第一次大戦と周辺の大国の崩壊に直面
君主制を現代に繋いだ
英国王ジョージ5世
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/fc/0b20acfcb43d3ccd43bc59ae4518acff.jpg)
George Frederick Ernest Albert
1865~1936 (在位1910~1936)
20世紀前半の英王室
1901年1月、63年7ヶ月に及ぶヴィクトリア(在位1837~1901)の治世は新世紀を迎えるとともに消えた。1937年に即位したヴィクトリアは、ヨーロッパ諸国の王室の婚姻をほぼ自らアレンジし、英王室との関係をバランスよく形成した。
一方で、不幸にも血友病という禍を国外の王室にもたらした(参考記事『王室の血友病 全体像』)。
その20世紀、ヴィクトリア亡き後残されたヨーロッパ大陸の王室の子孫たちは民衆の力に押されて権威を剥奪される憂き目にあった。多くは君主制から共和制へ変転した。その嵐を乗り越えた英王室は、現在も存続する。
ヴィクトリア女王崩御から現女王エリザベス2世即位までのおよそ50年間は4人の国王が治めた。
在位期間
1901~1910 エドワード7世
1910~1936 ジョージ5世
1936~1936 エドワード8世
1936~1952 ジョージ6世
この4人の国王の生涯を追う。ただし時代順でなく、ジョージ5世から始めたい。
国王4世代
ヴィクトリア、エドワード7世、ジョージ5世、エドワード8世
国王4世代
左から ジョージ5世、エドワード8世、ジョージ6世、エドワード7世
幼時~海軍時代
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1865年、ジョージは生まれる。
父は当時皇太子のエドワード7世、母はアレクサンドラ・オブ・デンマーク。第2子、次男として生まれた。
出生当時、ジョージは王位継承権第3位。1位は父、2位は兄アルバート・ヴィクター・クラレンス公、3位にヨーク公ジョージ。兄弟姉妹は、
アルバート・ヴィクター 1864~1892
ジョージ 5世 1865~1936
ファイフ公爵夫人ルイーズ 1867~1931
ヴィクトリア・アレクサンドラ 1868~1935
ノルウェー王妃モード 1869~1938
アレクサンダー・ジョン 1871夭折
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/6e/72f850718b969b33e8cf65fb1e49a23b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/d2/c48df3e707ef071c79cceb56817a114d.jpg)
兄アルバートとともに家庭教師につき学業を始めたが、出来は芳しくなかった。12歳から父の勧めで海軍兵学校へ。航海で世界各地を巡り、1881年の訪日の折には横浜で有名な彫師に、腕に龍の刺青を入れさせた。
帰国後、兄はケンブリッジ大学トリニティカレッジへ進学、ジョージはそのまま海軍に入隊した。
海軍には叔父エディンバラ公アルフレートがいた。ジョージはエディンバラ公の長女マリアと相思相愛となり結婚を望んだ。両者の父同志は兄弟でもあり、結婚に賛成したが、ふたりの母が許さなかった。エディンバラ公は亡き父アルバート(ヴィクトリア女王の夫)からザクセン=コーブルク=ゴーダ家を継いだため、ドイツに籍を持つに至っていた。ドイツ、オーストリアに敗戦したデンマーク出身の王太子妃アレクサンドラはドイツを嫌っていた。また、マリーの母マリア・アレクサンドロヴナはロシア皇帝アレクサンドル2世の娘であり、莫大な支度金とともに鳴り物入りで嫁いだものの、英王室を見下し、『皇女』の称号を使い続けることに固執した。そうした態度が王室内で更に確執を生んだ。そのためマリアは英王室に娘を嫁がせることは認めなかった。ジョージとマリーの結婚は立ち消えとなった。マリーはのちにルーマニア王フェルディナント1世妃となっている。
兄アルバート・ヴィクターと
マリー・オブ・エディンバラ
夫フェルディナント王を心底嫌い、子の多くは愛人との間に産まれたと言われているが、王妃としては奮闘して国に尽くした
