ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ
その生涯と周辺の数奇な不幸
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前の記事のデンマーク王女アレクサンドラやダウマーによっても囁かれていましたが、その時代、ヨーロッパの王室ではヘッセン大公家には不幸な出来事が多く、婚姻関係を結ぶのは不吉を呼ぶと心配されていました。
確かにその当時までに、いくつかの不幸がヘッセン大公家で起きていましたが、むしろその後に数々の不幸に見舞われました。
19世紀から20世紀に移る時代は、ヴィクトリア女王崩御でヨーロッパがバランスを失い始めるとき。
その時代を生きたヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒを中心に、ヘッセン大公家が被った不幸な出来事(それが呪いであるかどうかはおき)を追います。
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Ernest Louis Grand Duke of Hesse
1868~1937(1892~1918)
序 ヘッセン大公国とは
1806年、神聖ローマ帝国解体後、ナポレオンがそれまで存在したヘッセン=ダルムシュタット方伯を大公に格上げし、ヴィルヘルム10世が初代大公ヴィルヘルム1世として即位しました。1816年より国名をGroßherzogtum Hessen und bei Rhein(ヘッセンウントバイライン)とし、1871年よりドイツ帝国の構成国家となりました。1918年、第一次大戦後に大公国は廃止され、共和制のヘッセン民主国となりました。
その間、ヴィルヘルム1世、ヴィルヘルム2世、ヴィルヘルム3世、ヴィルヘルム4世、エルンスト・ルートヴィヒの5代が治めました。
1代目からエルンスト・ルートヴィヒに繋がる本家と、第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレグザンダーの貴賎結婚によって分家したバッテンベルグ家があります。
ただし、アレグザンダーとその妹マリーは母が夫と別居してから生まれた不義の子でしたが、大公は認知しています。マリーは、14歳の時に結婚相手を求めてドイツを旅していたロシア皇太子の目にとまり、周囲を押し切って結婚。アレクサンドル2世皇后となったが、皇帝の度重なる愛人問題に苦しみながらも、アレクサンドラ、ニコライ、アレクサンドル3世、ウラディミル、アレクセイ、マリア、セルゲイ、パーヴェルを生みました。
これらのうち、ニコライはデンマーク王女との婚約後に急逝、セルゲイはモスクワ総督退任直後に爆殺され、パーヴェルはロシア革命で銃殺、息子の1人もボリシェビキによって殺害されました。
第5代ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(1868~1937)は、父ルートヴィヒ4世と母アリスの第4子、長男として誕生します。
母アリスはヴィクトリア女王の第3子、血友病遺伝子の保因者でした。そのことから、エルンストは初めての悲しみに直面しました。エルンストの唯一の弟フリードリヒは血友病でした。
1.弟フリードリヒ、血友病による死
エルンストの兄弟姉妹は、
①ヴィクトリア(ルイス・バッテンバーグ妃)
②エリザベータ(ロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチ妃)
③イレーネ(ドイツ皇帝の弟ハインリヒ・フォン・プロイセン妃)
❹エルンスト
⑤アリクス(ロシア皇帝ニコライ2世妃)
❻フリードリヒ
⑦マリー
ですが、フリードリヒが血友病、イレーネとアリクスは保因者でした。もちろん、誰もそのことは知りえない事実でしたが、1873年2月、すでにフリードリヒは血友病であると診断されていました。
母アリスとエルンストと五姉妹
ヴィクトリア、エリザベータ、フリードリヒ
1873年5月、5歳のエルンストは2歳半の弟フリードリヒと母の寝室で遊んでいたが、窓際の椅子からフリードリヒは窓の手摺子をすり抜けて6メートル下に転落、外傷はなく無事であったのですが、血友病の致命傷となる脳内出血が原因で程なくして死亡した。
間近に弟の死と直面し、エルンストは死を強く恐れて看護師に、
When I die,you must die too,and all the others.
Why can't we all die together?
I don't want to die alone like Frittie!
