ナチス人民法廷で
最年少17才での死刑判決を受けた
ヘルムート・ヒューベナー
Helmuth Günther Hübener
(* 8. Januar 1925 in Hamburg; † 27. Oktober 1942 in Berlin-Plötzensee)
国家社会主義ドイツ労働党にたいする政治犯として人民法廷で死刑となった最年少の者。
ヘルムート・ギュンター・ヒューベナーは、ドイツ、ハンブルグに生まれ、敬虔なクリスチャンの家庭に育つ。
小さいころから教会活動に参加し、ボーイスカウト団体でも活動していた。
1935年、ナチスによりスカウト活動が全国的に禁じられ、ヒトラーユーゲントへの加入が義務化された。 そのため、ヘルムートもヒトラーユーゲントの会合に参加していたが、ユダヤ人に対する「水晶の夜」のような迫害行為にヒトラーユーゲントが加担することに、強い抵抗を感じるようになった。
1941年、ヘルムートはmiddle schoolを卒業後、the Hamburg Social Authority (Sozialbehörde)で見習いとして働く。
当時、陸軍に従軍していた兄ゲルトルートが一時帰宅。その時、壊れたフランス製の短波ラジオを持ち帰った。兄が軍に戻った後、ヘルムートはそのラジオをクロゼットの中に見つけ、敵側の報道に耳を傾けるようになる。当然これは禁止されていた行為である。
ドイツでは当時、ラジオは3局しかなく、全て内容はナチスのプロパガンダだった。ヘルムートはこっそり聴く英BBC放送により、ヒトラーやゲッベルスの発言がいかに真実から乖離しているか、戦場の状況がいかに捻じ曲げて報じられているかを知った。そしてこの戦争の無益なこと、大敗の近いことを、職場や教会の友人とともにタイプライターとカーボン紙を使ってリーフレットを作り、これを掲示あるいは投函配布した。活動開始から8ヶ月、およそ60種のリーフレットを作成した。ヘルムートはこれらをさらにフランス語に翻訳しようと計画していた。
ルドルフ、ヘルムート、カールは教会の仲間であり、ともに抵抗活動をした仲間
しかしその1942年2月、職場の事務員の密告により、ヘルムートはゲシュタポに拘束される。自宅のタイプライターと短波ラジオが押収された。
当初より、ヘルムートと仲間の間では、万が一誰か一人が拘束された場合は、他の者を逃がすために一人で罪を着るという取り決めがあった。
拘束後、ヘルムートは激しい拷問を受けるなかで同志二人の名前を吐いてしまったが、最後まで自分一人で罪を被った。
同志にはそれぞれ5年と10年の労役が言い渡された。未成年であるため、少年法が適用されたと考えられる。
しかし、ヘルムートは違った。
1942年8月11日、人民法廷(※1)で、ヘルムートは「反逆罪による死刑および市民権の永久剥奪」を宣告された。
何か言いたいことはあるかと裁判官に聞かれ、ヘルムートはこう答えた。
「罪を犯していないが、僕は死なねばならない。
今回は僕の番だが、次はお前の番だ」
ゲシュタポによって撮影された写真
17歳(犯行当時16歳)の彼が、なぜこれほどの極刑になったか。
彼の持つ知識は、一般的にも政治的にも非常に高く、また法廷での振舞いや発言にしても少年のそれではなかった。
未成年の裁判はナチスにとっても非常にまれなものであり、ヘルムートが多少でも妥協すれば減刑する可能性も残していた。何しろ、密告を受けて逮捕する時、まさかこんな少年が首謀者であるとは、誰もが信じられなかったらしい。
しかし、法廷では、「ドイツ国民の戦争への努力に対しての彼の行動」が、「極めて有害」であるとみなされ、少年法適用は一切せず、死刑が適当だとされたのだった。
さらに市民権が剥奪された、ということは、以後死刑執行までの期間、独房でベッドも毛布も与えられないのである。処刑の執行日も知らされない。もちろん、それだけの待遇では済まされなかったろうことは察せられる。
本人が知り得たかはわからないが、逮捕の10日後、彼が所属し、熱心に信仰していた教会からヘルムートは破門されている。教会側はゲシュタポに促されてのことのようだが、もしそれを知ったとしたら、彼にとっては相当辛いことだったに違いない。
判決からおよそ2ヶ月後、1942年10月27日、13時5分に執行を告げられ、同日20時13分にベルリンのプレッツェンゼーにて斬首刑に処せられた。
刑の執行を報告している人民法廷の告知
友人によれば、彼は普段からあまり動じないほうであったという。
逮捕後の全くぶれない態度、それ以前に抵抗活動を秘密裏に推し進めていた勇気と志に驚く。
大きなダークブルーの瞳を向けて、彼は訴えてきた。
誇り高く強い人。
しかし、判決が下った後に友を前にし、目を涙で溢れんばかりにし、
「君の良き人生を願っている、そして良きドイツを」
そう言って彼は泣いたのだという。
悔恨の涙?
