名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ』生と死の距離

2019-09-29 16:18:50 | 人物


ヴィクトリア時代への追憶から
新しい時代の躍動と、底流する不穏な空気へ
抱える精神不安を繊細な言葉で覆う





ヴァージニア・ウルフ
Virginia Woolf
1882〜1941


1. 『灯台へ』
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』を読んだ。
この作品は小説とは異なる新しい形式を試みたものだとしている。しかしこれをなんと呼んだらよいか、彼女も疑問のままにしている。

13歳のとき母を亡くす。美貌の母ジュリアは、画家エドワード・バーン=ジョーンズらラファエル前派の、あるいは伯母で写真家のジュリア・マーガレット・カメロンのモデルもつとめた。作品中のラムジー夫人は思い出の中の母を象っている。1846年から1995年を生きた母は、英国ヴィクトリア時代の典型的な中流夫人の持つべき魅力をそのまま体現する女性だった。『灯台へ』はその母、文筆家の父、8人の兄弟姉妹、父母の客人に似た人物達の物語でウルフ45歳の作品である。















ヴァージニア・ウルフとヴァネッサ・ベルの母
ジュリア/写真
エドワード・バーン=ジョーンズ『受胎告知』
ジュリアがモデルと言われている作品




2. スコットランドの孤島・夏の住居
ウルフの家族の夏の住居は、コーンウォール半島のセント・アイヴズ湾を見下ろす地にあったが、作品の舞台はスコットランドのヘブリディーズ諸島スカイ島だ。
ウルフの父は一女、母は二男一女を連れての再婚だった。その後、姉ヴァネッサ、兄、ヴァージニア、弟が誕生する。作品においても同じ家族構成で、他に数人の客人と使用人が一緒に過ごしている。



セント・アイヴズでクリケットをしているヴァージニア(左)とヴァネッサ


左からヴァネッサ、ステラ、ヴァージニア
ジュリアの産んだ7人の子のうちの女性3人




———

幼い息子ジェイムスが翌日の灯台行きを楽しみにしているが、すでに風が強く、望み薄だ。夫人は、夫や客人の空気を読まない物言いや態度に、想定内ながら疲れを感じつつ、常に周囲に心を配り、世話を焼く。日々、夫人はあらゆる人から感謝されることに喜びを感じているが、一方で相手によっては自分の厚情が期待されていないことにも気づいており、迷いを抱えている。自分の美しさも十分に生かしてきたが、五十を迎えた今は虚しい。
夕刻、女主人としての心を奮い立たせて催すディナーの席では、刻々変わる心境と、彼女を囲む人々、部屋を包む空気、声、戸外の気配が溶けあって、じわりと心が満たされてくる。夜闇に包まれ、蝋燭が卓上に灯る。やがてディナーは終わる。

「…敷居に足をかけたまま、こうして見ている間にも消えていこうとする光景の中に、夫人はあと一瞬だけとどまろうとした。それから身を動かし、ミンタの腕をとって部屋を出ると、もうあの光景は変化し、違った形をとり始めた。夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った。」

このあたりまでが「第1章 窓」である。窓の内側には人々のこまごまとした思惑があり、外側では海が止まず波音を立て、灯台が回る光を放つ。無機的なものが窓から心に流れ込んで、なにかを刻みつけ、なにかが腑に落ちていく。
夫人のそんな様子を客観的に注視している人物がいる。画家で結婚適齢期をやや過ぎた女性リリーだ。夫人の欠点を見抜きながらも争い難く魅了されている。夫人はリリーの、愛嬌に欠けるが意志の強さに好感を持っている。

このあと、間狂言のような「第2章 時はゆく」が入る。夫人の急死、嫁ぎ先で亡くなった娘、戦死した息子のことなどが、10年のあいだ主人の訪問のなかったこの家を手入れする掃除婦によって語られる。そして、どうやら久しぶりに主人が訪れるらしいというところで「第3章 灯台へ」に移る。



3. 距離
灯台行きがかなわないまま、ラムジー夫人はロンドンの自宅で急死。10年が経つ。その間には世界大戦があり、家庭内で亡くなった者もあり、生きている者もそれぞれに歳をとった。
久々訪れた老嬢リリーは庭に出て絵を描く。その朝、ラムジー氏と、今や青年となったジェイムズとその姉プルーは船で灯台へとむかった。船の上では、過ぎたヴィクトリア時代を体現するかの父に、新しい価値観の息子が苛立ち、そのどちらにも距離をとって生ぬるく見守る娘が、目標の灯台を共に目指している。
陸と海。
海から陸の家を、陸から海上の船を見る。
その遠さ、小ささ。
キャンバスに向かいつつ、亡くなった夫人を思い返しながら、突如リリーは夫人の存在を初めて強く近くに感じ、こみ上げるように当惑する。

「ラムジー夫人!」

「つい最近までは、夫人のことを思い出しても何の問題もなかった。幽霊であれ空気であれ無そのものであれ、要するに昼でも夜でもたやすく安心して向き合えるものーいわば夫人はそういう存在だったのだ。ところが、それが急に手をのばしてきて、今のように激しく心臓を締めつけるのだ」


熱い涙の向こうに見える青、海、靄、遠く離れてそこにはおそらくラムジー氏がいる

「距離って途方もない力があるものね。だってこれだけ遠ざかると、みんな海に呑み込まれてしまって永久に姿を消し、まるで周囲の自然の一部になってしまったような気がするもの」

洋上の汽船の煙だけが漂う。
《惜別のしるしのように》

心の距離、生と死を隔てる距離、時を隔てる距離、遠く離れればいずれも一点であるかのよう。

———

ウルフのこの作品は、構成にも読後感にも能を観るようだ。

「なぜ人生はこんなに短く不可解なのか—」

リリーの問い。「なぜ」の答えはわからないが、行き着く先は微かに見える。安堵を手に入れる。両眼に涙は溢れても…



4. ヴァージニア・ウルフについて
ヴァージニア・ウルフと言えば、記憶に上るのは貴族女性との同性愛、精神衰弱からの自殺か。子供の頃は、知識豊かな文芸批評家の父レズリー・スティーブン、美しく聡明な母ジュリア・ダックワース、異母兄、異母姉、異父姉、兄、姉、弟と、セント・アイヴスの夏の家やロンドンのハイド・パークの自宅で過ごした。明るい子供時代。知識人の父レズリー・スティーブンのもとに、ブラウニング、ラスキン、ハーディ、メレディスらが訪れる家庭だった。
13歳で母を亡くし、初めて精神衰弱になった。
家庭で父から文学や歴史の他、別でギリシャ語の教育も受けていたが、15歳からは兄や弟の学ぶケンブリッジ大学キングスカレッジに学んだ。のちに画家になる姉ヴァネッサ(ヴァネッサ・ベル)は美術学校ロイヤル・アカデミーに入った。
この頃、母代わりだった異母姉ステラが、嫁いで3ヶ月で亡くなった。

22歳のときに父が亡くなり、再び精神衰弱に陥る。兄弟姉妹はブルームズベリに転居。兄の交友関係から、経済学者ケインズ、作家ストレイチー、美術評論家クライヴ・ベル(姉ヴァネッサと結婚)や画家ロジャー・フライ、社会評論家レナード・ウルフ(ヴァージニアと結婚)らケンブリッジの仲間が集い、交流した。ブルームズベリ・グループと呼ばれる。
翌年は母の死から10年後にあたり、一家の夏の家タランド・ハウスに客人と共に滞在。その翌年は親しかった兄トビーが旅行先での病がもとで亡くなる。家族の死に直面するたび、ヴァージニアは心を病んだ。


ヴァネッサ・ベル 『室内風景』ワインを飲んでくつろぐクライヴ・ベルとダンカン・グラント
ヴァネッサはベルとの結婚を維持したまま、ダンカン・グラントやロジャー・フライとも関係を持った。長女はグラントの子だが、ベルの子として育つ。ベルやグラントも他に異性同性の愛人がいた


ルパート・ブルック 詩人
美貌で有名だったが、トラブルからグループを脱退し、その後は薄幸の人生を送り、戦場で亡くなった


ロジャー・フライ 画 ヴァージニア・ウルフ像


レナード・ウルフ 国際政治学者 社会主義者 ブルームズベリーグループ発足当時からヴァージニアとは面識あり
ヴァージニアは27歳のときストレイチーに結婚を申し込まれたがいったん承諾後即解消
30歳のときセイロンから戻ったレナードと結婚する




5. ブルームズベリ・グループ
スティーブン家の兄弟姉妹の家の集いには、もはや過去のものとなったヴィクトリア時代の厳格性を押しつける空気はなく、新時代の自由を謳歌する交流があった。
当時、まだ評価されることのなかったフランスの後期印象派絵画を賞賛し、展覧会を開いてイギリスに紹介したのはグループのフライらだった。また同性愛も含め、夫婦間を超えた自由な恋愛や交遊を認め合った(オープン・マリッジ)。グループには既成の性愛を超越する作家エドワード・フォースター、詩人ジークフリード・サスーン、同じくルパート・ブルックもいた。
当初、グループは壮大なイタズラ(偽エチオピア皇帝事件)を引き起こしたことなどにより、社会からは白眼視されていたが、第一次大戦以降にはグループの平和主義的なスタンスに人々の理解が進み、ウルフの著作やケインズの経済論なども支持を広げた。

このグループに、貴族で外交官のハロルド・ニコルソンとその妻ヴィタ・サックヴィル=ウェストが参加する。ヴィタはヴァージニアへ敬愛を飛び越えて、恋愛感情を抱いた。


ハロルドとヴィタ(中央) 当時はまだ女性カップルが街歩きするのは非難を浴び、危険を伴った



ヴィタ


ヴィタと父





6. レズビアニズム
ヴァージニアは30歳でレナード・ウルフと結婚した。たびたび精神衰弱に陥るヴァージニアを夫はいたわり、彼女が生き生きと文芸活動に打ち込めるように、印刷機を購入して二人で手ずから印刷して出版した。
ヴァージニアがヴィタ・サックヴィル=ウェストと交際するようになったのは40歳のとき。ヴィタは10歳年下。由緒ある男爵家の一人娘であり、広壮なノール城に住む。ヴィタもまた、居城の塔の一室にこもり日夜精力的に創作する文筆家である。







ヴィタ


ヴァージニアを崇拝しつつ恋愛に巻き込んでいくヴィタに、夫ハロルドは寛容だ(レナードもだが)。ハロルドも同性愛者でもある。ヴァージニアはノールの城でヴィタと過ごすようになる。
ハロルドとヴィタには子息が二人いる。その一人、ナイジェルは「わたしたちの間には母と息子の関係はなかった」と語る。彼と弟の世話をしたのはヴァージニアだったらしい。ちなみに、ヴァージニアは子はいない。
ヴィタは元より名だたるレズビアンで、28歳のとき同性の元学友と電撃的にフランスに駆け落ちしたスキャンダルで有名だった。25歳で結婚していたヴィタには当時すでに二人の子もいた。相手は、14歳の時に知り合った4つ下のヴァイオレット・ケッペル。エドワード7世の愛妾アリス・ケッペルの娘だ。二人は10代の頃も恋愛関係にあったが、あらためて関係が再燃したのである。長身で中性的な顔立ちのヴィタは、若い男性に変装し女性の恋人を伴って颯爽と街へ出る。フェリクス・ユスーポフを思わせるが、同時代人なのでパリやロンドンで鉢合わせていたかもしれない。その後、ヴィタが夫と別れる気がないことから破局した。


ヴァイオレット・ケッペル
パリに住み続けた 才能ある小説家となる



そのヴィタがバージニアと関係するようになり、ヴァージニアが五十を迎える手前まで続く。ヴィタが別の若い女性に心を移して終わった。
しかしこの間、ヴァージニアは数々の代表作を生んだ。


晩年のヴィタ






シシング・ハーストの城



同時代を生きた貴族のステファン・テナントは、オスカー・ワイルドの記事の余談で取り上げた通り、Bright young peopleと呼ばれる享楽的なグループに属していた。彼はブルームズベリー・グループのジークフリート・サスーンの愛人だったこともある。晩年は堕落していた。
ヴィタはノール城を相続できず(女子相続不可)、やがてシシング・ハーストの城に移り、荒れた城をよみがえらせ、夫と共に庭園を美しく完成させて、イギリスのガーデニングの新たな先駆者となった。1962年没。



7. 『オーランドー』世界一長い恋文
時々訪れる鬱に悩みながら、ヴァージニアは名作を生み出す。鋭い感受性により時代の流れを敏感に感じ取り、妥協のない練られた表現を試みる。出版においてもエリオットやジョイスを世に出すなど、目が高く、世に貢献していた。
45歳で『灯台へ』(1927)を出した。これは自分の半生と、父母の世代の遺産となったヴィクトリア時代との分離が描かれ、ゆるやかな流れに身をまかせる静けさがあった。
つぎの『オーランドー』(1928)はガラリと変わる。ヴァージニアのもう一つの面が現れている。ヴィタの息子によれば、作品自体が世界一長い恋文のようだと。そう、これはヴァージニアがヴィタの魅力と境遇を称えた作品すなわち恋文だ。
この作品が発表される頃、ヴァージニアは髪を短くし、自動車を買い、ヴィタとフランス旅行に出かけた。
『灯台へ』の作者とは思えないほど、語り口は大変饒舌で、コミカルな設定もある。主人公はエリザベス1世に祝福されたことにより300年余生き続けているが、見かけ年齢は36才(当時のヴィタの年齢)。ノール城の過去から現在までの住人が連綿と一つの個体に織り成されて、イギリス文学の変遷を傍にして生きる。主人公はあるとき数日の眠りから覚めたら男性から女性に体が変わっていたという、童話世界のような不可思議展開も織り交ぜられている。オスカー・ワイルドを読んでいるような気分になるが、ヴァージニアがそんな世紀末的な要素もわざと織り込んでいるのは承知できる。イギリス文学の伝記でもあるからだ。
テンポ良い饒舌な流れはヴィタの小説『エドワーディアンズ』(1930)と重なる。ヴィタのこの作品にはジョージ5世の戴冠式のちょっと面白い様子が描かれているなど、貴族のリアルな暮らしぶりが知れて興味深い。また、名前を変えてはいるが、ノール城をベースにしているので、調度、維持管理、城主と城下、晩餐会など、生きた城の運営も垣間見られるのが良い。




髪を切って話題になったウルフ


ヴァージニアはしかし独自の文学を探求し続け、さらに斬新な小説『波』(1931)を生み出す。登場人物達がそれぞれに独白(独白であって対話ではない)を重ねて綴られていく形は、演劇のようであり、実存の新鮮な切り口のようであり、目を閉じて感じる景色のようである。
冒頭の、子供の澄んだ感覚で切り取られる情景描写の連続は透明感が刺すように響く。ヴィタの息子ナイジェル・ニコルソンの回想に結びつく。

一度、蝶をつかまえていたとき、こう聞かれた。
『ねぇ、教えて。子供でいるのはどんな感じなの?』

いまでもどう答えたか覚えているよ。

『どんな感じかだって?自分でもよく知っているはずだよ、ヴァージニア。自分でも子供だったんだから。でもぼくにはヴァージニアでいるのはどんなかんじなのか、わからないよ。まだ大人になったことがないから』


ヴァージニアはどんな顔をしただろう。こんなオトナな答えを返されて。



8. 死の想念
世界が徐々に暗くなりつつある中、ヴァージニアの心も不安定になっていく。周囲の励ましに応えて執筆を続けたが、甥の戦死、さらにロンドン空襲で家も出版社も焼かれ、サセックスの週末の家で細々と暮らすうち、心は沈み、浮き上がれなくなった。最後の作品『幕間』をようやく書き上げたもののその出来栄えにも苦しんだ。

1941年3月28日、夫と姉に遺書を1通ずつ残して川に身を投じる。なれた散策の道を歩みながら、石をポケットに貯めて川へ。もう浮かび上がらないように。
どこに沈み行こうとするのか。

夫宛の遺書
「また狂気がやってくるのがはっきりわかります。
あの恐ろしい経験をまた繰り返すなんて考えられません。
今度は直らないでしょう。
声が聞こえるし、集中できません。
それで最善と思えることをしようと思います。
あなたは私にできる限りの最高の幸せを与えてくれました。
この恐ろしい病気さえなければ、私たちほど幸せな二人はなかったでしょうに。
もう戦えない。
あなたの人生を台無しにしている。
私がいなければお仕事ができるのに。
きっとお仕事をなさるでしょう。
ほら、これをちゃんと書くこともできない。
読めない。…」



『灯台へ』では冷静に生と死を測り、その隔たりは遠いようで近く、重なる2点のように見えていた。遺書からは、現実の狂気の支配から逃げたい、生の世界に身の置き所がない様子しかうかがえない。
ユーモア溢れる才人、センスの良い会話、鋭敏な感性、美しい文章表現…
時代が暗澹と変わる中で難しいバランスを保つことを、躓かせた何かが彼女を連れ去った。
しかし見えない世界と見える世界は、2枚のレイヤーを重ねたように一点になるならば、
彼女はそう遠いところにはいないだろう。



モンクス・ハウスのウルフ
田舎の週末住宅であり、ロンドンの戦災後はここに暮らした











マスード アフガンから世界を照らす心の眼

2019-02-04 21:07:51 | 人物

アフガニスタン北部"パンジシールの獅子"
ソ連やタリバンと戦った司令官マスード
聖人の横顔、世界へ届け最後の警鐘




Ahmed Shah Massoud
1953〜2001

1. 英雄マスード、アフガニスタンのゲバラと呼ばれて
弁護士になりたい。
医者になりたい。
建築家になりたい…。
そう望めて、その可能性が用意されている社会ならば良い。その道が易しくはないにしても、自分のために努力することが可能なのだから。
しかし、社会がそれを許さないほど混乱していたとしたらどうか。夢を失うだけでなく、命さえも危うくなるとしたら?
約束されたはずの自分の将来を諦めた上、銃を取って抵抗ができるだろうか。自分を守るだけでなく、人々を平和に導くことができるだろうか。
実際、能力の限界や勇気の欠如で、とてもじゃないが人を誘導して戦うことなどできないのが現実だろう。

