血友病に苦しみ
ロシア革命で13歳で銃殺された
ロマノフ朝ロシア帝国最後の皇太子
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ロシア帝国皇太子
アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ
1904〜1918
ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世(在位1894~1917)には第1子から第4子までつづけて4人の皇女が誕生し、なかなか男子に恵まれなかった。しかし1904年に第5子として待望の皇太子が誕生、それがアレクセイ・ニコラエヴィチです。
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両親、姉達に愛され、大切にされたアレクセイ。英国ヴィクトリア女王が曾祖母である彼は、重症の血友病※患者であった。生後1か月半で臍からの出血が3日続いたことにより判明。この時までにヴィクトリア女王を基とし、各国の王族に少なからぬ数の血友病発症者が生まれている。
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4人の姉たちと
姉たちは皆弟に優しく遊び相手になってくれた
時に乱暴な弟に手を焼きつつも
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当然、皇太子のその病名は極秘だった。
親族でさえも知らなかったといわれている。
彼はその短い生涯の中で床に伏して過ごすことも多かった。
※血友病 : 母系保因者から遺伝し男子に発症する。血液凝固系の変位のため血が止まりにくい、それほど激しくない運動でも関節に重症の内出血を起こすなどの症状
病気が癒えて元気なときは、宮廷内が突然光に満ちたように明るい空気に包まれるようになる、快活で華やかな子だった。大変ないたずら好きでもあった。
カメラが普及し始めた時代なので、皇帝ファミリーのポートレートは広く出回り、現存するものも多くある。オフィシャルポートレートのほか、家族のあいだで撮影したスナップ写真も数多く、音声なしの動画のなかでは、ぴょんぴょん跳ねたり走って逃げたり、子供らしい愛くるしい姿で楽しませてくれる。
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1914年から始まった第一次大戦では、皇帝が本営に出かけるときはアレクセイも父に付いて本営に滞在することもあり、見識を広める喜びや誇らしさをかみしめていたようだ。外国の駐在将校たちにも可愛がられ、ときにはかわいい悪戯もする、屈託ない盛りだった。
死の恐れもある血友病発症を心配する母皇后アレクサンドラは、唯一の息子であるアレクセイを戦地に送るのを拒んだが、いずれ国や軍を統帥する立場になる皇太子であるため、危険に目をつぶり、送り出した。一方、父皇帝は現地で息子の病気のことを知る者は自分の他にお付きの医師だけなので、はらはらして落ち着かなかった。しかし、元気いっぱいの息子の明るさと、狭い宿舎で息子と水いらずで過ごす嬉しさが勝り、父としての喜びに浸っていた。
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しかし国内では長引く戦況への不安と経済的破たんからロシア革命が起きた。
既に時代にそぐわなくなった帝政は、もう崩れるしかなかった。ロシア、オーストリア、ドイツの帝政は次々に消失する。
国民の不安と不満は、当時の敵国ドイツ出身のアレクサンドラ皇后に向けられた。皇后の背後にいる怪しい人物ラスプーチンの存在も、国民の感情を逆なでした。ラスプーチンは僧の身形をしているが、僧ではない。何度か瀕死の皇太子を救ったことで、皇后にとってはなくてはならない存在となった。血友病のことは口外できないため、ラスプーチンを身近に置いている理由は理解され得ず、いかがわしい関係を疑われた。世間には醜悪な風刺画があふれた。
国内の問題から離れたい皇帝は、戦地をまわってばかりいる。その間、内政を仕切る皇后は、感情的な独断も多く、革命家が暗躍する土台を提供してしまった。
そして、1917年2月、二月革命。
皇帝は新たな勢力である臨時政府に迫られ、退位した。皇帝一家は当初は、常の住まいにしていたアレクサンダー宮殿内に、その後シベリアのトボリスクに抑留され、さらにその後、赤軍の拠点ウラルのエカテリンブルクに移送された。彼らを取り巻く状況は日増しに厳しくなっていった。