と訴えたといいます。
この、「1人で死にたくない」という言葉が、のちに現実化してしまいます。
2.妹メイと母のジフテリアによる死
1878年、エルンスト10歳。ジフテリアがダルムシュタットで流行し、エリーザベトを除く兄弟姉妹全員が罹患しました。エリーザベトは父方の祖母エリーザベトを訪ねていたため、罹りませんでした。また、同じときに父ルートヴィヒも病気になり、母アリスは皆の看病につとめていましたが、最年少のマリー、愛称メイは亡くなってしまいました。メイをとても可愛がっていた病床のエルンストを気遣い、数週間の間、母はその死を伏せていたのですが、姉から聞いてその死を知り、エルンストはひどい悲しみに打ちひしがれたのです。気の毒なエルンストを慰めるために、母はエルンストにキスをしてあげたのですが、おそらくそれによって母は感染し、看病疲れで抵抗力が低下していたために、あっという間に母も亡くなってしまいました。11月6日に妹メイ、12月14日に母アリスがジフテリアで死亡。まだ幼かったエルンストやアリクスにとって、母の不在は大きな悲しみとなりました。
アリクス、エルンスト、メイ
母の葬儀の記念写真
中央はアリスの母ヴィクトリア女王
後列左から、エルンスト、ヴィクトリア、ルートヴィヒ4世、エリザベータ
前列左、アリクス、イレーネ
アリクスとエルンスト
3.不幸な結婚、娘エリザベスの腸チフスによる死
1892年、エルンストは大公国を継承しました。1894年、母方の祖母ヴィクトリア女王の強い勧めにより、従妹のヴィクトリア・メリタと結婚します。ヴィクトリア・メリタは、エルンストの母アリスの弟アルフレート・ザクセン=コーブルクとその妻、アレクサンドル2世の娘マリア・アレクサンドロヴナ(「美しきデンマーク王女アレクサンドラ」参考)の次女であり、よって祖母マリア皇后からヘッセン大公家傍系のバッテンバーグ家の血を引いています。ヴィクトリア・メリタの妹マリーはのちにルーマニア王妃となっています。長身で、おとなしい性格だったヴィクトリア・メリタ、愛称ダッキーですが、エルンストとは合わず、皿を投げ合うほどの激しい喧嘩をしていました。ダッキーによれば、不仲の主因としてエルンストの男色を理由にしています。
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エディンバラ公アルフレート・ザクセン=コーブルク侯爵夫人マリア・アレクサンドロヴナと子女
(年齢順)アルフレート、マリー、ヴィクトリア・メリタ、アレクサンドラ、(男児死産)、ベアトリス
この写真では右端がダッキー
アルフレートとヴィクトリア・メリタ
公世子アルフレートは梅毒による麻痺生痴呆などで両親の銀婚式式典を欠席中拳銃自殺を図り翌月24歳で死亡。ある令嬢との秘密結婚を両親に咎められた事を悩んだ末の行動だったとされている
2人の間には、1895年に娘エリザベスが生まれましたが、1900年に生まれた息子は死産でした。
エルンストは娘エリザベスを溺愛しましたが、夫婦仲は悪化し、ヴィクトリア女王亡き後間もなく、正式に離婚しました。幼いエリザベスは母に捨てられたと思い、怒りを抱きました。半年ずつ父、母の元で暮らすことになっていたのですが、母方へ行くときにはソファの下で大泣きするほどでした。
巻き髪の愛らしいエリザベスは明るく華やかな少女だった
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ロシア皇女オルガ、タチアナと
1903年10月6日、傍系バッテンバーグ家の長女アリスとギリシャ王子との結婚式がダルムシュタットのヘッセン大公家で行われるため、エリザベスは父方の叔母アレクサンドラ皇后に連れられ、ポーランド、スパラの、ロシア皇族らの狩猟用の宮殿で、歳の近い従姉妹オルガやタチアナとともに過ごしていました。
ところがそこでエリザベスは腸チフスに罹り、瀕死になります。医師は速やかに母親を呼び寄せるように言ったにもかかわらず、ダッキーを嫌う皇后アレクサンドラはなかなか電報を出しませんでした。何も知らず、狩猟のバカンスに合流しようと準備していたダッキーが受け取ったのは、娘の死の報せでした。
この死については謎があり、腸チフスに罹ったのがエリザベスだけであることから、毒の盛られた物をエリザベスが誤って食べてしまった、などとも言われています。
スパラの宮殿 山荘風の外観
内部
ニコライ皇帝は狩りが好きで何ヶ月も狩猟場に逗留した
なお、エリザベスの死の翌年1904年に生まれたロシアの待望の皇太子アレクセイが、1912年にこの宮殿でのバカンス中に、血友病で瀕死の状態になり、皇帝皇后は隠蔽に追われつつも息子の危篤に直面し、絶望のなかから一縷の望みをかけてラスプーチンに縋り、彼からの一本の電報によって死の淵から息子を引き戻したのでした。これ以後、皇帝一家はスパラ宮殿を訪れようとはしませんでした。