若い頃のジョージ
ヨーク公時代
1891年、兄アルバートが急死した。
兄はインフルエンザから肺炎を悪化させ亡くなった。ジョージはすぐに海軍を退役し、英国に帰った。兄は死の数週間前に、ヴィクトリア女王の勧めるヴィクトリア・メアリーと婚約したばかりであった。
アルバート・ヴィクター
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/0d/28e94df9d72b011b1ee9e11f80155718.jpg)
ヴィクトリア・メアリーはドイツ出身のフランツ・フォン・テックとヴィクトリア女王の従姉妹メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジの娘である。母メアリー・アデレードは子供の頃から大食で大変太っており、Fat Maryの異名を持った。30歳でもまだ独身であったため、ヴィクトリア女王に相手を探してもらい、親の貴賎結婚で王位継承権を持たないテック公と結婚した。3男1女を得たが、収入の少ない生活でありながら夫妻は派手好きで浪費癖があり、借金取りから逃げて各国を転々としていた。1885年の帰国後は女王の好意でケンジントン宮殿の一角に住まわせてもらっていた。その娘に白羽の矢が立ったのは、ヴィクトリア・メアリーの強靭な性格を、女王が次代の英王室に必要と認めたからである。
アルバート・ヴィクターの婚約者 後のジョージ5世王妃ヴィクトリア・メアリー
ヴィクトリア・メアリーの家族
後方の母メアリー・アデレードの隣はアレグザンダー・オブ・テック(参考記事『王室の血友病 全体像』)
国内でヴィクトリア・メアリーに同情が集まったことと、彼女を英王室に迎えることを待望する女王による強い推しもあって、ジョージは兄の婚約者を受け継ぐことを決め、メアリーもそれを受け、両者は1893年に結婚した。
海軍を退役し、時間を持て余したジョージは、1901年までのヨーク公としての時期をサンドリンガムハウス宮殿で、切手収集や狩猟をして過ごした。5男1女を得た。
エドワード8世 1894~1972
ジョージ6世 1895~1952
メアリー(ヘンリー・ラッセルズ伯)
1897~1965
ヘンリー グロスター公 1900~1974
ジョージ ケント公 1902~1942
ジョン 1905~1919
最も後代まで生きたのはグロスター公、最も長命だったのはエドワード8世だった。しかし、早逝したジョンはともかくとしてエドワードは子孫を残していない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/58/5fc7fa02264dc3e41449659d66750e68.jpg)
左から メアリー、アルバート(ジョージ6世)、ヘンリー、デイヴィッド(エドワード8世)
四男ジョージが加わる
ジョージは1902年、ヴィクトリア女王が世を去ってから生まれている
五男ジョンが加わる
兄弟揃いの写真
デイヴィッドとジョンは11歳差
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国王ジョージ5世(中央)と成人した子息子女たち
4王子 左から デイヴィッド、ヘンリー、アルバート、ジョージ
ジョンは1919年に13歳で他界
自閉症、癲癇の持病があり、家族と離れての療養先で亡くなった
王太子時代
1901年に父がエドワード7世として即位して、ジョージは王太子として公務する。エドワード7世は自分の王太子時代、母女王に信頼がなく、政務から遠ざけられていた。国事に関してわざと自分に知らされないことも多く、政府高官が気遣って裏で情報を流してくれることもあった。
そのこともあって、エドワード7世は王太子のジョージには国事に積極的に参加させた。ジョージは王太子妃メアリーを伴ってオーストリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカなどを歴訪した。エドワード7世に信頼されているメアリーも国事に協力、助言した。その一方で、家庭の育児は他人に任さざるを得ず、母性に飢えた王子は将来に禍根をきざす。
