名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

華麗なるファシスト ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ

2017-08-21 10:31:39 | 人物

スペインファシズムの偶像となった
ファランへ党創始者・殉教者の高潔な生死
"不本意なファシスト"とも



José Antonio Primo de Rivera
y Sáenz de Herdia
1903〜1936



参考文献 『ファランへ党 スペイン・ファシズムの歴史』S.G.Payne 1961 小箕俊介 訳
『ヨーロッパの100年』Geert Mak 2004 長山さき 訳




長身、30歳、柔かい声、礼儀正しい…

証明済みの肉体的勇気、個人的魅力、活力、雄弁、生きたシンボル、熱狂を生み出す能力…

貴族的審美主義、友好的、社交的、人望厚い、控え目、真面目、高い知性…

古典的なスペインの英雄そのままの人物、寛大、精神の幅が広い…


「ファシスト・マルグレ・ルイ《不本意なファシスト》」…親友達はそう呼ぶ。「彼がファシストの指導者の役をしているということはとうてい本当とは見えなかった」、とはロイター通信員の感想である。

ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラは軍人的伝統の強い上流中産階級出身。プリモ・デ・リベラ家はアンダルシアの名家であり、リベラルな親英派の家系。大伯父が第2次カルロス戦争終結に尽力、エスティーリャ侯爵位を獲得。
父ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍は1923年にクーデタを起こし、スペイン王政アルフォンソ13世治下で軍事独裁政権を執った人物。ホセ・アントニオはその長男である。
陽気で女好きで、知的な思考が苦手な父とは異なり、学識高く、文学とくに詩に優れ、豊富な読書量と英語力を持ち、マドリード大学で法学を修め、弁護士としても立つ。
眉目秀麗、際立つ才能と社会的地位の高さで、存在するだけで人々を惹きつけるが、決しておごることはなく、柔和な印象を与えた。

1920年から1930年。当時のスペインは難破船。反乱続きで大荒れだった。ヨーロッパの近代化に取り残されたスペインでは識字率も低く、労働効率も低く、階級差が著しかった。
ただし混乱はスペインだけではなかった。ヨーロッパ中の民主主義・資本主義が破綻し始め、雑多なイデオロギーが各国内で衝突する。ヨーロッパの最果てで、元から不安定だったスペインは一番にぐらつき出した。
右派、左派、共和制主義、君主主義、自由主義、無政府主義、近隣のイタリアからのファシズムの影響も強かった。右派、左派それぞれの中でも様々な抗争があったし、カトリック教会も強い力を持っていた。
ホセ・アントニオはいわゆるセニョリート、貴族階級で学識も教養も高く、高貴な風貌の青年であり、自分の天分は書物の世界にあると考えていた。独裁者の息子であることに慎重を期して政治的な発言は極力しないように自重していた。
ところが1930年に、父ドン・ミゲルが失脚してパリに亡命、程なくして病死する。祖国を愛し、復興に向けて尽力していた父の努力を知るホセ・アントニオは、政界でたびたび父が非難されるのに接し、強い憤りを抱いた。父の不名誉を払拭することを使命と感じたホセ・アントニオは、政界へ足を踏み出す。自分の本分である文学に後ろ髪を引かれながら。
そこからたった6年。だが彼の生涯は革命的で、実際スペインを革命に誘導した。控え目な青年がファシズムのカリスマになるまで、彼の運命とスペインの運命をたどる。


ホセ・アントニオの父 ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍

ドン・ミゲルと国王アルフォンソ13世

ホセ・アントニオ 1930年当時


1930年〜1932年
ウニオン・モナルキカ・ナシオナル〔国民的君主同盟〕の副書記長に就任。父の元閣僚が多い組織に招かれた形だ。ホセ・アントニオは全面的に父の政治を擁護、これを継続することを目指すと息まく。彼によれば、父の理念は正しかったが、追求の仕方が19世紀的だったのが敗因だったのだと。現代社会においては改革は激烈に押し進める必要がある、と力説し、父をなじる者があれば感情的になり、取っ組み合いになることもあった。

10月に国会補欠選挙に立候補したが敗れてからは、弁護士として法律業務に携わる。その傍ら、自分の政治的理念を整理した。
ドン・ミゲルの施策は根本的には保守で、祖国への愛情を礎とした穏やかな改革であり、また上からの改革であった。権威主義的でもあるが、ホセ・アントニオは権威主義こそは徹底するべきと考えた。マルクス主義や無政府主義とは対照的である。全ての者が祖国愛を持つこと、国民主義的な大衆を創造的少数者が采配して治めるかたちを理想とした。

スペインにおいてファシズムの党派はすでに存在していたが、ホセ・アントニオは、青年の道徳的熱狂による国民主義イデオロギーと、創造的少数者による急進的政治的経済的改革で新たなファシズムの流れを生み出そうとした。
「最大多数」や愚劣な「選挙」が正しいとはいえない、とホセ・アントニオは考える。スペインでは選挙のたびに大きな振り幅で政体が変わり、国政は揺さぶられ、社会は混乱を極めていった経緯がある。普通選挙に連なる自由主義デモクラシーや議会主義的形態にも反対。彼の言う創造的少数者とは施政者だが、創造的少数者のみが政治を握るということではなく、国家の抽象的な観念理念つまり国家論を形成するのが一定水準の能力を持った少数者の役割で、具体的改革を論ずるのは大衆的血統の人々が役割を担うものとする。思想運動と実践政治を区別し、思想運動を優位に位置付けている。ホセ・アントニオによる詩的な扇動が国民の、特に若者の熱狂を集め、それまでのファシズムの拡散的だった諸潮流に統一を与える。ファランへ党が結成された。


1933年10月29日のファランへ党の党大会にて。
「ファシズムは戦術。暴力ではない。
それは観念、統合なのだ。」

10/29 ファランへ党大会



自由主義の死滅の後には革命…。特にスペインにおいてはもはや改革や政治形態の転換などでは対処しきれない、革命が必然だとホセ・アントニオは考えていた。
自由主義国家においては労働者は思い通りに働く自由があるが、しかし働かなければ餓死するのみだ。そこで社会主義が出現するが、それは唯物論的で階級闘争が目立ち、報復感覚が人々の心を蝕む。その状況を土台にしてホセ・アントニオの思想はこう展開する。
「パトリア〔祖国〕は、すべての個人と階級が統合される全体的統一体。人間の自由はそこでは尊敬される。」
経済や政治は国民的サンディカリスムの形態に似て、共同体で運営する計画のようだった。
ホセ・アントニオの雄弁な語り口は参加者を虜にした。声の調子、居ずまい、詩的な表現、巧みな弁舌に酔わされた。この模様はたくさんのジャーナリストも報道し、放送もあったらしい。
当然、これはホセ・アントニオが自らの重要な使命としている詩的運動であるから、彼自身が最も本領発揮する機会として最大限にアピールすべきところであった。
「人々が詩人以外のものによって動かされたためしはない」と彼はいう。このファシスト政党の大集会は無事に終了した。しかしそれは本当に「無事」だったといえるのか、とジャーナリストは首をひねる。無事に終わるファシストの集会だなんて、ファシスト政党として大丈夫なんだろうか?という皮肉だ。集会が終わって、政府のマルティネス・バリオの「アテネ〔学芸協会〕の気持ち良い文学的茶会に出席してきたような感じがした」という評もありがたいものではなかった。この時点においてファランへ党はファシスト政党としてあまりにもマイルドだったというわけだ。
しかし若者達は彼に陶酔し、学生党員が急増した。この後、ホセ・アントニオはコルテス〔議会〕に議席を獲得し、国会議員を務める。1934年2月11日、別のファシスト組織JONSとファランへ党が合併し、ホセ・アントニオ、ラミロ・レデスマ・ラモス、フリオ・ルイス・デ・アルダの三頭政治で組織された。役割分担としては、貴族的審美主義者ホセ・アントニオが審美的思想運動を、レデスマが知的プロレタリアートとして実践的内容を押し進めた。

党大会で演説するホセ・アントニオ





ファランへ党の濃青色のシャツ 胸に党シンボルの刺繍




詩とテロリズム。
1934〜1935年の動き。
ホセ・アントニオは若者達に熱狂的に支持されたが、彼自身はむしろいわゆるインテリゲンチャと呼ばれる人達に評価されたいと思っていた。かつて父がスペインの知識人たちから軽蔑されていたことを悔しく思っていて、自分が彼らに認められたいと望んでいたからである。それゆえに、党機関誌の論文でもかなり表現に頭を悩ませ、周りの者が首を傾げることも多々あった。しかし、インテリのウナムノからは「ファランへ党は青年の『非精神化』に貢献する」と評されてしまった。

ホセ・アントニオとしては自分の展開する思想運動によって、若者達の中から創造的少数者を育て上げるつもりでいたのだが、実際に若者達がファランへ党に求めていたのは神秘主義的な高揚だった。若者達の高揚は、その内奥に犠牲と暴力に向き合うロマンだった。

党員達と

暴力について、ホセ・アントニオは自らの考えを明らかにしたことがある。

「…最後に、われわれの願うことは、もしいつかこれ〔祖国の統一体〕が暴力によって成し遂げられなければならないのだとしたら、暴力からしりごみをしてはならないということです。なぜならば、「暴力を除くあらゆるもの」が語られているときに、だれが、諸価値のヒエラルキーにおける至高価値は温厚さであると言いましたか。われわれの感情が辱しめをうけているときに、われわれは男らしく応ずるかわりにおとなしくしていなければならないただれが言いましたか。たしかに、対話が意思疎通の第一の手段であるということはきわめて正しいことです。しかし、正義やパトリアが傷つけられているときには、鉄拳とピストルの対話以外に認めうる対話はないのです。…」