一命を取り留めたアレクセイは、翌年まで脚が曲がったままになってしまいましたが、快復を遂げ、皇后のラスプーチン崇拝は高じていきました。
翌年1913年はロマノフ300年祭であったが、皇太子の曲がった脚を隠すのに必死だった
記念写真ではポーズや立ち位置で巧みに隠しているが、この写真では脚の異常がそのまま見て取れる
皇太子は足首捻挫のため歩けない、ということにしていた
スパラ宮殿のバルコニーで休むアレクサンドラ皇后 平静を装いながら瀕死の息子を見守ることで急激に年老いていった
これほどの一大事が起きていたにもかかわらず、1912年のスパラ滞在時のスナップ写真(テニスや狩猟に興じる家族写真や馬車で出かけるアレクサンドラの写真など)が思いの外、多数存在する
血友病はイギリス王室からヘッセン大公家と、傍系のバッテンベルグ家によって拡散していきました。
ヘッセン大公家からは女系で、アリクス(アレクサンドラ皇后)を経てロシア皇太子アレクセイへ、イレーネを経てヴァルデマール王子へ、ヴィクトリア女王の娘ベアトリスからバッテンベルグ家男系で、レオポルト王子、モーリス王子、娘ヴィクトリア・ユージェニーからスペイン王室へと遺伝していきました。
4.姉エリザベータ、妹アレクサンドラがロシア革命によって殺害される
娘エリザベスの死に打ちひしがれながらも、歴代の大公として世継ぎをもうけなければならないエルンストは、1905年、ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ侯の娘エレオノーレと再婚しました。この結婚により、1906年に長男ゲオルク・ドナトゥス、1908年に次男ルートヴィヒが生まれ、ようやく幸せな家庭に恵まれました。
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ベビーカーのルートヴィヒ、ゲオルク、ゲオルクの2歳上のアレクセイ皇太子
ロシア皇女マリア、アナスタシア、アレクセイとゲオルク
ギリシャ王女マルガリータ、テオドーラと
ゲオルクはこの2人の妹のセシールと結婚する
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/62/51c239273e672db1390a8d0449df311c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/38/12b750e5d984094cf38d44ef32b79fce.jpg)
第一次世界大戦が始まると、ドイツ帝国軍に加わり、従軍します。ロシアとは敵国になり、エリザベータやアレクサンドラ皇后とは会えなくなりました。しかし、大戦中にロシア国内で革命が起き、妹の皇后や、可愛がっていた姪達は2月革命では臨時政府に捕らえられて軟禁され、10月革命後は修道女になっていた姉エリザベータまで捕らえられてしまいました。
この経緯のなかで、ロマノフ家の人々はそれぞれいろいろな運命を生きるわけですが、一人、非難を浴びる動きに出たのはキリル・ウラディミロヴィチです。キリル大公はアレクサンドル2世の三男ウラディミル・アレクサンドロヴィチを父に、マリア・パヴロヴナを母に持ち、1905年に周囲に嫌悪されながらも、エルンストと離婚したダッキーと再婚しました。皇帝により皇族の権利を剥奪され、国外へ逃れましたが、父ウラディミル死去により、皇帝の弟ミハイルに次いでキリルが帝位継承第3位となるため、許されて帰国し、権利も取り戻しました。大戦中は従軍しましたが、革命が起きると臨時政府に忠誠を誓うなど、帝室への裏切りとも取れる行動をとったため、ロマノフ家の人々は憤慨し、キリル及びその後裔をロシア帝位継承者として認めない立場をとりました。
これ以降もキリルは逃亡先で「全ロシアの皇帝」を自称、現在もその後裔らが係争しています。
キリル大公とヴィクトリア・メリタ夫妻
娘のキーラとマリア
逃亡先のフィンランドで生まれたウラディミル
エルンストにとって悲劇なのは、妹らの惨殺に乗じて厚かましく帝位継承を宣言したのが、ダッキー夫妻だったということでしょう。
また、皇女アナスタシアを騙る女の正体を、私立探偵を雇って突き止めたのはエルンストであり、エルンスト亡き後に高額な裁判費用を支払ったのはヘッセン大公家に繋がるルイス・マウントバッテンでした。
5.妻・息子・息子の妻・孫の飛行機事故死
エルンストは1937年10月9日、長く患った後、68歳で病死しました。すでに大公国は存在せず、君主としての大公ではありませんが、大公家家長は長男ゲオルク・ドナトゥスに継がれました。
3人の孫ルートヴィヒ、アレクサンダー、ヨハンナと晩年のエルンスト
ゲオルクとセシールの結婚式
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ゲオルク・ドナトゥス
ゲオルクの家族写真
ゲオルク・ドナトゥスはこの年5月に、妻とともにナチス党員になっています。