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姉オリガとアレクセイ
このあとオリガは池に落とされたらしい
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おどけてポーズをとるアレクセイ
おそらくトボリスク拘束中の写真
体調が悪くても警備兵が挨拶するとおどけた笑顔で敬礼したという
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トポリスクからエカテリンブルクへ移送される船中で
アレクセイとオリガ
最後の写真といわれている
(追記 2015.10.14)
この移送の道中での「最後の皇位継承者とロシアの庶民との出会い」が1921年にパリにて報告されていた。
「パスハのあと航行期になると皇太子が皇女オリガ、タチアナ、アナスタシアと共に汽船"ルーシ"でトボリスクからチュメーニに到着された。ここでは埠頭に黒山のような群衆が集まっていて皇帝のお子様達をお迎えした。皇太子を見た群衆は大声で泣きだした。
『私達の貴い皇太子様、私達のお優しい皇太子様、あなた様は私共から離れてどこへいらっしゃるのですか、なぜ私達を置き去りになさるのですか?』
男も女も泣いていた。この光景は到底涙なしに見ることはできなかった。手に手に緑の草や花を持って出迎えた群衆はそれを皇子達の通路に敷き始めた‥」
パーヴェル・パガヌッツィ著
「ロシア皇帝一家暗殺の真相」より 注41
「ロシア皇帝一家暗殺の真相」より 注41
これは皇帝一家の状況を報告するべくトボリスクとエカテリンブルクに派遣されたイヴァーノフが発表したものであるが、類似したエピソードが複数伝えられているらしい。
まだボリシェビキに侵されていない地方では旧来のまま皇帝=神の世界観のなかで人々は生きていた。ロシア帝国300余年、ツァーリに加護を求める民衆の信頼と愛惜が、皇太子の細い肩に背負えぬままに、どこへ消えて行ったのだろう。
病が癒えぬうちに、追い立てられるようにウラルに送られたアレクセイ。体重は当時もう35キロしかなかった。
彼らの旅は5月20日から。しかしもう少し快復を待っていられたのなら、生き残れたかもしれない。6月には白軍がトボリスクを制圧。皇太子らがもう発っていたことを知らなかった。
1918年7月16日、深夜に一家全員と随伴者、計11名が予告なく銃殺された。
彼らは深夜に起こされ、簡単な身支度のあと、幽閉中の館の地下室に集められ、銃殺宣告されるや否や一斉に射撃された。
アレクセイは13歳、その当時はほとんど病臥の生活をしていた彼は自分の足で歩くことはできなかったため、父に抱え上げられて地下室へ。父子は軍帽軍服。
銃撃にょつて皇帝と皇后は即死でしたが、狭い部屋を逃げ惑う娘達とアレクセイはなかなか絶命しなかった。彼らは、宝石をびっしり縫い込めた下着を身につけていたので、それが防弾チョッキがわりになったからだ。革命下の混乱で皇帝家の宝石が略奪されるおそれがあるためと、今後懸念される運命の変転に備えるためにも、皇后が指示して用意させたものだった。皮肉にも、即死できずに苦しむはめになってしまったが。
アレクセイはたくさんの銃弾を浴びながらなかなか息絶えず、血の海の中で呻いていたらしい。銃殺者は弾を全て打ち込んだのにまだ動いているその生命力に恐怖を感じ、我を失ったという。最後は、頭に直に撃ち込まれてようやく「静かに」なったといわれている。
アレクセイ絶命までをもう少し詳しく。
歩けないため、父に抱えられて部屋に入ってきたアレクセイは病気らしく顔はロウの色。しかし、状況を把握しようと、兵の動きをしっかり目で追っていた。以前から、状況を素早く察知し対応しようとする能力には優れていたと言われている。
処刑が告げれられ、アレクセイを一瞬振り返ったニコライは、向き直る前に心臓を撃たれ即死。最初の一斉射撃をアレクセイは生き延びたが、迸った父の血を顔に浴びて、歩けないアレクセイは硬直してそのまま椅子に腰掛けていた。さらに撃たれて床に転げ、近くの父の遺体に手を伸ばす。呻き、なかなか絶命しないアレクセイの頭を、兵のひとりが軍靴でしたたか蹴った。銃殺の指揮者ユロフスキーは頭を蹴った兵をなじって自らがアレクセイに近寄り、右耳後ろ辺りに銃口を直接当て、2~3発撃ち絶命させた。
遺体は迅速に片付けられ、長らく所在不明だったが、コプチャキ村の地中の遺体が皇帝一家のものであることがDNA鑑定によって確認された。