品行不良で母女王にうらまれ、王時代も常に愛人問題が絶えなかったエドワード7世であったが、20世紀初めの混沌へ向かうヨーロッパ外交を見事に治めた立派な国王であった。しかしその在位期間は、60歳で即位してからたった9年。長命の母女王の陰となり、国王としての在任においては短命であった。
国王エドワード7世と王太子ジョージ
ジョージはX脚に苦しんでいた
二男アルバートもX脚であり、泣いてもギプスを付けさせた
国王時代
イギリス国王としての来歴を説く前に、閑話としてロシア皇帝との関係を書く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/23/8014d65ee957552db055f302f31b7696.jpg)
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ニッキーの愛称で親しまれたロシア皇帝ニコライ2世はジョージの3歳年下、1868年生まれ。ジョージの母アレクサンドラとニコライの母マリアは姉妹である。デンマーク美人姉妹王女は瓜二つであったため、従兄弟関係のジョージとニコライも共に母親似で、双子のようにそっくりだった。国賓の集まる席ではしょっちゅう互いに間違われた。
ニコライとジョージ、互いの嫡男と
さすがに息子たちまでそっくりというわけにはいかないようだ
ニコライの長女オリガ(エドワード国王右後方)の嫁ぎ先候補にデイヴィッド(左端)も上がっていたが、お見合いが実現したのは先のマリー・オブ・エディンバラの息子ルーマニア王太子カロルのみ
1917年3月、ジョージ5世在位のときロシア革命が起きている。皇帝は退位させられ、ロシア臨時政府により国外追放が検討されていた。亡命先として皇帝一家が望んだのはイギリスであり、臨時政府も英国政府や大使館を通じて交渉を進めていた。ジョージ5世にとっては皇帝ニコライも皇后アレクサンドラもいとこである。しかし、英国内では専制君主であったロシア皇帝を自国に招き入れることを良く思わず、またボリシェビキに攻撃される畏れもあり、国民感情を考えると、例え血縁関係のある亡命希望者であっても迎え入れれば、自分の立ち場が、更にはイギリスの立憲君主制が危ぶまれると考え、政府間の調整が手間取っているうちに受け入れない方針にした。すっかりイギリスに行けるつもりでいた皇女達は落胆した。そのうえ、次に幽閉先に希望したクリミアのリバディア宮殿へも政府の事情で行かれなくなった。次第にボリシェビキの押さえが効かなくなった政府は皇帝一家をシベリアに幽閉し、さらに十月革命でボリシェビキが臨時政府を覆してからは、元皇帝を裁判にかけるべく、モスクワに出頭させようとし、その過程でウラルの過激派に身柄を取り込まれて、裁判もなく、しかも家族や従者もろともに処刑されるに至った。イギリスが亡命を拒んだために最悪の運命に傾いたこの経緯はロマノフ家の生き残りに後々まで恨まれることになった。
ジョージ5世は父エドワード7世とともに元皇太子アレクセイの洗礼時に代父となっている。エドワード7世は皇后アレクサンドラの代父でもあった。当時、先代王は他界しているが、ジョージはアレクセイの代父であればこそ、元皇帝皇后はともかく、子女達は助け得たのではないかと考える。元"皇太子"の助命はその位を考えれば難しかったかもしれないが、13歳という年齢を考慮すれば国民の理解は十分得られたのではないだろうか。皇位継承権第3位でミハイル退位後に亡命先で皇位請求者として名乗りを上げていたキリル・ウラディミロヴィチが放置され、暗殺されなかったことも考えれば、ボリシェビキによる報復が及ぶことはなかっただろうと思われる。尤も、後になって考えれば、のことなのでジョージ国王の慎重さは必要にして十分な判断だったといえるかもしれない。
英王室一家
ロシア皇室一家
その後1919年、ジョージの叔母にあたるロシアの元皇太后マリアとロマノフの親族らに対しては、避難していたクリミアに英軍艦を派遣して亡命を助けた。
クリミアから英軍艦で救助されたロマノフ家の人々
主にマリア皇太后、娘クセニアの家族、クセニアの娘イリナの夫ユスポフらアレクサンドロヴィチの系統
ウラディミロヴィチの系統は革命初期に陸路で亡命