家督を継いだ翌月、ロンドンでの弟ルートヴィヒの結婚式に参列するため、ゲオルク・ドナトゥスと母エレオノーレ、妻セシール、子供達は、まだ幼い娘ヨハンナは預けて同行せず、6歳の息子ルートヴィヒ、4歳の息子アレクサンダー、そのほか数人の友人とともに飛行機で向かいました。
しかし、途中、工場の煙突に激突して墜落死、乗員乗客全員即死しました。妻は妊娠8ヶ月でした。
ただ一人、幼くて何もわからないヨハンナだけが生き残り、ルートヴィヒ夫妻が引き取って養育していたのですが、不幸にも髄膜炎により事故の1年半後に亡くなりました。
ヨハンナの母方の祖母アリス・オブ・バッテンバーグ(セシールは母からバッテンバーグの血を引いています)は、「目を閉じて動かなくなったヨハンナは、同じくらいの年齢の頃のセシールとそっくりな顔立ちをしていた」と話していました。セシールはエリザベス女王の夫フィリップの姉の一人です。
ヨハンナ
弟の死に直面したとき、「僕が死ぬときは一人で死にたくない、みんな一緒に死んでよね」と哀切に懇願していたエルンストでしたが、まさか家族のほとんどがすぐに自分を追うように亡くなるとは、想像もしなかったでしょう。
ゲオルク亡き後家督を継いだ次男ルートヴィヒは子に恵まれず、ヘッセン大公の称号は遠縁の者が継ぎました。
6.マウントバッテン・キャリスブルック侯家の血友病
傍系のバッテンベルグ家の不幸な出来事について。
アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットのユリア・ハウケとの貴賎結婚による長男ルイスは初代ミルフォードヘイブン侯ルイス・マウントバッテン、三男ハインリヒ・モーリッツ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットはイギリス王女ベアトリスと結婚、長男アレクサンダーが初代キャリスブルック侯アレクサンダー・マウントバッテンです。
ミルフォードヘイブン侯側には血友病は出ませんでしたが、キャリスブルック側はベアトリス王女によって血友病をもたらされたのです。
ハインリヒ・モーリッツの男3人女1人の子息のうち、アレクサンダーを除いて皆が遺伝子を引き継ぎました。詳しくは「王室の血友病 全体像」に書いています。
マウントバッテン家のアレクサンダー、レオポルト、モーリス、ヴィクトリア・ユージェニー
右下が後継者アレクサンダー
スペイン王家 ヴィクトリア・ユージェニーと子女 長男と四男が血友病
7.ルイス・マウントバッテンのIRAによる爆殺
ルイス・マウントバッテンは父方がバッテンベルグ家でヘッセン大公家の傍系であり、母はヘッセン大公女ヴィクトリア、ヘッセン大公エルンストの1番上の姉です。ヴィクトリアの子孫に血友病は1人も出ていません。
この事件に関しては、過去の記事「皇女マリアに恋したルイス・マウントバッテン」に書いています。ヘッセン大公家に連なるから殺害のターゲットになったわけではなく、イギリス王室や政府に向けての抵抗運動であり、ルイス個人を標的に狙っていたわけではないですが、たまたまアイルランドの拠点の近くでルイスが警戒する素振りもなく、悠然とバカンスを楽しむことへの憤りが殺害実行を後押ししたと言えるでしょう。ルイス自身はIRAの活動を批判したことはありませんでした。
百戦を戦い抜いてきたルイスのこと、狙えるものなら狙ってみろ、と開き直るかのような行動を示したのでしたが、まさか娘の姑と孫1人と孫の友人を道連れにしてしまったことは大誤算だったことでしょう。
同じくヘッセンの家系の従姉、若い頃に恋心を寄せていたロシア皇女マリアと同様、暗殺によって召されたルイスは、イギリスのために命を落としています。
左からチャールズ、ルイス、フィリップ
ルイスはフィリップの叔父だが、フィリップはルイスの母(フィリップの祖母)に引き取られて育てられていたため、フィリップにとって兄のような父のような存在であり続けた。チャールズにとっては祖父がわりだった。
事件のあった海岸付近
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結び 呪いとは
ヘッセン大公家にまつわる人々の不幸な運命から、呪われていると囁かれていたのですが、何かの結果として呪われていたわけではなく、不自然に感じざるをえないような不幸が度重なっただけだと思われます。それは、ロシア革命のように、ただそういう時代だったということで説明のつくものもあります。
また、王宮の複雑な社会の中で生きることの過酷さから、ヴィクトリア・メリタの兄アルフレートの自殺や、オーストリア皇后エリザベートの息子の自殺(他殺?)や狂王ルートヴィヒの生涯など、呪わしいといえる運命は、この時代には珍しくはありませんでした。
強いて言うならば、子供の悲痛な恐れから飛び出した「僕が死ぬときは‥」の言葉が、まるで呪いの言葉のように、事態に合致してしまったと言えなくはないでしょう。