たとえば、キューバ革命を導いたフィデル・カストロやエルネスト・チェ・ゲバラ。または「アフガニスタンのゲバラ」とあだ名されていたアフガニスタン北部同盟司令官アフマド・シャー・マスード。
マスードはその最期もゲバラと同様、暗殺だった。2001年9月9日、アメリカ同時多発テロ事件の2日前のことだ。

2001年、マスードはこの年の春、フランスでのヨーロッパ議会に招かれた際、世界を巻き込んだテロ事件が早晩起こるだろうことを警告していた。アメリカにも注意を呼びかけた。一方で、自身の横死もまもないことを感じていたという。

学生時代にアフガニスタン国家が政変によって傾いたために、学業を中止し、銃を取り兵を導く、司令官としての生涯に身を投じたマスード。知能が高く、国防相として、あるいはゲリラの司令官として、すばらしい統率力を示した。それでいて驕ることなく、常に老若男女全ての人々に優しく心を配った。敬虔なイスラム信者であり、日に五度の祈りを欠かさなかったが、それを周囲に強要しなかった。ソ連軍に追い詰められ、後にはタリバンに追い詰められ、実際、その戦績は苦渋に満ちていたが、マスードには不動の心があった。

アフガニスタン紛争勃発時、マスードはカブール大学の建築科大学生だった。ちなみに過去、カストロは弁護士、ゲバラは医師だった。マスードは生前、平和になったらもう一度大学に行って建築を学びたい、あるいは村の教師になりたいと、語っていた。死後、公式に「アフガニスタンの英雄」として称えられたが、生前のマスード自身は栄誉よりもただ素朴な平和を希求していた。

アフガニスタンの紛争の経過を振り返り、マスードの生涯を辿りたい。





2. アフガニスタン紛争
アフマド・シャーは1953年9月2日、アフガニスタン北部のパンジシール渓谷にあるジャンガラック村で、陸軍将校のドースト・ムハンマドの、7人の子のうちの3番目に生まれた。当時のアフガニスタンは、王ザヒール・シャーの統治下にあり、1964年にはジルガ(評議会)召集、憲法制定があり、自由と基本的人権を認める政府が樹立された。このとき、共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)も創設された。
1973年、軍部のクーデターにより、王は亡命。ダウドによる共和制となる。ダウドはPDPAと距離をおき、さらにイスラム弾圧も行う。
大学生だったマスードはムジャヒディン(イスラム主義を掲げる抵抗組織)の運動に参加。
1975年に、ムジャヒディンのヘクマティアルが起こした反乱が失敗し、マスードもパキスタンに逃亡する。過激主義に傾くヘクマティアルが、ムジャヒディンの長ラバ二と対立して分裂、イスラム党(ヒズビ・イスラミ)を創設。マスードはラバ二のイスラム協会(ジャミアテ・イスラミ)にとどまる。
1978年、PDPAによってダウドが暗殺され、共産政権が設立されたが、政策は不評、暴力による弾圧に対し、各地で反乱が起きる。マスードも共産政権打倒に立ち上がり、パンジシールで抵抗活動する。
1979年、共産政権支援を理由にソ連軍が侵攻。親ソ政権樹立。各地で民族グループごとに反ソ抵抗運動。
1989年、ソ連軍撤退。しかし共産政権は続行。
1991年、抵抗運動を受け、共産政権がカブールから撤退。マスードの軍がカブールに入る。
1992年、ペシャワール協定により、ムジャヒディン政権樹立。ラバ二が大統領、マスードが国防相となる。
1993年、ムジャヒディン間の対立が起こり、ヘクマティアルがカブールを攻撃。ヘクマティアルの交渉条件に応じて、マスードが国防相を辞任。
近隣国やアメリカが新興勢力タリバンを支援。タリバンによりカブールが包囲される。
1996年、マスードほか政府陣営はカブールから撤退。タリバンが入城。


タリバンについて;もともとは神学生の団体で、当初は誘拐された少女を救出するなど、慈善的で市民に迎え入れられやすい面もあった。しかし、アルカイダと密接になるに従い、原理主義傾向を強くし、厳しい戒律を民衆に押し付けるようになる。偶像崇拝禁止(バーミヤン仏像破壊など)、テレビ放送や音楽、スポーツなど娯楽は一切禁止。娯楽のかわりに公開処刑を頻繁に行う。毎日五回の礼拝を強要し、宗教警察で取り締まる。成人男性はあご髭を生やすのを義務づけられる。違反すれば、髭が一定まで伸びる間、収監される。女性の教育、勤労は禁止。女性は家族の男性の同伴なしでの外出禁止。タリバン組織は、同じパシュトゥン人の隣国パキスタンの支援と、アルカイダ経由でサウジアラビアからの支援も受け、勢力を拡大した。






1997年、北部に逃れたマスードらを中心に、反タリバン連合(アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線)が結成された。北部同盟と呼ばれる。
パキスタンやサウジアラビアの潤沢な支援を受けるタリバンは、支配地域を拡大。国土の80%を制圧する。
一方、国際社会はタリバン政権を認めず、北部同盟政府をアフガニスタンの代表とみなす。
2001年9月9日、ジャーナリストを装った二人の自爆攻撃で、インタビュー中のマスードが暗殺される。
翌々日の11日、アメリカ同時多発テロ事件勃発。
ウサマ・ビンラディン引き渡しに応じないタリバンに対抗して有志連合が結成される。有志連合は北部同盟を支援。11月に北部同盟がカブールを奪還する。12月、ボン合意主要四派協議により、ハーミド・カルザイ暫定政府が樹立。
タリバンは一部支配地域で活動を継続。現在、再び支配を拡大している。


紛争以前、アフガニスタンは美しく、多くの観光客が訪れる地だった。ソ連軍侵攻の11年間で、人口の10%約200万人が亡くなり、およそ600万人が難民になった。大量の地雷が残された。その後も、ヘクマティアルの攻撃で土地は荒らされ、タリバンが実権を握ったあとは恐怖によって支配された。
そのような過酷な状況にありながら、マスードはどこまでも平和をめざして努力し続けた。

『マスード 伝説のアフガン司令官の素顔』(マルセラ・グラッド著)には、マスードと関わりのあった人々からのインタビューがそのまま綴られている。書の中でマスードは、遠目から見ただけでも、そのオーラが彼だけを浮き上がらせ、目を離すことができなくなるほど、と。けれどもその振舞いは穏やかで、誰にでも優しく言葉をかけ、話を聞き、戦場の緊張をユーモアでなだめることもある、とも。さまざまなエピソードが、マスード亡き後、愛着を持ってそれぞれ語られている。もちろん、これはマスードの側近くにいた人々の話だから、中傷も批判もない。マスードを憎む者も世には当然あっただろうが、敵のソ連兵やタリバンの高官にさえも、一目置かれていたのは事実のようだ。この本で語られているマスードの横顔を、少し見つめてみたい。








3. 少年時代、パンジシール渓谷にて
先祖は王政に仕えた有力者、祖父と父は陸軍将校。中流家庭の育ち。文学と宗教に家庭教師がつけられる。家には図書室があった。祖父の影響で、アフマド・シャーは日に5度モスクで祈るような、敬虔なイスラム信者になった。
マスードは母からの影響を多く受けた。母は息子に、アフガニスタン人にとって学校教育よりも大切なこととして、馬に乗れること、銃を撃てること、人前で話すこと、モスクで適切な発言ができること、山の中を歩くこと、物の作り方や治し方を知ることなどをきわめるよう説いた。それらは祖国を守るために、やがて必要になるものばかりだった。
よくあるように、マスードもラジオなどを必ず分解する子供だった。13歳の頃、家の配線工事を自分にやらせてほしいと言い、研究しながら完成させた。
機転が利くため、絶好のタイミングで周囲を誘導することもあった。男の子たちでりんご盗りして農夫に見つかり、全員一斉に並んで逃げたが、マスードが「バラバラになって逃げるんだ」と声を上げたので、誰も捕まらないで済んだ。
いずれも、のちに山間でゲリラ活動するにあたって、有用な能力を持ち合わせていたといえる。
自身が子供でありながら、まわりの子供達にも目を配り、自宅のガレージに集めて勉強を見てやることもあった。"父よりも優しく、兄弟よりも親しい"と兵士たちに思われる、寛容な司令官になる基礎がうかがえる。




4. 若きムジャヒディンの司令官
マスードは司令官である。一般に、司令官、指揮官のなかには、前線から遠い安全な場所から命令を出すだけの人もいるそうだが、マスードは驚くほど最前線に出ていることがあるという。その姿を見れば、兵士たちの士気が上がるが、そればかりでなく、ときに緊張を緩めるためにユーモアを交えた言葉もかけていく。
分散して配置した20ほどの自軍のゲリラ部隊の動きを全て把握しており、それぞれに迅速に指示を出せる頭脳がある。作戦は幹部にすら事前に伝えない。司令官のこの頭脳がある限り、そうした方が遅滞も齟齬もなく済むだろう。
訓練を通じても、司令官の優れた采配を兵士たちは尊敬してやまないが、終わって宿舎に戻れば、もう彼は司令官ではなく、皆のルームメイトになる。食事の支度にも加わり、毛布が行き渡っているか確かめ、夜の歩哨もすすんで勤める。もちろん、皆はそれを固辞するのだが、マスードは必ずやる。しかも、一番きつい夜明け間際の時間帯をすすんでやってくれる。
あるとき、山間での長い戦いのあと、村まで降りてきた一隊は、村でなにかごちそうにありつけるだろうと期待していた。しかし、既に深夜で、村の人が差し出してくれたのは、パンと牛乳と、ざるに入った桑の実だけだった。パンと牛乳はマスードに、桑の実は兵士らにと言って。マスードは礼を言い、
「パンと牛乳は持って帰ってください。私達はみんな、桑の実を食べるから」
そして皆で車座になって桑の実を食べた。






兵士に対してだけでなく、マスードに魅かれて同行する海外のジャーナリストたちにも親しみをもって接している。日本の長倉洋海氏は現地語も堪能で、マスードと長く行動をともにしていた一人。あるとき、マスードは長倉氏に、
「豚肉ってどういう味がする?」
と聞いたそうだ。イスラム教徒は豚肉を食べてはならないのだが、マスードは好奇心とユーモアで聞いてきて、まわりを和ませていた。異なる文化を唾棄することのない公正さと素朴さがある。

兵士と過ごす時間の中に平和でゆるやかな時間もあれば、当然、紛争時のこと、砲弾の下、身を潜めている長い苦しみの時間もある。マイケル・バリー教授(※)のインタビューでは、こんな意外な場面が語られている。

——1994年から1995年の恐怖のカブールで、私はクリストフ・ド・ボンフィリやフランス人医師何人かとマスードと一緒に、彼のアジトにいたんだ。とても暗かった。電気は通じてなくて、ロケット弾が雨のように降っていた。市はタリバンに攻略されていて、食料や医薬品を市内に持ち込むためには彼らの前線を越えなければならなかった。
マスードはランプの明かりの下に大きな地図を広げて座り、いずれ彼が勝利を収める理由を、私達みんなに説明しようとしていた。我々はここ、敵はそこ、我々はこう動いて、こうして敵を捕らえ、ああして敵を打ち破る。友人よ、信じてくれ。我々が勝つということを。
私達は彼に言った。「ねえ、アーメル・サーブ(尊敬を込めた呼び名)、あなたが勝つか勝たないかは、私達がここにいる理由とは何の関係もないのです。仮にあなたが負けても、私達はあなたを支援するためにここに留まります」彼は言葉を失った。ただの一言も返せなかった——


共にいる人たちをどうにか安心させるべく、作戦を示して見せるマスードの真摯な行為。けれども実際、仲間達はマスードの捉え方とは次元の違う信頼を確固として抱いていたのである。仲間を不安にさせてはいけないと動揺していたのはマスード自身、それを超える信望が既に築かれていたことに驚き、言葉を失ったのだろう。かけがえのない仲間の思いがけない強さを、衝撃的に知ったから。

※マイケル・バリー教授 プリンストン大学教授で、当時、カブールで国際的な医療食料支援活動を行なっていた




作戦中は冷静沈着、オフでも穏やかで分け隔てなく好意的に付き合う司令官だが、嫌悪や怒りを顕すこともある。どういう場合なのか。

一行がある村に入ったとき、現地のゲストハウスに泊まることになったが、マスードや高官は部屋に案内され、他のムジャヒディンたちの部屋は行き渡らなかった。交渉していた高官と案内の老人とが口論になり、老人が殴られた。そこへマスードが来て老人の話を聞き、いきさつと、殴られたことを涙で訴えられた。
「この国の老人や子供達のために、私は自分の命を賭け、人々の命も危険に晒している。なのに、殴るだなんて。私の名においてやっていることなのか?」
マスードは高官を、老人がされたと同じように殴った。「こういうことは我慢がならない!」と。

もう一つのエピソードは、大切な一人息子アフマドが関わる。子供達に対して声を荒げたこともないマスードが、一度だけ厳しかったことがある。

会議にて、ある司令官が執務室から出てきたとき、「ねえ、お父さん、あの人はウズベク人?変な訛りがあるね」と。マスードは息子の耳をつかんで、
「彼は、私やお前と同じアフガン人だ。二度とそんな言い方をしてはならない!」
と叱った。
屈託ない歳頃の子供のこと、気づいたことをやや得意になって話したかもしれない。悪意はないはずだ。しかしそうした無意識下の区別が線引きを始めて、思わぬ壁を積んでしまう恐れがある。
また、マスードは、一つのアフガン、にこだわっていた。民族で分けると、それぞれに諸外国から圧力がかかり、やがて不調和が生まれる。世界には、大国に利用され、分断されてしまった民族問題がいくらでもあるのだから。






マスードは自分が神聖視されたり担がれたりすることを嫌う。秘書は持っても使用人は置かない。
着替えをしているとき、そばにいた人がマスードのために靴を揃えようとしたのを阻んだ。
マスードの肖像画が上手く描けたので、それを見て欲しいと来訪した人には、会いたがらなかった。
妹達が彼の写真を部屋に置いていたのにも困っていた。自分の死後に墓に写真は飾らないで欲しいと、周囲にたびたび話していたそうだ。もちろん宗教心がそうさせるのかもしれないが、特別視されるのが嫌なのだろう。

マスードの弟の友人が、家族のためにサウジアラビアに出稼ぎに行きたくて、マスードに許可を得たいと弟を介して尋ねた。聞いたマスードはその本人を呼び、
私のことを何だと思ってるんだ?
弟も友人も、こんな質問で返されたことに驚いていると、
「私は何者でもないんだよ、マスードは詩人だという人がいるが、誰か私の詩を読んだことがあるのか?私は詩人じゃない。作家でもないし医者でもない。技術者でもない。…何者でもないんだよ。私は単なる、自分の国を愛していて神を愛している人間だし、自分でもそう思っているよ」
誰かに対して、許可したり禁止したりする権限はそもそもないのだ、ということ。結局、友人はサウジには行かなかったそうだ。

マスードは身近な兵士たちを大切にし、敬ってもいる。戦闘では、残念だが多くの若い命が失われることもある。マスードは涙は流さない。けれども、亡くなった兵士の葬儀には全て参列するのだった。

もちろん、住民への心配りは、なによりも大切にした。安全か、食べ物はあるか、着るものはあるか。壊滅に至る前にカブールを撤退したのも、街を戦場にしてこれ以上荒廃させれば、そのあとに住民が生きられなくなってしまうからだった。
動物を人間の争いに巻き込むのも嫌った。
ある指揮官から、地雷撤去のために羊を放ってはどうかと提案があったが、
「動物を苦しませる必要がどこにある?地雷は人間が自分達で片付けるんだ。方法もあるし、させる人間もいるんだ」
また、戦争で人手が減り、川魚をとるのに効率がいいからと、手榴弾で一網打尽に採っていたのを見て、マスードは大変悲しんだそうだ。



マスードと一人息子アフマド 父との別れは12歳
ほかに5人の娘もいる







5. マスードという敵
マスードは敵の兵にも同じ視線を向ける。
パキスタン人タリバンの男が投獄されていたときのこと。マスードが来て、
「食事がよくなかったり、部下から虐待をうけたら、言ってくれ。君は囚人だが一人の人間だ
マスードはいつも笑顔で、赦しに満ちていた、と。同じくそこに捕らえられていた13歳の少年は、マスードによって解放された。「君はここにいるべきではない」と。少年兵を解放するときは、幾らかのお金も持たせてあげることもあった。

マスードが捕虜に手厚かったのは、ソ連でも有名だったくらいだ。それは部下たちにも徹底させている。
アフガン人を殺したソ連兵の捕虜を、アフガン兵が殴り始めた。すると、マスードが殴っていた兵士を押さえ、一発殴る。
「この男はお前と同じく、与えられた仕事をこなしただけなんだ。二度と捕虜に手を上げるな」

マスードには暗殺者が送り込まれ、たびたび、狙われる。暗殺者は時間をかけて同郷の友人を装い、顔見知りになり、マスードとの距離を縮めてから暗殺の機会を狙う。しかし、時を経て暗殺者はマスードに銃を手渡し、「私は暗殺者としてここへ来た」と告白。「いや、君は私の友人だよ」と、マスードは銃を彼に返す。
マスードにはロシア人の護衛がいる。ロシア人がカラシニコフを持ってマスードを護衛している。
マスードに尋ねると、彼は古くからの友人だよ、という。ロシア人は国に帰らず、マスードのそばを選んだ。