ホセ・アントニオは生来、暴力を容認するような人物ではないことは身近な人達には知られている。そのため彼の『鉄拳とピストル』の発言は余程の差し迫った状況下に選択されるものだということは自明なのだが、左派はこれを字義通りに、好戦的に受け取ったのだった。加えて、ファランへ党の末端の、血気みなぎる若者達もまた同じだった。
左派は当時、ドイツはナチに、ウィーンはドルフスに、フランスにおいても議会制が揺らぐという不利なヨーロッパ情勢の中で、スペインにおいては何としても足場を固めておきたいと必死だった。そのため、左派に向けて発言されたと受け取れる『ピストル』の恐怖に過剰に反応することになる。
街中で抗争が起きる。日増しに数も増え、過激さも増し、ファランへ党員が日毎に犠牲になった。ある日、ファランへ党の学生団体SEU(シンディカート・エスパニョル・ウニベルシタリオ)創始者の一人マティアス・モンテロが射殺されるに至った。マティアスは弱冠20歳、その埋葬式は数百人のファランへ党員と1000人近い友人や同調者が参列。
ホセ・アントニオの弔辞、

「同志マティアス・モンテロ・ロドリゲスよ。模範となってくれてありがとう。神が君に永遠の安らぎを与え、君のまいた種をわれわれがスペインのために刈り取ることができるまで、われわれに安らぎを拒まれんことを。もう会うことはないのだ、マティアス・モンテロ・ロドリゲスよ」

若い党員が次々に犠牲になっても、ホセ・アントニオは決して報復はさせなかった。その様子を『スペイン葬儀団』と揶揄する者あり、「新しい党はファシズムというよりフランシスコ主義に似ている」と軽口する者あり、世間は反撃に出ないのを訝しがった。モンテロ殺害にたいするホセ・アントニオの反撃は、新聞に宛てたこのような手記だけだった。

「スペイン・ファランへ党は、犯罪組織のごときものでは断じてない。また、いかに多くの挑発を受けようとも、そのような組織のやり方を踏襲する意図はもたない」

ホセ・アントニオはどこまでも高潔であった。
彼の言葉は全く偽りのないものだった。党内の家宅捜索では、棍棒20本があっただけで、火器は一つも見つからなかった。しかしスペインの世論が望んでいるのは、即時報復のようなもっとたくましいものであった。党員は肉体的活動に渇いていた。ホセ・アントニオを脅迫する若手党員もいて、誠意ある対話の中で説得されたが、知的ファランへと好戦的ファランへの溝は少しずつ深まっていった。

1934年3月、ホセ・アントニオ暗殺未遂が起きた。乗車中を狙われ、フロントガラスは打ち砕かれたが実害はなかった。ホセ・アントニオはすぐに車外に飛び出し、実行犯を追いかけ銃撃した。
日々エスカレートする襲撃に、彼もとうとう報復を黙認、報復部隊の組織を認めた。
6月、手入れが入り党員67人が逮捕される。ホセ・アントニオも含まれていたが、幹部らはすぐに釈放された。しかしホセ・アントニオはまだ拘束されている党員達と共にありたいと望み、拘留先に戻り、熱弁をふるって党員達全員を釈放させた。学生達はますます彼を仰ぎ、彼は偶像と化した。やがて単独でファランへ党党首になり、偶像に祭り上げられても、ホセ・アントニオという人物の本質は変わらなかった。

彼はファシスト的資質をもっていたか。
ヒトラーやムッソリーニと大きく異なるのは間違いないが、真にファシズムの総裁にふさわしい資質とはどんなものなのか、よくわからない。彼は自由主義者の友人らとも親しく対話するし、反対の党に対してもごく自然に人間的であることを認める、友好的な資質は保ち得ている。これは排斥的なヒトラーとは特に違う点だ。
あるデモ活動のとき、割って邪魔に入った左翼の青年が、他の党員に乱暴されないように腕に抱いて庇って救ってやった。党大会においても「くたばれ」「死ね」などと叫ばせない。こうした他者を受容する姿勢は果たしてファシスト総裁として欠点になるのか、逆に理想型となるのか。
しかしとうとう彼は総裁になることなく、消えることになってしまったため、ファシストととしての素養、適否はわからずじまいになった。ホセ・アントニオのかわりに総統となって長きにわたってスペインファシズムの頂点に君臨したフランシスコ・フランコは、彼とはまるで似ていない。さてそれはスペインの歴史のまだ大分先のこと。ホセ・アントニオの最晩年の苦しみはここから始まる。






彼の囚われの悲劇を語る前に、彼の協働者ラミロ・レデスマが語るヘフェ、ホセ・アントニオの姿を示しておきたい。

「プリモ・デ・リベーラにとって特徴的なことは、彼が、彼の知的形成と、彼の生まれ育った政治的・社会的背景に起因する一連の解きがたい矛盾の上で動いているということだ。彼の目標は堅持され、そして彼は、それを実現したいという真剣な願望によって動かされる。彼が、こうした目標が真に自分にふさわしい人生目的でないことを、彼が自分自身の矛盾の犠牲者であることを、そしてまた、それらのおかげで彼が彼自身の仕事と、もっと悪いことには、彼の協力者たちの仕事とをむさぼりくらうことができるのだということに気づくときに、ドラマやもろもろの困難が生まれるのだ。彼がファシズム運動を、すなわち刺戟の美徳への信仰、時として盲目的な熱狂、もっとも狂信的で攻撃的な国民的感情、人民の社会全体をおもう深い苦悩などから生まれる仕事を、組織する様を見たまえ。私はくり返していう。理性的なるもの…を礼讃し、柔和で、懐疑的な態度を生み、愛国心のもっとも臆病な形をとろうとする傾向、感情の叫びや主意主義の排他的衝動を支持するものは何でも放棄する性癖をもった彼を見るがいい。こうしたことのすべては、いんぎんな気質と法律の素養と一緒になって、彼を理屈からいえば自由主義的で、議会主義的な型の政治態度に導くだろう。それにもかかわらず、諸般の事情はそうした発展を妨げた。独裁者の子であるということや最高のブルジョワ社交界に縛られて生活しているということは、人の運命に影響を与えるのに十分力のあることがらである。それらはホセ・アントニオをゆさぶり、いやおうなく彼の感情を曲げさせ、彼の矛盾を解決してくれそうな政治的・社会的態度を追求させることになったのである。彼はそうした態度を知的手段によって追求し、それをファシズムのなかに見出した。この発見の日から彼は、こうした態度が真実であり、深いものなのだと自分自身に信じこませようとして、彼の内面で激しくたたかってきたのである。心の底で彼は、それが根拠のない、人為的な、一時的なしかたで自分のところにやってきたものではないかという疑いを抱いている。それが彼のまよいと行動様式を説明するものなのだ。彼をして時に三頭政治のシステムをえらばせ、ヘファトゥーラ・ウニカへの野望を抑えさせたのはこうしたまよいだった。内部危機から彼の指導的地位が危なくなったと見たときにようやく彼はそれに就く決心をした。有能な男が自分自身の限界と勇敢にたたかっているのを見守ることは奇妙であり、劇的ですらある。じっさい、こうした限界を克服してはじめて、彼はいつの日か勝利を手にすることを望めるのである。」

最終的に彼の勝利を阻んだのは、彼自身ではなかった。単純に言えば、運命、がそうした。





『アリーバ!』いざ立て
これはファランへ党の合言葉である。1934年以降の事態はこの言葉に象徴される。
ホセ・アントニオの欠点は、個人的関係に甘すぎて政治的指導者に求められる冷静な客観的態度を保持することができないことだと周囲の人達にはいわれていた。
彼の本意に反してファランへ内部の学生団体SEUは左派と小競り合いを起こすが、ホセ・アントニオは熟慮の末、成り行きに任せるようになった。
党員の60〜70%が21歳以下、あまりにも若く血気逸る若者たちについて、その無知ぶりをホセ・アントニオは他からたびたび指摘されるが、「彼らには頭よりはるかに多くの心がある」と擁護する。受容、包容。それも彼の欠点かもしれない。あるいは美点であるともいえる。

ファランへ党は右派の一派として名を上げていくものの、単独で実権を握るにはまだまだ力不足で、革命を起こすには軍部と協働する必要あると考えるようになった。しかし、それでも軍部への手紙などでのやりとりは慎重になされた。
1936年、非常に緊張した政情のなかで選挙が行われた。右派と左派は拮抗していたが、左派が勝利した。ホセ・アントニオも議員の地位を奪われ、一市民となった。
左派が勝利した場合はファランへ党は軍部を支持する取り決めとなっていた。ホセ・アントニオはSEU全員にファランへ義勇軍入隊を命じた。

「スペインはもはやその国民革命の履行を避けることはできない」

と、ホセ・アントニオ。無用な対立を避けるための内閣との交渉は実を結ばず、次の内閣はより強硬になり、交渉は断念せざるをえなかった。左派と右派の対立は激化するなかで、様々ある右派のうちでファランへ党は勢いを伸ばし、党員はうなぎのぼりに増え、経済援助も増えた。しかしそれはファランへ党が街頭の左右のバトルの矢面に立たされ、責任を被る羽目にもなった。ヘフェ(党首のこと:ホセ・アントニオ)は党員に直接的報復を認めなかったが、地方指導部がイニシアチブをとって左翼要人に対する一連の襲撃を始めた。そもそもファランへ党の党綱領も理解しておらず、ホセ・アントニオを偶像として崇めても、ヘフェの思想を理解するには程遠い、ただの暴徒でしかない若手のファランへ達は独走、暴走をすすめる。
ホセ・アントニオは軍部との協働を目指し、モラ将軍とクーデタの計画をすすめていた。そんな中、政府はホセ・アントニオ他ファランへ党指導者を逮捕、マドリードの収監所カルセル・モデーロに監禁した。1936年3月14日。さらにファランへ党を合法的な政党から、非合法な組織団体へと格下げした。しかしどの団体においてももはや、指導者がその大衆を抑えることはかなわなくなってきたし、どの指導者もそれを認識していた。
監禁中のホセ・アントニオはこのような事態悪化においても、大胆な一撃によって権力奪取することをあきらめていなかった。ファランへ指導部同胞のルイス・デ・アルダも収監所から『暴力の正当化』という論文を出した。「スペインはすでに内戦状態に入っており、いまや引き返すには遅すぎる。いかなる勢力も妨げられるべきではない」ことを宣言した。