ゲオルク・ドナトゥスを抱くエレオノーレとエルンスト
ゲオルクと父母
事故で一緒に亡くなったエレオノーレと孫
その生涯と周辺の数奇な不幸
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前の記事のデンマーク王女アレクサンドラやダウマーによっても囁かれていましたが、その時代、ヨーロッパの王室ではヘッセン大公家には不幸な出来事が多く、婚姻関係を結ぶのは不吉を呼ぶと心配されていました。
確かにその当時までに、いくつかの不幸がヘッセン大公家で起きていましたが、むしろその後に数々の不幸に見舞われました。
19世紀から20世紀に移る時代は、ヴィクトリア女王崩御でヨーロッパがバランスを失い始めるとき。
その時代を生きたヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒを中心に、ヘッセン大公家が被った不幸な出来事(それが呪いであるかどうかはおき)を追います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/55/5df42b2c2cf11bd1d1fe885378f886f5.jpg)
Ernest Louis Grand Duke of Hesse
1868~1937(1892~1918)
序 ヘッセン大公国とは
1806年、神聖ローマ帝国解体後、ナポレオンがそれまで存在したヘッセン=ダルムシュタット方伯を大公に格上げし、ヴィルヘルム10世が初代大公ヴィルヘルム1世として即位しました。1816年より国名をGroßherzogtum Hessen und bei Rhein(ヘッセンウントバイライン)とし、1871年よりドイツ帝国の構成国家となりました。1918年、第一次大戦後に大公国は廃止され、共和制のヘッセン民主国となりました。
その間、ヴィルヘルム1世、ヴィルヘルム2世、ヴィルヘルム3世、ヴィルヘルム4世、エルンスト・ルートヴィヒの5代が治めました。
1代目からエルンスト・ルートヴィヒに繋がる本家と、第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレグザンダーの貴賎結婚によって分家したバッテンベルグ家があります。
ただし、アレグザンダーとその妹マリーは母が夫と別居してから生まれた不義の子でしたが、大公は認知しています。マリーは、14歳の時に結婚相手を求めてドイツを旅していたロシア皇太子の目にとまり、周囲を押し切って結婚。アレクサンドル2世皇后となったが、皇帝の度重なる愛人問題に苦しみながらも、アレクサンドラ、ニコライ、アレクサンドル3世、ウラディミル、アレクセイ、マリア、セルゲイ、パーヴェルを生みました。
これらのうち、ニコライはデンマーク王女との婚約後に急逝、セルゲイはモスクワ総督退任直後に爆殺され、パーヴェルはロシア革命で銃殺、息子の1人もボリシェビキによって殺害されました。
第5代ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(1868~1937)は、父ルートヴィヒ4世と母アリスの第4子、長男として誕生します。
母アリスはヴィクトリア女王の第3子、血友病遺伝子の保因者でした。そのことから、エルンストは初めての悲しみに直面しました。エルンストの唯一の弟フリードリヒは血友病でした。
1.弟フリードリヒ、血友病による死
エルンストの兄弟姉妹は、
①ヴィクトリア(ルイス・バッテンバーグ妃)
②エリザベータ(ロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチ妃)
③イレーネ(ドイツ皇帝の弟ハインリヒ・フォン・プロイセン妃)
❹エルンスト
⑤アリクス(ロシア皇帝ニコライ2世妃)
❻フリードリヒ
⑦マリー
ですが、フリードリヒが血友病、イレーネとアリクスは保因者でした。もちろん、誰もそのことは知りえない事実でしたが、1873年2月、すでにフリードリヒは血友病であると診断されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/5d/1ba48829ad92305f7d6715d2a2aea2b0.jpg)
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1873年5月、5歳のエルンストは2歳半の弟フリードリヒと母の寝室で遊んでいたが、窓際の椅子からフリードリヒは窓の手摺子をすり抜けて6メートル下に転落、外傷はなく無事であったのですが、血友病の致命傷となる脳内出血が原因で程なくして死亡した。
間近に弟の死と直面し、エルンストは死を強く恐れて看護師に、
When I die,you must die too,and all the others.