敵の兵士に対してだけではない。兵士を動かしている敵の将にも尊厳を与えた。
味方の36名もの指揮官を倒したヒズビ・イスラミの指揮官をようやく捕らえた時のこと。マスードの前に連れてこられた姿は、埃まみれ、裸足、破けた服、ターバンもなしだった。
「彼はグループの指揮官だ。彼に恥をかかせるな。身体を洗わせて服を着せてから戻ってこい」
「君達に彼を貶める権威はない。法廷が決めることだ」
とも。
こうした態度はヒズビ・イスラミの最高権力者ヘクマティアルに対しても守られた。ヘクマティアルは何度もマスードを裏切り、殺害しようとしたし、アフガンの町や住民に向けて砲弾を撃ち込むような人物であり、マスードの兄を殺したとも言われている、彼はまさしく敵である。それでも、眼前を潰走するのを追撃せず、逃亡の間、家を提供して保護し、国外に逃れるためのヘリコプターまで手配してやった。
「過去を理由に彼に敵意を抱く必要があるか」

マスードがカブールを制圧していた時期、敵対者や共産党員などの囚人で、死刑になった者は一人もいない。こういう場合、粛清が行われるのが世の常だ。
共産主義だろうと何だろうと、主義を理由に人を殺すことには反対だ
報復はしない。
部族社会の伝統を持つアフガニスタンにおいて、報復は正統的に認められる行為だ。マスードの考えは極めて異例なのである。








6. 戦術と生活
先にも書いたが、カブールをタリバンに明け渡して北部に撤退するのを決めたのはマスードだ。攻防を続ければ、数百以上の死傷兵が出る。民間人の犠牲も出る。犠牲を多くしてまで戦うのはやめる。
かつてソ連との戦いで、ソ連軍と休戦したとき、アメリカは不満を抱き、支援の手を引いた。アメリカは死ぬまで戦うことをアフガン兵に望んでいたからだ。しかし、アメリカが去ってもマスードは気にとめない。支援をあてにして他国に指図されるより、停戦によって立て直しの時間をかせぐことが重要だったから。
玉砕とか、最後の血の一滴とか、勇ましく囃し立てる司令官ではない。ともすれば命をかけたがる前線の兵士の手を押さえる司令官だ。住民、兵の命を損なわないために、とことん考え抜くのが彼の在り方だ。戦果より、リスクを出さないことをめざす。
その考えは敵の人間にも向けられる。マスードの作戦は、敵の殲滅をめざすものではない。相手がソ連軍でもタリバンでも、戦意を失わせるための作戦を主体にする。
アフガニスタンを統一する。戦う力だけでは成し遂げられない。敵に立ち向かう力と、もう一つ必要なのは、敵を赦す力だとマスードは考えている。
私達は、許して忘れるべきだ。許すだけじゃなくて、忘れるべきだ




マスードの心中にあるのは神を愛する心である。
事が立ち行かなくなった時、彼は一人、考え続け、神に祈る。庭を歩き回ったり、黒板にいろいろ書き出して整理したり、夜道を散歩しながら考えたり祈ったり。神にすがるばかりではない。たくさんの情報を集め、哲学や詩の世界に生きる知恵を求めるため、深夜に読書をする。そのために、日々の睡眠時間は夜が明けてからの2時間程度。戦場へのマスードの荷物にはいつも6箱の本が連れ添った。
戦いの合間に休息の時間が持てるときは、近隣の子供達と遊んだり、川で泳いだり。モスクに入るときはそっと入り、後ろの方に静かに座る。外で祈りの時間になるときは、近くにいる誰とでも、通りがかりの子供や農夫とでも一緒に祈る。

ある時の寒い夜、タリバンが迫り、指揮官たちの会議は重い空気の中だった。煮詰まって気分が沈んでいく時、マスードがふと、しりとりをしようと言った。アフガンのしりとりは、古来からの詩を題材にする高尚なしりとりである。皆も従い、熱戦となり、寒い重苦しい夜を、しばし素敵な時間を過ごす事ができた。どんな窮地にあっても凹まないために、ユーモアを引き出す機転がある。
アフガニスタンの星降る夜空の下、争いをしばし忘れて詩に興じる戦士たち。人の営みのささやかさ。明ければ星が姿を隠すように、マスードの命もまもなく終わろうとしていた。






7. 世界への警告
マスードによる1998年の米国宛書簡においては、ソ連の侵攻とそれに対する国際組織や諸外国の駆け引き、その後国際社会に放置されたアフガニスタンの現状(パキスタンの介入とタリバンによる国内の荒廃)、国際社会と民主主義国への要望などが訴えられている。
「…国際社会と民主主義は、貴重な時間をむだにするのではなく、自由と平和と安定と幸福への障害と断固戦うアフガン人を何らかの方法で支援するという、重要な役割を果たすべきです」
テロリズムはアフガニスタン国内の問題ではなくなりつつあった。そのことを世界は気づかない。渦中のアフガニスタンで戦うマスードには、今ここでテロリズムを叩かなくては、世界にそれが拡大する恐れがあると痛感せられるのである。

なぜ米国はアフガニスタンを見捨てたのか、なぜヨーロッパ諸国はアフガニスタンを見捨てたのか、なぜ我々をライバル国の手に委ねたのか。戦争が本当に終わるまで我々側に付くべきだと、なぜ理解できないのか?

2001年、パリの欧州議会に出席したマスードはなおも訴え続けた。
どんな内戦だろうと起こした国は非難される。その非難にももちろんあうが、マスードは受け入れない。
「その通り、私は自国のために戦っています。けれどもこれは私だけの戦争ではないんです。これは世界の戦争です!注意してください。彼らは危ない人間の集まりです」

タリバンの脅威、それを支えつつ世界を巻き込もうとするアルカイダ、その危険な進行を放置し続ける国際社会の無能。

マスードは暗殺された。
二日後、世界は9.11の惨劇を見る。
この実害を経てようやく、世界は腰を上げ、たちまちアフガニスタンの内戦は区切りがついた。
タリバンはマスードがいなくなり、しめた、と思っただろう。けれども腹心のアルカイダのテロ凶行で機会は失われた。
今を生きる私達はこれをどう受けとめるべきだろう。

マスードに関わるこの事態をマイケル・バリー教授は、講演でこう述べている。

凄まじい暴力にまみれた20世紀は、全体主義による三大急襲、つまり人類による前例のない3つの腐敗とともに、ようやく終わりを告げた。ナチスは、右寄りの政治が腐敗した結果だった。レーニン主義あるいは旧ソ連は、左寄りの政治が腐敗した結果だった。タリバンとアルカイダは、宗教を持ち込んだ政治が腐敗した結果だった。
また、あらゆる記録を考察しても、これら3つの腐敗すべてが遺したものは、単に、大量殺人と人類の理性に泥を塗ったことだけである。マスードは、最初の腐敗がようやく地上から姿を消した直後に生まれ、残りの2つを相手に見事な戦いを繰り広げた。ソ連という2番目の腐敗には相当な打撃を与え、その崩壊に立ち会った。アルカイダという3番目の腐敗も相当打ちのめしたが、その崩壊を目にすることなくこの世を去った。しかしマスードの犠牲は、カブールでのアルカイダ敗北を早めた。そして、憎しみで成り立っている教義の対極であり、寛大な宗教と慈悲から成る深い信仰に基づくマスードのメッセージは、世界中がこの3番目の腐敗を監視するという現在の状況を産むのに一役買った。この2つの勝利を収めたことに対し、今も生きている我々は、マスードへの恩を一生忘れてはならない


その後、21世紀は何を描き始めたか?
ISは掃討されたが、別の問題もあとに残している。タリバンも存在している。世界に蔓延しつつある反グローバリズムや右傾化。我々はもう一度、前世紀のふりだしにもどるのか。
「赦して忘れる」ことのできない人々がやがて粛清を叫び、自らが粛清される。

この状況の唯中にあって、
マスードを覚えていたい。









少年が灯りを携えてくるのを見た
どこから持ってきたのかと尋ねると
彼は灯りを消して、こう言った
「どこへ行ったか、答えられます?」


ハスラン




あとがき
マスードとよく比較されるゲバラ。向かう先と時代は少し違いましたが、共通点もあります。チェス好き、読書好き、睡眠時間が少ない、など。
戦場に本箱を持ち込むという点では、ユリアヌスもそうでした。ユリアヌスも明け方に少し眠る程度でしたし。詩や哲学を愛したというのも共通しています。
「私は何者でもない」という発言には、ディキンソンの詩を思い出しました。
国土を破壊し尽くすよりは戦いを放棄するというのは、レオポルト3世と近いです。
ディキンソンを別として、皆、戦争に直面して生きた方達。彼らの苦しみをこそ、理解しないといけないのでしょう。
それでも、マスードとゲバラがチェス対戦、なんていうのがあったら面白いな、とも…


















エミリ・ディキンソン 家の中から見つめる世界

2018-10-07 08:27:17 | 人物

I'm Nobody. Who are you?
名もなき普遍人として死ぬ、
「そのとき」を模索して生きる喜びと美
アメリカの女性詩人エミリ・ディキンソン




Emily Dickinson
1830〜1986



わたしがもう生きていなかったら
駒鳥たちがやってきた時—
やってよね、赤いネクタイの子に、
形見のパン屑を。

深い眠りにおちいって、
わたしがありがとうをいえなくっても、
わかるわね、いおうとしているんだと
御影石の唇で!



岩波文庫 「対訳ディキンソン詩集」亀井俊介編より
以下、引用文は同書から







日常のなかで、ふと、なにかを覗き込んだ瞬間や、振り返った瞬間、あるいはふいに聴こえた音や、抜けていった空気に触れた一瞬に、死の気配に頰をなでられる感覚を得ることがある。「 人生の真っ只中にいても、死の手の中にいる」と、ラヴェル(前記事)は言ったが、まさにそれだ。

死を考えてみること。
哲学、宗教、他にも様々なアプローチはあると思うが、私の場合、いずれも焦点が合わなかった。ひとえに理解力とか性質とかの点で私の感覚には馴染まなかったのだろう。
他方、詩、音楽、美術を通すと掴めるものがある。詩には死の容を直接的につかまえようとするものがあり、絵画も画面の奥にそれを追うものあり、音楽にもその気配をイメージさせるものがある。

しかし、死の容をとらえようとする試行錯誤こそは、よりよく生きようとする方策にほかならない。死を探ることで、背面にはっきりと生を映すのである。
エミリ・ディキンソンの詩には、皮膚感覚の死の体験を、ユーモアに包んでシミュレーションしたものがいくつかある。悲壮感も大げさな耽美もない。自然の一場面、日常の延長上の一点だ。
死の輪郭を、生きた指がなぞって描く戯れの詩。


ディキンソンの手による押し花帳


アメリカの女流詩人エミリ・ディキンソンはマサチューセッツ州アマーストの上流家庭に生まれ育ち、五十数年の生涯の後半ほとんどを家から出ることなく過ごした。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、全く無名の人として人生を終えた。ところが死後に、クローゼットに眠る数千の詩作品が妹によって発見され、編集出版された。作品は忽ち広く読まれるようになった。


1830年生まれ、1886年没。アメリカの産業革命、南北戦争の時代に生きた。アメリカ社会の変革期にあたる。社会は純粋なピューリタニズムから物質主義へと次第に移行する。その流れに乗れなかったニューイングランドは文化的に後退した。
祖父はアマーストの名士であり、アマースト大学創立に関わった。父は弁護士、議員。2歳上の兄も弁護士。こうした家庭環境が幸いし、エミリは当時の女性としてはかなり高度な教育を受けていた。
天性の明るさと機知で、彼女は学校の人気者だった。しかし、あるきっかけからホームシックに陥る。17歳で寄宿制の女学校(現在のマウントホリョーク・アマースト大学)を退学し、帰宅後は家事手伝いとして、残りのすべての人生を過ごす。のちの作品にみる彼女の高い表現能力には、しっかりと培われた、こうした教育の土台があった。

聡明で快活なディキンソンが学校を中退せざるをえなかったのは、信仰告白ができなかったことに起因したと考えられている。アメリカの社会変化に対抗する反動的な流れ(信仰復興運動)として、今一度、信仰心を確かめる目的で、すべての人々に信仰告白が要求されていた。しかし、彼女は自分の心をまっすぐに見つめれば見つめるほど、表面的な信仰告白から遠のく。既存の共同社会を守る目的のために心を偽ることはできなかった。その頑なな姿勢が、周囲との壁となって、彼女を閉じこめた。彼女は自分から閉じこもることを選んだ。ただ、そうなっても家の箱の中での彼女は、本来の彼女のままだった。教会の集まりにはだんだん行かなくなったが、神を信仰しないわけではなかった。心の中の神を尊び信仰していたが、その信仰心は、神と自分の、一対一の結びつきに支えられているのが理想なのであって、周囲の社会で当たり前になっているような、教会や牧師を仲介した神との繋がりとか、信者間のコミュニティの連帯による安穏とかは無用だったのだろう。
疑問が起こる。ただひたすら家の中に暮らすだけで、詩人たる者の備えるべき高揚感は維持し得るものなのか、と。しかし、彼女の詩は、家の中だけの生活が詩人として決して退屈なものではないと明かしてくれる。

ディキンソンは生涯の中で一度ならず、淡い恋に目覚めることもあった。いずれも父や兄の客人だった。そしていずれも最初から叶わぬものだった。しかしその陶酔も、いずれ遠からずその迷いから冷めるのも、彼女は客観的に受けとめた上で、詩人の滋養にした。自分の中にしっかりとした柱を持っていて崩れない。マストを持つ舟のごとく、ときに帆を張り、波間に遊んで、ときに帆を下げ、じっと耳をすましている。踊らされずに踊る自在さ。家の中に在りながら、心と身体全体で受けとる身の回りの世界と、その陰に潜む死の世界を、恐れることなく、強靭な好奇心で描き取る。その気丈な感受性と、チラ見せしてくれるユーモアが、ディキンソンの魅力だ。
庭、室内、気配、草花、虫、光、風、箒、想念の中の海や草原。
そして、「——」。
ディキンソンは詩のなかで——(ダッシュ)を多用する。一息つく、余韻、残響を聴く、時の経過。呼吸、声、聴覚。

一例として、

Grand go the Years—— in the Crescent——
above them—— World scoop their Arcs——
And Firmaments—— row——
Diadems—— drop—— and Doges—— surrender——
Soundless as dots—— on a Disc of Snow——


その上を——歳月は大きく流れる——三日月を描いて——世界は旋回し弧をえぐる——
そして天空は——漕ぎ進む——
王冠は——落ち——総督たちは——屈服する——
しみのように音もなく——雪の地平に——

「雪花石膏の部屋で安らかに」’Safe in their Alabaster Chambers——'より一部


この例では極端に多く使われているが、タイトル(冒頭書き出し)からわかるように、墓の中の死者を描いたもので、長い長い年月のわずかな片鱗、実世界では重い出来事すら一片の薄い事象に削られて、全てがスローモーションで音を失い消えていく様子を、ダッシュが効果的に表現している。歳月を微分するかのように。



残されたたくさんの詩と手紙によって、ディキンソンの生涯がどのようであったかを探ることはできる。ほとんど外には出なかったため、近隣の人々でさえ、庭に立つ白いドレスの女性を見ることはごく稀にしかなかった。父の客人が家を訪れても、彼女は自分の部屋にこもって、顔を出さない。それでも現代のいわゆるひきこもりと違うのは、客人がいなければ家の中では自由に動き回り、溌剌と家事をこなした。父と、そして独身の妹も同居。近隣に兄が別所帯を持って住んでいた。アメリカ大陸の遠くでは南北戦争中で、新聞などを見れば不安も感じたが、なにしろ広い国の中の遠い話だった。
比較的良い時代に生き、家族に守られて、決して不幸ではなかったと思う。それゆえに、彼女の思うところの死は、生きることの延長上にごく自然に迎えるものだったのではないか。
風になびく草や、ロウソクの火などをながめては時折、死を思ってみる。ときにユーモラスに。

I'm nobody—私はだれでもない

名のもとに生きて、などというタイトルでこのブログを書いているが、名などは未練にすぎないとディキンソンに笑われそうだ。確かに、人は名もなく死に対面するだろう。死を感じる空気が頬をなでて吹きすぎる一瞬も、人は名を失っているのだろう。

わたしは誰でもない人! あなたは誰?