1922年、ギリシャでクーデターが起こり、従兄弟のギリシャ王子アンドレオス(ジョージの母の弟の子)が死刑宣告を受けた際にも、軽巡洋艦を派遣して家族らとともにフランスへ亡命させた。このとき助けられたアンドレオスの末子フィリッポスは、現女王エリザベス2世の夫である。
1922年の亡命時、フィリッポスはまだこんなに幼かった
さて、国王時代のジョージ5世は、大戦を機に世界が君主制を投げ出した時期にあって、イギリスの立憲君主制を揺るぎないものにするべく、その位置づけを明確にし、改変もした。
1917年12月、戦時の反独感情を考慮してアルバート公由来のドイツ家系を名に残すザクセン=コーブルク=ゴーダという家名を、居城の名であるウィンザー家に改めた。同時に、王室家系でドイツの称号を持つ者はそれを放棄し、英国風の名を名乗るようにさせ、従った者には新たに爵位を授けている。例として、バッテンベルク(バッテンバーグ)→マウントバッテン、+ミルフォード=ヘイヴン公爵位など。
一方で、イギリスの称号を持ちながらドイツの称号を放棄しない者からは、イギリスの称号を剥奪した。嫡男を失った叔父アルフレートの死後、ドイツのものであるザクセン=コーブルク=ゴーダの称号はオールバニ公チャールズ・エドワード(最初の血友病罹患者オールバニ公レオポルトの息子)に受け継がれたが、ドイツ軍の将校でもあったチャールズからは、ジョージ国王はイギリス称号を剥奪している。チャールズの姉アリスはドイツ系のテック公アレグザンダーと結婚しており、アレグザンダーはジョージ国王の妃メアリーの弟でもあるため、母方のケンブリッジを名乗った。アレグザンダーにはアスローン伯位が授けられた。(参考記事『王室の血友病 全体像』)つまりチャールズとアリスの兄妹はそれぞれ敵国に別れる運命となった。
王の賢妻メアリーもドイツ称号を棄て、イギリスに尽くす姿勢を示し、軍人や負傷者への面会などを積極的に行い、国民に支持を得ていた。
大戦終結後、ジョージ国王は立憲君主国家としてのスタンダードを固めるために、政府、国民に王室の在り方を明らかにしていった。
アイルランド独立戦争ではアイルランド独立法案を承認し、世界恐慌で挙国一致内閣発足時には王室費削減を行なった。
1926年にはバルフォア宣言により自治領の地位を、1931年にはウェストミンスター憲章により国王の地位を明確に示した。また、1935年の即位25周年の折には国民に向けて、自分は「ごく平凡な1人の人間にすぎない」と話し、国民の心を掴んだ。
雑感。自ら平凡な1人であると言えるのは立憲君主国の王だからだろうと思った。
専制君主国として滅びたロシアの皇位にあれば決して言えない言葉である。皇帝は神格化された存在に位置付けられるからだ。しかしニコライ皇帝こそ純粋に平凡な人間であった。誰もがその平凡さに寧ろ惹きつけられたほど。ただしニコライ本人は幼時からの教育により、皇帝として神格化された存在であり続けようとしていた。退位後は心が解放され自適に暮らしたが、専制政こそ統治に最も優れた体制だと信じ続けた。
継承問題
晩年のジョージにとって頭が痛かったのは、長男のデイヴィッドの不品行である。既に40歳を超えているデイヴィッドであるが、王室では認められない、離婚歴のあるアメリカ人の人妻との結婚を望んでいた。詳しくはあらためて記事にしたい。
ジョージは、このことばかりでなくデイヴィッドは国王の資質に欠けると考え、できれば次男のアルバートに国王になって欲しいと思っていた。アルバートには男子が生まれていなかったが、アルバートのあとは長女のエリザベスに王を継がせるのがよいと考えていた。そしてデイヴィッドには、結婚も跡継ぎをもうけることも望まない、と言うほど嫌悪を抱いていた。また、自分が死ねば一年以内にデイヴィッドは破滅するだろう、とも。
ジョージが体調不良だった1928年から2年間、デイヴィッドが国王代理を務めたが、そこで様々な失態があったのだろう。
デイヴィッドをめぐるこうした強い嫌悪がジョージのストレスとなり、喫煙も増え、肺気腫、気管支炎、胸膜炎を起こし、1936年に70歳で薨去した。
ジョージの死後、事はジョージの思惑通りになった。自然の成り行きのようでもあったが、ジョージの妃メアリーがしっかり手綱を取って事を運んだともいえる。
以降のことは、次回の記事に上げる。
