古く質素で気品漂う
ロマノフ家のロープシャ宮殿
過去と現在
Ropsha palace
私の個人的な趣味の話になりますが、上の1枚の写真を見たとき、すっかりこの空間の虜になってしまいました。もちろん、ここにいる人物、皇后アレクサンドラとその息子、まだ幼いアレクセイ皇太子、そしてアレクセイの世話係の水兵デレベンコ、この3人の醸し出す穏やかな一コマは、その後の彼らの非業な運命をおよそ想起させ得ない、美しさ或いは素朴な幸福を溢れさせています。その様子を映し出すのに完璧に呼応した見事な背景となる、高貴な館とそれに続く庭の品格は、豪華さを見せつける書割りのような、他のロマノフ家の宮殿と異なり、なんとも言えぬ落ち着きを感じさせてくれます。
この宮殿は現存しますが、すっかり廃墟と化しています。世界遺産の候補として、サンクトペテルブルク及びその近郊の歴史的建造物群の一つに入っている?ようですが、荒れるままにされていました。ようやく修復の予算がついたとかつかないとか。元の姿に戻れるのはいつになることか、まだまだ遠い未来の話かもしれません。
復元模型図
1.ピョートルによる教会堂 2.ピョートルによる木造宮殿 3.18世紀建立の施設 4.オベリスク(塔)5.18世紀の(製紙)工場 6.製粉小屋 7.18世紀の釣り池 8.lower park 9.upper park 10.戦車の記念碑 11.ロープシャの記念碑 12.18世紀の温室 13.売店 14.乗降場
庭に面した東側外観
ロープシャは、サンクトペテルブルクから南西へ49㎞、ペテルゴーフからは南へ20㎞に位置しています。
15世紀のノヴゴロド公国時代、Khrapshaの表記で記録があるそうです。
スウェーデンからこの地を奪還したピョートル大帝は、美しい泉に恵まれたこの地に木造の宮殿と教会を建て、夏の離宮として利用しましたが、のちにStrelnaに豪壮な宮殿を築いてからは、この地を訪れることはなくなり、宮殿は家臣の所蔵するものとなりました。
ピョートル時代建設の教会堂
近隣の池
オベリスク
cascade towel(小滝)
1910年 cascade towel
持ち主により修復改修がなされ、維持されてきた宮殿は、18世紀、女帝エリザヴェータの所有するものとなりました。女帝はBartolomeo Rastrelliに新しい宮殿のプランを依頼したが、着工はなりませんでした。
1762年、クーデターで退位させられたピョートル3世はここ、ロープシャに幽閉されたのち、殺害されました。このクーデターにより、女帝として君臨したエカテリーナは、ロープシャを愛人に譲渡しましたが、不吉な館であるとして、さらにアルメニア系の宝石商に売られます。
エカテリーナの死後を継いだパーヴェルはロープシャを買い戻し、Georg von Veldten設計のネオクラシック様式の宮殿と、それに続く英国式庭園を新設し、宮殿の改名も考え、お披露目のイベントを計画していましたが、1801年、またしてもクーデターによりパーヴェルは暗殺されました。
その後、この宮殿は代々の皇帝に受け継がれましたが、あまり利用されることはありませんでした。ただし、最後の皇帝ニコライ2世は、周囲の森での狩りと、鯉や鱒がたくさん棲む大きな池での釣りが楽しめるこの宮殿を比較的よく利用したようです。
来訪した皇族の方々と思われますが不鮮明なのでどなたかの判別がつきません
右から3人目 ニコライ2世
皇后と皇女 左からマリア、アナスタシア、皇后、オルガ
南側アルコーブに立つマリア、手前に皇后
アナスタシアと皇后、奥にニコライ
オルガ アルコーブにはソファが置かれている
ロープシャの池で楽しむニコライと子供達 左からマリア、アレクセイ、ニコライ
ニコライ2世の妹クセニア大公女は、父の従弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチと結婚した際、この宮殿で新婚の日々を過ごしました。
クセニアと夫アレクサンドル・ミハイロヴィチ
ロープシャ宮殿内部のイメージ
革命をへて、ロシアからロマノフ家が消え、宮殿も戦乱に巻き込まれていきました。
主戦場になったレニングラード攻防の重要地点として、ロープシャはドイツ軍の砲撃隊の基地に使われ、ヒトラーの駐留地ともされていたと言われています。
しかし、独露の熾烈な攻防の爪痕は深く、宮殿の内部は無残に破壊され、その後の長い年月の間にも、徐々に崩れていきました。
崩壊は内部だけではなくなり、外観も崩れてゆき、とうとう昨年にはシンボルの列柱も崩折れてしまいました。
2012年 東側正面
2012年 西側
木部の天井も床も落ちて太陽の差し込む内部には草木が生えてゆく
ドア枠のアーチが奇跡的に往時の美しさを保っている
2015年 ファサードの要の列柱が崩れる
100年前、全ての窓に美しくカーテンが掛けられ、ロシアの皇室関係者を迎えたのを最後に、宮殿としての時間は止められ、戦争になぶられ、緩やかに死にゆく建築物。
修復が完成して甦った姿を見るもよし、森の中に静かに姿を消すにまかせるもよし、過去の時の流れはただ、池面に浮かぶ泡沫のように、しばし漂い、やがて見えなくなるでしょう。
絢爛豪華なペテルゴーフの宮殿の大噴水は、ロマノフ家の栄華の側面を、きらきらと象徴している一方で‥。
ニコライ2世ファミリーの写真アルバムより ロープシャ宮殿のページ