エミリ・ディキンソンではないかと言われている写真(左)


ディキンソンの作品を数点抜粋、以下。


「わたしは葬式を感じた、頭の中に」1861

わたしは葬式を感じた、頭の中に、
そして会葬者があちこちと
踏み歩き—踏み歩き——とうとう
感覚が破れていくように思えた——

そしてみんなが席につくと、
お祈りが、太鼓のように——
響き——響き続けて——とうとう
わたしの精神は麻痺していくような気がした——

それから彼らが棺を持ち上げ
またもや、あの「鉛の靴」をはいて
わたしの魂をきしみながら横切るのが聞こえた、
そして天空が——鳴りはじめた、

まるで空全体が一つの鐘になり、
この世の存在が、一つの耳になったかのように、
そしてわたしと、沈黙は、よそ者の種族となって
ここで、孤立して、打ちくだかれた——

それから理性の板が、割れてしまい、
わたしは落ちた、下へ、下へと——
そして落ちるごとに、別の世界にぶつかり、
そして——それから——知ることをやめた——




「わたしは「美」のために死んだ——」1862

わたしは「美」のために死んだ——が
墓に落ちつく間もなく
「真」のために死んだ人が、横たえられた
隣の部屋に——

彼はそっと疑問をもらした、「どうして失敗したんだろう?」
「「美」のためよ」とわたしが答えた——
「いや、ぼくは——「真」のため——けれどこの二つは一つ——
「兄弟だよ、ぼくたちは」と彼はいった——

それで、ある晩会った、親類として——
わたしたちは部屋ごしに話し合った——
やがて苔が唇にせまり——
おおいつくすまで——わたしたちの名を——





「わたしは「死」のためち止まれなかったので——」1863

わたしは死のために止まれなかったので——
「死」がやさしくわたしのために止まってくれた——
馬車に乗っているのはただわたしたち——
それと「不滅の生」だけだった。

わたしたちはゆっくり進んだ——彼は急ぐことを知らないし
わたしはもう放棄していた
この世の仕事も余暇もまた、
彼の親切にこたえるために——

わたしたちは学校を過ぎた、子供たちが
休み時間で遊んでいた——輪になって——
目を見張っている穀物の畠を過ぎた——
沈んでゆく太陽を過ぎた——

いやむしろ——太陽がわたしたちを過ぎた——

露が降りて震えと冷えを引き寄せた——
わたしのガウンは、くもの糸織り——
わたしのショールは——薄絹にすぎぬので——

わたしたちは止まった
地面が盛り上がったような家の前に——
屋根はほとんど見えない——
蛇腹は——土の中——

それから——何世紀もたつ——でもしかし
あの日よりも短く感じる
馬は「永遠」に向かっているのだと
最初にわたしが思ったあの一日よりも——






「草はなすべきことがあんまりない」1862

草はなすべきことがあんまりない——
単純な緑のひろがり——
ただ蝶の卵を孵し
蜜蜂をもてなすだけ——

そしてそよ風が運んでくる
美しい調べに一日じゅう揺れ——
日光をひざに抱きかかえ
みんなにお辞儀をし——

そして一晩じゅう、真珠のような、露に糸を通し——
美しく着飾るものだから
公爵夫人も平凡すぎる
その装いの前では——

そして死ぬ時も——神聖な
匂いにつつまれて去る——

眠りについた、野生の香料——
あるいは枯れていく、甘松のように——

それから、堂々たる納屋に住み——
毎日を夢のうちに過ごすだけ、
草はなすべきことがあんまりない
わたしは乾草になれたらいいのに——






Emily Dickinson Museum HP









ラヴェル 封じられた音楽を胸に

2018-05-21 11:02:41 | 人物

「僕の頭の中でこのオペラはもうできている、
だけどもう書くことができない。
僕は僕の音楽を書くことができないんだ!」



Maurice Ravel
1875〜1937

『ラヴェルー生涯と作品ー』
ロジャー・ニコルス著
『脳と音楽』
岩田誠著
『ラヴェル ピアノ作品全集』
三善晃監修・解説




1. 脳の病に蝕まれて

19世紀末から20世紀初頭のフランス音楽界。当時の腐敗したアカデミズムを破り、新時代を象った印象主義の代表的な作曲家といえば、ドビュッシーとラヴェルだろう。もっともドビュッシーは印象主義に担がれることを嫌ったが。
『ボレロ』『亡き王女のためのパヴァーヌ』などの作曲で知られる、時代の寵児ラヴェルは、進趣な作品を多々生む一方、インスピレーションは古典から同時代の流行から、広く自由な風に作曲。思想や象徴にこだわりなく、ひたすら技巧を追求し磨き上げでいくのが彼の音楽であり、時の印象主義そのものであった。もとよりラヴェルは〇〇主義であることにはこだわりは持たない。

しかし少しずつ不調があらわれる。原因は、頭に湧き出づる音楽を書きとめる書譜の能力が次第に損なわれていく、ウェルニケ失語症という病。
最初は不眠、疲労、健忘。次第に文字を書けなくなり、読めなくなり、ものの名前が出にくくなり、次いで失行症もあらわれるようになると、演奏も指揮もできなくなった。彼の内部ではいまだ生き生きと音楽がわき起こっているというのに。

「ヴァランティーヌ(友人)、僕はこの『ジャンヌ・ダルク』を書くことはできないだろう。僕の頭の中で、このオペラはもうできている。僕にはそれが聴こえている。だけどもう決して書くことができない。もうだめなんだ。僕は僕の音楽を書くことができないんだ」

新しいオペラの構想を友人に熱く語ったあと、ラヴェルはそう打ち明けた。

音楽家に強いられた、緩慢な死。能力の喪失を徐々に受け容れていくなかで、最後に残した曲は。
彼の内部の音楽が最終的に停止したのはどんな状態でだったのか。
最後の言葉は。

ラヴェルの人生、性格、音楽についてと、現代の大脳生理学が究明したラヴェルの病の病態を調べてみた。


自宅で 奥の壁の肖像はラヴェルの母



2. パリ国立高等音楽院とラヴェル事件

母はバスク人、父はスイス人。 30代半ばの母と40代半ばの父の間に生まれた長男。フランスのシブールで生まれ、まもなくパリへ。3歳下に弟エデュアール。
長じて弟は、エンジニアの父とともに事業に励む。病弱だったモーリスを、母は溺愛。素朴で愛情あふれる母と父に守られ、家族はパリで睦まじく暮らした。


家族写真


センスが良く、素人ながら卓抜なピアノの腕前を持つ父の影響により、モーリス・ラヴェルは7歳からピアノを習う。14歳でパリ国立高等音楽院に入学。リカルド・ヴィニェスと知り合い、生涯にわたる友人となる。のちにヴィニェスは初期のラヴェルのピアノ曲の初演を多くつとめることになる。またこの友人の影響によって、文学世界との接点を持つようになり、マラルメやボードレールの詩の歌曲や、ピアノ曲「夜のガスパール」(アロイジウス・ベルトランの同名の詩集から着想した)が作曲された。

20歳のとき、音学院の旧弊なアカデミズムに疑問を抱き、3年間学校を離れた。その間、ピアノ曲や歌曲をいくつか作曲した。復学後は、新しい教授ガブリエル・フォーレに作曲を学ぶ。「亡き王女のためのパヴァーヌ」の作曲はこの頃。


リカルド・ヴィニェス(左)とラヴェル
ヴィニェスはラヴェルやドビュッシーの初演を数多くつとめた優れたピアニストであり、文学にも造詣が深く、ラヴェルに影響を与えた




ガブリエル・フォーレ(1845〜1924)
ラヴェルが師事した作曲家。国立高等音楽院院長。ラヴェルらと独立音楽協会を設立
長い間、音の高低や音質を正しく聞き取れない聴覚障害を患いながらも作曲を続けた



ラヴェル 若い頃はまだ髭をたくわえていた

25歳、初めてローマ賞に挑戦。ローマ賞とは、30歳以下の芸術家対象のコンクールで、絵画、彫刻、建築、音楽の4部門。1等にはローマ研修の機会が与えられるもの。ラヴェルは当時、音楽界ではじわじわと実績を上げつつあったものの、このコンクールには毎年落選し続けた。最後の挑戦となる5回目には、あろうことか、審査委員会は、ラヴェルを「コンクールに応募するだけの熟練した技術を持たない」として、予備審査で除外した。すでにこの頃のラヴェルは、音楽界では十分有名であり、このコンクールにおいても入賞が各界から期待されていたにもかかわらず。その実力は、この2年前に発表した「弦楽四重奏曲」に対し、ドビュッシーが「音楽の神と私の名において、《四重奏》で弾いた音を一音たりとも変えてはならない」との賛を書いたほど、確たるものだった。有名なピアノ曲「水の戯れ」もすでに世に出ている。
この一件をうけて社会が騒いだ。ロマン・ロランが文化大臣に抗議するなどし、結果、審査委員長だったパリ高等音楽院院長が辞任させられ、フォーレが後任となった。これは、ラヴェル事件と呼ばれ、芸術界全体のスキャンダルになった。


クロード・ドビュッシー(1862〜1918)
ラヴェルとは互いに影響し合った印象主義音楽家で、ラヴェルの耳の鋭さに驚嘆した
精妙な美しい音楽とは裏腹に私生活は波瀾に満ちていた


ところが、当のラヴェルは失意にこそはあったが、抗議したのは当人ではなく、むしろこの一件とは距離を保っていた。ローマ賞を手にできなかったのは残念だったが、かえって音楽界での自分の位置が確固として認知されていたことをあらためて示された形になり、安堵もした。
そもそも彼はこの賞への挑戦で名誉を望んだというよりも、家族の中では父と弟の稼ぎで養ってもらっていたところを事業に失敗があって、自分もいよいよ家族のために何か(たとえば賞金、社会的地位、仕事など)をせねばならぬと思ったことと、親しい恩師フォーレの門下からの初めての唯一の挑戦者として、ぜひ入賞して報いたいという思いが先立っていたのだった。そうした外圧は自らが抱え込んだものであるのだが、プレッシャーに押しつぶされ、本来の才能をコンクールの場で打ち出せなかったのは残念なことだった。なお、コンクールは約一か月ほぼ缶詰状態で創作せねばならない、まるで科挙のような厳しい試験であり、費用もそれなりにかかるものである。ラヴェルには、体力的にも精神的にも負担が大きかっただろう。
この事件で審査委員長が槍玉にあげられたのは、入賞者が、(たとえお粗末な出来だったとしても)ラヴェルをさしおき、委員長の息がかかった学院生ばかりだったことに起因したのであった。



3. 30代〜多作の十年間

多くの友人に恵まれていたラヴェルは、事件のあった年の夏、慰みにと、ヨットのクルーズ旅行に誘われ、オランダやドイツを旅する。明るい風景に心惹かれ、さまざまな音に耳を傾け、ラヴェルは高揚した。友人への手紙にその感動がつづられている。

「…畑は水平線まで風車ばかりです。どっちを向いても回っている風車の翼しか見えません。このような機械だらけの風景を前にすると、自分も自動人形のような気がしてきます。…」

「…ぼくたちはヨットから降り、工場群を訪れてみました。ぼくたちを取り巻き、城のような形をして流れ出てくる鉄や火の大伽藍、そしてコンベアベルトや汽笛や凄まじいハンマーの音が作り出す交響楽についてどのように君に語ったらいいのでしょうか。…すべては何と音楽的なのでしょう。ぼくはこれをいつかきっと使うつもりです」



旅から戻り、いよいよ精力的に作曲に取りかかるラヴェル。30代の10年間で生涯の全作品の半分が生まれた。
自然、鳥などの動物を題材にした風景画のような美しい音楽。繊細なものから破格にダイナミックなものまで、ラヴェルは多彩な表現力を披歴した。博愛心から生まれる民族音楽への尊重が、作品に啓示を与えている。
また、友人たちを通じて、有名なバレエ・リュスの興行師セルゲイ・ジャーギレフと知り合い、バレエ音楽にも才覚を発揮した。舞台芸術を手がける中で、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーと意気通じ合い、共同作品にも取り組み、生涯にわたって切磋琢磨する友人になった。


若き日のラヴェル


セルゲイ・ジャーギレフ(1972〜1929)
ロシア出身の辣腕の興行師
バレエリュスを率い、斬新なプロデュースで人気を博す
後年、ラヴェルと仲違い。ジャーギレフは最晩年、ラヴェルとの仲を戻したかったがラヴェルは頑なに拒んだ



ヴァーツラフ・ニジンスキー 1890〜1950
舞踊家、振付師
バレエリュスを代表的する天才的ダンサーだったが、数奇な生涯を送った。ラヴェル作曲の舞踊交響曲「ダフニスとクロエ」で主演をつとめる。ドビュッシーのバレエ「牧神の午後への前奏曲」での官能的な振付で話題騒然となる



ニジンスキー とジャーギレフ
ニジンスキー の不謹慎な生活態度が決裂の原因となり、やがて転落の人生を送ることになる



ニジンスキーとラヴェル
ラヴェルの自宅で




ストラヴィンスキーとドビュッシー(左)
ラヴェルは次第にストラヴィンスキーの影響を強く受けるようになる
ストラヴィンスキーはラヴェルの9歳下
ドビュッシーの書斎にて




4. ラヴェル、人間の肖像

ラヴェルは、周囲の誰もが知っていたとおり、成人後も母と密着していた。友人宅の訪問に母を伴ったり、二人で旅行に出かけることもあった。弟にはそういう傾向はなく、むしろ父とともに事業に取り組んでいた。ただ、成人後も二人の息子は親と同居し続けている。両親の死後も、兄弟はつねに親しく連絡を取り合っている。

青年のころの様子はどうだったのか。少年の時からラヴェルと親しかったリカルド・ヴィニェスが、ラヴェルの死後に回想している。

「生来複雑で感受性が鋭い彼は、14才から20才の間、その持ち前の性格のままであったが、青年期を過ぎるあたりから、付き合いをよくし、気取らず率直であるように心掛け、ユーモアあふれる外見の下に彼の複雑な気持ちを隠そうとした」

しかしその外皮のユーモアでは感情が抑えられないこともあった。弟エデュアールが述べる。

「モーリスは自分の思い通りにしなければ気がすまなかったが、彼にとってそうすることが一番いいことだと他人にも思われる必要があったのです。さもないと彼の気持ちは台なしになってしまうのでした」

思い通りに、といっても、人前で声を大にして持論をまくし立てるような人ではない。その逆で、サロンでは気品ある居ずまいで、静かにとりすましていたふうだった。「はにかみ屋」の衣で。


ヴィニェスの言葉通り、ラヴェルは暗い面と明るい面を持ち合わせており、音楽もはっきりとその類別ができる。
性格上の明るい面といえば、ユーモアたっぷりなところや子供好きなところ。フランス人だからエスプリと言った方がよいか。皮肉っぽい言い方はするものの、それほど毒はない返しをする。
「博物誌」という歌曲集がある。鳥や昆虫の滑稽な物語になっている。イソップ童話のような、あるいは狂言のようなテイストがあり、その風味はやや辛口。この曲の解釈はなかなか一筋縄ではいかないようであるが、友人達にはある意味ウケた。曲の中に彼の話し方の癖が写し出されているという。

「彼は全く独特な考えを披瀝する時、特徴のある身ぶり ー右の手の甲を背中にすばやく回し、つま先でくるりと回り、瞼を下げて意地悪そうな目の光を隠して、下降する四度か五度音程で話を突然終える」

というものだそうだ。
あるいは、会話で自分の考えを述べたあと、こっそり小さな声で意外なオチを耳打ちすることも。小柄でツンとした雰囲気の彼がそんな仕草をするのは愛嬌がある。


もう一つは、子供好きな面。
「マ・メール・ロワ」〈眠れる森の美女〉という作品は、よく訪問する親友ゴデフスキー家の娘と息子に贈ったものだ。
ラヴェルは結婚しなかったので、自分の子供はいない。けれども子供の世界を愛するラヴェルは、つねに子供達のよき遊び相手だった。ゴデフスキー家の大人達がバカンスに出かける間、子供達を預かって世話をしたこともある。いつも子供にねだられるままに、膝に乗せて沢山の物語を聞かせた。そのゴデフスキー家の娘ミミの回想。

「ラヴェルは私のために小ネズミの冒険談をよくしてくれた。その話にいつも大笑いしたけど、すぐに申し訳ない気持ちになった。本当はとても悲しい話だったから。でもラヴェルは毎年クリスマスになると山のようなプレゼントを持ってきてくれた」


暗い面は明るい面と並行存在する。
「マ・メール・ロワ」を作曲したこの年、もう一つの大作「夜のガスパール」も生まれた。おとぎ話の世界の背面にあるもう一つの世界は、ラヴェルの暗い面が編み出した、夜の、重く沈鬱な気配。子供たちには近づけない景色だ。「死刑台」はもちろん、「オンディーヌ」も、溢れんばかりの美しさの裏に潜む恐ろしい狂気や毒、その迫力に背筋が冷たくなる。一方「スカルボ」は男性的だ。寝室の闇を飛び回る羽虫に煩わされるうちに膨大な闇の空間の存在が迫り来る怖さだ。
ラヴェルの二面性をはっきり表出する2作品がほぼ同時に発せられたことは興味深い。1908年、33才の作である。
ロジャー・ニコルス著『ラヴェルー生涯と作品ー』のなかで、著者はこうまとめている。

「おとぎ話、視覚的なイメージ、ひどい憂鬱、冷笑的なユーモア、エキゾチックな幻想、身なりをきちんとすること、俗っぽい傾向、「はにかみ屋」の壁を決して取り除けないこと、邪悪な力を次第に意識したこと、「人生の真っ只中にいても死の手の中にいる」という認識、こうしたことを彼は持ち続けていたのだ」


ラヴェルの外見はどうだったか。
ラヴェルは大変おしゃれだ。そして自分のルックスに満足している。
アルマ・マーラー(作曲家グスタフ・マーラー元夫人)の邸宅に滞在したときの様子を、夫人が語っている。ラヴェル45才のころの話だ。

「彼はナルシストであった。朝食に、頬紅をつけ香水をくゆらせ、お気に入りの色鮮やかな繻子のローブを着て現れた。…上品でしなやかな身のこなしはとても美しかった」

ラヴェルの自邸の化粧台には、爪切りや爪やすり、歯磨き道具、香水瓶などが整然と乱れなく並べられているようすが生前のときのままで公開されている。
自邸の室内の装飾も、やや懐古的な雰囲気で細やかに装飾された。機械仕掛けの小鳥の籠や、帆船のミニチュアが入った瓶など、愛着を持って飾られている。庭にももちろんこだわりを出す。



ベルヴェデーレ(自邸)の化粧台 道具がきれいに並んでいるのは生前のまま


自邸 見晴台という意味のベルヴェデーレと名付ける
細長い建物でわくわくする創りになっている







ラヴェルには男女の別なく実に多くの友人がいて、生活において頼りない彼を見守り、支えていた。とりわけ女友達はついつい世話をしてしまうようだ。

舞踊家イダ・ルビンシュテインは、ラヴェルに対してはつねに姉のように世話を焼き、晩年の彼を励ますために、期限のない作曲を依頼し、そのイメージ作りのためにとスペイン・北アフリカの旅行をプレゼントしている。彫刻家レーリッツが同行した。その旅行中、ラヴェルは奇跡的に調子が良く、弟に手紙を書くこともできたし、音楽のイメージをふくらませることもできた。生き返る時間という最良のプレゼントとなった。


イダ・ルビンシュテイン
ロシア出身でバレエ・リュスから独立後も存在感ある舞踊家であり、芸術のパトロンでもあった
「ボレロ」を初演


ラヴェルのおしゃれへのこだわりのエピソード。アメリカ演奏旅行に同行した企画者の夫人によると、その旅行に彼は20組のパジャマ、57本もの夜会用ネクタイを持ってきていたそうだ。ネクタイは長すぎたので、彼女が半インチずつ切ってあげたのだという。切るだけとはいえ、57本…。
母の生前には全て母にやってもらっていたことなのだろうが、母亡き後も、たくさんの女性たちが母となり姉となって世話を焼いてくれているのは、彼の人徳もしくは究極の弟キャラによるのだろう。