死んでいくのに何の未練もないなんて、それは絶対ないだろう。
前途あるべき少年が、なんの科もないのに貶められ、挙句、死を宣告される。法廷での毅然とした言動の裏には、17歳の無念が当然あるはずだ。
孤高の姿勢を貫き通すその強さはどこから来るのか。
孤独な闘いに崩れ落ちそうになることはなかったか。
人が死ぬとき、誰もがその瞬間は孤独だ。しかしヘルムートの場合は、その死の宣告のときからずっと、孤独だったのだ。
信念。信仰。
命はおそらく、生き永らえることのみを目的とはしていない。なにを為すか、命の価値は長さより、その内容にあるかもしれない。
ヘルムートの場合、信仰よりは信念に生き、ゆらぐ間もなく死をむかえた。
彼はただ一人、前を向き、振り返らずひたすら進み、彼方に消えてしまった。
1942年、ナチス独裁政権下における、17才のある一つの死。
このあとドイツ第三帝国は止めることのできない破滅に向かってゆく。
最後の日に、ヘルムートは3通の手紙を書くことを許されている。一つは母へ、もう一つは祖父母へ、もう一つは教会の家族へ宛てたもの。この3つ目の手紙が現在唯一、残されている。
それは、死に向きあい、曇りのない強い意志を感じさせるものである。
「あなたがこの手紙を読むとき、私はもういません。私は今日の夕刻、命の終わりを迎えるのです。もうこれ以上はどうにも生きることはできないのです。神は存在し、この件に確かな審判を下されるでしょう。私はいつか、より良き世界であなたに会えることを期待しています。」
ヘルムートらが発行したパンフレットより(抜粋)
"German boys! Do you know the country without freedom, the country of terror and tyranny? Yes, you know it well, but are afraid to talk about it. They have intimidated you to such an extent that you don't dare talk for fear of reprisals. Yes you are right; it is Germany — Hitler Germany! Through their unscrupulous terror tactics against young and old, men and women, they have succeeded in making you spineless puppets to do their bidding." — from one of Helmuth Hübener's many pamphlets, subsequently also published in When Truth Was Treason: German Youth against Hitler, Editors Blair R. Holmes and Alan F. Keele.
2002年ドキュメンタリー番組
「truth & comviction」
(※1)Volksgerichtschof;アドルフ・ヒトラーは、1934年4月24日に「刑法及び刑事訴訟法改正のための法律」を制定して、その法律の中の第三章に「人民法廷」を規定した。第三章の一条は「反逆及び売国行為の罪に対する判決のために人民法廷を設置する」と定め、第五条には「人民法廷の判決に対しては、如何なる法的手段による対抗も許さない」と定められている。
所感。
ヘルムートは自国の危機、その矛盾に対して立ち上がりました。同じ頃、ソビエトでも同世代の多くの若者がパルチザンとして祖国に尽くしていました。現代でも紛争によって、愛国心や家族を奪われた報復、あるいは貧困の代償として幼い子供がその純真さに付け込まれ、少年兵として利用されています。
若者は、その若さゆえにどこまでも突き進んでしまうことで、死に飛び込んでしまいます。
大人が道を誤ることで、若者をこうしたリスクに晒してしまうことはあってはならないでしょう。
ただ、ときにその若さによる曇りのない視点と洞察が、真実をまっすぐに掴んでくることがあります。その力は圧倒的で、核心に迫る。
その力が大きな流れをなして動こうとするとき、私たちも陰に日向にうまく動くことが必要となるでしょう。その命と力を守りたい。
Kahl/Rudolf 1985
10 WW2 Heroes 4/10 helmut hübener
最年少17才での死刑判決を受けた
ヘルムート・ヒューベナー
Helmuth Günther Hübener