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画像はお借りしました
君主制を現代に繋いだ
英国王ジョージ5世
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George Frederick Ernest Albert
1865~1936 (在位1910~1936)
20世紀前半の英王室
1901年1月、63年7ヶ月に及ぶヴィクトリア(在位1837~1901)の治世は新世紀を迎えるとともに消えた。1937年に即位したヴィクトリアは、ヨーロッパ諸国の王室の婚姻をほぼ自らアレンジし、英王室との関係をバランスよく形成した。
一方で、不幸にも血友病という禍を国外の王室にもたらした(参考記事『王室の血友病 全体像』)。
その20世紀、ヴィクトリア亡き後残されたヨーロッパ大陸の王室の子孫たちは民衆の力に押されて権威を剥奪される憂き目にあった。多くは君主制から共和制へ変転した。その嵐を乗り越えた英王室は、現在も存続する。
ヴィクトリア女王崩御から現女王エリザベス2世即位までのおよそ50年間は4人の国王が治めた。
在位期間
1901~1910 エドワード7世
1910~1936 ジョージ5世
1936~1936 エドワード8世
1936~1952 ジョージ6世
この4人の国王の生涯を追う。ただし時代順でなく、ジョージ5世から始めたい。
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ヴィクトリア、エドワード7世、ジョージ5世、エドワード8世
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左から ジョージ5世、エドワード8世、ジョージ6世、エドワード7世
幼時~海軍時代
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1865年、ジョージは生まれる。
父は当時皇太子のエドワード7世、母はアレクサンドラ・オブ・デンマーク。第2子、次男として生まれた。
出生当時、ジョージは王位継承権第3位。1位は父、2位は兄アルバート・ヴィクター・クラレンス公、3位にヨーク公ジョージ。兄弟姉妹は、
アルバート・ヴィクター 1864~1892
ジョージ 5世 1865~1936
ファイフ公爵夫人ルイーズ 1867~1931
ヴィクトリア・アレクサンドラ 1868~1935
ノルウェー王妃モード 1869~1938
アレクサンダー・ジョン 1871夭折
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兄アルバートとともに家庭教師につき学業を始めたが、出来は芳しくなかった。12歳から父の勧めで海軍兵学校へ。航海で世界各地を巡り、1881年の訪日の折には横浜で有名な彫師に、腕に龍の刺青を入れさせた。
帰国後、兄はケンブリッジ大学トリニティカレッジへ進学、ジョージはそのまま海軍に入隊した。
海軍には叔父エディンバラ公アルフレートがいた。ジョージはエディンバラ公の長女マリアと相思相愛となり結婚を望んだ。両者の父同志は兄弟でもあり、結婚に賛成したが、ふたりの母が許さなかった。エディンバラ公は亡き父アルバート(ヴィクトリア女王の夫)からザクセン=コーブルク=ゴーダ家を継いだため、ドイツに籍を持つに至っていた。ドイツ、オーストリアに敗戦したデンマーク出身の王太子妃アレクサンドラはドイツを嫌っていた。また、マリーの母マリア・アレクサンドロヴナはロシア皇帝アレクサンドル2世の娘であり、莫大な支度金とともに鳴り物入りで嫁いだものの、英王室を見下し、『皇女』の称号を使い続けることに固執した。そうした態度が王室内で更に確執を生んだ。そのためマリアは英王室に娘を嫁がせることは認めなかった。ジョージとマリーの結婚は立ち消えとなった。マリーはのちにルーマニア王フェルディナント1世妃となっている。
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夫フェルディナント王を心底嫌い、子の多くは愛人との間に産まれたと言われているが、王妃としては奮闘して国に尽くした