それ以前でも、旅行となるとこの調子のため、毎回荷造りで疲れ切ってしまい、誰かが彼を誘導してあげないと、列車に乗り遅れることもしばしば。ちなみに、時間に関しては、よく遅刻する方で、一時期、音楽教師をしていたときにはあまりに遅刻が多く、生徒にクレームをつけられ、そのクレームをつけたことに対してラヴェルも抗議して、トラブルになっている。

まだある。先程の化粧台のあるラヴェル自邸(ベルヴェデーレと呼んでいた)はパリから離れたイル・ド・フランスのモンフォールにあるのだが、週末にはそこにパリから友人たちがやってくる。友人たちをラヴェルは、「非常に個性的なカクテル」を作ってもてなしたそうだ。彼の音楽を思うと、その個性的カクテルなるもの、いかなるものか非常に興味あるが詳細はわからず。残念だ。


晩年もよく散歩に出かけたモンフォールの森

ラヴェルは周囲の世話になってばかりかというとそうでもない。例えば、ドビュッシーがダブル不倫どうしで再婚、自殺未遂した前妻は困窮していたが、いきさつを知るラヴェルは前妻の正当性に同情して、少額ながら収入の援助をしていた。

ほかに、晩年暮らした住まいの教区の祭事には、ラヴェル自身は無宗教のため教会には通わないものの、匿名で、まとまった額の寄付を毎回していた。教会では、「最良の教区民」と讃えられていたそうだ。

ちなみに、ラヴェルが女性と交際したという話はないようで、同性愛者だったのではないかともささやかれている。あり得ないことではないらしいが、真偽は定かでない。ビニュスも生涯独身だったので「もしや」と言われることはあるらしいが、邪推だろう。この点、女性関係がややこしかったドビュッシーやフォーレとは大いに異なる。

ここからは音楽家ラヴェルの逸話を。
音楽家としての彼は一転、かなりシビアで妥協がない。作曲者と演奏者の関係を、明確に主従に分ける。演奏者を「動物の役」とも。
旧友ヴィニェスが、長く初演をつとめてきたが、「夜のガスパール」に彼の演奏はそぐわない、として、この時から他のピアニストに依頼するようになった。ヴィニェスはラヴェルの指示通りに弾くことに難を示したからだ。また、ヴィニェスは巧みな奏者であり、どんな曲も華やかに弾き上げる。そういうイメージも、この曲には合わなかったと思える。互いに、演奏のイメージを曲げることはできなかったため、そうせざるを得なかったまでだ。

ラヴェル晩年の作品「左手のためのピアノ協奏曲」は、第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインの依頼で作曲され、初演はもちろんヴィトゲンシュタインの予定なのだが、ピアニストは一部の改善を作曲者に求めた。ラヴェルが不服を示す。ヴィトゲンシュタインは、「演奏家は奴隷であってはならない」と返した。ラヴェルは、「演奏家は奴隷である」と返す。このやりとりは、いまどきならば確実に炎上しよう。しかしその後、この二人で指揮、演奏で初演されているので、どこかで和解したものと思われる。ただ、のちにラヴェルはこの曲の、作曲者指名の正式演奏者を別のピアニストに変えた。ヴィトゲンシュタインも、ラヴェルの死後にこの曲に手を加えている。




パリのカフェにて

縛られるのが嫌いなラヴェルは、弟子は迎えなかった。友人に限り、指導することがある。親しい友人ロラン=マニュエルの回想によると、

「ラヴェルは友情というものを、尊敬を分かち合う契約とは考えていなかった。私たちがすぐに結んだ師弟関係では、時として彼の率直さは辛辣な調子を帯びることがあった。今日ではこうした厳格さに感謝することができるが、一度ならずひどく悲しい思いをした」

ラヴェルから『高雅で感傷的なワルツ』の指導を受けたペルルミュテールは、

「ピアノのかたわらにある机に腰をかけ、楽譜を手に持ち、私に『ワルツ』全曲を教えてくれた時のラヴェルの姿を思い起こすと、ある種の感動を覚えずにはいられません。私はあれほど鋭い目をついぞみたことはありませんでした。彼は楽譜ばかりでなく、演奏の解釈においても一音たりとも洩らさず理解させようとしていたのでした。文字通り、楽譜を完璧にこなそうという熱意があれば、その精髄に迫ることができるのです」

インスピレーションを頼らず、正当性のある技術を用いる。「インスピレーションは、規則正しい何時間もの仕事から来る」というボードレールの言葉を好んだそうだ。厳しい姿勢は当然自身にも向けられる。屑かごは反古にした楽譜でいっぱい。

しかしラヴェルが音楽に関して常に全てに真剣に取り組んだかというと、そうではない。自分の好みでないことには、たとえ、「ふり」だけでも真剣に、ということすらできない性分だった。若い頃のことだが、あるアマチュア合唱団の指揮をドビュッシーから引き継いだときの話。この仕事が意にそわないラヴェルは、「ぞんざいな態度で拍子を取り、早く終えたがっていた」という。ドビュッシーは几帳面で良心的であったらしい。

そんなラヴェルが、意外にも真剣になったのは戦争である。とは言っても、戦争の経緯や動向に敏感だったわけでなく、とにかくただ兵員として参加しようと奔走した。39才、161(165?)センチ、45キロ。過去の兵役でも免除されたくらいだから、今回も軍当局は入隊を受け付けなかった。もちろん、体格だけの話ではなく、国家の貴重な芸術家を失わせることはないという判断もあった。ラヴェル本人は、軽量、小柄な体型ゆえに、空軍のパイロットになることを期待したが叶えられず、熱烈な働きかけの末、一年半後ようやく、トラック運転手としてヴェルダンの補給隊に入った。パイロットにはなれなかったが、森で遭難して『星の王子さま』さながらの経験もした。兵舎での退屈で膨大な時間には、音楽を構想したり、沢山の手紙を書いた。

「確かに私はブルュの森で鳥の歌を書き留めて楽しく過ごしました。でも私が何をしたとしても、決してナポレオンにはなれないのです」

考えれば当たり前のことに違いないが、従軍する者の大多数に意外と見過ごされている視点だといえる。ラヴェルが言うとユーモアに聞こえる。


従軍してトラック運転手をしていたラヴェル



輸送員としてではあったが、兵卒としてドイツやオーストリア兵と敵対しても、音楽家としてのラヴェルは、敵味方を分けることをしない。
当時のフランス音楽界の重鎮サン・サーンスらが結成したフランス音楽擁護連盟は、戦争を受けて、フランス国内での、ドイツ、オーストリア人作曲家の作品上演の禁止に動き、ラヴェルに署名を求めたが、ラヴェルは手紙で拒否を伝える。

「私は〈我が国の芸術遺産の保護〉のために〈現代のドイツ、オーストリアの作品の上演を禁ずる〉必要があるとは思いません。それどころか、外国の同僚作曲家の創作を計画的に無視し、一種の国民的な同族主義をつくりあげるのは、フランスの作曲家にとっては危険なことです。そうすればすぐに、今はとても豊かなわれわれの音楽芸術も、型にはまった閉鎖的なつまらないものになってしまうでしょう。私にとっては、例えばシェーンベルク氏がオーストリア国籍であることは余り重要ではありません。また、そのことによって氏が価値の低い音楽家だということもないのです。氏の非常に興味ある探求は、連合国およひフランスの音楽家に良い影響を与えるでしょう。それだけではありません。バルトーク氏やコダーイ氏、そして彼らの弟子たちはハンガリー人ですが、私は彼らがそのことを音楽のなかに非常に上手く活かしていることにとても魅せられているのです。私はフランス音楽にどんな価値があろうともフランスでそれに特権を与えようとしたり、外国に宣伝したりする必要はないと思っています」

率直で毅然とした、しかし穏やかな筆致によって表明されたラヴェルの意思。社会に流されない、芸術家の絶対的な価値を、ここに見ることができる。
このことがあったからといって、ラヴェルがこののちサン・サーンスらを非難したこともなかった。


5. 母との別れ、復活

従軍中、赤痢にかかったラヴェルは軽快後、自宅療養で母を訪ねたが、母の容態が想定外に悪く、ショックを受けた。ほどなくして母が亡くなり、戦争も終わったが、母の死を受け止められない悲しみで、魂が抜けたようになっているラヴェルを、友人たちはどうにかして慰めようとした。ラヴェルにとっての苦しみは、母の死は予想されたことだったのに、母を残して戦場に向かったこと、それ以前に、作曲に集中するために一時期あえて別居していたことが、後悔となって押し寄せたことだ。
「精神的な支えとなる信仰や主義を持っていない哀れな老人」の母。
「夫や子供たちへの愛情が生活の中心」。

「実際、一種の片輪なのです。しかしこういった片輪は大勢います。この片輪について、私がどれほど愛しているかご存知でしょう」(友人への手紙より)


ドビュッシーも亡くなり、ラヴェルはフランス音楽界の権威となる一方、新興の作曲家からは中傷される側になった。しかしラヴェルはそれまでと変わることなし。自分の尊厳を保って動じず、それが反感を買うことになっても知らん顔だった。


愛煙家 カポラル煙草が手離せない



一方、母の死後、かねてから悩まされていた不眠症が悪化して転地療養する。
ジャーギレフがやってきて新作を依頼。ラヴェルが戦前から温めていた『ウィーン』の作曲を1ヶ月で完成させ、パリに出向き、ピアノ二台の演奏でジャーギレフに披露した。しかし、聴き終えたジャーギレフは芳しい返事をせず、ラヴェルは静かに去る。友情は冷め、以後、回復することはなかった。この曲は8年後、『ラ・ヴァルス』という名で、ジャーギレフの元から独立して新しい舞踊団を築いたイダ・ルビンシュテインによって演じられた。ジャーギレフの存命中に発表しえたことにラヴェルは満足した。

40代のラヴェルは、新しい時代の潮流「6人組」ら「反ラヴェル派」の存在に萎縮することなく、何ら新しい曲風を生み出すことにもこだわらず、ときに古典にも遡り、自由な作風を展開する。インスピレーションよりも技巧を求め、破壊的な音響を生み出し、ラヴェルのその方向性に沿えない聴衆も増えた。30代の頃に比べれば、作曲に時間がかかるようになり、発表数も減る。ただ、完成した作品はどれも優れており、自信もあった。
彼の音楽、その方向に乱れはなかった。しかし、顕著な乱れが、その書譜に表れ出した。50代初め、ラヴェルの不幸な病が彼を蝕み始めた。


6. 音楽を閉じ込める壁

「脳貧血だか、耄碌だかにやられています」
友人への手紙にそう書いたのは、病の兆候を本人が自覚し始めた最初だった。もともと40代にさしかかるずっと前から不眠に悩まされていたが、改善せぬまま、神経性の不調を感じ始めた。友人もラヴェルの様子が少々違うことに気づき、医師の元へ連れて行った。医師はこの病を察知し、ただちに静養をすすめた。
しかしラヴェルは作曲を続ける。それは全く変わらず彼からわき起こるものである。ただ、これまでとはわずかにそれは困難になっていた。そのせいか、この頃は作曲よりも、自作自演のピアニストあるいは指揮者として演奏旅行に積極的だった。
約5ヶ月間の北米への演奏旅行は53才のとき。大陸を横断する過密スケジュールの合間、不眠からしばしば解放され、大変充実したツアーになった。当時、アメリカで活躍していた若き作曲家ジョージ・ガーシュインとも会い、率直に彼の音楽を讃え、その後の作品にはガーシュインの影響が表れている。ジャズにも惹きつけられて帰国した。5ヶ月もアメリカに滞在して、覚えた英語は『ワン、ツー、ペンシル』のみ、というのでまた周囲を沸かせる。


演奏旅行に向かう船中 同行したピアニスト マルグリット・ロンとラヴェル

ところがこのツアー中、弟にしたためた手紙の文字は、明らかに乱れ、彼のものとは思えないたどたどしさを呈していた。病ははっきりと表れ始めたのである。

書字能力は徐々に失われて、文字は汚いだけでなく、スペルミスが多くなり、そのうち文字そのものも辞書を使ってひとつひとつ書き出さねばならなくなった。短文の葉書一枚書くのに、辞書と首っ引きで一週間かかった。自分の署名もできなくなった。次第に、読むことも不可能になっていった。楽譜に関しても同じだった。書くことも読むこともできない。オーケストレーションの作業は口述で行なった。
文字に関する能力がこれほど失われても、まだ会話はほとんど支障なく、認知力も生活行為も保たれていた。しかし遅れてこれらの能力も低下していき、ピアノを弾くことも、次いで指揮棒を振ることも叶わなくなった。
こうして音楽を表現する術を全て奪われても、彼の内部では音楽が生まれていて、あふれんばかりになっている。
58才のとき、友人に、構想中のオペラ「ジャンヌ・ダルク」の詳細を語った後、

「僕はこの「ジャンヌ・ダルク」を書くことはできないだろう。僕の頭の中でこのオペラはもうできている。僕にはそれが聴こえている。だけどもう決して書くことはできない。もうだめなんだ。僕は僕の音楽を書くことができないんだ

次第に、「心の中は音楽であふれているのに、書こうとすると音は消えてしまう」ことに。

この少し前に苦労してようやく完成させた、3曲の歌曲「ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ」、最後の作品である。
4年後、話すことにも困難が伴ったラヴェルだが、この初演のリハーサルで歌手が間違えた音を、「この音!」とピアノで示した。また、息継ぎについてのアドバイスもした。音楽は彼の中で生きていたし、いまだ正確で高いクオリティが維持されていたことを知らしめた。

60才を過ぎてからは、病気はさまざまな能力を奪っていき、もはや楽しみはランブイエの森の散歩だけだった。友人たちは彼をなんとか励まそうと、たびたびヴェルヴェデーレを訪れた。
あるとき、家に一人佇むラヴェルに、友人が尋ねる。
「ラヴェルさん、何をしているの?」
ラヴェルは、
「待っているんですよ」とだけ答えた。






なにかが来るのを待っていたのか、なにかが通り過ぎるのを待っていたのか、彼の中の音楽の終止を待っていたのか。誰にも憶測しかできない。
ただ、立ち止まる、ことしかできない時だったのだろう。

「やあ、コレット!」
親交のあったコレットが、最晩年のラヴェルに最後に会った時、ラヴェルはごく自然な感じで呼びかけてきた。けれども、すでに生き生きとしたかつての風情はなく、「まるで灰色の霧のよう」に存在していたという。

やがて、症状に激しい頭痛が加わるようになった。医師は、脳腫瘍を疑って手術をすすめる。痛みをどうにかしたい、少しでも機能が戻ることに期待したい一心で、当時の医学で精一杯の手術を受けさせることを、弟が考え、ラヴェルも受け入れた。
1937年12月、手術は金曜日に予定されていたが、医師に緊急手術の予定が入り、週末をはさんで月曜日に変更になった。そこで、友人かつ弟子の二人とともに、日曜日にささやかな晩餐会をした。ちょうどその日、パリではラヴェル・フェスティバルが行われていて、ラジオで放送されていた。プログラム最後の曲「ボレロ」を聴きながら、ラヴェルは膝を叩いて、

「ああ、僕が作曲をしていたなんて、うそみたいだよ」

と大きな笑い声を上げたという。





7. 手術後、死後

開頭手術では、大脳皮質の萎縮以外の異変は特に見つからず、血腫や水頭腫を疑っていた執刀医は焦った。手術後、ラヴェルは一時的に意識を回復し、弟に会いたいと言った。しかしその後、昏睡状態のまま、9日後、12月28日未明に亡くなった。看取ったのは、手術前から思って付き添っていた友人かつ弟子のドラージュひとり。

後年、プロコフィエフはこう語った。

「彼の晩年は悲惨だった。というのも彼はだんだんと記憶や諸統一機能を失っていき、当然のことながら、自分でもそれをはっきりと意識していたのだから。ゴーゴリは叫び声をあげながら死んだ。ジャーギレフは笑いながら死んだ。だがラヴェルはゆっくりと死んでいった。これは最悪の死に方だ」


手術入院する前、ラヴェルは友人ストラヴィンスキーに
「あいつらはエーテルが効いている限り、僕の頭を好きなように料理できるのさ」
と言っていた。


ラヴェルの音楽は、いつ止まったのだろうか。
エーテルが入ったとき、
昏睡に入ったとき、
心臓が止まったとき…

ラヴェルの未出の音楽に、我々が出会うことはない。残念だが、彼の手はそれを写す技を封印され、世に置いていくことはできなくされたから。
『ラヴェル 生涯と作品』の最後の段によれば、

「ラヴェルは、「頭の中は音楽でいっぱいなのに」と繰り返し続け、『ダフニスとクローエ』の演奏会の後に、「やはり、このラヴェルには才能があったのだな」と言った。」

悲壮感は感じられない。決して自己陶酔ではなく、客観的に、率直に、不満と満足のバランスをとる。人々が言うように、緩慢な最も残酷な死、かもしれないが、はにかみ屋ラヴェルの音楽と人生への自負は、ユーモアに守られ、最後まで生き生きと、確かに生きたと感じる。




8. その病名は

ラヴェルの病の観察をしていた主治医テオフィル・アラジュアニヌの論文『芸術的能力と失語症』に、ラヴェルの症状が記録されている。
それによれば、

・中等度のウェルニケ失語症
・手足の麻痺や半盲なし
・観念運動失行あり
・話し言葉も読み書きも障害されているが、それほど高度のものではない
・知能(記憶力、判断力、情動、倫理感)はよく保たれている
・音楽能力も高度に障害されているが、楽譜を書いたり、演奏したりという表出部の障害が強いわりに、内面的な音楽は比較的よく保たれている