(* 8. Januar 1925 in Hamburg; † 27. Oktober 1942 in Berlin-Plötzensee)
国家社会主義ドイツ労働党にたいする政治犯として人民法廷で死刑となった最年少の者。
ヘルムート・ギュンター・ヒューベナーは、ドイツ、ハンブルグに生まれ、敬虔なクリスチャンの家庭に育つ。
小さいころから教会活動に参加し、ボーイスカウト団体でも活動していた。
1935年、ナチスによりスカウト活動が全国的に禁じられ、ヒトラーユーゲントへの加入が義務化された。 そのため、ヘルムートもヒトラーユーゲントの会合に参加していたが、ユダヤ人に対する「水晶の夜」のような迫害行為にヒトラーユーゲントが加担することに、強い抵抗を感じるようになった。
1941年、ヘルムートはmiddle schoolを卒業後、the Hamburg Social Authority (Sozialbehörde)で見習いとして働く。
当時、陸軍に従軍していた兄ゲルトルートが一時帰宅。その時、壊れたフランス製の短波ラジオを持ち帰った。兄が軍に戻った後、ヘルムートはそのラジオをクロゼットの中に見つけ、敵側の報道に耳を傾けるようになる。当然これは禁止されていた行為である。
ドイツでは当時、ラジオは3局しかなく、全て内容はナチスのプロパガンダだった。ヘルムートはこっそり聴く英BBC放送により、ヒトラーやゲッベルスの発言がいかに真実から乖離しているか、戦場の状況がいかに捻じ曲げて報じられているかを知った。そしてこの戦争の無益なこと、大敗の近いことを、職場や教会の友人とともにタイプライターとカーボン紙を使ってリーフレットを作り、これを掲示あるいは投函配布した。活動開始から8ヶ月、およそ60種のリーフレットを作成した。ヘルムートはこれらをさらにフランス語に翻訳しようと計画していた。
ルドルフ、ヘルムート、カールは教会の仲間であり、ともに抵抗活動をした仲間
しかしその1942年2月、職場の事務員の密告により、ヘルムートはゲシュタポに拘束される。自宅のタイプライターと短波ラジオが押収された。
当初より、ヘルムートと仲間の間では、万が一誰か一人が拘束された場合は、他の者を逃がすために一人で罪を着るという取り決めがあった。
拘束後、ヘルムートは激しい拷問を受けるなかで同志二人の名前を吐いてしまったが、最後まで自分一人で罪を被った。
同志にはそれぞれ5年と10年の労役が言い渡された。未成年であるため、少年法が適用されたと考えられる。
しかし、ヘルムートは違った。
1942年8月11日、人民法廷(※1)で、ヘルムートは「反逆罪による死刑および市民権の永久剥奪」を宣告された。
何か言いたいことはあるかと裁判官に聞かれ、ヘルムートはこう答えた。
「罪を犯していないが、僕は死なねばならない。
今回は僕の番だが、次はお前の番だ」
ゲシュタポによって撮影された写真
17歳(犯行当時16歳)の彼が、なぜこれほどの極刑になったか。
彼の持つ知識は、一般的にも政治的にも非常に高く、また法廷での振舞いや発言にしても少年のそれではなかった。
未成年の裁判はナチスにとっても非常にまれなものであり、ヘルムートが多少でも妥協すれば減刑する可能性も残していた。何しろ、密告を受けて逮捕する時、まさかこんな少年が首謀者であるとは、誰もが信じられなかったらしい。
しかし、法廷では、「ドイツ国民の戦争への努力に対しての彼の行動」が、「極めて有害」であるとみなされ、少年法適用は一切せず、死刑が適当だとされたのだった。
さらに市民権が剥奪された、ということは、以後死刑執行までの期間、独房でベッドも毛布も与えられないのである。処刑の執行日も知らされない。もちろん、それだけの待遇では済まされなかったろうことは察せられる。
本人が知り得たかはわからないが、逮捕の10日後、彼が所属し、熱心に信仰していた教会からヘルムートは破門されている。教会側はゲシュタポに促されてのことのようだが、もしそれを知ったとしたら、彼にとっては相当辛いことだったに違いない。
判決からおよそ2ヶ月後、1942年10月27日、13時5分に執行を告げられ、同日20時13分にベルリンのプレッツェンゼーにて斬首刑に処せられた。
刑の執行を報告している人民法廷の告知
友人によれば、彼は普段からあまり動じないほうであったという。
逮捕後の全くぶれない態度、それ以前に抵抗活動を秘密裏に推し進めていた勇気と志に驚く。
大きなダークブルーの瞳を向けて、彼は訴えてきた。
誇り高く強い人。
しかし、判決が下った後に友を前にし、目を涙で溢れんばかりにし、
「君の良き人生を願っている、そして良きドイツを」
そう言って彼は泣いたのだという。
悔恨の涙?