しかしそこにアレクセイと一人の娘の遺体がなかった。元から噂された逃亡生存説を裏付けるかのように。(自称四女アナスタシア、自称アレクセイがたくさん名乗りを上げ、その中にはかなり信憑性のあるものもあった。アナスタシアを自称したアンナ・アンダーソンは有名で映画にもなった。彼女は生涯にわたって皇女だったと訴え続け、裁判も起こしまし、死後はロマノフの親族の墓地に入る。しかし後世のDNA鑑定で、別人だったことが判明した)
2007年、1997年に皇帝たちの見つかった穴からほど近い林の中に、二体分の切断され焼却された形跡のある遺体が埋められているのが見つかり、DNA鑑定によりアレクセイと三女マリア(アナスタシアとする説もあり」のものであることが判明した。
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重い血友病で20歳まで生きられないと言われていた不運の皇太子アレクセイ。
しかしながら、大帝国ロシアの唯一の皇太子である彼に、周囲は存命をどれほど強く願っていたことか。むしろ本人が望む以上に。
幽閉先のトポリスクで、幽閉中の退屈さからか、階段での無謀なソリ降りで怪我をし、重症の血友病症状を起こし、痛みに悲鳴を上げながら、
「ママ、僕は死にたい。死ぬことなんか怖くない。ここでこうしているのが、とても怖いんだ」
と。
どんどん暗く、押し込められるようになっていく軟禁生活。子供が考えてもその先にはどうにももう死しか見えてこない。
絶望の淵で生きることの恐怖、残酷を、自分一人の心に秘めて生きることはつらかっただろう。
ロシア皇太子としての輝かしい未来を剥奪されてしまった少年。だが、その未来は彼の場合、病のためにはじめから半分奪われていたともいえる。
幼いうちから彼はそもそもその未来を、遠く叶わぬものと感じとっていた様子もうかがえる。
また、軟禁されてからは、自分は殺されるだろうと思って覚悟していたらしいが、姉たちは助けられるべきだと思い、それを願っていたという。
戦争や革命以前、アレクセイの中にあった感覚…
「自分は長く生きられない」
ある時、寝転んで雲を見ていた当時10歳のアレクセイに、長姉のオリガが何を考えているのか聞いたところ、
「そうだな、とってもたくさんのこと」
「僕はできるだけお日さまと夏の美しさを楽しむんだ。僕がいつか、自分でそれをできなくしてしまうのかどうか、誰が知ってるんだろうね」
血友病の症状は、転んで内出血を起こしたり、鼻血を出したりという些細なことで、死に直結する恐れがある。彼は何度も経験してきた。
最期、血の海で苦しみながら死へたどり着く数分の間、彼の頭に去来していたのはどんなことなのか。
13歳の少年が、消えゆく帝国の皇太子としての、その名の重みから逃れるその時、それと同時に彼の命も消えゆくその時、絶え絶えの息のなかで脳裏に浮かんだものは、どうか、「おひさまと夏の空」であって欲しい。
血の日曜日事件、日露戦争など、民衆にたくさんの血を流させた父帝ニコライ2世の、その娘や息子たちが、最期を自らの血の海で死んでゆくのは相応しい死に様だという見方もあるようだ。
それを、仕方あるまいとは思わない。
まだ13歳のこどもだったのだ。守られるべきはずの年齢でしかない。もっとも、ロシアの民衆の、もっと幼い子供たちでも飢餓で苦しんで亡くなる者も多かったが。
生きている間は受け継いだその血の病に苦しみ、民衆の血の犠牲の報復として、皇太子だったがゆえに殺害されたアレクセイ・ニコラエヴィチ。
そのすべてを理解し、受け容れることができただろうか。あとひと月で14になろうという身であった。
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遺体が埋められていた場所
白樺にかこまれたこの場所で、硫酸をかけられ切断され焼却され埋められ、埋めた跡を隠すためにさらにその上で焚火をしたあとがあった
90年後に光を浴びたのは、いくつかの骨片と遺体からこぼれ落ちた数発の銃弾であった
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Gone Too Soon / tsesarevich Alexei
お読みいただけて光栄です。
たぬきさまの記事を読んで勉強しています。
よろしくお願いします。
読んで下さりありがとうございます
ブログを始めたばかりのころのものなので、ちょっと恥ずかしい気がします
ミステリアスな小説作品を朗読なさるのですか
そのために、イメージの中で背景を描き上げておこうとなさるとは!
成功をお祈りします