・旋律を聴いて曲名をあてることは問題なくできる
・自分が作曲した曲を弾いて聴かせると、旋律やリズム、速度の違いなどを実に正確に指摘し、また演奏スタイルの細かな部分まで正確に把握していることがわかった
・ピアノの調律が狂っているのをただちに指摘した
・聴音が非常に悪い(失語症のために音名を伝えにくいためか)
・旋律を弾いて歌わせると、音名を言うより成績が良い
・読譜はかなり困難
・ソルフェージュは全くできない
・楽譜全体を見せれば何の曲か正確にわかる
・ピアノ演奏は困難(楽譜が読めないため、またキーの位置がよくわからない)
・ハ長調のスケールを弾こうとしてホ長調を弾いてしまったりするが、長調・短調のスケールは区別でき、臨時記号も間違えない
・自分の作曲した曲を、楽譜を見ながら右手だけで弾けるが、一週間練習しても両手で弾けない
・自分の曲で暗譜しているものは鮮やかに弾ける
・初見弾きは全くできない

・楽譜を書くのは困難だが、文字よりは書ける
・聴いた旋律を楽譜に書くときには、誤りは多くても多少できるのに対し、写譜は全くできない
・暗譜での歌唱は、音程を与えさえすれば正しくでき、自分でも頭の中に旋律が浮かんでくると述べた

楽譜を、音符という単体記号の集合として解読する(例えば初見や写譜)能力は、失語症に至れば、言語的な一対一対応の"音符"は読めなくなるが、それが連なりを持ったフレーズとして一度記憶されていたものは、スケールでも曲でも、認識を障害されていない。ひとたび音楽として記憶されたものに限る。
これは、ラヴェルだけの症状ではなく、『脳と音楽』の著者岩田誠氏やほかの医師達による、同様の患者達(音楽経験者とそれ以外を比較)への調査・分析からも似た傾向が観察されている。
音楽を司る脳のエリアとして、主に、まず楽譜を読むための能力として言語能力を担う左脳の一部、左右聴覚連合野、情感を刺激する音楽鑑賞能力に呼応する右脳の一部があり、これらは連関している。

ラヴェルは、このうちの言語能力に関わる左側頭部ウェルニケ野が、何らかの原因で障害されたと推測される。著者は、さまざまな検証から、ラヴェルの診断名を、"全般性痴呆を伴わない緩徐進行性失語症" と結論した。
50才のときに、パリでタクシー事故に遭い、歯や肋骨を折るケガをしており、その時から急激に悪化したとも言われているが、ラヴェルの一連の症状は事故以前から発していたし、ラヴェルの父親もおそらく同じ病気を患って亡くなった可能性が高いことから、事故が直接の原因とは考えられないとのことだ。



9. 音楽家と脳の病

聴覚を障害された作曲家として有名なのはベートーベンだが、他にもフォーレやスメタナも聴覚障害に苦しんでいた。シューマンは幻聴に苦しみ、精神病院で亡くなった。
かつてアメリカ演奏旅行で、ラヴェルの希望によって対面の機会を得たジョージ・ガーシュインは、脳腫瘍によって、ラヴェルと同じ年の7月11日に亡くなった。


アメリカ演奏旅行中のラヴェル
後方右端に控え目に立っているのがガーシュイン



アメリカの気鋭の作曲家ジョージ・ガーシュイン 1898〜1937

スポーツマンで健康そのもの、作曲家として成功して破竹の勢いある頃のこと。2月11日のコンサート中、10秒程の意識喪失(ゴムの焼けるような匂いのあとに続く)がありながら、観客には気付かれずに、無事終了。しかし、本来ならば絶対にミスしないようなところをいくつかミスしていたことを親友のピアニストは訝しく思っていたらしい。
その後、この発作が頻繁に起こるようになり、病院で検査を受けたが、ほぼ全てに異常なし。診断は、"おそらくヒステリー"だと。それが6月下旬。
その後、ひどい頭痛、異常行動、運動障害、やがてピアノ演奏も困難に。
7月9日、兄の目の前で意識を失い、救急搬送。緊急の開頭手術を受ける必要があった。このあと、兄はアメリカで一番腕のいい脳外科医に手術をしてもらいたいと、あちこちに手を尽くして、ヨットで休暇中の外科医を駆逐艦で捜索させ、待機していたオートバイ、チャーター機から飛行機に乗り継がせた。しかしもう一刻の猶予もなく、もう一人、休暇から呼び出された別の外科医が先に到着、手術室に入る。空港まで来ていた先の外科医と連絡をとり、指示をうけながら開頭手術を行い、腫瘍を摘出したが、とうとう意識は戻ることなく、ガーシュインは亡くなった。摘出された腫瘍は最も悪性度の高いものだった。
脳の病でゆっくりと死んでいったラヴェルと、急激に死んだガーシュイン。ニューヨークでの二人の出会いから9年。その時、ガーシュインはラヴェルに、弟子にしてほしいと懇願した。しかしラヴェルは、

「一流のガーシュインが、二流のラヴェルになることはないでしょう」

と断る。卑下でも嫌味でもない。この、両者どちらも下げることのない機転のきいた返答は、さすがラヴェル。ここは、ユーモアというより、ウィットがきいている。
帰国後は、アメリカで聴いたジャズの影響や、ガーシュインの曲風の影響が、作曲にありありとうかがえる。23も歳が離れているけれど、音楽家として互いに共鳴しあった二人の、運命の先は奇しくも似たものだった。


10. 雑談・音楽鑑賞

ラヴェルは新しさにこだわることなく、ときに古典的な手法を使うこともはばからない。
聴いている人が退屈しないことが大切であって、形式の新旧ではないと主張している。
モーツァルトが好きだし(むしろロマン主義は理解しない)、18世紀の音楽や文化への懐古的な情景もある。自由で横断的なメロディーがどんどん展開し、解決しそうなところで解決しないですぐ次が始まっているような、予定調和を軽妙にはずしてくるようなワクワク感がある。情緒的であることより技巧的であろうとする。それは、職人的技術を基盤に精神の自由を獲得しようとするものである。
止まらない感じ、のぞきこませるような音楽、そこがラヴェルの魅力と思う。
ラヴェルの作品の中で、個人的に好きな(あまり有名でない)曲をピックアップしました。


歌曲
「紡ぎ車の歌」1897

「草の上」1907

「3つの歌」『楽園の3羽の美しい鳥』1915
ラヴェルはよく鳥を題材にする。この曲は、出征したいのに認めてもらえず、取り残されて寂しい自分の気持ちを代弁しており、知遇の大臣に献げて、空軍入隊に漕ぎつけようとしたが、曲が美しすぎて逆効果。

「ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ」1933
ラヴェルの最後の作曲。書譜が相当困難になっていた時期、絞り出すように生み出された曲だろう。この曲の完成度の高さを知れば、最晩年にも音楽はますます彼の内部で生きていたと、はっきりわかる。それゆえに、より一層悲しく響く。第1曲は私の最も愛する曲。



バレエ音楽
「マ・メール・ロワ」『妖精の園』他 1912
元は可愛がっていた友人の子に贈られたピアノ連弾曲を、オーケストラ版にアレンジ、その後、間奏曲を追加してバレエに仕立てた。『妖精の園』はフィナーレだが、他の曲も物語の情景が浮かぶ綺麗で心地よい作品。心の中で、美しい絵本が開く。

「ラ・ヴァルス」1919
初めてのウィンナワルツにして過激で挑戦的な曲。最初は美しく始まったワルツが、最後はドタバタ劇のようになってしまうが、そこがなかなか痛快で、エネルギーが湧いてくる。後年の作「ボレロ」は究極の単調さでダイナミックだが、こちらは舞台がウィーン。複雑、混沌が渦を巻くダイナミックさ。暗さ、陰湿さは全く感じさせない。はにかみ屋の破壊力恐るべし。なぜ、ジャーギレフはこれを嫌ったのか、謎。
聴衆はラヴェルの変節を感じ、様々な憶測が議論されたが、ラヴェルによれば、
「ものすごい量の音だけを聞けばいいのです」
ということ。あっさりと言い切る、ラヴェル独特の態度。
オーケストラ版は華麗、ピアノ2台版のほうが迫力あり。こんなのを是非弾いてみたいと思う。


ピアノ曲
「耳で聴く風景」1898
初期の作品。鐘の音が描写されていて見事。

「クープランの墓」1917
戦争で亡くなった友人(軍人)にそれぞれ捧げられているが、戦争や死を感じさせる暗さはなく、明るく、古典的な組曲。クープラン個人へというより、18世紀へのオマージュになっているらしい。これはラヴェルの最後のピアノ曲だが、フォーレもドビュッシーも晩年に平易でかつ美しい曲集を残しているように、「クープラン…」も簡素で初中級でも弾きやすい。どこかノスタルジーを感じさせるのは、こうした取付きやすさのせいだろうか。

室内楽
「弦楽四重奏曲 ヘ長調」1902
ドビュッシーに絶賛された。奇をてらわない表現が心地いい。後年、ラヴェル自身はこの曲に自分の当時の若さを見、むしろ技巧がそれに勝ることを望んだ。

「フォーレの名による子守歌」1922
恩師フォーレへのあたたかい感情が伝わってくる。さまざまな作曲家がフォーレをイメージして作曲する企画に寄せたもの。「〜風に」が得意なコピー上手のラヴェルのこと、フォーレのアルバムにこっそり入れたらみごとになじむだろう。

交響曲
「ピアノ協奏曲」1931
病に苦しみながら書かれたもの。友人のピアノ演奏家マルグリット・ロンの、最後が長いトリルで終わる曲、という希望に添って作られた。
この第2楽章が、これラヴェルなの?と思ってしまうような、細やかで美しいものになっている。ラヴェルの曲にしてははかなさを感じさせる。前後の楽章と並べると違和感があるくらい。トリルはこの楽章に入っている。かつてのラヴェルならではの勢いを一切削ぎ落とし、まるで別の時計を取り出して見せられたかのような。何かメッセージを込めたものではないか。
ラヴェルによると、2小節ずつ丁寧に書いてたいへん骨が折れた、そうだが、それを病気の影響と見るか見ないか。また、第3楽章は完成度の高いものだが、異常に短い。これが限界だったのかとも考えてしまう。しかし、それ以外に妥協のない、迫力ある曲だ。







「ラヴェルは、特別な花火からあらゆる燦めきを創り出した」(コクトー、ラヴェルの死後に)


Ravel's World
動画の一部でラヴェルが殊更大切にしていた小鳥の仕掛け人形を紹介しています。
庭や部屋で女性たちがラヴェルについて対話しているのですが、声(フランス語。ラヴェルはフランス語の持つ響きの美しさを愛した)の響きが味わえることが耳福。こういう音の世界にいたんだ、と浸れます。


A tour of Ravel's house near Paris
晩年のラヴェルの悠々自適の一人暮らしの住処
彼自身の小宇宙ヴェルヴェデーレは理想の隠居住まいといえます。独特な細長いプランなのが伝わります。ただし、取材が冬のため少々暗い印象(こちらは英語)

DECOUVERTE DE LA MAISON-MUSEE DE MAURICE RAVEL A MONTFORT L'AMAURY
ラヴェルの小さな物へのこだわりが感じられる美しいフィルムです









皇帝ユリアヌス 秩序と正義と理性

2018-03-12 13:54:14 | 人物

「ああ、わが息よ、わが刻々の命よ」
ローマの正義を信じ、逆境とたたかう不屈の精神
一方で生涯はいよいよ晩熟してゆく






辻邦生『背教者ユリアヌス』の世界は、とても美しい情景の広がりの上に描かれている。1600年以上昔の朝日も夕日も、今と変わらず美しかったし、それを見る人々の感情もまた変わりない。辻邦生の筆は絵画を描いているかのように、色彩を繰り広げてくれる。
例えば‥

足早に動いている白い団塊/

奇妙に黒ずんだ尖塔/

秋のはじめの朝日に金色に/

ばら色になった羽をひろげて、鷗が/

暑い、黒ずんだ夏/

ただ青い空のなかに、灰褐色の岩山が、
くっきり象嵌したように、
かたく食いこんで/

冬の雲が、紫のかげりを帯びて/

菫色を含んだ艶やかな夜/

おだやかな波は、
白いレースのような泡をかきたて/

ほの暗いまでに青い空の色/

雪の稜線は、
純潔な襟首のような曲線を描いて空を限って/

手の染まりそうに青い空/

月が皎々と眩しいほどに輝き、
柱列が青白く、
何か葬列につづく人々のように並んで/

描き出される細やかな色彩、ライン、軌跡は、油彩画よりは、繊細な透明水彩画だろうか。
登場人物描写ではその瞳の色が映し出されて、何ともその透明な輝きの中へと、自分が取り込まれ、人物と一体になるように導かれる感じがする。物語中、この描写はたびたび繰り返されることで印象に強く刻まれる。
主な人物は、こうなっている。

バシリナ:ユリアヌスの母
=透きとおった青灰色の謎めいた眼

ユリアヌス
=母親に似た灰青色の、夢見るような、おだやかな眼

コンスタンティウス:ユリアヌスの父兄を殺害した皇帝、ユリアヌスの従兄
=ぎょろりとした灰色の眼

ガルス:ユリアヌスの異母兄
=淡い眼の色の、浅黒い、どこか皮肉な感じのする青年

コンスタンティア:コンスタンティウスの妹、ガルスの妃
=燃えるような灰暗色の眼と、複雑な髪型の頭を後ろにそらすようにする癖

エウセビア:コンスタンティウスの妃、ユリアヌスの庇護者
=子供じみた、茶色の明るい眼

ヘレナ:コンスタンティウスの妹、ユリアヌスの妃
=背の高い、陰気な大きい額の下の灰暗色の眼

サルスティウス:ガリア出身でユリアヌスの優秀な片腕
=浅黒い、端正な、彫りの深い顔に、濃い青い眼


情景描写では、カメラなら少し広角、人物とそれを包む静かな自然の景色が程よいバランスで、優しい。例えば


/墓地を吹く風は、宮殿のその窓辺にも吹きつけ、仕切りの帷をゆらし、揺り籠をおおった白い薄地の布をゆらした。しかしそれは深くねむりつづける赤子の眼をさますことはなかった。彼はただ握った手を前へ少しのばし、それを顔に近づけ、小さな欠伸のようなものをしただけだった。
宮殿のなかは風の音のほか何の音もしなかった。/


/風の荒れる冬の夜には、燈火の光もなく、暗くひっそりしていた。ただ時おり幼いユリアヌスの寝室の下を、ゆっくり歩くと兵卒の長槍が、星の光にほの白く光るだけだった。その兵卒の足音は、長い冬の夜を歩きつくして、どこか夜明けのない国に入ってゆくように思われた。/


/テオノエ(エウセビアの年配の侍女)は窓のそばまでゆくと、牧草地から森のほうに眼をやった。そこには郭公の声はすでに聞こえず、いったん晴れた霧がふたたび低く切れ切れに流れはじめ、それはやがて音もたてぬ霧雨となって離宮の屋根を濡らした。そして窓に近々と枝をのばす榛の葉から、時おり、雨滴のようなものが、光って、地面にしたたりはじめた。/


/ユリアヌスは雪のなかを黙々と進む馬の背に揺られながら、本来なら皇帝軍団と決戦を交えるはずになっていたトラキアの山野を、一種の放心した表情で眺めつづけた。森も丘陵も雪のなかに白く霞み、距離感のなくなった白一色の野の拡がりに、息苦しいような沈黙がおりていた。それは急に音のしなくなった世界を見ているような感じだった。それだけに、その虚しい白い空間を夥しく満たし、ふるえ、ひらひら舞い、踊り狂い、ひたすら降りつづける雪片の大群が、異様な圧迫感となってユリアヌスの胸を押さえつけた。それは何か救いのない厖大なものがひたすらに崩れつづけている感じに似ていた。/


前回では、主にエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』を元に、ユリアヌスの生い立ちから英雄皇帝に至る生涯を追った。今回は、辻邦生『背教者ユリアヌス』の世界から、“皇帝”ユリアヌスの苦悩を読み解きたい。もちろん、この作品は小説であり、創作上の人物も登場するし、ユリアヌスの言動も作者の創造ではある。しかし、最大限、事実に則し、実在のユリアヌスの心中に深く迫る著者は、ユリアヌスの理解者であり代弁者であり、もはや時代を超え結び合った友人として、リアルな等身像を削り出している。

マルクス=アウレリウス帝のごとく、哲学的な理想をローマ帝国に再現しようとしたユリアヌス皇帝は、時代の抱える諸状況の困難に直面し、その都度、彼なりに果敢に処断してきた。しかし、哲人帝の頃とはすでに時代背景が変わっていたのである。
一つは、台頭するキリスト教徒との摩擦。先々帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認(国教化ではない)したことで、聖職者が権力に結びつき、多数の教派が利権を争い、教会上層部は腐敗。皇帝の権威も、一信徒扱いとなって弱められた。それまでのローマ国教の神々は、その神殿を壊され、神像も打ち砕かれた。ギリシャ由来の神々への信仰は、ユリアヌスの理想である。寛容を叫ぶキリスト教徒が、このような破壊行為に及ぶ矛盾にユリアヌスは怒りがおさまらない。

加えてもう一つ、東方諸州との文化の違いが、ユリアヌスの統治を阻む。副帝としてガリア一帯を統治し、その誠実さと包容力で、質朴かつ堅実なガリア属州民との理想的な主従関係を築いてきたユリアヌスだったが、ヘレニズム文化地域の民衆とは、なじむことができなかった。
まず、新帝として首都コンスタンティノポリスに入城し、性急に進めたかずかずの改革が宮廷の反感を買うことになるも、皇帝の権限を尊重する慣習により反動は抑えられていた。しかし、東方征伐の拠点として冬営したアンティオキア(現シリア)は、もともと享楽的な土壌のため、質素で大真面目な異教の皇帝はあまりにもダサくて笑い者でしかなかった。露骨に中傷、反抗する民に、ユリアヌスは怒りと軽蔑で憤激しつつも、ローマの理想を信じて、ぎりぎりの寛容を維持していた。それは、ユリアヌスを敬愛していたガリア軍の兵達にも強いられた屈辱だった。

