障子嶽城跡(215m)~小原城跡(289m)~藟嶽城跡(256m) (単独)
(南関郷の城跡巡り里山トレッキングと古希同窓会)
快晴
* 障子嶽登山口の地図 ←(Yahoo地図検索)
(行程)①瓦屋敷・熊野神社入口(発9:15)→障子嶽権現社の碑(着9:20)→
障子嶽城跡(着9:50)→中山分岐→小原城跡(着10:45)→中山分岐→
林道出合(着10:55)→大権現の碑(着11:25)→早馬神社(着11:40)→
国道443号・中山集落(着11:45)~(国道を歩いて次なる大津山へ移動)
②大津山神社鳥居(着12:10)→大津山頂上(着12:45~発13:20)→
大津山神社(着13:40)
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〇小中高と学び舎を共にした同窓生の島崎君(「NPO法人A lifeなんかん」山登り
クラブ←動画YouTube)から古里の山である「大津山から障子嶽そして二城山」
への「縦走路を整備した・・・」との話をかねてから聞いていたので実家に泊ま
り、古希同窓会の翌日に登ることとした。
昨夜の二次会の酒がまだ残っている状態であったが、今日登らなければ古
希同窓会の思い出づくりとして後悔するだろうと思い、好天気に元気を貰い朝
食後すぐに実家を出発した。
〇大津山も障子嶽もそれぞれに神社を配し、境内までは実家から歩いて10分
で往ける、目と鼻の先の山である。
子供の頃、大津山は「チャンバラごっこ」や「焚き物取り」、障子嶽は「メジロ落
し」や「ヤマモモ採り」に夢中になってよく遊んだ故郷の山である。
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▼今回のル-トは、二城山までの縦走路は距離(ヤフ-地図計測で大津山~二城山
間の直線距離で約3.5km)が長すぎるので、障子嶽から登り二城山までの凡そ1/3
の距離に位置する善光寺山(別名、小原古城山)の小原城跡を踏み、中山集
落に下り、そこから国道を歩いて大津山の正面登山口に取り付くこととした。
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[大津山~障子嶽~善光寺山~二城山までの縦走路] [今回のトレッキングル-ト]
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▼障子嶽は別名「権現さん」で親しまれているが、町側から眺めるとその山姿が
亀に似ていることから町方の人は「亀山」と呼んでいる人も多いようである。
実家の法事の時、旦那寺である「真光寺」の住職に尋ねた際は「大津山の別
名は舞鶴山であるので、隣の障子嶽は亀山と呼ばれているのでは・・・」
とのお話であった。
[実家の裏を流れる竜瀬川と大津山] [今から登る障子嶽を仰ぐ]
①・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
▼実家の裏口から出て5分で瓦屋敷の熊野神社入口に着き、
ここから町道を離れ里道となる。
「スタンプラリ-・難関突破十八社詣で」の「難関突破」と記された幟端を見て、
昔し辿った山道を歩くが、今は良く整備されている。
[瓦屋敷・熊野神社入口] [熊野神社(障子嶽権現社)参道]
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▼登山口は参道を登り詰め、熊野神社(障子嶽権現社)拝殿の左脇に建つ石碑
の裏手が取付きとなる。
登り口は明確な踏み跡が在るが直ぐに薄くなり、右方向に幾つかの踏み跡が
延びているのでそれを辿るが藪化して消えていた。(ここは、紛れ易いポイント)
私の子供の頃は、この方向にはミカン畑として開墾され始められていたが今
は荒地の様であった。
▼登路は昔の山道を左斜めに進み、植林帯の緩やかな坂道を楮原(かごはら)集
落側(北東)に進み、山腹を左に回り込む形で斜上して行く。
右にカ-ブしてフラットになるとしばらくは水平移動の歩きとなり、登路右傾斜
面の山腹の植生が雑木林へと変わっていく。
進行方向の正面に杉と雑木の混交林が視える付近になると、直進方向(東)に
も道らしきものが延びているが、ここは直進せずに方向を大きく変え、右(南)急
斜面の山腹に付く踏み跡を辿って雑木林の中を直登気味に登って行く。
障子嶽山頂部の北西の肩に上がると「二城山」への方向を標したラミネ-ト加
工の案内が樹木に巻き付けられていた。
此処までは、目印となるテ-プ等は気づかなかったので最初に出合った標識で
、この標識は同窓会会場で縦走路地図を貰い、ル-ト説明をしてくれた島崎君
お手製の標識ということを聞いていた。
[障子嶽権現社の碑の裏手が取付き] [急登を登り上げた障子嶽北西稜線に付けられた道標]
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▼山頂部は椎や樫の木・椿・ヤマモモ等の自然林に囲まれた細長い平坦地が北
西から東方向に続いている。
展望は無いが明るい快適な場所となっていて、子供の頃この場所で初夏には
ヤマモモ採り、秋にはメジロ落しをして楽しんだ思い出の場所であり、焼き付い
た子供心の遊びか懐かしく蘇えた次第であった・・・。
古希にしてこの場所に来るとは「予想だに」しなかった事であり、島崎君から
二城山への縦走路の紹介があったればこそ、この郷愁感を味合う喜びが出来
たのであろう・・・・島崎君に感謝・感謝。