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ヨーク公時代
1891年、兄アルバートが急死した。
兄はインフルエンザから肺炎を悪化させ亡くなった。ジョージはすぐに海軍を退役し、英国に帰った。兄は死の数週間前に、ヴィクトリア女王の勧めるヴィクトリア・メアリーと婚約したばかりであった。
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ヴィクトリア・メアリーはドイツ出身のフランツ・フォン・テックとヴィクトリア女王の従姉妹メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジの娘である。母メアリー・アデレードは子供の頃から大食で大変太っており、Fat Maryの異名を持った。30歳でもまだ独身であったため、ヴィクトリア女王に相手を探してもらい、親の貴賎結婚で王位継承権を持たないテック公と結婚した。3男1女を得たが、収入の少ない生活でありながら夫妻は派手好きで浪費癖があり、借金取りから逃げて各国を転々としていた。1885年の帰国後は女王の好意でケンジントン宮殿の一角に住まわせてもらっていた。その娘に白羽の矢が立ったのは、ヴィクトリア・メアリーの強靭な性格を、女王が次代の英王室に必要と認めたからである。
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後方の母メアリー・アデレードの隣はアレグザンダー・オブ・テック(参考記事『王室の血友病 全体像』)
国内でヴィクトリア・メアリーに同情が集まったことと、彼女を英王室に迎えることを待望する女王による強い推しもあって、ジョージは兄の婚約者を受け継ぐことを決め、メアリーもそれを受け、両者は1893年に結婚した。
海軍を退役し、時間を持て余したジョージは、1901年までのヨーク公としての時期をサンドリンガムハウス宮殿で、切手収集や狩猟をして過ごした。5男1女を得た。
エドワード8世 1894~1972
ジョージ6世 1895~1952
メアリー(ヘンリー・ラッセルズ伯)
1897~1965
ヘンリー グロスター公 1900~1974
ジョージ ケント公 1902~1942
ジョン 1905~1919
最も後代まで生きたのはグロスター公、最も長命だったのはエドワード8世だった。しかし、早逝したジョンはともかくとしてエドワードは子孫を残していない。
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ジョージは1902年、ヴィクトリア女王が世を去ってから生まれている
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デイヴィッドとジョンは11歳差
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国王ジョージ5世(中央)と成人した子息子女たち
4王子 左から デイヴィッド、ヘンリー、アルバート、ジョージ
ジョンは1919年に13歳で他界
自閉症、癲癇の持病があり、家族と離れての療養先で亡くなった
王太子時代
1901年に父がエドワード7世として即位して、ジョージは王太子として公務する。エドワード7世は自分の王太子時代、母女王に信頼がなく、政務から遠ざけられていた。国事に関してわざと自分に知らされないことも多く、政府高官が気遣って裏で情報を流してくれることもあった。
そのこともあって、エドワード7世は王太子のジョージには国事に積極的に参加させた。ジョージは王太子妃メアリーを伴ってオーストリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカなどを歴訪した。エドワード7世に信頼されているメアリーも国事に協力、助言した。その一方で、家庭の育児は他人に任さざるを得ず、母性に飢えた王子は将来に禍根をきざす。
品行不良で母女王にうらまれ、王時代も常に愛人問題が絶えなかったエドワード7世であったが、20世紀初めの混沌へ向かうヨーロッパ外交を見事に治めた立派な国王であった。しかしその在位期間は、60歳で即位してからたった9年。長命の母女王の陰となり、国王としての在任においては短命であった。