キリスト教徒にしても、シリア民にしても、その反抗的振舞いは皇帝侮辱罪や反逆罪で粛清されてもおかしくないほど度を越していた。おそらく、兄のガルス(コンスタンティウスの副帝としてアンティオキア在)ならば容赦なくそうしただろう。むしろそうする必要があったかもしれない。理想と現実の天秤を計り間違えることは、即位直後の歴代ローマ皇帝にも見られた傾向ではある。英雄としてのユリアヌスは非常に優れた知将だった。しかし、皇帝としての統治では、才能を発揮するには理想が高く、また穢れがなさすぎた感がある。

思いがけない戦死により、わずか1年半程度の統治となったが、短期間にも関わらず、彼の苦悩の深さがこの作品には描き出されている。サルスティウスが苦しむユリアヌスに寄り添うように、作者も包み込むように寄り添ってユリアヌスを描く。
この頃、ユリアヌスの生涯はすでに晩年であった。苦悩の実生活の傍ら、コンスタンティヌス帝の死、ヘレナやエウセビアの死を経て、自然に誘われるように母の死を思い、最期を迎える。
苦悩の一方で、予見される死に向かいながら、次第に一人の人間としてのささやかな救いを手にする。

物語の要所に、風が吹いている。
象徴的と見なすより、それはごく自然なもの、と私は受けとめたい。それが、風の示す意味、つまり何の象徴にもなり得ない、という象徴だからだ。逆説的で変な表現であるが‥
そこに在る、という意味しかない存在、ただし希薄な存在というのとも違う。
さておき、
以下、小説の中の、ユリアヌスの苦悩の軌跡を辿ってみる。

参考文献
『背教者ユリアヌス』辻邦生著
『ローマ帝国衰亡史』エドワード・ギボン著
『ローマ人の物語』塩野七生著
『多神教と一神教』本村凌二著






1. 幽閉された若い皇族からアテナイの哲学生へ
ローマに求められる役割とは


ユリアヌスはかつて、ガルスとともにマケルム宮殿に幽閉されていた頃、カエサレアの教会で、周囲に促されるままに洗礼を受けている。皇帝即位時に既にキリスト教受洗者だったのは、ユリアヌスが最初だったかと思う。当時の彼は、教会の密儀的なミサの雰囲気や、質素な姿で貧民に食を施す僧の献身ぶりに、純粋に感動を覚えた。
しかし、その一方で、幼少期から彼を囲み、監視していた位の高い聖職者たちの、利権にしがみつき、醜く争うさまには不快と憤りを感じていた。
キリスト教徒への、次第にふくらむ嫌悪の感情を、ユリアヌスは時折兄のガルスにぶつけていた。ガルスも洗礼を受けていたが、ただ慣習に従ったまでで、信仰はどうでもよかったようである。ガルスは、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認したのは、統治を補強するための手段として利用したものだと考え、ユリアヌスにも語っている。それでもガルスは、ユリアヌスが純粋なあまりにキリスト教の欠点を声を大にして暴露し、ローマ異教信仰を賛美することの危険を、少なからず心配し、自分が副帝となって東征したのちのユリアヌスを案じて、信頼できる僧アエクス(架空)を、ユリアヌスのもとへ派遣して観察させた。尚、ガルスのこうした、ある程度ざっくりした判断や合理的な権威主義は存外、皇帝という独裁的統治者の資質にかなっていたのではないかと思えるところがある。もちろん、たびたびの残虐な粛清には非人間的な冷酷さもあり、さすがにコンスタンティウスも危機感を抱き、弟ユリアヌスも兄のこういう側面を危惧していたという。残酷さは、コンスタンティア妃の影響によるとも見られている。

さて、磊落な性格のアエクスは、ユリアヌスとの対話を通しての感想を、ガルスに報告した。

「もし副帝が心配するように、ユリアヌス殿がローマ異教を信じているとしても、その心情の公正さは、へたなキリスト教徒より、はるかに高潔だ。教会内に勢力を伸ばすことに汲々としている聖職者にくらべれば、このギリシャかぶれの青年のほうが、よりキリスト教的だと言えるかもしれぬ」

ガルスはその後、不幸にも皇帝の怒りを買い、処刑される。ユリアヌスも疑われ、抹殺されようとしていたところを、皇妃エウセビアの機転により救われ、ギリシャに留学というかたちで安全を得た。

ユリアヌスは、憧れの留学先ギリシャにおいてさえも、彼の理想である古来の信仰が廃れつつあり、キリスト教が根付き始めている現状を知り、落胆した。そんな折、恩師の妻、病的な黒い眼のヒッピア(架空)との何気ない会話に衝撃を受ける。
ヒッピアは自分の家族の周辺に起きる様々ないざこざに心が折れて、どうにもできぬと感じ、諦めと不安を感じている。

「時々不安な気持ちが起きると、教会へ行ってみたい気になりますの」

キリスト教教会には安らぎがあり、ギリシャ神殿では安らぎを感じらない、と。それを問うユリアヌスに、

「それは、キリスト教徒が、自分を棄てることを知っているからではないでしょうか。…何もかも神の前に投げだして、すべてを神の思召しのままに委託する。こう考えると、私ね、急に、いままでの不安が霧のように薄れて消えてゆくのを感じましたの。主人は、キリスト教徒は人間としての品位を持たないし、文章も粗野で、趣味も下劣だと申します。でもあのような不安におびえているとき、美しい文章や高雅な彫刻がいったい何の役に立つのでしょう?…キリスト教徒は文章を飾りません。飾る必要がないからではなないでしょうか。キリスト教徒にはただ真実だけが要るのではないでしょうか」

ヒッピアの示すこの熱狂が、ギリシャの神々を信じる人にはない、ということをユリアヌスは痛感する。
信仰はヒッピアの抱くような熱狂は必要だが、

「同時にすべてを抱擁しうる明晰な理性が支配しなければならぬ。もしキリスト教徒のように排他的な無智が熱狂を呼ぶとしたら、それは愚かしい狂気であって、リバニウス先生が解かれたような全宇宙を支配する普遍的精神と一致することはできず、またそれ故に正義を実現することはできぬ
。なせなら正義とは、ただこのロゴスの中にあるのだから」


ユリアヌスは考えをそうまとめながらも、確信を持てないままだった。宵闇のなか、露台でそんなことに思いふけっている時、町の雑踏がぼんやりと耳に響いてくる。その響きに歓喜の思いが起こる。
この歓喜は、私が地上にこうしてあることから生まれている。都市の喧騒、花、花の香りを運ぶ風、夕焼け空や星空、木立、書物、噴水、人々の声や様子‥

「この広大な世界を一つにして、そこで人々が生き、たのしみ、喋り、働き、旅をするのを保証するのがローマ帝国の役割なのだ。ローマ帝国の役割は地上に在ることの歓びを担いつづけることなのだ」


ユリアヌスはそう思い至り、幸福感に満たされたのだった。



2. ガリア副帝からローマ帝国皇帝へ
ローマはキリスト教をどう包摂すれば良いのか


この後、ギリシャ留学は短期間で打ち切られてしまい、ユリアヌスは、ガルスのときのように、皇帝の思いつきでガリア副帝に任じられた。ユリアヌスの派遣に伴ってなされたガリア方面の人事は、ユリアヌス失脚を狙う者たちばかりだった。その中で、ただ一人、エウセビアのはからいによって随行することとなった元財務官でガリア出身のサルスティウスは、ユリアヌスに深い忠誠心を抱く。既に五十年配の、体格良く、彫りの深い端正な顔立ちと、穏やかな様子、宮廷の女性たちの視線を集める見目良さ。そのサルスティウスによるユリアヌスの印象はこうである。

「エウセビア様はこの若い副帝を愛しておられるに違いない。だが、それも無理からぬことだ。人間が、このように純粋に理想を追い求めうるなどと、誰が考えたろうか。なるほど人は哲学を学ぶ。文学を修め、修辞学を研究する。だが、いずれ、そうしたものが、この世の猥雑さのなかで、ねじまげられ、希釈され、元の形も見えなくなることを知っている。どこかに、そうした現実への諦念を感じている。しかしこの若い副帝は、そうした辛い境遇のなかで知らされながらも、なお、人間本来の夢のような理想に憧れている。ガリアに向う人間のなかで、誰が、この人のように、ガリア人の幸福を真に考えているだろうか。しかしこの副帝だけは、大真面目に、ただそのことだけを考えている。自分が皇帝の虚名のために選ばれたことも、多くの売名だけの野心家たちがガリアに乗りこんだことも、知ったうえで、この人は、なお、人間が、よきことを為しうるし、為さねばならぬ、と信じている。なんという現実離れした夢想だろう。だが、人間が地上に生まれて、ただ一回きりの生をしか生きられないのなら、人間が果たせぬ夢と思い描いたこの美しい夢を、どうして描かずにすますことができるだろう。あるいは、こうして夢をみつづけた人間があるからこそ、ローマ帝国はこのように普遍の正義を保ちえたのかもしれぬ。たしかにローマはガリアに普遍の正義を行なってはおらぬ。私はローマでは蛮族出身者に過ぎぬ。だが、ここに一人のローマ人がいる。この人は普遍の正義をガリアで実現しようとねがっている。思えば、ローマの正義を支えているのは、この夢想するただ一人の人間であるかもしれぬ。なおガリアにローマの普遍の正義は実現されていない。だが、ここに一人の夢想家がいて、その不毛な土地に種となって、落ちようとしているのだ。いつ、それが豊かな麦となって、大地を覆わぬともかぎらない。私はガリア出身者だ。しかしいつガリアかローマの普遍の正義によって世界の中心にならぬともかぎらない。大切なのは、種を腐らさないことだ。種が播かれることだ。種を世代から世代へ伝えてゆくことだ。たとえ種がただちに麦をみのらさずとも、夢想のなかで種が生きつづけるかぎり、人間は、人間に失望してはならないのだ」

"人間は人間に失望してはならない"
これはユリアヌスの信条と似たところがある。


副帝ユリアヌスは、ガリア統治において、ローマの国教信仰を奨励。その一方、皇帝の偵察を恐れ、表向きはキリスト教徒として振舞う。
ガリアの司教で、ヘレナ妃に寄り添う、暗い禁欲的な眼のアブロン(架空)がその矛盾を執拗に突いてくる。

「陛下はキリスト教に単なる同情を示されているだけではないか」

アブロンのこの問いに対し、彼が宮廷に内通している可能性も考え、ユリアヌスは慎重に返答する。「人間は神の前に全て平等である」というキリスト教の考えはローマの理想と同一であり、共感する、と答える。しかし、アブロンは、帝国は支配・被支配の不平等を生み、貧富の差を生んだと反論する。ここで、ユリアヌスは秩序について論証する。
帝国において言うならば、万民平等は無秩序にならざるをえない。人々を自由にするためには、帝国の秩序が必要であり、秩序には人々の同意と自由意志による服従が必要である。その下で、人々はそれぞれの位階において幸福を得られ、自由であることができる。キリスト教徒は魂を神にあずけることで解放されるというが、これを自由というか。

別の問答もかけられる。
「陛下は古くからの信仰をどうなさろうというお積りか。キリスト教を信じながら、なぜ忌まわしい偶像神に執着しておられるか」

曰く、もし真にローマを統一する精神の原理があるとすれば、そうした雑多な合成物ではなく、統一な原理でなければならない。コンスタンティヌス帝はそれを志していたはずだ、と。
ユリアヌスはまず、キリスト教の矛盾を突く。
統一神でありながら、キリスト教の教理は四分五裂、宗教会議では血の惨事にすらなる。真実は一つと言い、教義の正統性は真実によって判定されると言うが、真理がなぜ自らの手を血で汚すか、正義がなぜ自らを不正な手段で守るか。

「私は正義とはあらゆる強制を含まぬものと思っている。正義とは自由に他ならぬ。
あなた方は人間について多くを知っている。現実がとのようなものであるか、鋭く見抜いている。それでも私は人間を自由のなかに放置する。100年経っても、500年経っても人間は自発的に正義を実現しようとしないかもしれない。しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ」


アブロンは、ユリアヌスの考えに同調することはできない、絶対神を信じる彼にとって、「人間の意志ほどあてにならぬものはない」と。

「それならば何をもって秩序と正義の尺度となさるか。
人間は神のものである正義を実現することはできない。神の絶対性に保証された秩序こそが真の秩序である。」


ユリアヌスはこう述べる。

「能うかぎりの力を尽くしてこの世の重荷をわれわれが負うのだ、われわれがそれを担って運ぶのだ、われわれが目を覚まして、自分自身を監視するのだ」

アブロンは、それは人間の傲慢以外の何ものでもない、と冷ややかに言う。
ユリアヌスは苛立ちながら、

「人間は永遠に未完成のものかも知れぬ。永遠に完成に向かって走りつづけるものかも知れぬ。だが、それは走っているのだ。そのことが肝心なのだ」

ローマは光であり、理性によって蒙昧さを照らし出すべきものである。しかし、ひょっとしたらローマは光ではなく、光であろうとする意志であり、そうした意志を放棄しない以上、ローマは光となるのかも知れぬ、ユリアヌスはそう考えた。

人間は人間の尺度によって測られるべきもの、というのはギリシャの知恵。その人間を守るのが地上の秩序。それに生気を与えるのがローマの信仰。

「神々は私たちの傍らにいるのだ。私たちは神々の寵愛のなかに生きているのだ。ああ、事がさのようであるのに、ガリラヤの狂信者は、なぜ地上の生を憎むのか?神々の恩寵は彼岸にあるのではなく、此岸にある。この息こそが神々の姿なのだ。ああ、我が息よ。我が刻々の生命よ…」




3. キリスト教に浸食されたローマの皇帝
ローマ神教に普遍的精神を求めて


このあと、ルテティアにて正帝に推挙され、コンスタンティウス帝と対立し、戟を交える直前にコンスタンティウス帝が急死したことでローマ帝国皇帝となったユリアヌス。
ローマ古来の宗教を奨励し、保護を与える一方で、キリスト教弾圧には走らず、宗教寛容令を出す。これまでのローマ皇帝は特定のキリスト教教派を支持してきたが、それを廃止し、全ての教派、全ての宗教を同等に公認するとした。

「ローマの魂はギリシア古来の神々のなかにのみ求められる。しかしローマはすべての存在にあるがままの本性における存続を許すのだ。この事実によってローマの秩序が実現されているのだ。ローマとは各自が自己を主張しつつ共存する自由に他ならぬ。私が宗教の寛容を許すのは、かかるローマの精神に基づいているからだ。諸君は諸君自らの主張に立ちつつ、ローマの秩序に服さねばならぬ理由もそこにある」

弾圧を恐れていたキリスト教徒たちはこの寛容令を喜ばなかった。彼らにとって、異教徒よりも他教派と同列にされることが屈辱だった。また、弾圧されなかったことで、殉教という栄光のステージにありつけなかったことに侮辱を感じた。ユリアヌスは当然、彼らを熱狂させ、さらなるドラマで信仰を深めさせる殉教など、断じてさせない狙いだった。さらに、これまでキリスト教が特権として得ていたもの(地位、交付金等)は剥奪、返上させられた。過去にキリスト教徒が散々の狼藉で破壊してきた異教の神殿への賠償も求められた。エルサレムへのユダヤ教神殿の再建も計画された。キリスト教が蔑んでいたユダヤ教を復興することで、キリスト教はそもそもユダヤ教から派生した一教派に過ぎないことを再認識させる狙いもあった。

「理性によらなければ正義は実現できない」と考えるユリアヌスは、「自由と寛容なくしてはローマはない」という信念で事にあたる。
ただし、信念は確信していても、現実を前に心が揺らぐ。「ローマは排他的に拡がってゆくガリラヤの連中を同化できず、最後にはローマが否認されるのでは」と。

キリスト教徒の神像破壊や神域冒瀆は一向に止まず、ローマ神教信者からの報復もエスカレートした。彼は忍耐強く、寛容と秩序維持を呼びかけ続ける。
しかし、いつまでもこの状況を続けるわけにはいかなくなった。東方ペルシアの騒乱を収めるため、ガリア軍団を主力とする東征に向かうこととなった。その間、治安を維持するためとして、キリスト教徒の身分を大幅に制限する命令を出した。そしてローマ神殿への優遇を大々的にすすめたのである。
キリスト教会への補助金交付打ち切り、キリスト教の司教や司祭の治外法権の廃止、贈られていた特権・尊称・名誉の剥奪、司祭の階級は都市の最下層との位置づけ、青少年の教育者からキリスト教徒を除外…
ユリアヌスの義憤が寛容の器から一気にあふれ出したかのようなこの制限令には、周囲から否定的な意見もあった。この時期に制限することは混乱をかえって生む可能性があると。しかしユリアヌスは既に別のステージに足をかけたらしく、キリスト教会への補助金を削った分をローマ神殿への犠牲獣の費用にそっくり回し、ユピテル神殿に毎日100頭の牛や鳥を捧げ、自らも祭儀で手を血で染めた。

懐柔と弾圧のバランスを最適化すること、キリスト教とは人間にとって何なのかを粘り強く把み、コントロールするには?
振り子のように振れつつも、ユリアヌスの抱くローマの理想は失われていない。いかに秩序を保つかが、ローマ皇帝の使命であると。

小説中で、ユリアヌスの親身な側近の会話がこの状況を確認し合っている。
側近の中でも冷静な穏健派の元老院議員テミスティウスによる。

「問題の核心はただ一つ、キリスト教をいかにしてローマの秩序に服させるべきか。つまり、熱狂的な絶対探究者たちに対して、いかにして地上の相対的な調和感覚の意味を納得させるか、ということです。おそらく人間の歴史はこの二つの生き方、考え方のあいだで揺れ動くことでしょう。一方は厳しく、他方は柔弱です。一方は渇いたような眼をし、他方は距離を置いた眼をしています。しかし人間が人間でありつづけるためには、人間を殺すような絶対を拒むほかありません。これはローマの限界ですが、同時に人間の限界でもあるのです。しかし人間の品位はただこの限界を知って、そこで踏みとどまり、その宿命を背負うところにしか生まれません。アエリア(イスラエル)の神殿再建もその一つの現れです。アリピウス、わたしはあなたの悩みはわかるが、苦悩によってしか人間は偉大にならぬのも事実です」