Why can't we all die together?
I don't want to die alone like Frittie!
と訴えたといいます。
この、「1人で死にたくない」という言葉が、のちに現実化してしまいます。
2.妹メイと母のジフテリアによる死
1878年、エルンスト10歳。ジフテリアがダルムシュタットで流行し、エリーザベトを除く兄弟姉妹全員が罹患しました。エリーザベトは父方の祖母エリーザベトを訪ねていたため、罹りませんでした。また、同じときに父ルートヴィヒも病気になり、母アリスは皆の看病につとめていましたが、最年少のマリー、愛称メイは亡くなってしまいました。メイをとても可愛がっていた病床のエルンストを気遣い、数週間の間、母はその死を伏せていたのですが、姉から聞いてその死を知り、エルンストはひどい悲しみに打ちひしがれたのです。気の毒なエルンストを慰めるために、母はエルンストにキスをしてあげたのですが、おそらくそれによって母は感染し、看病疲れで抵抗力が低下していたために、あっという間に母も亡くなってしまいました。11月6日に妹メイ、12月14日に母アリスがジフテリアで死亡。まだ幼かったエルンストやアリクスにとって、母の不在は大きな悲しみとなりました。
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中央はアリスの母ヴィクトリア女王
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前列左、アリクス、イレーネ
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3.不幸な結婚、娘エリザベスの腸チフスによる死
1892年、エルンストは大公国を継承しました。1894年、母方の祖母ヴィクトリア女王の強い勧めにより、従妹のヴィクトリア・メリタと結婚します。ヴィクトリア・メリタは、エルンストの母アリスの弟アルフレート・ザクセン=コーブルクとその妻、アレクサンドル2世の娘マリア・アレクサンドロヴナ(「美しきデンマーク王女アレクサンドラ」参考)の次女であり、よって祖母マリア皇后からヘッセン大公家傍系のバッテンバーグ家の血を引いています。ヴィクトリア・メリタの妹マリーはのちにルーマニア王妃となっています。長身で、おとなしい性格だったヴィクトリア・メリタ、愛称ダッキーですが、エルンストとは合わず、皿を投げ合うほどの激しい喧嘩をしていました。ダッキーによれば、不仲の主因としてエルンストの男色を理由にしています。
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(年齢順)アルフレート、マリー、ヴィクトリア・メリタ、アレクサンドラ、(男児死産)、ベアトリス
この写真では右端がダッキー
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公世子アルフレートは梅毒による麻痺生痴呆などで両親の銀婚式式典を欠席中拳銃自殺を図り翌月24歳で死亡。ある令嬢との秘密結婚を両親に咎められた事を悩んだ末の行動だったとされている
2人の間には、1895年に娘エリザベスが生まれましたが、1900年に生まれた息子は死産でした。
エルンストは娘エリザベスを溺愛しましたが、夫婦仲は悪化し、ヴィクトリア女王亡き後間もなく、正式に離婚しました。幼いエリザベスは母に捨てられたと思い、怒りを抱きました。半年ずつ父、母の元で暮らすことになっていたのですが、母方へ行くときにはソファの下で大泣きするほどでした。
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1903年10月6日、傍系バッテンバーグ家の長女アリスとギリシャ王子との結婚式がダルムシュタットのヘッセン大公家で行われるため、エリザベスは父方の叔母アレクサンドラ皇后に連れられ、ポーランド、スパラの、ロシア皇族らの狩猟用の宮殿で、歳の近い従姉妹オルガやタチアナとともに過ごしていました。
ところがそこでエリザベスは腸チフスに罹り、瀕死になります。医師は速やかに母親を呼び寄せるように言ったにもかかわらず、ダッキーを嫌う皇后アレクサンドラはなかなか電報を出しませんでした。何も知らず、狩猟のバカンスに合流しようと準備していたダッキーが受け取ったのは、娘の死の報せでした。
この死については謎があり、腸チフスに罹ったのがエリザベスだけであることから、毒の盛られた物をエリザベスが誤って食べてしまった、などとも言われています。
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なお、エリザベスの死の翌年1904年に生まれたロシアの待望の皇太子アレクセイが、1912年にこの宮殿でのバカンス中に、血友病で瀕死の状態になり、皇帝皇后は隠蔽に追われつつも息子の危篤に直面し、絶望のなかから一縷の望みをかけてラスプーチンに縋り、彼からの一本の電報によって死の淵から息子を引き戻したのでした。これ以後、皇帝一家はスパラ宮殿を訪れようとはしませんでした。