4〜5月、ホセ・アントニオの4つの裁判が行われた。いずれも拘留を長引かせるための軽い不法行為だが、4つ目は武器の不法所持に関するもので、逮捕後2ヶ月も経過した時点での家宅捜索で発見されたという証拠およびその有罪の判決に、彼は激怒した。明らかなでっちあげだと。節度を失ったホセ・アントニオは、インク瓶を書記に投げつけ、裁判官の法衣を引き裂き、「これがスペインの裁判のなしうる最善の判決ならば、もはや裁判にこれ以上の期待はしない」と浴びせかけた。後日、この時の自分の逆上を、ファランへの若者達に示しがつかないと反省したことを周囲にもらしている。このあとホセ・アントニオはアリカンテの収監所に移送された。
これまでもホセ・アントニオの脱走計画は何度も起こり、いずれも失敗していたが、アリカンテに移ってからはますますそれが困難になった。ドイツ海軍からも有力な計画が持ち上がったが、それを渋り計画を断念させたのはフランシスコ・フランコである。また、党幹部がほとんど逮捕され統率を失っているファランへ内部から、アリカンテのホセ・アントニオのもとに情報はほとんど届かなくなっていた。党では弟のフェルナンドが対応に苦慮していた。

ホセ・アントニオはファランへ党の以後の方針として、強硬な政権と対抗するために、他の右派など他集団との政治的紛糾を回避し、反乱のための協力者を得るべきとし、カルロス党と軍と結んだ。左派との戦いを目指す者はファランへに入党する。そして軍(全体ではないが主力、有能な将校が多数)と結成される反乱軍のイデオロギーとしてファランへ党がかつがれる。
状況を慎重に窺い、なかなか踏み出せないモラ将軍に、ホセ・アントニオは獄中からクーを煽る。モロッコのフランコ将軍も待機して時機を見ている。
1936年7月17日、モロッコで反乱が起された。
9月29日、フランコ将軍がスペインに上陸、反乱軍の総司令官兼元首となる。反乱軍側にドイツとイタリアが加担、隣国ポルトガルも支援。共和政府側にはソ連が加担、国際旅団が義勇軍として加担する。当時、宥和政策方針だったイギリスは中立を宣言、フランスも中立を決めた。アメリカも中立、ただしフランコ側へ石油を供給した。
イギリス、フランスの協力を得られなかった政府側はかなり不利になってしまったが、ソ連が深く介入。しかしそれは、スペインの左派のうちの、スターリンを認めないマルクス主義派との内部対立も内包し、ソ連は密かにNKVDも派遣してマルクス主義を粛清するという、内部の潰し合いをこの機に起こし、中側から破滅させる要因になった。
ホセ・アントニオは、クーは短期間で成功させる必要があると考えていた。期間が長期に及べば党が保たず、国土も荒廃するからである。しかし反乱は短期で決着できず、長期の内戦になってしまった。獄中のホセ・アントニオになすすべはなし、手綱はフランコが握っているのである。内戦は遠いところで動いていた。ホセ・アントニオを救うために反乱軍はアリカンテを手中に収めたかったが叶わず、政府軍に掌握されていた。ホセ・アントニオは孤立した。
しかし、彼には彼自身の戦いが控えていた。




「私の母は」
有名な逸話がある。
銃の不法所持で裁かれている法廷で、国外追放を言い渡されたホセ・アントニオは、「それはできません。私の母は病気なのです」と答える。ホセ・アントニオの母はかなり以前に他界しているのは知られているのでそれを指摘されると、彼は、「私の母はスペインなのです」と答えたという。これは聞く人によって受け取られ方は様々だと思う。詭弁だ、と不快に思う人もいるだろう。私は感心した。心に詩が根付いている人なのだと。そしてこれを法廷で平然と言える心の強さに感服する。

囚われのヘフェは内戦の人質だった。共和国側はファランへ党のヘフェを速やかに抹殺したく、共和主義者のアリカンテの知事が動いた。最後の裁判が開かれた。1936年11月13日。
起訴状の罪名は、「共和国に対する反乱準備幇助罪」。予備的罪状の裁判だ。弟ミゲルとその妻も起訴された。弁護士でもあるホセ・アントニオは自己弁護で立ち、自分の無罪を主張した。裁判の様子を伝える地方記者の記録から、その様子が伝わる。

「部屋につめこまれた人々の雑踏から離れて、ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラは、法廷から認められたわずかな休憩時間のあいだに、検事の最終陳述の写しを読んでいる。彼はまゆげ一つ動かさない。まるで彼にかかわりのない何か陳腐な問題を扱った書類でも読んでいるかのようだ。彼の穏やかな表情は変化の気配一つ見せない。ほんのわずかな時間を彼は熱心に、注意力を集中して、室内の絶えまないざわめきに悩まされることなく、読み続けている。

プリモ・デ・リベーラは、雨音に耳を傾ける人のように、法廷の儀式に聴き入っている。この事件、この恐ろしい事件の全体が彼に動揺を与えているようには思えないだろう。検事が読み上げているあいだ、彼はいささかのてらいもなく、神経質にふるえることもなく、自分の書類を読み、書き、整理している。

ホセ・アントニオは相変わらず、裁かれている彼自身と他の二人の人間を擁護するために弁ずる番になるや、ますます活気づいていくスフィンクスなのである。
彼の言葉は明確で直接的である。身振りと声と単語が融合して法廷雄弁術の傑作たらしめ、公衆は注意深く、明らかに興味をひかれながら聴き入っている。

とうとう宣告。
陪審員が被告たちの異なる責任に応じて刑を定めた分離判決。
そしてここにおいてホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラの平静さは彼の弟と義理の妹の眼前でくだかれたのだ。
彼の神経は破裂した。
続いて起こった情景は想像に委ねよう。彼の感情とその悲痛さは、あらゆる人の胸を打った。」


ホセ・アントニオは銃殺、ミゲルは30年禁固。ミゲルの妻は3年。
処刑は11月20日。前日には、個人的な遺書をいくつか書き遺した。そのなかでファランへ党の理想を数え上げながら、ファシズム形態を志向する自分の主張が国民の悲劇にどんな貢献をしつつあるかをまざまざと反省させられた、とある。理想、その追求が招いた混沌が、今まさに内戦の悪夢となって国民に降りかかっている。そしてすでに自分の飛びこんでいく機会はおろか、発言する機会すらない。「死の瞬間までヘフェであり続けた」などということはなかった。死を前にすでにヘフェの冠は外していた。自分がもたらしたスペインの悲劇に心を痛め、反省する。その8年後、自死を控えたフューラー(ヒトラー)にはそういう姿勢はなかった。

処刑は20日の夜明け直後、他に4人の政治犯が一緒に並べられた。最後の言葉は、一緒に銃殺される者たちへの慰めの言葉だった。
「ロマンチックな美辞麗句はなく、簡素な威厳のみがあった。」

『もう会うことはないのだ、
(ホセ・アントニオよ)』

数年前の、SEUの学生への弔辞が浮かぶ。
自身は汚れぬまま死んでいった、
ファシスト未満の英雄の、
短すぎる、足りなすぎる最後の言葉、言葉にならなかった内なる言葉を、
私は私の心に思い描いてみる。




ホセ・アントニオが見ることはなかったスペイン内戦のその後
の経過を追う。1936年7月17日のモロッコ反乱から、スペイン各地で反乱が拡がり、反乱軍をドイツ、イタリアが援助。共和国側は労働者団体を武装して応戦。人民戦線としてソ連と国際旅団が参加。アメリカ、イギリス、フランスは中立。内戦の混乱に乗じて、アナキストによる上流階級や教会へのテロも起きる。反乱軍はフランコが指導し、カルロス党とファランへ党の義勇軍と連携し、義勇軍にテロ行為を担わせ、大衆運動化する。10月、フランコが総統(カウディーリョ)を名乗る。
11月にホセ・アントニオの裁判と処刑があった。
1937年4月、ドイツ空軍コンドル兵団によるゲルニカ空爆。この頃から共和国側の内部分裂が激しくなる(バルセロナ五月事件)。1939年1月バルセロナ陥落、3月マドリード陥落。1938年7月、エブロ川の戦い。1937年4月、フランコがファランへ党党首に就任、フランコ政権唯一の公認政党として一党独裁。1975年フランコ死去後、民主化し、フアン・カルロス国王即位。

フランコによってファランへ党が頂点にのぼりつめたが、カウディーリョ(総統、フランコ)のファランへ党は、ヘフェの目指したファランへ党とは別物だ。内戦を終結させたフランコの功績は大きいが、一方で大変な規模の粛清があった。戦場の死者10〜15万に対し、共和国側2万、反乱軍側30〜40万の処刑・報復があった。革命に粛清はつきものだが、ファランへ党内の報復はごくわずかだった。
尚、フランコはホセ・アントニオの死をしばらくの間、国内にも国外にも伏せ続け、ホセ・アントニオは去勢されてソ連に送られたなどとあらぬ嘘をついて見せたりもした。そんな悪意ある噂によって人々の間ではホセ・アントニオの消息に関する残酷な憶測がさまざまに流布し、国民は混乱した。
やがて受け入れがたいヘフェの死が公表され、11月20日に喪に服すよう発令されたのは1938年。内戦終了後、ホセ・アントニオの遺体がアリカンテの墓地から掘り起こされ、ファランへ党義勇軍のたいまつ行列に柩が担がれてエル・エスコリアル教会まで旅をしてきた。

「ホセ・アントニオは英雄であり、殉教者であり、抒情詩人であり、超越的証明書であり、完璧なる象徴だった。いってみれば、「新スペイン」の指導者がもたない、いっさいの存在だった」