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ジョージはX脚に苦しんでいた
二男アルバートもX脚であり、泣いてもギプスを付けさせた
国王時代
イギリス国王としての来歴を説く前に、閑話としてロシア皇帝との関係を書く。
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ニッキーの愛称で親しまれたロシア皇帝ニコライ2世はジョージの3歳年下、1868年生まれ。ジョージの母アレクサンドラとニコライの母マリアは姉妹である。デンマーク美人姉妹王女は瓜二つであったため、従兄弟関係のジョージとニコライも共に母親似で、双子のようにそっくりだった。国賓の集まる席ではしょっちゅう互いに間違われた。
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さすがに息子たちまでそっくりというわけにはいかないようだ
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1917年3月、ジョージ5世在位のときロシア革命が起きている。皇帝は退位させられ、ロシア臨時政府により国外追放が検討されていた。亡命先として皇帝一家が望んだのはイギリスであり、臨時政府も英国政府や大使館を通じて交渉を進めていた。ジョージ5世にとっては皇帝ニコライも皇后アレクサンドラもいとこである。しかし、英国内では専制君主であったロシア皇帝を自国に招き入れることを良く思わず、またボリシェビキに攻撃される畏れもあり、国民感情を考えると、例え血縁関係のある亡命希望者であっても迎え入れれば、自分の立ち場が、更にはイギリスの立憲君主制が危ぶまれると考え、政府間の調整が手間取っているうちに受け入れない方針にした。すっかりイギリスに行けるつもりでいた皇女達は落胆した。そのうえ、次に幽閉先に希望したクリミアのリバディア宮殿へも政府の事情で行かれなくなった。次第にボリシェビキの押さえが効かなくなった政府は皇帝一家をシベリアに幽閉し、さらに十月革命でボリシェビキが臨時政府を覆してからは、元皇帝を裁判にかけるべく、モスクワに出頭させようとし、その過程でウラルの過激派に身柄を取り込まれて、裁判もなく、しかも家族や従者もろともに処刑されるに至った。イギリスが亡命を拒んだために最悪の運命に傾いたこの経緯はロマノフ家の生き残りに後々まで恨まれることになった。
ジョージ5世は父エドワード7世とともに元皇太子アレクセイの洗礼時に代父となっている。エドワード7世は皇后アレクサンドラの代父でもあった。当時、先代王は他界しているが、ジョージはアレクセイの代父であればこそ、元皇帝皇后はともかく、子女達は助け得たのではないかと考える。元"皇太子"の助命はその位を考えれば難しかったかもしれないが、13歳という年齢を考慮すれば国民の理解は十分得られたのではないだろうか。皇位継承権第3位でミハイル退位後に亡命先で皇位請求者として名乗りを上げていたキリル・ウラディミロヴィチが放置され、暗殺されなかったことも考えれば、ボリシェビキによる報復が及ぶことはなかっただろうと思われる。尤も、後になって考えれば、のことなのでジョージ国王の慎重さは必要にして十分な判断だったといえるかもしれない。
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その後1919年、ジョージの叔母にあたるロシアの元皇太后マリアとロマノフの親族らに対しては、避難していたクリミアに英軍艦を派遣して亡命を助けた。
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主にマリア皇太后、娘クセニアの家族、クセニアの娘イリナの夫ユスポフらアレクサンドロヴィチの系統
ウラディミロヴィチの系統は革命初期に陸路で亡命
1922年、ギリシャでクーデターが起こり、従兄弟のギリシャ王子アンドレオス(ジョージの母の弟の子)が死刑宣告を受けた際にも、軽巡洋艦を派遣して家族らとともにフランスへ亡命させた。このとき助けられたアンドレオスの末子フィリッポスは、現女王エリザベス2世の夫である。