4. アンティオキア、ダフネ炎上
意図と結果のどちらが


正義が実現されない。
キリスト教徒への寛容も制限も、問題を積み残した状態で、解決は遠征のために中断することになったが、ユリアヌスは遠征中もこの件を考え続け、相変わらずプラトンやソクラテスを深夜に読み、帰還後に解決を図る予定だった。
ところで、ユリアヌスが台頭するキリスト教を制限する一方で、自然に廃れゆくローマ神教を露骨に再興させようとしたのはなぜなのか。

「そうだ、たとえ私が敗れようと、それは神意に他ならぬ。私は私自身である以上に、神々の心を体現した者だからだ」

神々に命運を預けるという点においては、キリスト教徒と同じに聞こえる。しかし、彼は自分にこう言い聞かせる。

「ユリアヌス、あせってはならぬ。物事はただ物事の理法に従ってしか動かぬのだ。それは物が地上に落ち、水が低地にむかって流れるのと同じだ。それに逆らうことはできないのだ。その理法に従って動いてのみ、事が成就するのだ。…信じるのだ。そしてお前の全力を尽くすのだ」

「信じる」、ここまではキリスト教の信者と同じであるが、その一方で自分の「全力を尽くす」のが彼の信仰だ。
一神教と多神教の違いを、塩野七生氏は著作の中で簡潔にこう表している。
「ギリシア・ローマに代表される多神教と、ユダヤ教を典型とする一神教の違いは、次の一事につきると思う。多神教では、人間の行いや倫理道徳を正す役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである。多神教の神々は、ギリシア神話に見られるように、人間並みの欠点を持つ。道徳倫理の正し手ではないのだから、欠点をもっていてもいっこうにさしつかえない。だが、一神教の神となると、完全無欠でなければならなかった」(『ローマ人の物語』(Ⅰ 41)より)

日本人としては多神信仰は容易に了解できる。かみさまとかご先祖さまに見られていると思ったり、滝や神木に自然と手を合わせたり。
ユリアヌスはさらに哲学を修めた人ゆえに、こうした神々に普遍的精神の姿を見る。マルクス=アウレリウスの自省録はユリアヌスの鏡である。個人としての信仰以上に、ローマを体現するべき皇帝としてさらに深く、神々と結ばねばならない自負もあったようだ。ローマ皇帝として、万能感を抱いていたわけではなく、謙虚な中で真摯に、ひたすら調和を願っていた。

しかし不幸にも、彼の良心の支えでもあったこの思いを決定的に踏みにじる事件が、遠征の逗留先のアンティオキアで立て続けに起きてしまった。

ダフネはアポロンを祀った神殿と、神秘的な環境にめぐまれたローマ神教の聖地で、アンティオキアの近くにある。ユリアヌスはこの地を意気揚々として訪れたが、荒廃がひどく、大変なショックを受けた。彼がもっとも憤慨したのは、神殿の向かいにキリスト教の教会堂が建てられていて、神殿の部材を持ち出して使っている形跡もあった。さらに、教会のまわりには信者の墓まであり、聖バビュラスの墓も祀られていた。神域を墓で汚されたことを許しておけず、教会堂の取り壊し、墓の移転を命じ、神殿は新たに補修、再建させた。当然、キリスト教徒は抵抗、バビュラス様の天罰が下るだろうと背教帝を呪った。
完成した神殿で盛大な祭祀が数日にわたって催されたが、キリスト教徒が妨害し、傷害事件を引き起こした。それでも怒りをどうにかおさめたユリアヌスだったが、とうとう限界に晒された。

それは祝祭後、キリスト教徒の墓の移転が行われた日、風雨の強い夜のこと、ダフネ神殿が炎上したのである。軍が必死に鎮火に奔走したが、残念至極、神殿は見る影もなくなった。キリスト教徒らは、バビュラス様の天罰だ、と大威張りで喧伝したが、ローマ神教徒らは、これはキリスト教徒による放火だと憤った。ローマの正義を傷つけるキリスト教徒の蛮行に、業を煮やした純朴なガリア軍の将軍たちは、厳罰を命じるようユリアヌスに迫った。この状況に従来のように寛容で応じればますます見下され、次はもっと過激になるおそれもある。ローマの正義と自由が宙に浮き、ユリアヌスを大いに悩ませたが、放火をしたと自供した聖職者らが逮捕されたとの報告がきた。手を打たぬわけにはいかなかった。もっとも、冤罪かもしれないし、逆に殉教者として名を高める機に利用したのかもしれない。ユリアヌスはこれらの者を処分し、アンティオキア大教会の閉鎖を命じた。此の期に及んで背教帝の正体見たり、とキリスト教徒たちはネガティヴキャンペーンに火をつける。街の広場では、あからさまにユリアヌスをコケにする輩が増えた。これがアンティオキアの民の救いようのない品性だった。この不品行、風紀の乱れに、反逆罪や侮辱罪で粛清することも皇帝の権力を行使すれば可能だった。しかしなんと、ユリアヌスはこれにユーモアで答えたのである。『ミソポゴン(髭嫌い)』と題した触書の中で、自分の弱点を巧みな表現で誇張、これは民を唖然とさせ、悪口を言う気を失くさせたのだった。

そしてもう一つ、決定的にユリアヌスの忍耐を挫いた一件は、アンティオキアの飢饉のためにアフリカから調達した小麦を、地主や商人たちが値段を吊り上げるために買い占め、飢える民に配給しなかったことだ。民はユリアヌスの無能を恨んだが、ユリアヌスは、正義からかけ離れたこの卑劣な行為には我慢がならなかった。小説の中でユリアヌスが最も苦しい涙を流すのがこの場面である。

「見たまえ。これが人間なのだ。貪欲と吝嗇と冷酷と無慈悲…一体なぜこのような人間を見ながら、われわれは正義とか自由とか勇気とか親切とかを口にすることができたのか。…サルスティウス、われわれだけでも、この怜悧という怪物の属性から免れていようではないか。…われわれは人間であるために、最も冷酷な化け物が愚行と見なす行為をなそうではないか。われわれは地主どもから高価な小麦を買いもどすのだ。われわれは法と武力により小麦の供与を強制すべきかもしれぬ。だが、われわれはあえてこの愚直さを選ぼうではないか。
われわれの意図がこの世で実現せられずとも、人間にとって意味があるのはその意図であって、結果ではない。おそらく意図に反した結果だけが、今後ともローマの歴史を支配してゆくかもしれない。ひょっとしたら結果だけを狙った有効性の観念が人間を支配するかもしれない。しかしそのときになっても人間にとって意味があるのは、意図だけなのだ。人間にとっての真の実在はかかる善き意図による帝国なのだ」

悪意に善意で返そうとする、権力で導くのではなく、相手の気付きを待つ。この手法は、ユリアヌスが軽蔑していたイエスキリストと重なる。本来ならば通じ合えたはずなのだが、300年の隔たりの間にさまざまな人間が介在して、混沌に阻まれ、手を取り合えなくなってしまったように思う。たとえば、ユリアヌスが1世紀頃の皇帝だったら、イエスをローマの神の一人に神格化させ、崇拝したかもしれない。勝手な想像で、怒られるかもしれないが。

コンスタンティウス2世

ユリアヌス


5. ペルシア討伐の途上
ローマも幻影、しかし何という‥


終章「落日の果て」だけは、途中までだがユリアヌスの回想のかたちで書かれている。メソポタミアの砂地の幕営で、ユリアヌスはそれまでの行軍の経過を頭の中で丹念にたどっている。ユリアヌスの軍は追い込まれてた。夜、外は砂を巻き上げる嵐。眠れぬまま机の上で考えに耽る中、ふとオデッセウスの昔覚えた詩句が唇に上がってくる。

葡萄の葉かげを夏の風吹き
ここは母の奥津城どころ


母バシリナ。何年も思い出したことがなかった母の墓石が、突然浮かんだ。

「母がいなければ私という存在はなかったのだ。母は、自分の赤子がローマ皇帝になることを知らなかった。しかし母が残した子供が現にここにこうして皇帝としているのだ。おそらくそれと同じようにわれわれは多くのことを知らないし、また知らないうちに多くのことを為している。
おそらく私は皇帝でいて、皇帝でないのだ。私はここにいて、同時にここにいないのだ。人生とはそういうものだ。この机のうえの燭台の火のように、ささやかな明りを厖大な闇のなかに差しだし、一瞬ゆらめいて、また消えるのだ。母が残した私をこの世に送って、母自身が死ぬとは、母が私であり、私が母でしかないことだ。人というのは、すべてそうした元永なのであろう。多くの人々がいるこのローマ帝国に現れ、やがて消えてゆく。おそらく路帝国そのものも一つの幻影であるかもしれぬ。そのなかでわたしはささやかな役割を果たしたにすぎぬ。だが、何という壮大な夢なのであろう。何という祝祭行列にも似た幻影の群なのであろう…」

ユリアヌスは、人生のある瞬間にたびたび経験した、突如差し込むような、天から何かが降りてきたような感覚にひたされることがあった。顔も知らない母を強く感じるような瞬間や、光に包まれて時間がなくなったような、身体が透明になるような感覚。その不死に似た感覚の中に、母や父がいるような気がしてひとときのめり込んでいく。
今や、その底流に在る、幻影のはかなさを受けとめ、身を委ねんとしている。

かつて、コンスタンティウス帝の急死の知らせを受けたとき、ユリアヌスをおそったのは人間の免れ得ない人間の悲しみだった。
敵であるコンスタンティウス帝の死によって、自分とガリア軍の破滅や、内戦による荒廃を回避できたことで安堵するべきところである。しかし、

「彼は自分がどこにいるのかわからない気持ちだった。ずっと以前、どこかで、いまとまったく同じ気持を味わったことがあるような気がした。そのときもたしか風の音が遠くに聞こえていた。部屋に入っても、何か新しい著述をはじめても、それはすでに前もってすべて決まっていて、ただその同じすじ道をなぞってゆくような、そんなそらぞらしい感じだった。そうだった、こうして皇帝が死ぬこと、それを風の強い日に聞くこと、それはもうずっと以前に彼にわかっていたのだった」

「すべてのことが、このような形でしか、、はっきり現れてこないのが、何か無限に悲しかった」
「誰にでもこういう瞬間がある。しかしそれは、いつでも現れるというわけじゃない。だが、こういう瞬間があって、そのとき、その本当の姿がわかるというのも事実なのだ。だが、なぜもっと別の形で、それは現れてきてくれないのか。所詮、人間は、あらゆる愛憎を失った瞬間にしか、その本当の姿を見ることはできぬのかもしれぬ。だが、そのことも悲しいことだが、しかしこうして現れたコンスタンティウスその人の姿も、何という悲しみに満ちていることだろう。それは彼がコンスタンティウスであったからではなく、もともと人間というものは、その本来の姿では、このように限りない悲しみを湛えた存在であるからかもしれぬ」

そしていよいよ、ユリアヌスは、槍に貫かれ、自分の死を迎えることになる。



6. 死に臨む
刻々に奇蹟に満たされた地上よ


「敵襲の叫びが後衛の軍団から聞こえてきたのはそのときだった。全軍団が一瞬浮き足たち、まるで激しい風に吹かれた大麦のように、一斉に恐怖にざわめいた。盾だけを持って走りだす者、槍を手にして逃げだす者、人を押しのける者、叫びだす者、ただおろおろとする者か右往左往していた。ローマの陣営は大混乱に陥っていた。将軍や将校たちの叱咤する声が聞こえた。ユリアヌスは傍の兵士の楯をとると、すぐ馬に乗った。彼は兜も胸甲もつけようとしなかった。近衛騎兵がユリアヌスの後を追った。
「たたかえ。たちどまれ。密集隊形を崩せば死ぬほかないぞ」
将軍たちの声は嗄れていた」


ユリアヌスのこの後ろ姿の、後のことはもうここには書かない。
その夜、意識混濁の中、ユリアヌスは夢を見、自分の今が人生の何時なのか、定かでなくなる。

「彼は自分がどこにいるのか、時々、わからなくなった。彼は本当はまだ自分が子供であり、首都コンスタンティノポリスの対岸の離宮で、花びらを拾って、ヴェヌスの首にかけているような気がした。母バシリナも花壇のそばに立っていて、ユリアヌスが花の環を女神像の首にかけるのを、見ているように思えた。ユリアヌスはそのバシリナが皇妃エウセビアの顔になっていたのに、まるで気がつかなかった。彼は黒づくめの服を着た婆やのアガヴェが、自分のほうに近づいてくるのを見ていた。花の香りがして、羽虫や蜜蜂の唸りが聞こえていた」

地上の美しさを実感する。
変転、興亡は彼の前を過ぎて行ったが、そこには青空が輝き、風邪が木々を鳴らし、雨が窓を打っていた。都市の雑踏、笑い、叫び、悲しみ…

「魂が地上を離れるとは、地上の全てのものが美しく、素晴らしく見えることであるに違いない。おそらく人が死ぬというのは、ただ地上を憧れるというただそのことのために、意味を持つのかもしれない。地上とは、それほどにも神々に愛された場所であるからだ」

明け方、ユリアヌスは息をひきとる。
ユリアヌスの遺骸は、皇帝旗に包まれて、首都帰還の遠い厳しい路を目指す。

「ただ風だけが、空虚な砂漠を吹き、砂丘の斜面をごうごうと音をたてていた。砂はまるで生物のように動いて、兵隊たちの踏んでいった足跡の乱れを、濃くなる闇のなかで、消しつづけていた」

「激しい風が東から西へ砂を巻き上げて吹き、終日、空の奥で風の音が鳴りつづけた」


ユリアヌスの母バシリナの、"あの夢"には続きがある。血まみれの小部屋。陣痛のさなかに再びその夢を見たとき、今回こそは恐怖をおさえて、小部屋の奥に影のように立っている男の姿を見届けようとする。それが自分の義務と信じて。

「…彼女は小部屋のなかにいるはずなのに、まわりでは木々が夜風にざわめいていた。
その巨大な男は一歩バシリナのほうに近づき、死体を、手にもった剣で示すような動作をした」


コンスタンティヌスにちがいないと思いこんでいた。夫の兄で、強権を持つ大帝コンスタンティヌスには血塗られた過去がある。しかし違った。黄金の兜の下、若々しい、端正な鼻、静かな憂鬱な眼。バシリナはそれが焼け落ちたトロイの城を背景に立つ英雄アキレスなのだとはっきりわかった。
なぜアキレスが?輝かしい英雄の生涯と、たった一矢で尽きた脆さと短い命。我が子の未来を暗示するようで不安がかきたてられる。他に、バシリナはダフネの神殿が崩れ落ちる夢も見た。

後年ユリアヌスのもとにも、似た姿の人影が現れる。黄金の兜と甲冑。ユリアヌスはそれをローマの守護神と考えた。ユリアヌスが皇帝になる少し前や死を迎える少し前などに現れ、運命を示唆した。これは、ユリアヌス自身の著述にも記されている。

コンスタンティヌス大帝



"背教者"という呼び名には、無宗教者か、戒律をわざと破るならず者かと勘違いされる懸念があるが、ユリアヌスの場合は、ローマを守る、つまり民を守るためにのぞましい信仰は、キリスト教のような、現世より来世を重んじる宗教ではなく、現世を生きる人々を側近く見守り支えて、地上の美しさを謳歌するのに誘うような存在である神々だと考えていた。すべてを神の思し召しに委ねるのではなく、勝利を神に祈願するとしても、成功すれば神の恩恵、失敗ならば、残念ながら加護が得られなかったと考え、本筋では自分の能力に頼り、最大限の努力をするのが、ギリシャ由来の多神教信仰である。かの守護神が最後に現れ、死が示唆されたとき、ユリアヌスは冷静な覚悟と向き合う。

「自分としては力を尽くしてきて、これ以上のことはできるとは思えない。たとえどのようになろうと、最善を尽くしたことを慰めとして、なるようにならせるほかに、どんな手だてがあるだろう」

この決意の翌日、楯を取って駆け出すユリアヌスの後ろ姿が、彼の最後の"最善"となった。



信仰心は心の支えになるものである。ただし、人として最善を尽くす能力を与えられているにもかかわらず、それを放棄し、神に全てを一任する類いの信仰には、どう向き合うべきなのだろうか。向き合うも何もなく、律法を守り、恭しく下を向き、崇めひれ伏すことが求められるのだろうか。
現代においても、宗教が必要となる局面は、社会により個人により様々だといえる。大切なのは、それが強要されるものであってはならないということ。多様性を認め合う余地を持つこと。一神教では後者を許さないことが多い。その点に切り込んでいったユリアヌスを尊敬する。本当の寛容とはどんなものかを、ローマの寛容で示そうとした。しかし、そのローマの理想は当時既に劣化しており、意図が実を結ばないままに命運が尽きてしまった。
何かに身を任せていることで安住する体質を、人はかかえている。それが中世の暗黒や、ナチスの台頭を培養した素因で、自身の毒で身を焼かれる結果となる。怠惰と勤勉。
全てを焼き尽くした世界大戦から100年と経たぬ今、どうなっているだろうか。
所詮、人のすることは浅薄なのだから神に全てゆだねるがよい、ではどの神が平和構築に尽くしてくれるのか、いつなのか、あとどのくらい犠牲を出して待てばよいのか。
そして、独裁者は人間であって神ではない。ユリアヌスも皇帝という独裁者ではあった。われわれは独裁者の行いを注視していなければならないが、寛容を全く持ち合わせない独裁者の場合、目を上げることすらわれわれにはできなくさせられるだろう。
平和、自由を望むなら、怠惰なおまかせコースでは無理だ。望むだけでは得られない。神がほんとうに約束してくれない限り、不断の努力を続けるしかない。ユリアヌスの後ろ姿を心に映して。

「人間は苦悩によってしか偉大になれない」






後記
ブログ開設から999日となるこの日、なかなかまとめられなかった『ユリアヌス』を書き終えられ、大きなため息、です。遠い遠い昔に生きたこの皇帝の生涯が、私のさまざまな疑問に答えを導いてくれた気がしました。辻邦生氏とユリアヌス皇帝に感謝します。