死んでいくのに何の未練もないなんて、それは絶対ないだろう。
前途あるべき少年が、なんの科もないのに貶められ、挙句、死を宣告される。法廷での毅然とした言動の裏には、17歳の無念が当然あるはずだ。
孤高の姿勢を貫き通すその強さはどこから来るのか。
孤独な闘いに崩れ落ちそうになることはなかったか。
人が死ぬとき、誰もがその瞬間は孤独だ。しかしヘルムートの場合は、その死の宣告のときからずっと、孤独だったのだ。
信念。信仰。
命はおそらく、生き永らえることのみを目的とはしていない。なにを為すか、命の価値は長さより、その内容にあるかもしれない。
ヘルムートの場合、信仰よりは信念に生き、ゆらぐ間もなく死をむかえた。
彼はただ一人、前を向き、振り返らずひたすら進み、彼方に消えてしまった。
1942年、ナチス独裁政権下における、17才のある一つの死。
このあとドイツ第三帝国は止めることのできない破滅に向かってゆく。
最後の日に、ヘルムートは3通の手紙を書くことを許されている。一つは母へ、もう一つは祖父母へ、もう一つは教会の家族へ宛てたもの。この3つ目の手紙が現在唯一、残されている。
それは、死に向きあい、曇りのない強い意志を感じさせるものである。
「あなたがこの手紙を読むとき、私はもういません。私は今日の夕刻、命の終わりを迎えるのです。もうこれ以上はどうにも生きることはできないのです。神は存在し、この件に確かな審判を下されるでしょう。私はいつか、より良き世界であなたに会えることを期待しています。」
ヘルムートらが発行したパンフレットより(抜粋)
"German boys! Do you know the country without freedom, the country of terror and tyranny? Yes, you know it well, but are afraid to talk about it. They have intimidated you to such an extent that you don't dare talk for fear of reprisals. Yes you are right; it is Germany — Hitler Germany! Through their unscrupulous terror tactics against young and old, men and women, they have succeeded in making you spineless puppets to do their bidding." — from one of Helmuth Hübener's many pamphlets, subsequently also published in When Truth Was Treason: German Youth against Hitler, Editors Blair R. Holmes and Alan F. Keele.
2002年ドキュメンタリー番組
「truth & comviction」
(※1)Volksgerichtschof;アドルフ・ヒトラーは、1934年4月24日に「刑法及び刑事訴訟法改正のための法律」を制定して、その法律の中の第三章に「人民法廷」を規定した。第三章の一条は「反逆及び売国行為の罪に対する判決のために人民法廷を設置する」と定め、第五条には「人民法廷の判決に対しては、如何なる法的手段による対抗も許さない」と定められている。
所感。
ヘルムートは自国の危機、その矛盾に対して立ち上がりました。同じ頃、ソビエトでも同世代の多くの若者がパルチザンとして祖国に尽くしていました。現代でも紛争によって、愛国心や家族を奪われた報復、あるいは貧困の代償として幼い子供がその純真さに付け込まれ、少年兵として利用されています。
若者は、その若さゆえにどこまでも突き進んでしまうことで、死に飛び込んでしまいます。
大人が道を誤ることで、若者をこうしたリスクに晒してしまうことはあってはならないでしょう。
ただ、ときにその若さによる曇りのない視点と洞察が、真実をまっすぐに掴んでくることがあります。その力は圧倒的で、核心に迫る。
その力が大きな流れをなして動こうとするとき、私たちも陰に日向にうまく動くことが必要となるでしょう。その命と力を守りたい。
Kahl/Rudolf 1985
10 WW2 Heroes 4/10 helmut hübener