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さて、国王時代のジョージ5世は、大戦を機に世界が君主制を投げ出した時期にあって、イギリスの立憲君主制を揺るぎないものにするべく、その位置づけを明確にし、改変もした。
1917年12月、戦時の反独感情を考慮してアルバート公由来のドイツ家系を名に残すザクセン=コーブルク=ゴーダという家名を、居城の名であるウィンザー家に改めた。同時に、王室家系でドイツの称号を持つ者はそれを放棄し、英国風の名を名乗るようにさせ、従った者には新たに爵位を授けている。例として、バッテンベルク(バッテンバーグ)→マウントバッテン、+ミルフォード=ヘイヴン公爵位など。
一方で、イギリスの称号を持ちながらドイツの称号を放棄しない者からは、イギリスの称号を剥奪した。嫡男を失った叔父アルフレートの死後、ドイツのものであるザクセン=コーブルク=ゴーダの称号はオールバニ公チャールズ・エドワード(最初の血友病罹患者オールバニ公レオポルトの息子)に受け継がれたが、ドイツ軍の将校でもあったチャールズからは、ジョージ国王はイギリス称号を剥奪している。チャールズの姉アリスはドイツ系のテック公アレグザンダーと結婚しており、アレグザンダーはジョージ国王の妃メアリーの弟でもあるため、母方のケンブリッジを名乗った。アレグザンダーにはアスローン伯位が授けられた。(参考記事『王室の血友病 全体像』)つまりチャールズとアリスの兄妹はそれぞれ敵国に別れる運命となった。
王の賢妻メアリーもドイツ称号を棄て、イギリスに尽くす姿勢を示し、軍人や負傷者への面会などを積極的に行い、国民に支持を得ていた。
大戦終結後、ジョージ国王は立憲君主国家としてのスタンダードを固めるために、政府、国民に王室の在り方を明らかにしていった。
アイルランド独立戦争ではアイルランド独立法案を承認し、世界恐慌で挙国一致内閣発足時には王室費削減を行なった。
1926年にはバルフォア宣言により自治領の地位を、1931年にはウェストミンスター憲章により国王の地位を明確に示した。また、1935年の即位25周年の折には国民に向けて、自分は「ごく平凡な1人の人間にすぎない」と話し、国民の心を掴んだ。
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専制君主国として滅びたロシアの皇位にあれば決して言えない言葉である。皇帝は神格化された存在に位置付けられるからだ。しかしニコライ皇帝こそ純粋に平凡な人間であった。誰もがその平凡さに寧ろ惹きつけられたほど。ただしニコライ本人は幼時からの教育により、皇帝として神格化された存在であり続けようとしていた。退位後は心が解放され自適に暮らしたが、専制政こそ統治に最も優れた体制だと信じ続けた。
継承問題
晩年のジョージにとって頭が痛かったのは、長男のデイヴィッドの不品行である。既に40歳を超えているデイヴィッドであるが、王室では認められない、離婚歴のあるアメリカ人の人妻との結婚を望んでいた。詳しくはあらためて記事にしたい。
ジョージは、このことばかりでなくデイヴィッドは国王の資質に欠けると考え、できれば次男のアルバートに国王になって欲しいと思っていた。アルバートには男子が生まれていなかったが、アルバートのあとは長女のエリザベスに王を継がせるのがよいと考えていた。そしてデイヴィッドには、結婚も跡継ぎをもうけることも望まない、と言うほど嫌悪を抱いていた。また、自分が死ねば一年以内にデイヴィッドは破滅するだろう、とも。
ジョージが体調不良だった1928年から2年間、デイヴィッドが国王代理を務めたが、そこで様々な失態があったのだろう。
デイヴィッドをめぐるこうした強い嫌悪がジョージのストレスとなり、喫煙も増え、肺気腫、気管支炎、胸膜炎を起こし、1936年に70歳で薨去した。
ジョージの死後、事はジョージの思惑通りになった。自然の成り行きのようでもあったが、ジョージの妃メアリーがしっかり手綱を取って事を運んだともいえる。
以降のことは、次回の記事に上げる。
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