた。親戚の渋沢宗助(平泉成)が1000両、中の家の市郎右衛門が500両を引き受けたのも自伝通り。栄一が父の名代だから帰って父に相談してと答えたのも自伝にある。ドラマで描かれなかったのは、代官の叱責の部分。
*桐野作人@kirinosakujin
代官は栄一に年齢を尋ね、17歳だと答えると、代官は「もう遊蕩する年頃だ。ならば、300両や500両は大したことはあるまい。父に聞いてからとは手ぬるい。すぐに招致したと答えよ」となじったという。栄一はのちに自伝で、代官の理不尽さに「徳川政治から左様なったのであり、弊政の極致」
*桐野作人@kirinosakujin
と幕府政治を批判するとともに、知恵分別もない武士に軽蔑されるのは馬鹿馬鹿しく、百姓をやめたい」と帰路、自問自答したという。帰宅すると、父市郎右衛門が憤慨する栄一を「泣く児と地頭で仕方がない」とたしなめたのも自伝にあり、ドラマでもその通り描かれた。
*桐野作人@kirinosakujin
岡部藩が度々献金を命じるのか理由が描かれなかったが、自伝には「御姫様の嫁入り」「若殿様がお乗り出し」「御先祖の法会」などの理由だった。もっとも、この時期、藩主安部信宝は大坂・二条両城の定番をじられており、何かと物入りだったか。その負担を領民に転嫁するしかなかったか。
*桐野作人@kirinosakujin
大河ドラマ「青天を衝け」第4回。ペリー来航と将軍家慶の死去に揺れる幕府や諸大名の混乱ぶりも描かれた。将軍家慶が死去した嘉永6年(1853)6月22日の翌日、福井藩主松平慶永は老中阿部正弘に水戸斉昭を世子家祥の補佐役に任ずるよう勧めた。それを受けて阿部は斉昭を海防参与に任ずる。
*桐野作人@kirinosakujin
その後、老中阿部は水戸斉昭や松平慶永はじめ、大広間詰や溜間詰の有力大名に内々に和戦の儀を知らせている。強硬な攘夷論者だった斉昭もペリー艦隊が浦賀にいる間は強硬論をぶてず、打ち払いは良策とはいえばいと穏健だった。強硬論に転じるのは艦隊が浦賀を退去したあとだという。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
水戸斉昭の海防参与の任命について、将軍家慶が認めたというのと拒絶したという両説があるが、どうやら死を目前にした家慶は幕府の祖法に忠実たらんとして拒絶したようだ。これを覆したのは既に述べたように、松平慶永の阿部正弘への建言で、これに薩摩藩主島津斉彬も後押しした。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
水戸斉昭の海防参与とは前例のない役職なので、その処遇も難しかった。結局、斉昭は隠居なので大手門からではなく、平川門から登城し、慶喜のいる控え所に待機させる。本丸御殿の表への出仕に及ばず、将軍公邸である本丸御殿の中奥への出仕が相当、慶喜の実父なので御三卿に準じる扱い。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
海防参与に就任した水戸斉昭はさっそく「海防愚存」13カ条を提出した。それに基づき、幕閣はそれまで制限されていた大船建造の解禁令を出し、さらに品川沖に台場築造を始め、ペリー再航までに第一から第三までの台場が完成した。ドラマでもペリーが望遠鏡で台場を眺める場面があった。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
このうち、大船建造の解禁令を喜んだのは薩摩の島津斉彬で、さっそく蒸気船の建造に取りかかっている。このように、水戸斉昭の海防参与就任は一定の成果を挙げたが、斉昭にとって不運だったのは翌安政2年(1855)の安政大地震である。これは次回放映かもしれないので、これくらいで。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
大河ドラマ「青天を衝け」第4回。ペリー来航における一橋慶喜の動向について。老中阿部の幕閣はペリー艦隊退去後、アメリカからの国書を広く公開して諸大名や幕臣などにその対策を諮問した。すると大名の250通、幕臣の423通、藩士15通、学者22通、庶民9通、計719通の回答が寄せられた。
*桐野作人@kirinosakujin
では、慶喜はどうだったか。じつは慶喜名義の上書も提出された。それには「国初よりの御法度改革には相成り難く、すべて(アメリカの)願いの筋は叶わざる趣に相成り候方然るべし」と、祖法のの変更に反対し、アメリカの要求を拒絶すべきだとした。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
そのうえで、もしアメリカが承知せず「軍艦など差し向け、生害心」を起こせば、「只々防御厳重のご処置専要」というもの。無難というか平凡な内容だった。慶喜は当時17歳。慶喜の聞書『昔夢会筆記』この上書は慶喜が書いたものではなく、小姓頭取の鈴木有之丞が作成したという。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
鈴木は学があったので、和漢の故事を引いた堂々たる建白書になった。それを一読した慶喜は若年にしては立派すぎると不満で、これでは似つかわしくないとして、自分で簡略なものを書いて提出したという。17歳にしては、非常に冷静で、自分を客観化できる自己分析力の持ち主といえる。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
さらに将軍家慶の死去により、慶喜への注目度が高まり、周辺が騒がしくなった。将軍継嗣候補の噂が立ったのである。家慶死後の2か月後、慶喜は父斉昭に書状を送る。「世上では専ら私を御養君の思召があるやの取り沙汰あれども、(父上は)登城されて、かようなことをお聞きになったら、#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
(その者を)堅く御差し止めになりますようお願いします」。さらに「将軍になるといろいろ骨折りだから、いやというわけではないが、将軍になったのち失敗するくらいなら、将軍にならないほうがましだ」という趣旨を斉昭に伝えている。将軍就任を拒絶するように見えるが、韜晦にも見える。#青天を衝け
*桐野作人@kirinosakujin
本日の大河ドラマ余談。慶喜の膳に「農人形」なるものが置かれていた。これは史実かどうか知らないが、水戸斉昭こと竹中直人そっくりだと思ったのは私だけか? また松平慶永の背中を洗う橋本左内が登場。親密な主従ぶりがよく表れていた。