[快適な山頂部稜線(子供の頃「メジロ落し」をしていた場所)] [障子嶽城跡]
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▼子供の頃には知る由もなかった「障子嶽城跡」を踏み、ここから先の地は子供
の頃は恐ろしくて入れなかった未踏のル-トである。
縦走路は、山頂部の平坦から幾つかの緩やかなアップダウンを繰り返す稜線
歩きで、善光寺山(小原城跡)までは南進して行くこととなる。
要所、要所に目印テ-プが捲いてあるのでテ-プを探しながら、道に迷うこと
なく小原城跡に至った。
[ここは、左下に赤テ-プあり] [展望は無いが快適な稜線を南進して行く]
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▼樹木に提げられた木板には「小原城跡」と記され、ラミネ-ト加工の遺構測量
地図もある・・・。自分なりに城郭をイメ-ジして城跡を離れ、次なる目的地であ
る中山集落への下山路を探した。
中山集落に下る分岐が判らない・・・・・。
小原城跡手前(障子嶽寄り)50m位の地点に分岐らしいテ-プは捲いてあったが
標識は無い・・・。
念のため、島崎君に電話を入れ「このテ-プ」が分岐であるかの確認を取った
始末であった。(苦笑)
島崎君からは中山集落に下らず、二城山の麓まで車で迎えに来るので二城
山までの縦走を勧められたが昨夜の酒による体力低下と大津山にも登りたい
という思いがあったので縦走突破は次回の楽しみに残すこととした。
[中山分岐:登路から右(西)に下っている] [分岐から二城山側に進み、2分で小原城跡に至る]
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▼下山路もテ-プを頼りに下るが、尾根道の踏み跡はハッキリしていて迷うこと
なく約10分で林道(福山~二城山線)に至った。
▼竹林を右に見ながら林道を下るが、それらしき中山集落への分岐が見当たら
ない。
引き戻って、林道上手を探したが分岐は見当たらない・・・・。
再び、島崎君に電話して尋ねる。
「林道を下り、右に入る竹林を見過ごして更に下ると、左側にブロック石垣の法
面に付けられた階段を上がる・・・」との説明であった。
分岐探しの浪費時間は15分位はあったろうと思われる。
[小原城跡 遺構測量図] [林道出合:林道を下る]
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▼無事に林道から離れ、分岐となる階段を登り上げと尾根道のピ-クと思われ
る閑寂な小広場となっていた。
広場の最上部には「鵜戸大権現」と刻まれた石碑が祀られていた。
年号は「文政」と刻まれているので江戸時代のものであろう、
歴史を感ずるひと時であった。
[林道から離れ、左の石段を上る] [石段を上がると直ぐに大権現の碑と出合う]
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[手水には「天保八年」と刻まれている] [金右衛門とか太郎左衛門とか・・時代が考証される・・・。]
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▼登路はこの碑を背にして参道と思わせるような雰囲気のある尾根道を快適に
下り、すぐに左にカ-プしながら谷筋に降りて行く。
碑から10分位下り、涸れ沢を渉ると登路から少し離れた、左上に見えている
お堂に立ち寄る。
石碑には「早馬神社」と刻まれていた。
※帰宅後、調べたネット情報(千寿の楽しい歴史)では、
「早馬(ハユマ)神社と呼び、牛馬の神様として信仰され、その源流は
古代駅伝制の駅馬(ハユマ)にあると言われている」との記事が有った。
[大権現碑前から下る(参道と思わされるような道)] [登路から視えるお堂(早馬神社)]
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▼早馬神社から約5分で、高速道路が並走する国道443号線・中山集落に
下山した。
[早馬神社と記されている] [国道443号・中山集落に下山する]
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▼中山集落から大津山へ向かう途中の、国道から眺めた大津山と障子嶽の景色
[国道・福山集落付近から [国道・古町集落から]
大津山(左)と障子嶽を望む] 障子嶽と歩いた稜線を振り返る]
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今回のこのル-トは、里山が連なる緩やかなアップダウンの稜線を歩いたが、
椎・樫が多く植生する森林の中の登路で展望は望めなかった。
しかし、子供の頃は知らなかった城跡や歴史を感じさせられる重厚な石碑に出合い、
改めて郷土史に関心を抱く動機づけのトレッキングになったような気がした。
※帰宅後、ネット情報「城郭放浪記」で調べたら、
「小原城の城主・小原鑑元が後に大津山城の城代となった・・・」
との歴史を知り、小原城と大津山城の関わりが分かり感銘を受けた。
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(2014/04/29 加筆)
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