フランコ以前の最後の党書記長ホセ・ルイス・デ・アレーセによる、ホセ・アントニオ20周忌の国営放送があった。1956年。

「ホセ・アントニオよ。
君は唯物主義と利己主義とにたいしてたたかったのに、今日の人々は君の言葉の威光を忘れ、ただひたすら渇いた狂人のように唯物主義と利己主義への道を駆け降りるがゆえに。
君は困難な栄光に憧れる詩人と夢想家たちの祖国を愛したのに、人々は、美も勇気もないくせにでんぷんをいっぱいにつめこんだ、食糧をあさり腹を突き出した祖国しか求めないがゆえに。
君は金を軽蔑したのに、人々は金を欲しがり、商売が義務の上におかれ、兄弟が兄弟を売り、つましい人々と祖国の試練を利用して暴利を貪るがゆえに。
人々は君の良くあれというスローガンをよい暮らしをしようというスローガンにすりかえているがゆえに。
精神は肉体的になり、犠牲は大食いになり、兄弟関係は貪欲になるがゆえに。
君は何千人という殉教者たちの行列にむかって、われわれの模範となり道案内になるよう呼びかけたのに、君の追随者たちの地にはいまだ手本は見られず、しかも彼らはその記憶を心地わるく思い、われわれが、いっさいの寛容を拒む彼らの耳に、われわれの殉教者の手本を単調にくり返し主張するとうるさがり、はては戦死者を自分の商売とわがままのための踏み台に利用するものまで現れるか故に、私はそうは思わない。
ホセ・アントニオよ、君はわれわれに満足はしない。君の場所から、君の11月20日から、深い憂愁と軽蔑の念をもってわれわれを見守っている君。
君は、この凡庸で官能的な生に満足することはできない。



最後に、

ホセ・アントニオの悲恋
についてを。
さる公爵の若い娘ピラル・アズロ・デ・アラゴンと相思相愛ではあったが、彼女の父は極右の君主制支持者であり、彼らの結婚を認めなかった。それはホセ・アントニオがプリモ・デ・リベラ将軍の息子であるからだった。しかしそれでも二人はあらゆる経路から連絡を取り続けていたという。
その後、彼自ら述べた、「人生で最も残酷な夜」が訪れる。
ホセ・アントニオは当時、スペインの将来のためには武装蜂起が必要だと真剣に考えて将軍らに打診をするが皆無関心だった。1935年9月、マドリード近郊のパラドール・デ・グレドス・ホテルにて、彼はファランへ党が指揮をとるクーデタの完璧なシナリオを作成。これはのちに軍の指揮で遂行された、元のシナリオだ。このとき、時を同じくして同じホテルにピラルがいた。貴族主義の海軍将校である夫と新婚初夜を迎えていたのだ。
革命にむけて突き進んでいく、突き進んで行かねばならないホセ・アントニオの、運命と愛の分水嶺の夜。運命の急斜面を流れ落ち、彼の人生はこの夜からあと1年とほんの少しだったとは。







二つの白。
8月12日、SNS上に心をえぐられるような2つの事件が上がってきた。今なお涙と怒りがこみ上げる。
ひとつはシリア、ホワイトヘルメットのオフィスが狙撃され、隊員7名が犠牲になった。もうひとつはその後のトランプ大統領の対応で話題になったシャルロッテスヴィルの白人至上主義と反対者の衝突と暴走。
室内の床は流れた血でひどく赤い。そして遺体。写真をタップするのが数秒躊躇われたが、その横たわる遺体がホワイトヘルメットの隊員たちだとは!
良心や善意の損失であり、冒涜であり、もはや言葉を失う。少しすると哀悼の投稿のなかに、過去に報じられた活動の動画が上がった。この日犠牲になった一人の隊員が、生後数カ月の赤ちゃんを瓦礫の中から救い出し、病院へ運んでいるようす。この隊員は赤ちゃんを腕に抱き、嗚咽をあげて泣いている。
ホワイトヘルメット。ヒーローと呼ばれ、煙くすぶる瓦礫の中に飛び込んでいき、素早く被害者を助け出す。まさしく彼らはヒーローなのだが、テレビに出てくる仮面を被った正義のヒーローのような鉄面皮ではなかった。正義のヒーローはおろか、大の男が、小さな傷ついた赤ちゃんを腕に、すすりあげて泣くのである。あらためて彼らが人間なのだと知る。泣きながら人を助けに行き、自分も傷つきながらまた、ヘルメットを被り人を助けにいく。そしてまた、たくさんの大粒の涙が防ぎようもなくこぼれ出る。そんな彼らが犠牲になった。
シリア内戦はスペイン内戦のようだと言われている。いや、すでに被害はスペインの比ではないかもしれない。しかし、大国が干渉し、泥沼と化している様子は共通する。
内戦も長引けば、もはや当初のイデオロギーはどこへやら、ただの殺し合い、消耗戦になるだろう。一方で、白人至上主義のような極端なイデオロギーが世界を撹乱し始めている。
神の手など無い。人間を止めるのは人間の力によるしかない、という厳しい重い現実がある。

アウシュビッツ後を生きる プリーモ・レーヴィ

2017-07-16 20:36:18 | 人物
アウシュビッツからの帰還
客観的な省察と警鐘の末の自死?
プリーモ・レーヴィの葛藤




Primo Michele Levi
1919〜1987





1. 生涯
『これが人間か』という衝撃的なタイトルの本がある。(日本語訳版『アウシュビッツは終わらない』)それはアウシュビッツ強制収容所での死線すれすれの日々を綴った体験記だ。
著者プリーモ・レーヴィはトリノ生まれのユダヤ系イタリア人で、トリノ大学で化学を学んだ。第二次大戦中、ナチスによる占領に対する抵抗運動に加わるが、1943年12月スイス国境沿いの山中で捕らえられ、ユダヤ人であったことから強制収容所送りになった。
汽車で送られた先はアウシュビッツだが、誰もそこがどこなのかわからない。レーヴィはたまたまドイツ語が少し理解できたことと、レーヴィの化学者としての能力をナチスが利用するために途中から研究所勤務になり、死に直結するような重労働は回避できたことが幸いし、ソ連赤軍による収容所解放のときまで生き延びることができた。
イタリア帰還後は、再び化学者として従事しつつ、アウシュビッツの体験を綴った。少しの年月を経てその著書は世界で読まれるようになり、アウシュビッツ体験のほかにも詩や小説も創作した。
レーヴィはとりわけ若者に自著に触れてほしいと願った。自分の過酷な体験を知ってもらうことで、世界が再びあのような惨禍に巻き込まれないよう、若い世代が自分の頭で考えてほしいと望んでいたのである。もう一つ、自著がドイツで読まれることに大きな意義を見出していた。ドイツの人々がこの件に当事者として向き合うか否かを秤にかけたのである。
反響に少なからぬ手応えを確かめつつも、三十年四十年と時が経ち、人々が過去の戦争に向き合う仕方にステレオタイプが目立つようになると、レーヴィは暗澹たる不安に掻き乱されるようになった。死の前年の著書『溺れるものと救われるもの』には非常に過敏な自虐性が随所に感じられる。レーヴィの最後の葛藤の跡が見えるようである。
この翌年、『これが人間か』とその続編にあたる『休戦』の映画化(『遥かなる帰郷』)が進むも、レーヴィはアパートの階段から転落死。
遺書はないが、自死を疑われている。映画化によって一層深くステレオタイプに陥ることを殊更おそれたためかもしれない。
おそらく、実際に収容所の人智を超える極限状態をその身に体験した者でなければ理解不可能な、繊細な一線があるのだろう。

1945年の収容所解放後に、自由の身になったはずの人々に多くの自殺者が出たのは、一般にはなかなか解せないことである。自殺数に関してならば、動物以下の扱いを受けていた収容所監禁中の自殺はほとんど無く、解放後の自殺は逆に多かったと言われている。こういう事実をレーヴィは冷静に分析していたが、彼自身が解放後数十年を経てもなお克服できない障碍に負けてしまうことになったのはなぜだろうか。


2. レーヴィの主張
レーヴィの表現は淡々としていて感情は極力抑えられている。そのスタンスを守ることをレーヴィは重要視している。それは『溺れるものと救われるもの』の「序文」の中でこう示されている。

「…もちろん自明なことだが、強制収容所の真実を再現するための最も堅固たる素材は、生き残ったものたちの記憶である。だがそれがかきたてる哀れみや怒りの感情を抑えて、それは批判的観点から読まれるべきである。」

それはこの前の記事のアレクシエーヴィチのインタビューにおいても、記憶に頼ることの欠点として指摘されていたのと同じことといえよう。事後に知った情報を記憶に上乗せすることで、当時の感情さえも書換えがなされるからである。
そしてレーヴィはこの文に続けて早速、当時の状況を正確に再現する。

「ラーゲルを知る上で、ラーゲル自身が最良の観察点になるとは限らない。囚人たちは非常に非人間的な状態に置かれていたため、自分の世界についてはほとんど統一的な見方ができなかった。それは特にドイツ語が理解できなかった囚人に起こったことである。彼らは密封された貨車の中で悲惨な状態に置かれ、回り道の多い、こみ入った旅の末にラーゲルに入れられたが、それがヨーロッパのどこに位置するのか分からなかったのである。彼らは他のラーゲルの存在を知らなかった。たとえそれが数キロ先にあっても。また誰のために働いているのか分からなかった。不意に条件が変わったり、大量に移動がなされても、その意味が分からなかった。流刑囚は死に取り囲まれていたため、自分の目の前で行われていた虐殺がどの程度のものか計ることができなかった。今日かたわらで働いていた仲間が、明日にはもう姿がなかった。隣のバラックに移ったのか、この世から抹殺されたのか、それを知ることはできなかった。要するに巨大な暴力と驚異の機構に支配されていると感じていた。しかしその全体像を描き出すことはできなかった。なぜなら彼の目は、日々の必要に迫られて、地面にくぎ付けになっていたからだ。
「普通の」囚人の証言は、書かれたものにせよ口頭にせよ、こうした欠如があった。彼らは特権を持たないものたち、つまり強制収容所の中核をなしていたものたちで、あり得ないような出来事の組みわせで、かろうじて死を逃れたのだった。彼らはラーゲルで大多数を占めていたが、生き残ったものの中では少数者だった。生き残ったものの中では、囚人生活中に何らかの形で特権を享受していたもののほうが多かった。年月がたち、今日になってみれば、ラーゲルの歴史は、私もそうであったように、その地獄の底まで降りなかったものたちによってのみ書かれたと言えるだろう。地獄の底まで降りたものはそこから戻って来なかった。あるいは苦痛と周囲の無理解のために、その観察力は麻痺していた。」