一命を取り留めたアレクセイは、翌年まで脚が曲がったままになってしまいましたが、快復を遂げ、皇后のラスプーチン崇拝は高じていきました。
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記念写真ではポーズや立ち位置で巧みに隠しているが、この写真では脚の異常がそのまま見て取れる
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これほどの一大事が起きていたにもかかわらず、1912年のスパラ滞在時のスナップ写真(テニスや狩猟に興じる家族写真や馬車で出かけるアレクサンドラの写真など)が思いの外、多数存在する
血友病はイギリス王室からヘッセン大公家と、傍系のバッテンベルグ家によって拡散していきました。
ヘッセン大公家からは女系で、アリクス(アレクサンドラ皇后)を経てロシア皇太子アレクセイへ、イレーネを経てヴァルデマール王子へ、ヴィクトリア女王の娘ベアトリスからバッテンベルグ家男系で、レオポルト王子、モーリス王子、娘ヴィクトリア・ユージェニーからスペイン王室へと遺伝していきました。
4.姉エリザベータ、妹アレクサンドラがロシア革命によって殺害される
娘エリザベスの死に打ちひしがれながらも、歴代の大公として世継ぎをもうけなければならないエルンストは、1905年、ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ侯の娘エレオノーレと再婚しました。この結婚により、1906年に長男ゲオルク・ドナトゥス、1908年に次男ルートヴィヒが生まれ、ようやく幸せな家庭に恵まれました。
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ゲオルクはこの2人の妹のセシールと結婚する
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第一次世界大戦が始まると、ドイツ帝国軍に加わり、従軍します。ロシアとは敵国になり、エリザベータやアレクサンドラ皇后とは会えなくなりました。しかし、大戦中にロシア国内で革命が起き、妹の皇后や、可愛がっていた姪達は2月革命では臨時政府に捕らえられて軟禁され、10月革命後は修道女になっていた姉エリザベータまで捕らえられてしまいました。
この経緯のなかで、ロマノフ家の人々はそれぞれいろいろな運命を生きるわけですが、一人、非難を浴びる動きに出たのはキリル・ウラディミロヴィチです。キリル大公はアレクサンドル2世の三男ウラディミル・アレクサンドロヴィチを父に、マリア・パヴロヴナを母に持ち、1905年に周囲に嫌悪されながらも、エルンストと離婚したダッキーと再婚しました。皇帝により皇族の権利を剥奪され、国外へ逃れましたが、父ウラディミル死去により、皇帝の弟ミハイルに次いでキリルが帝位継承第3位となるため、許されて帰国し、権利も取り戻しました。大戦中は従軍しましたが、革命が起きると臨時政府に忠誠を誓うなど、帝室への裏切りとも取れる行動をとったため、ロマノフ家の人々は憤慨し、キリル及びその後裔をロシア帝位継承者として認めない立場をとりました。
これ以降もキリルは逃亡先で「全ロシアの皇帝」を自称、現在もその後裔らが係争しています。
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娘のキーラとマリア
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エルンストにとって悲劇なのは、妹らの惨殺に乗じて厚かましく帝位継承を宣言したのが、ダッキー夫妻だったということでしょう。
また、皇女アナスタシアを騙る女の正体を、私立探偵を雇って突き止めたのはエルンストであり、エルンスト亡き後に高額な裁判費用を支払ったのはヘッセン大公家に繋がるルイス・マウントバッテンでした。
5.妻・息子・息子の妻・孫の飛行機事故死
エルンストは1937年10月9日、長く患った後、68歳で病死しました。すでに大公国は存在せず、君主としての大公ではありませんが、大公家家長は長男ゲオルク・ドナトゥスに継がれました。
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ゲオルク・ドナトゥス
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ゲオルク・ドナトゥスはこの年5月に、妻とともにナチス党員になっています。
家督を継いだ翌月、ロンドンでの弟ルートヴィヒの結婚式に参列するため、ゲオルク・ドナトゥスと母エレオノーレ、妻セシール、子供達は、まだ幼い娘ヨハンナは預けて同行せず、6歳の息子ルートヴィヒ、4歳の息子アレクサンダー、そのほか数人の友人とともに飛行機で向かいました。