ロマノフ家のロープシャ宮殿
過去と現在
Ropsha palace
私の個人的な趣味の話になりますが、上の1枚の写真を見たとき、すっかりこの空間の虜になってしまいました。もちろん、ここにいる人物、皇后アレクサンドラとその息子、まだ幼いアレクセイ皇太子、そしてアレクセイの世話係の水兵デレベンコ、この3人の醸し出す穏やかな一コマは、その後の彼らの非業な運命をおよそ想起させ得ない、美しさ或いは素朴な幸福を溢れさせています。その様子を映し出すのに完璧に呼応した見事な背景となる、高貴な館とそれに続く庭の品格は、豪華さを見せつける書割りのような、他のロマノフ家の宮殿と異なり、なんとも言えぬ落ち着きを感じさせてくれます。
この宮殿は現存しますが、すっかり廃墟と化しています。世界遺産の候補として、サンクトペテルブルク及びその近郊の歴史的建造物群の一つに入っている?ようですが、荒れるままにされていました。ようやく修復の予算がついたとかつかないとか。元の姿に戻れるのはいつになることか、まだまだ遠い未来の話かもしれません。
復元模型図
1.ピョートルによる教会堂 2.ピョートルによる木造宮殿 3.18世紀建立の施設 4.オベリスク(塔)5.18世紀の(製紙)工場 6.製粉小屋 7.18世紀の釣り池 8.lower park 9.upper park 10.戦車の記念碑 11.ロープシャの記念碑 12.18世紀の温室 13.売店 14.乗降場
庭に面した東側外観
ロープシャは、サンクトペテルブルクから南西へ49㎞、ペテルゴーフからは南へ20㎞に位置しています。
15世紀のノヴゴロド公国時代、Khrapshaの表記で記録があるそうです。
スウェーデンからこの地を奪還したピョートル大帝は、美しい泉に恵まれたこの地に木造の宮殿と教会を建て、夏の離宮として利用しましたが、のちにStrelnaに豪壮な宮殿を築いてからは、この地を訪れることはなくなり、宮殿は家臣の所蔵するものとなりました。
ピョートル時代建設の教会堂
近隣の池
オベリスク
cascade towel(小滝)
1910年 cascade towel
持ち主により修復改修がなされ、維持されてきた宮殿は、18世紀、女帝エリザヴェータの所有するものとなりました。女帝はBartolomeo Rastrelliに新しい宮殿のプランを依頼したが、着工はなりませんでした。
1762年、クーデターで退位させられたピョートル3世はここ、ロープシャに幽閉されたのち、殺害されました。このクーデターにより、女帝として君臨したエカテリーナは、ロープシャを愛人に譲渡しましたが、不吉な館であるとして、さらにアルメニア系の宝石商に売られます。
エカテリーナの死後を継いだパーヴェルはロープシャを買い戻し、Georg von Veldten設計のネオクラシック様式の宮殿と、それに続く英国式庭園を新設し、宮殿の改名も考え、お披露目のイベントを計画していましたが、1801年、またしてもクーデターによりパーヴェルは暗殺されました。
その後、この宮殿は代々の皇帝に受け継がれましたが、あまり利用されることはありませんでした。ただし、最後の皇帝ニコライ2世は、周囲の森での狩りと、鯉や鱒がたくさん棲む大きな池での釣りが楽しめるこの宮殿を比較的よく利用したようです。
来訪した皇族の方々と思われますが不鮮明なのでどなたかの判別がつきません
右から3人目 ニコライ2世
皇后と皇女 左からマリア、アナスタシア、皇后、オルガ
南側アルコーブに立つマリア、手前に皇后
アナスタシアと皇后、奥にニコライ
オルガ アルコーブにはソファが置かれている
ロープシャの池で楽しむニコライと子供達 左からマリア、アレクセイ、ニコライ
ニコライ2世の妹クセニア大公女は、父の従弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチと結婚した際、この宮殿で新婚の日々を過ごしました。
クセニアと夫アレクサンドル・ミハイロヴィチ
ロープシャ宮殿内部のイメージ
革命をへて、ロシアからロマノフ家が消え、宮殿も戦乱に巻き込まれていきました。
主戦場になったレニングラード攻防の重要地点として、ロープシャはドイツ軍の砲撃隊の基地に使われ、ヒトラーの駐留地ともされていたと言われています。
しかし、独露の熾烈な攻防の爪痕は深く、宮殿の内部は無残に破壊され、その後の長い年月の間にも、徐々に崩れていきました。
崩壊は内部だけではなくなり、外観も崩れてゆき、とうとう昨年にはシンボルの列柱も崩折れてしまいました。
2012年 東側正面
2012年 西側
木部の天井も床も落ちて太陽の差し込む内部には草木が生えてゆく
ドア枠のアーチが奇跡的に往時の美しさを保っている
2015年 ファサードの要の列柱が崩れる
100年前、全ての窓に美しくカーテンが掛けられ、ロシアの皇室関係者を迎えたのを最後に、宮殿としての時間は止められ、戦争になぶられ、緩やかに死にゆく建築物。
修復が完成して甦った姿を見るもよし、森の中に静かに姿を消すにまかせるもよし、過去の時の流れはただ、池面に浮かぶ泡沫のように、しばし漂い、やがて見えなくなるでしょう。
絢爛豪華なペテルゴーフの宮殿の大噴水は、ロマノフ家の栄華の側面を、きらきらと象徴している一方で‥。
ニコライ2世ファミリーの写真アルバムより ロープシャ宮殿のページ