溺れるものと救われるものというのはここで言われている、なにがしかの特権を有して生存率が高かったグループと特権を一切持たなかったグループのことである。
同著の「恥辱」の章中には、読者には耐えられないほど痛ましく、レーヴィの重い懺悔が吐露されている。それに加えて、時の経過とともに彼の願わぬ方向へとアウシュビッツのステレオタイプが暴走し、手に負えぬものに化したことへの絶望があった。死が彼のこの枷を解いてくれただろうか。レーヴィの重い十字架は背負いきれなかった。ただ彼は無神論者ではある。


参考にした本:
1947 『アウシュビッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』
1986 『溺れるものと救われるもの』
いずれも竹山博英訳



3. ラーゲルでの日々
解放後まもないときに書かれた『アウシュビッツは終わらない』には、ラーゲルでの"人間"の生き様が書かれている。非人間的な扱いにさらされつつも人間臭さがにじみ出るラーゲルの処世術である。赤裸々な人間ドラマだが、ああした収容所のなかでも一部には人間くさい日常があったということに少し安堵する。レーヴィがいたのはいわゆる絶滅収容所ではなく労働収容所だが、定期的な選別により直ちに絶滅収容所送りになる背面を持っていた。その様子を見直す前に、アウシュビッツ強制収容所の概要を。




アウシュビッツ三大収容所周辺図

アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所
Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau
アウシュビッツはポーランドのオシフィエンチムの地名をドイツ語呼称したもので、近隣エリアに大小数多くの収容所が点在していた。そのうちの大規模な三施設はアウシュビッツ(第一強制収容所)、ビルケナウ(第二強制収容所)、モノヴィッツ(第三強制収容所)。レーヴィは労働能力ありと見なされたためモノヴィッツMonowitzへ送られる。モノヴィッツはArbeitslagerすなわち労働収容所であり、絶滅収容所Aussenlagerではない。隣接するIG Farben industrieの工場(通称ブナBuna Werke: Buはブタン、Naはナトリウムからの名称、ゴム製品工場である)で働かされることになる。

ブナと呼ばれるIGファルベンの工場

ビルケナウ収容所

WW2中盤以降、厳しくなりつつあるドイツの戦局。労働力は強制連行した外国人に頼る方針にする。周囲に収容所も多く、物流にも適したこの地に工場を建設した。貨車で運ばれてくる人間の数は多く、弱って働けなくなった者は「選別re-selektion」によりヒトラーの最終的解決の方針に沿って処分する流れだった。つまり人の流動がめざましい速度で生から死の矢印に流れていった。モノヴィッツは90%がユダヤ人、最終的に10223人の収容者がいた。

夜、貨車から降ろされたレーヴィ。駅で待っていたのはSS。最初の選別が行われる。男96名、女19名のみが選り分けられ労、残りのおよそ500名はおそらくこのあと2日と生きていなかっただろう、と。つまり送られた先はモノヴィッツのはずだ。
トラックで移送されたレーヴィの一行は、靴と服を脱がされ、髪と髭を剃られ、シャワーを浴びせられる。木靴と縞柄の囚人服をあてがわれる。囚人番号が刺青され、以降は自分の名前は失われる。のちには、刺青番号によって出自や滞在期間がわかるようになる。大きい番号は「新入生」、ポーランドのゲットー出身者は尊敬され、サロニカ出身のギリシャ人にはだまされないように気をつける、など。収容所の処世術だ。
バラック一棟あたり200〜250人。三段の寝台一段につき2人が上下互い違いに横になる。ラーゲルのまんなかには広い点呼広場がある。長時間の壮絶な点呼が毎日繰り返される。
囚人服の胸には識別の印が付けられている。刑事犯は緑の三角、政治犯は赤の三角、同性愛者はピンク、ユダヤ人は赤と黄色のダビデの星。戦争捕虜もいることがある。SSは通常、ラーゲルの外にいる。内部を仕切るのは同じ囚人のうちの緑の三角だ。その役職はカポーと呼ばれる。バラック長も囚人のなかから選ばれる。同胞に凶暴で、SSにしっぽを振るのに適任なのはこの緑の三角の連中であり、SSはこの選定のもたらす囚人集団へのダメージは当然のことながら認識済みである。この屈辱的なヒエラルキーを、レーヴィは「灰色の領域」と呼ぶ。カポーの他にも様々な小さな役割があって、配給のスープがわずかに多めにもらえる特典が目当てである。しかしそのささやかな差が生死を分けるのである。
他に、著しく生死を分けるものは靴だ。合わない靴を履いて行進させられ、重労働にあてられるうちに足に腫れ物ができれば病院に行かされるが、「腫れ足」は治らない、即ち、以後使い物にならない者として選別されることになる。ガス室だ。
労働は、15〜150名で部隊編成される。月〜金の勤務、土曜は休み、日曜は一週おきに労働日でバラック施設周りの補修をさせられる。冬は8時〜12時と12時半〜16時。夏は6時半〜12時と13時〜18時。SSは軍隊の行動形式をラーゲルにも適用したため、点呼や行進を行う他、寝具の完璧なベッドメーキング、爪や髪の伸び、上着ボタンの数などをいちいちこまめに点検した。服にシミがあれば罰せられ、足を毎夕洗っていなければまた罰せられる。拾った針金やボロ布は貴重で、紙ですら防寒のために上着の下にあてがった。こんなものも含め、どんなものも常に盗難のおそれがあった。
スープの配給でも、並ぶ順番によっては上澄みだけになってしまうこと、夜のトイレは共同で桶にすることになるのだが、いっぱいになってしまえばその人が外に捨てに行かねばならない。暗い中、なみなみの桶を担いで歩けばどうやっても足元にかかってしまう。これも数週間も経てば慣れて、人の放尿中の桶の音でそろそろやばいかどうかを聴いて列に並ぶ知恵を得る。
こうしたちょっとした生きる知恵を身につけるまでの数週間は生死を分ける大切なプロセスである。そのプロセスには、人として当たり前に身につけてきたプライドとの決別も含まれている。例えば、カポーや小さな役割にしがみついている誰かに、理不尽に突然殴られた場合、抗議したり殴り返したりするのは決まって「新入生」だけだ。新入生は即座に袋叩きにあい、ラーゲルの不文律を体で学ぶのであった。理解不能な扱いを受けたとしても「なぜだ?」と問うこともなくなる。「ここにはなぜなんて言葉はないんだ」と知る。どんなささやかな利権にも目を光らせてたくましく生きる者がいる一方、大多数のものは心が折れて10日と生き延びることができなかったそうだ。そう、それは身体の限界を待たず、心の内から枯れていくように…



4. 「彼らの死は、肉体的な死よりも前に始まっていた」
『溺れるものと救われるもの』には、「灰色の領域」「恥辱」「意思の疎通」「無益な暴力」という章がそれぞれある。いずれもラーゲルに存在する、人間性を奪いとる要素である。これはナチスによって周到に練られた恣意的な環境だ。

灰色の領域。
これは上にも簡単に述べたが、カポーのような存在をいう。一般に「外ー敵、内ー味方」という考えが我々の認識の前提である。ところが、強制収容所に入ってみるとこの二つの他に「内ー敵」という予期しない第三の関係式に出会う。この「内ー味方」と「内ー敵」の違いは、普通の収容者と特権的な収容者という違いである。この第三の存在に誰もが当初は戸惑うが、若者の場合は特に混乱する。それまでの社会経験の中で、敵ー味方の二分法にしかなじみがないからである。特権的な者は普通の者を犠牲にすることで、自身を強固にする。一般の収容者に対する暴力は、SSの眼前でこれ見よがしにふるわれる。カポーの特権的暴力行使には下限はあっても上限はない。時にはSSを買収したり脅迫したりもする強者もいる。
この、外見上は協力者でありながら敵対者という存在は、一般の収容者の精神を混乱させる。また、こうした選ばれたカポーはもともと素行の悪い刑事犯がほとんどで、暴力に罪悪感がない。もちろん、カポーだからといってもSSの前では一囚人であるから自らがSSからの虐待を受ける場合もある。
解放後、このようなカポー達の罪責の判断は難しかった。レーヴィはこう述べる。

「こうした協力者の行動に、性急に道徳的判断を下すのは軽率である。明らかに、最大の罪は体制に、全体主義国家の構造自体にある。個々の大小の協力者が競って罪を犯したことについては、評価が難しい。」
「国家社会主義のような地獄の体制は、恐ろしいほどの腐敗の力を及ぼすのであり、それから身を守るのは難しい。なぜなら大小の共犯意識が必要だからだ。」


「自分の罪に意図的に目を閉ざしている。…頭を振りながらも同意してしまったもの、「もし私がしなかったら、私よりももっとひどいものがそうしただろう」と言うものも同等である。」
「…虐待されていたという条件は罪を免除するものではない。そしてしばしばその罪は客観的に見て重いことがある。しかしその罪の計量を委託すべき、人間の法廷を私は知らない。」


灰色の領域には、性質の違うもう一つの罪を負うべき集団がある。それは特別部隊と呼ばれる、「最終的解決」を実行する実働隊であり、隊は到着したばかりのユダヤ人から選ばれる。言わずもがな、選別された人々をガス室に誘導し、死体から金歯を抜き取り、焼却して灰にするまでを行う。しばしば灰は、ラーゲル内の道ならしに撒かれたり、外の世界に売られたりする。骨片や歯の混じる灰だが、外の世界でもそれを問題にする者はなかった。
同胞を死に追いやり、後始末までする特別部隊には、他の囚人より良い食事が用意されている。しかし部隊は定期的に始末され、次の特別部隊は前の部隊の始末からとりかかる。なぜなら、特別部隊の仕事は極秘中の極秘ゆえ、情報が外部に知られることのないよう定期的に抹殺し、入れ替える必要があるからだ。
なかにはもちろん、発狂したり自殺したりする者も現れる。ある時、新規に編成された部隊全員がこの残酷な作業を拒否し、その400人全員が処刑されたこともあった。また、ビルケナウ強制収容所で起きた収容者による反乱は特別部隊が主導したものだった。
ユダヤ人にユダヤ人を始末させる。ナチスの狡猾な手法である。犠牲者にも罪を負わせ、共謀者に仕立て上げる。そうすることでSSが直接手を染める必要もなく、罪悪感も軽くなる仕組みだ。