しかし、途中、工場の煙突に激突して墜落死、乗員乗客全員即死しました。妻は妊娠8ヶ月でした。
ただ一人、幼くて何もわからないヨハンナだけが生き残り、ルートヴィヒ夫妻が引き取って養育していたのですが、不幸にも髄膜炎により事故の1年半後に亡くなりました。
ヨハンナの母方の祖母アリス・オブ・バッテンバーグ(セシールは母からバッテンバーグの血を引いています)は、「目を閉じて動かなくなったヨハンナは、同じくらいの年齢の頃のセシールとそっくりな顔立ちをしていた」と話していました。セシールはエリザベス女王の夫フィリップの姉の一人です。
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弟の死に直面したとき、「僕が死ぬときは一人で死にたくない、みんな一緒に死んでよね」と哀切に懇願していたエルンストでしたが、まさか家族のほとんどがすぐに自分を追うように亡くなるとは、想像もしなかったでしょう。
ゲオルク亡き後家督を継いだ次男ルートヴィヒは子に恵まれず、ヘッセン大公の称号は遠縁の者が継ぎました。
6.マウントバッテン・キャリスブルック侯家の血友病
傍系のバッテンベルグ家の不幸な出来事について。
アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットのユリア・ハウケとの貴賎結婚による長男ルイスは初代ミルフォードヘイブン侯ルイス・マウントバッテン、三男ハインリヒ・モーリッツ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットはイギリス王女ベアトリスと結婚、長男アレクサンダーが初代キャリスブルック侯アレクサンダー・マウントバッテンです。
ミルフォードヘイブン侯側には血友病は出ませんでしたが、キャリスブルック側はベアトリス王女によって血友病をもたらされたのです。
ハインリヒ・モーリッツの男3人女1人の子息のうち、アレクサンダーを除いて皆が遺伝子を引き継ぎました。詳しくは「王室の血友病 全体像」に書いています。
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右下が後継者アレクサンダー
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7.ルイス・マウントバッテンのIRAによる爆殺
ルイス・マウントバッテンは父方がバッテンベルグ家でヘッセン大公家の傍系であり、母はヘッセン大公女ヴィクトリア、ヘッセン大公エルンストの1番上の姉です。ヴィクトリアの子孫に血友病は1人も出ていません。
この事件に関しては、過去の記事「皇女マリアに恋したルイス・マウントバッテン」に書いています。ヘッセン大公家に連なるから殺害のターゲットになったわけではなく、イギリス王室や政府に向けての抵抗運動であり、ルイス個人を標的に狙っていたわけではないですが、たまたまアイルランドの拠点の近くでルイスが警戒する素振りもなく、悠然とバカンスを楽しむことへの憤りが殺害実行を後押ししたと言えるでしょう。ルイス自身はIRAの活動を批判したことはありませんでした。
百戦を戦い抜いてきたルイスのこと、狙えるものなら狙ってみろ、と開き直るかのような行動を示したのでしたが、まさか娘の姑と孫1人と孫の友人を道連れにしてしまったことは大誤算だったことでしょう。
同じくヘッセンの家系の従姉、若い頃に恋心を寄せていたロシア皇女マリアと同様、暗殺によって召されたルイスは、イギリスのために命を落としています。
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ルイスはフィリップの叔父だが、フィリップはルイスの母(フィリップの祖母)に引き取られて育てられていたため、フィリップにとって兄のような父のような存在であり続けた。チャールズにとっては祖父がわりだった。
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結び 呪いとは
ヘッセン大公家にまつわる人々の不幸な運命から、呪われていると囁かれていたのですが、何かの結果として呪われていたわけではなく、不自然に感じざるをえないような不幸が度重なっただけだと思われます。それは、ロシア革命のように、ただそういう時代だったということで説明のつくものもあります。
また、王宮の複雑な社会の中で生きることの過酷さから、ヴィクトリア・メリタの兄アルフレートの自殺や、オーストリア皇后エリザベートの息子の自殺(他殺?)や狂王ルートヴィヒの生涯など、呪わしいといえる運命は、この時代には珍しくはありませんでした。
強いて言うならば、子供の悲痛な恐れから飛び出した「僕が死ぬときは‥」の言葉が、まるで呪いの言葉のように、事態に合致してしまったと言えなくはないでしょう。
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