*中村武生 歴史地理史学@busyo3
·平岡円四郎は池田屋襲撃の11日後に千本二条下ルあたりで水戸家の者に殺される。埋葬地がまったく分からない。不思議でならん。本年、どこかで史料発掘されることを待望している。
*中村武生 歴史地理史学@busyo3
斬った者は洛東霊山、村上丹波の霊明舎(現霊明神社)に埋葬されたと分かっているのに。
*中村武生 歴史地理史学@busyo3
余四麿昭訓や原市之進を埋葬した長楽寺を想定するのだが、そういった史料を見たことがない。
*中村武生 歴史地理史学@busyo3
少なくとも日本側は和親条約を「開国」と認識していない。船舶事故、食料・燃料の不足など不測の事態がなければアメリカと交流しなくてよい内容だから。貿易しないわけだから開港地と記載されたかもしれないが下田と箱館に居留地はない。「鎖国」は継続していると理解できた。


*こけし@kokeshinookimon
給仕できないのは、慶喜公伝に記載があったはず。
*こけし@kokeshinookimon
青天で円四郎が町人地に住んでるのは、江戸の町人の暮らしも見せたいという演出の心意気。武家(慶喜周辺)、百姓(栄一周辺)、江戸の暮らし(円四郎)。
時代考証がサボってるとか、武士は武家地に〜という指摘は今後の展開的には野暮である。
むしろ、それぞれの暮らしをみてほc
*こけし@kokeshinookimon3月8日
昨日の「青天を衝け」では松平慶永(春嶽)が随分と険しい表情で将軍家定を見ていましたが、これは史実に肉付けした演出です。
慶永の「逸事史補」という史料に家定は、「凡庸中ノ極三等なり」と評しています。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
また、水戸藩士だった内藤耻叟は、家定を「闇愚多疾」と評し、「年既に三十余なれども児童の如く、常に鵞鳥を遂回して楽しみとせられ」とも記しており、将軍の資質に欠けるものと評価していました。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
家定が暗愚であるとの評価がある一方で、家定を評価する史料もあります。例えば大奥女中であった佐々鎮子は、家定を「癇癖」持ちであったと証言するものの、家慶が危篤の時には西の丸から本丸へ毎日看病に赴いたと語っています。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
同様に勝海舟も家定を高く評価しており、「開国貿易ノ是ナルヲ思」っていたこと、慎み深く、意思表示をあまりしなかったため、意思疎通に欠けたと述べています。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
ちなみに渋沢栄一は、家定について「普通の才徳ありて(中略)中主の器」として非適格というほどではないと評しています(栄一と家定は面識ない)。
むしろ、動乱期の将軍であったことから「不幸の将軍」とさえ評しています。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
家定は堀田正睦が苦言を呈したりすると、落涙して黙り込んだという豆腐メンタルなエピソードがある。ただ、一方で井伊直弼が大老に就任したあたりからは、「多疾」と言いつつも武技上覧を盛んに行っているので、そのあたりから将軍としての自覚に関する切り替えはあるのかも知れない。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
家定落涙のエピソードを書いて、どれくらい黙っていたんだっけと気になって元ネタの『昨夢紀事』を検索したら、「一時にても二時にても」とあったので、二時間から四時間くらい黙り込んでいたことになる。ただ、常識的にそんなに黙り込むような人はいないと思うので、誇張した表現だろうと思う。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
将軍が泣いて黙り込んだら、老中からすると「精神と時の部屋」に入れられた気持ちになるわいね。
*こけし@kokeshinookimon3月8日
ドラマ上は慶永のことを「越前殿」と呼べるのは、ごく一部の人物だけ。大概「越前様」と呼ばれている。
細かい設定なのだが、もともと慶永は家慶の従弟にあたるうえ、生まれは三卿の田安家出身。さらに越前は家門筆頭なので気安く「越前殿」などとは呼べないのである。









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