恥辱。
「自分の善意はほとんど無に等しく、世界の秩序を守るのに何の役にも立たなかった、という考えが良心を苦しめた」
「私たちの日々は、明け方から夜まで、飢えと労苦と寒さと恐怖に妨げられていて、反省し、論理的に考え、愛情を感じる余地は全くなかった。さらに私たち全員は盗みをした。あるものは自分の仲間のパンを盗むまでに身を落とした。私たちは祖国や自分たちの文化だけでなく、自分自身が思い描いていた、過去、未来、家族を忘れてしまった。」


このような恥辱の感情は、解放後に津波が押し寄せるように襲い、良心の残骸さえも奪い去る。おそらくレーヴィは、彼にとって何度目かの津波が襲いかかり、いよいよ耐える意思を失い、命ごと放棄してしまったのではないだろうか。
時が経つにつれ、レーヴィを襲う恥辱の苦しみは深まっていったようだ。
カポーが、あるいは他の者が自分より弱い仲間を殴打していたが、誰も助けることをしなかった。助けなかったことに、罪の意識を感じる。それは重くのしかかり、悪夢をもたらしたにちがいない。

「おまえはだれか別の者に取って代わって生きているという恥辱感を持っていないだろうか。特にもっと寛大で、感受性が強く、より賢明で、より有用で、おまえよりももっと生きるに値するものに取って代わっていないか。…」

「むしろ最悪のもの、エゴイスト、乱暴者、厚顔無恥なもの、「灰色の領域」の協力者、スパイが生き延びていた。…確かに私は自分が無実だと感じるが、救われたものの中に組み入れられている。そのために、自分や他人の目に向き合う時、いつも正当化の理由を探し求めるのである。最悪のものたちが、つまり最も適合したものたちが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった。」

「独自の信仰を持った友人は、私が証言を持ち帰るために生き残ったと言った。わたしは自分に可能な限り証言をしたし、そうせざるを得なかっただろう。しかしこの私の証言がそれだけで生き残る特権を私にもたらし、多くの年月を大きな問題もなしに生きられるようにさせたというなら、その考えはわたしを不安にさせる。なぜならその特権と結果の釣り合いが取れていないからだ。
ここで繰り返すが、真の証人とは私達生き残りではない。」


痛ましいほどの自虐が切々と、堂々巡りのように訴えられているこの章を、読者である私たちはどう受けとればいいのか。
解放から40年を経てもなお、こうした責め苦に苛まれているという事実と、傷口がどんどん深部に達していく恐ろしさを、ここに読みとらざるをえないこと、そして錐揉みで落ちていくレーヴィに私たちからどんな言葉も手も差し伸べることができないこと。
「これが人間か」
地獄の入口の淵に立つ。影はもうない。穴にすでに投じられたから…
レーヴィは階段から落ちた。


意思の疎通。
世界のありとあらゆる土地から連行されてきたユダヤ人たち。彼ら同士でイディッシュ語を使って話すことも一部の間では可能だったが、彼らの支配者はドイツ語しか話さない。実際は、ポーランドからの収容者が多数だったため、収容者の間ではポーランド語がよく使われたようだ。しかし命令はドイツ語で下される。わからないでまごまごすれば殴打を浴びる。

「ラーゲルの初めの日々はピントの合わない、動きの激しい映画として記憶に焼きつけられている。それはけたたましい物音と、怒鳴り声でいっぱいで、意味が不明瞭である。名前も顔もない人物たちが大騒ぎをしていて、背景の耳を聾するような騒音の中に埋没しており、そこからは人間の言葉は出て来なかった。それは白黒の映画で、音はついていたが、せりふは聞こえてこなかった。」

言葉の問題で苦しんだのは、イタリア人、ユーゴスラビア人、ギリシア人、ハンガリー人らであった。フランス人はドイツ語も使用されていた地域からの出身者を含んでいたため、彼らを介してドイツ語を理解できた。イタリア人はフランス人を介して、ある程度通訳してもらうことが可能ではあった。東欧からの人々は言語コミニュケーション手段を持たなかった。言葉の通じない環境の中で、言葉以外のコミニュケーションを許されない(コミニュケーションといえるかどうか、一方的な命令と暴力)そういう環境に置かれると、人は言葉とともに思考も萎み、もはや内面は人間ではなくなる。この状態はひとつの警報装置であって、言葉を失うことは霊魂を失うこと、すなわち生きる意思を失い、早々に死に行く集団に飲み込まれていくようになる。


無益な暴力。
ユダヤ人を抹殺する、そのための装置はすでに用意されている。それなのに、なぜ理由なく暴力をふるって痛めつけ、番号を刺青し、名前を奪い、衣服を奪い、全裸を度々強要し、執拗な点呼が繰り返され、髪を剃らせ、スープを与えるのにスプーンを使用させず、移動の貨車にトイレの桶を設置させず、同胞の特権者に殴打させ、労働させるのに痛くて仕方ない木靴を履かせるか。民族浄化が目的なのならば、ただ殺人装置(ガス室)に押し込み、殺せば済むものを、その前に酷苦と恥辱を与えて人間性を傷つけるか。この問題は過去記事『スレブレニツァ…』にも見られた。(ソ連の虐殺にはこういう側面はなかったように思う)

ただ殺すのではいけないのである。

否、ナチスの目的はユダヤ人と共産主義者とスラヴ人の抹殺なのだから、速やかにガス室に送れば最終的解決という目的は達成されるはずではないか。

違う、ただ殺すだけではいけない。苦痛を与え、屈辱を与え、道徳を剥ぎ取り、辱められた姿に貶めてから殺すことに意味があるのだと。羞恥心の侵害、理由のない暴力行為。

それはなぜ?

「第三帝国では、上から押し付けられた選択、最良の選択は、最大の苦しみを与えること、肉体的、道徳的苦しみを最大限にもたらすことであった、ということてある。「敵」は単に死ねばいいのではなく、苦しみながら死ななければならなかったのだ。」

ブナ工場が設立される以前は、収容者にひたすら無駄な労働をさせた。一日で穴を掘らせ、また埋める、その繰り返し。報酬のない、目的のない、無益な労働の強要の意味は?彼らは「奴隷」、奴隷には「労働」が似合いだから、とのことだった。苦しんでする労働が。
こうすることの効果は3つ考えられる。

死に行く人へ。生きる意思を失わされ、抵抗する力も失わされ、力尽きて死を受け容れること。
支配者へ。暴力の対象を虐げ、人間性を奪うことで、手を下す罪悪感を軽減すること。
思いがけず生き残った人へ。過酷な環境に負け、道徳を失った自分への悔恨に、生涯苦しめられること。

ナチスのこの手の込んだ仕掛けを実行していた人たちは、のちに「自分は市民にすぎない」「上層部に従わざるをえなかった」と言い逃れた。貨車が来て、ユダヤ人がたくさん連れて行かれるのを市民は見ていた、知っていた。
レーヴィは、弱い者がカポーにやられているのを見ぬふりしたことを生涯悔やみ、苦しみ続けたが、ユダヤ人を目の隅で見送った人たちは、その後事態がはっきりしたときに何を思っただろうか。何を守ろうとしただろうか。




5. ステレオタイプとの直面
「私たちにされる質問の中で、いつも必ず出てくるものがある。それは年月を経るにつれて、より執拗さを増して発され、非難の調子がよりはっきりと透けて見えるようになっていった。それは一つの質問というよりは、一群の質問である。なぜあなたたちは逃げなかったのですか?なぜ反乱を起こさなかったのですか?なぜ「それ以前」に逮捕を逃れようとしなかったのですか?
この質問は楽観主義的立場から解釈し、論評することができる…」


これらの質問は、当時の全体主義の国家下とその後の自由主義の国家下との状況の違いをあぶり出してくる。自由主義の下で生まれた者は、その自由を奪う状況から解放される権利があり義務でもあると考える傾向にある。質問者との間には国境に似た壁がある。レーヴィはこの前提を指摘してからそれぞれの質問に答える。当時の収容所の立地、当時のユダヤ人の地位、当時の各国の微妙な関係、人民の移動に関する当時の考え方(祖国との繋がり意識、外国に対する情報量、協力を求められる外国在住の縁者の有無)、などなどを説明し、質問の行為がどれほど不可能だったかをイメージしてもらう必要があった。これはナチスドイツだけではなく、イタリア、日本、ソ連も同じ状況であったし、ナチスはドイツ国民に対してさえも辛辣な部分があった。(ヒトラー・ユーゲントの大会に強制的に出席させるために数日の行程を歩かせ、遅れる者には容赦がなく、抗議した親達は罰せられた、など)
しかし、戦後何年も何年もこの応対を繰り返しているうちに、レーヴィは心が萎えてきたのだろうか。伝えることが難しい。時を重ねてるほど益々伝わりにくくなっていく。役割を果たせない「生き残り」としての存在意義に、押しつぶされていく。無能さ、空虚さ。否、待ってほしい。伝え手のレーヴィひとりの問題ではなく、受け手の理解能力の問題もあるではないか。人と人との伝達はたとえ世界を違えていなくても理解には限界がある。それは乗り越えねばならない壁ではないし、悲観することはない。互いに自覚しておく条件にすぎない。伝え聞いた情報を脳の想像力だけで理解することには、肉体で体験して獲得した理解と同一にはなれないだろう。理想は抱きつつも現実とも折り合うべきではないか。レーヴィの場合は理想というより脅迫観念に近かったのではないか。
戦争の惨禍を世界中が体験しながら、その後も虐殺は起きたし、迫害もなくならない。レーヴィは憤死したのか、あるいは疲れたのか。突然決意した死のようであるが、すでに著書にはその階段を降りていく心の受難が記されていた。たくさんのユダヤ人に手を差し伸べなかった私たちは、苦しむレーヴィにも手を差し伸べなかった。私たちはレーヴィと同じように無力を嘆くべきなのか、そこまでする必要はないのか。
「その苦しみや悲しみを追求するのではなく、事態を哀れみや怒りの感情を抑えて、批判的観点からとらえるべきだ」、そうレーヴィは語っていたことを意識しておこう。ただレーヴィ本人はその観点を維持しきれなかったのだ。




6. 『最後の一人』の影
おそらく、レーヴィの最後の日に、彼に会いにきたのは『最後の一人』のこの男だろう。これは私の推測だが…。
『アウシュビッツは終わらない』の「最後の一人」から少し長く引用させていただく。

「一ヶ月前、ビルケナウの焼却炉の一つが爆破された。この企てがどのように実行されたのか、だれも真相を知らない(おそらく将来もだれにもわからないだろう)。ガス室や焼却炉の作業に従事していた特別なコマンドーのしわざだ、収容所の残りの囚人からは幻獣に隔離され、自分たちも定期的なまっさつの対象になっていた特別コマンドーの囚人たちのしわざだ、という噂が流れていた。要するにビルケナウでは、私たちと同じように武器もなく衰弱しきった奴隷たちが何百人も、自らの憎悪を実らせて、行動に移す力を見つけ出した、ということなのだ。
今日目の前で殺される男は、その反乱に何らかの形で参加したのだ。彼はビルケナウの反逆者と連絡をとり、武器を私たちの収容所に持ちこんで同時蜂起を企てていた、とのことだ。彼はいま私たちの目の前で死ぬ。そして彼に用意された孤独な死が、不名誉ではなく、栄光をもたらすことを、ドイツ人たちは理解できないのだ。
だれ一人として理解できなかったドイツ語の演説が終わると、また初めのしわがれ声が響いた。
「分かったか?」(Habt ihr verständen ?)
「分かりました」(Jawohl)と答えたのはだれだ?だれでもないし、全員でもある。まるで私たちのいまいましいあきらめが自然に実体化して、頭上でいっせいに声をあげたかのようだった。だがみなは死者の叫び声を聞いた。それは昔から無気力と忍従の厚い防壁を貫いて、各人のまだ人間として生きている核を打ち震わせた。
「同志諸君、私が最後だ」(Kameraden, ich bin der Letzte.)
私たち卑屈な群れから、一つの声が、つぶやきが、同意の声が上がった、と語ることができたら、と思う。だが何も起こらなかった。私たちは頭を垂れ、背を曲げ、灰色の姿で立ったままだった。ドイツ人が命令するまで帽子もとらなかった。落としぶたが開き、体が無残にはね上がった。楽隊がまた演奏を始め、私たちは再び列をつくって、死者が断末魔に身を震わす前を通りすぎた。
絞首台の下ではSSたちが、私たちの通るのを無関心に眺めていた。彼らの仕事は終わった。しかも大成功だった。もうロシア軍がやってくるはずだ。だが私たちの中にはもう強い男はいない。最後の一人は頭上にぶら下がっている。残りの者たちには絞首索など必要ない。もうロシア軍が着くはずだ。だが飼いならされ、破壊された私たちしか見いだせないだろう。待ち受けている衰弱死にふさわしいこの私たちしか。
人間を破壊するのは、創造するのと同じくらい難しい。たやすくはなかったし、時間もかかった。だが、きみたちドイツ人はそれに成功した。きみたちに見つめられて私たちは言いなりになる。私たちの何を恐れるのだ?反乱は起こさないし、挑戦の言葉を吐くこともないし、裁きの視線さえ投げつけられないのだから。

アルベルトと私はバラックに入っても、顔を見あわすことができなかった。あの男は頑丈であったに違いなかった。私たちを打ち砕いたこの条件に屈しなかったのだから、私たちとは別の金属でできていたに違いなかった。
なぜなら私たちもまた破壊され、打ち砕かれていたからだ。たとえ私たちが適応でき、何とか食べ物を見つけ、疲れと寒さに耐えることを学び、帰還できるとしても、だ。
私たちはメナシュカを寝台に放り出し、スープを分け、いつもの猛々しい飢えをいやした。そしていまは心が恥に押しつぶされている。」

(点呼の後に処刑が皆の前で行われることはたびたびあったそうだが、いずれも盗みや脱走、サボタージュなどだった
アルベルトは収容所で知り合い、レーヴィとは親しかったが、死の行進の途上で命を落とした人)



「心が恥に押しつぶされている」

もし、開放までにこの最後の一人の処刑に直面していなかったら、レーヴィはどんな後世を送っただろうか。死ぬほど追い詰められることもなかったかもしれないし、著書も書かなかったかもしれない。この一場が彼の人生に投じられたことは、安っぽく言えば、いわゆる宿命だったのだろう。




6. 慈悲と獣性
残念なことだが、人間の理性には限界があるということをレーヴィの著作から知る。しかしこれを認識しておくことはまた大事なことである。
レーヴィの語る辛辣な環境下だけのことではなく、事がこうなる以前に流されたことについて、限界だ、仕方のない流れだと言って良いかどうかは別で考えねばならない。
人間の持つ二重性の一つの例となる、『慈悲』と『獣性』について、『溺れるものと救われるもの』の中で考察されている。

「ありとあらゆる論理に反して、慈悲と獣性は同じ人間の中で、同時に共存し得る。そして慈悲自体も論理を越えたものである。私たちが感じる慈悲と、慈悲の対象となる苦悩の範疇は釣り合っていない。同じように苦しんでも、そのイメージが陰に隠れている無数のものよりは、アンネ・フランクという一人の少女の方がより大きな感動を呼ぶ。おそらく、かくあるべき必然性があるのだ。もし私たちがすべての人の苦痛を感じることができ、そうすべきなら、私たちは生き続けることができない。おそらく多くのものへの慈悲という恐るべき素質は、ただ聖人だけに与えられているのである。最上の場合でも、ある個人に、同胞に、隣人に向けられた、時たまの慈悲しか許されていない。神の摂理により、近視眼的になっている、私たちの感覚の届く範囲にいる、目の前の血肉を備えた人間にしか許されていないのだ。」


神を信じないレーヴィが、神の摂理を持ち出したくらい、腑に落ちないが厳然として存在する道理として認めたということなのだろう。
『アンネの日記』、『夜の霧』、『これが人間か』は強制収容所三大作となっている。『アンネの日記』はこの夏も、たくさんの小中学生が読み、読書感想文が書かれることだろう。
「かわいそう」「ひどい社会」…
「アンネは病気で死んだけれども、殺されたのと一緒です」

レーヴィは…。
「死ななかった、殺されなかった」
「生き残った、けれども(自分で)死んでしまった」
でもやはり彼も
「殺されたのと一緒です」
40年の苦しみの果てに…。
絶筆となった苦しみの果実『溺れるものと救われるもの』は今の私たちに非常に重い示唆を与えてくれる。子供達の感想文の後方に果てなく広がる背景を、悲しみという言葉も苦しみという言葉も使わず、具に見て、いっそ言葉にしなくていい、感じるものを自分に写し取る。夏休みの課題に。




"冷酷の化身" ラインハルト・ハイドリヒ

2017-02-08 13:24:39 | 人物
ナチスで最も危険な男
SSナンバー2 ラインハルト・ハイドリヒ
冷酷を極めた手腕



Reinhard Tristan Eugen Heydrich
1904〜1942

ナチス党員 政治家
最終階級/
国家保安警察(RSHA:Reichssicherheitshauptamt der SS)及び親衛隊情報部(SD:Sicherheitdienst)長官
ベーメン・メーレン保護領 副総督



1942.5.27 ハイドリヒ暗殺
英タイムズ紙はこの日、"第三帝国で最も危険な男"が暗殺団に襲撃されたことを報じた。国内に身を寄せるチェコ亡命政府に働きかけ、英国がパラシュート潜入させたチェコ暗殺団が実行。この襲撃で受けた傷が元で6月4日にナチス高官ハイドリヒは死亡。
ナチスメンバーのあいだでもその残虐、冷酷、非道によって恐れられ、"暗殺者ハイドリヒ"と陰口された男。
その冷酷さで、大胆な政治工作や暴虐を次々と実効させ、ナチスを益々貪欲に突き進ませた。
良心の呵責は皆無。恐るべき辣腕が、党内粛清も海外政治工作もユダヤ人撲滅も難なく、完膚なきまでに遂行する。
目的>手段か、手段>目的か。
この「いかにも」なナチス党員ハイドリヒと、最も「らしくない」ナチス党員シュペーアの類似性を検証することは、現代未来を考察するにつけ重要だと考える。
ハイドリヒ暗殺の様子については後述する。


1. 出生から入党まで

ラインハルト・トリスタン・オイゲン(中央)
姉マリア、弟ハインツ・ジークフリートと


1904年、オペラ歌手で作曲家の父と、ドレスデン宮廷音楽研究顧問官を父に持つ母の、第二子長男として生まれる。住所はProvinz Sachsen Marienstraße 21。母は熱心なカトリック信者で、夫を改宗させ、3人の子供達にもカトリック信者としてのモラルを厳格に躾けた。父は自ら創設した音楽学校で、ラインハルトにも音楽教育を授けた。歌は苦手だったがバイオリンとピアノには才能を発揮した。
1914年、カトリック系のギムナジウムに進学。このころから既に民族主義的思想を固める。
1919年のドイツ革命により家族は経済的に困窮。15歳のラインハルトはドイツ義勇軍に参加。反ユダヤ主義的傾向をますます強める。非アーリア系のフランス人やスラブ人にも憎悪した。
1921年、18歳でアビトゥーア修了。ドイツ海軍入隊。海軍大尉ヴィルヘルム・カナリスのちのドイツ国防軍情報部部長(軍事諜報機関)と親交、しばしば自宅に呼ばれ、バイオリン演奏を披露した。余談だが、カナリスは独身時代、あのマタ・ハリの恋人であったらしい。のちにカナリスは親衛隊情報部長官となったハイドリヒと対立する。

ラインハルトは海軍士官学校を経て通信将校となる。
英語、フランス語、ロシア語を士官学校で習得。金髪、碧眼、長身(191センチ)のまさに北方系の外見と、周囲にうちとけない孤高の雰囲気から、「金髪のジークフリート」とあだ名された。
ラインハルトの父方の母の再婚相手がSüssというユダヤ風の名前を持っていたことで、父の名に追記されることがあったために、ハイドリヒはユダヤ人かと囁かれており、「金髪のモーセ」などと皮肉られることもあった。陰口が発覚すればハイドリヒは激怒し、徹底的に相手を追い詰める。その容赦ない報復に周囲は戦慄し、あだ名は「金髪の野獣」となった。




海軍軍人の頃

1930年、赴任地のキールで知り合ったリナ・フォン・オステンと婚約。ところが、ハイドリヒがある軍属の娘に一方的な婚約状を送り付けたことでその娘が心に傷を負ったとして訴えられた。不幸にもその軍属は海軍総司令官エーリヒ・レーダーの姻戚だった。名誉裁判では「品位なき態度ゆえに無条件解職」、1931年海軍不名誉除隊となった。リナとは間もなく結婚しているが、なぜこのようないざこざが起きたのかは不思議だ。


2. ナチ入党と親衛隊の仕事



除隊後、自らの代父の息子、親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタインの推薦によりナチスに入党。当時、親衛隊内部に情報部を設立しようと考えていたハインリヒ・ヒムラーの面接を受けた。その試験での優れた出来栄えと、北方系のルックスがヒムラーの気に入り、即日、情報部立ち上げを任されることになった。
実際、この仕事はハイドリヒには適任だった。
親衛隊IC課での彼の仕事は、諜報の対象となるドイツ共産党、ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ国家人民党、宗教団体、突撃隊過激派などについて、必要十分な項目の検索カードを作成した上、要件に合わせて素早く適切に要項を網羅して情報をまとめる、その上、簡潔にして非の打ち所の全くない報告書はまさに報告書の名作であって、誰彼をもうならせるきわめて優れたものであった。
ヒムラーは優秀な片腕を得たが、同時に背後の刃のような存在に肝を冷やされることにもなった。
「ハイドリヒの意見具申によって、ヒムラーが完全に打ちのめされたようにみえることがしばしばあった」と側近はのちに話している。

ハイドリヒは音楽に優れていたばかりでなく、スポーツも万能であった。
1928年アムステルダム五輪の、フェンシングと近代五輪競技(射撃、フェンシング、水泳、馬術、ランニングの複合)の代表選手。スキー、飛行機操縦も



3. 長いナイフの夜事件
やがて1933年、ナチ党が政権をとると、国家の敵を撲滅する最重要手段としての警察組織を編む必要から、親衛隊の重要性が増した。一方で、首相ヒトラーの思惑とその存り方が逸れていった突撃隊は迷走し始めた。
そこで、ハイドリヒがその手腕を存分に発揮し、周囲に「暗殺者ハイドリヒ」の異名を与えられることになる「長いナイフの夜事件」が起きる。

事件の経緯についてはここには書かないが、突撃隊トップのエルンスト・レームの粛清が事件の目的であった。党の方針に反して公然と同性愛に耽り、ヒトラーの面目を潰す。それでも旧友レームを粛清する決意が出来ずにいるヒトラーだった。ヒムラーやハイドリヒにとっては、レームを失脚させれば親衛隊が突撃隊より優位に立てるチャンスになる。しかしやはり、ヒムラーも世話になってきたレームに手を下すことに悩んだ。
ハイドリヒは違った。ハイドリヒにとっては、レームはヒトラーとともに自分の長男クラウスの代父なのであったが、全く躊躇はなかった。ハイドリヒ主導でレームの謀反を捏造し、ヒムラーがヒトラーに示す。ヒトラーは自ら警護隊を率いてレームを捕らえにミュンヘンへ。ハイドリヒ、ヒムラー、副首相ヘルマン・ゲーリングはベルリンに残り、突撃隊員以外の反体制分子の抹殺に走る。この粛清リストはハイドリヒが作成したが、まんまとGestapo前局長もリストにねじ込んでいた。たまたまこれを見つけたゲーリングが急遽リストから削除している。
事件後、親衛隊は突撃隊から独立。ハイドリヒは功績により昇進。吹き荒れた粛清の恐るべき完璧さ、迅速さにナチスへの畏怖が国民の心に影を落とす。そして計画、工作、実行したハイドリヒの怜悧な辣腕ぶりに、党内では「暗殺者ハイドリヒ」として恐れられることとなった。







4. ブロンベルク-フリッチュ事件
当初、バイエルンだけでしか力を持たなかった親衛隊も広く権限を持つようようになり、1936年にはGestapoと統合され、ハイドリヒは保安警察長官となった。
当時、戦争に突き進もうと考えていたヒトラーやゲーリングにとって、英仏の中立が確保されなければ戦争は不可能と主張して対立していた国防相ブロンベルクと陸軍総司令官フリッチュは、邪魔な存在だった。
この時も工作したのはハイドリヒであったが、ここでは女性問題のゴシップを捏造して失脚させた。品性を欠くえげつない手段も厭わない。ナチの高邁な思想に溺れる他の高級幹部達ならばこんな方法はとらなかったかもしれない。
ハイドリヒは反知性主義の側面を持っていたと言われている。即物主義(sachlich keit)もうかがわせる。
この後、ドイツはオーストリアを併合した。


5. 水晶の夜事件
1938年10月28日、水晶の夜事件が起きた。美しい名前だが、いわゆるポグロムである。発端はこうだ。ドイツは国内のユダヤ系ポーランド人1万7千人に追放命令。ポーランド政府は受け入れ拒否し、国境封鎖。この件に巻き込まれた人物が、パリに居る17歳の息子に窮状を伝えたところ、激怒した息子はパリのドイツ大使館員を殺害。この事件への報復をゲッベルスやシュトライヒャーが扇動し、各地でユダヤ人経営の商店の打ちこわしやシナゴークへの放火などの暴動が起こった。親衛隊やヒトラーユーゲントが先導した。
この件に関してハイドリヒは黒幕だったのではないかとする説もあるが、それは異なるようである。ハイドリヒは、保安警察長官としての立場から、予め暴動の取り締まりの範囲を告知していた。つまりこの程度の乱暴狼藉は看過するとの取り決めをして、あとは静観というスタンスだったようで、主導はしていない。
こうした目に見える形での「乱暴狼藉の反ユダヤ主義」は、ゲッベルスやシュトライヒャーのやり方であって、ハイドリヒはもっと硬質で怜悧で巧妙な手法を取ろうとしていた。SDらしいアプローチ、「理性の反ユダヤ主義」と呼べるもの。
暴力、虐待、財産侵害などの個別行動ではなく、党と新聞による住民の啓蒙を強化すること。
感情を封じ、合理性と即物性で「整理」する方法であり、以後起きる絶滅作戦はハイドリヒのこの規範で粛々と進められることになる。
ちなみに1938年の段階でハイドリヒは、ダビデの星の着用をユダヤ人に義務付ける提案をヒトラーにしたがこの時点では却下された。1941年9月からはこれが義務化されたが、ハイドリヒの「整理」の方針が及んだ制度といえる。


6. 「反ユダヤ主義とは政治問題ではなく医学上の問題だ」

「総統はユダヤ人の物理的抹殺を命じられる」
ハイドリヒは集会でこのように述べる。
1939年、ゲーリングの命令を受けてハイドリヒはユダヤ人移住中央本部本部長に就任する。ハイドリヒは前年から併合されたオーストリアICPC総裁にもなっていたため、本部はウィーンに置かれた。実務はアドルフ・アイヒマンが担当した。
この年8月、ポーランド侵攻の口実のための工作としてグライヴィッツ事件をハイドリヒ主導で起こしている。ポーランドのラジオ局をポーランド人を装って襲撃。局を乗っ取ったポーランド人が放送でドイツへのストライキを扇動したという演出で、収容所から引っ張ってきた者を射殺して証拠物体として置いてきた。
この件以外にも、すでに21件の事件を仕掛けており、まとめてヒムラー作戦と呼称している。
さらにこの年の11月、オランダ侵攻の口実のために仕掛けられたフェンロー事件も起こしている。
ビアホール爆破テロに関わったという設定のイギリス工作員2名が、オランダのフェンローで匿われていた、という工作。
話がそれるが、この事件を実行した部下のヴァルター・シェレンベルクについて、浮気の多いハイドリヒに辟易していた妻リナは、シェレンベルクと良い仲になった。それを知ったハイドリヒは、シェレンベルクの口から罪を認めさせようと、ある時バーに誘い出し、毒を飲ませ、解毒剤と引換に白状するよう迫ったという。しかし結局これでリナと関係修復ができたそうだ。シェレンベルクは占領下のパリではココ・シャネルとも関係していたという。

それた話を戻すと、ユダヤ人の「最終的解決」を目指すことは、1942年のヴァンゼー会議により、正式にナチス政権の施策として決定するところとなった。
会では、
「全てのユダヤ人(1100万人)の絶滅は人類の大再編成に他ならない」と。

最終的解決の流れは簡単に言うとこうだ。
東部で労働部隊に組み込む→鉄道建設→自然淘汰→生き残る者は抵抗力が強い→「相応の対応」を必要とする

「相応の対応」は言わずもがなであろう。それ即ち「最終的解決」という訳だ。


こうした方針に基づいて決定された三大絶滅収容所開設計画は、ハイドリヒの名を冠してラインハルト作戦と呼ばれることになった。
ただし1940年頃まで、ナチスではヨーロッパのユダヤ人をパレスチナやマダガスカルへ移送する計画を中心に考えていたので、ポーランドへ追いやる方策も休止する予定だった。ハイドリヒもこの方針を積極的に推し進めるつもりであったが、イギリスとの戦況が芳しくなくなり、断念せざるを得なくなったという経緯がある。


7. ベーメン・メーレン保護領副総督
チェコスロヴァキア解体によって、モラヴィアとボヘミアはベーメン・メーレン保護領としてドイツに統治された。しかし、総督の宥和的な統治によって、軍需産業効率が低下し、ストライキも抵抗運動も放置されていた。この状況をけしからんとして、ヒトラーはハイドリヒを副総督に就任させた。副総督であるが、実質的には主導権を握る。1941年9月23日、ハイドリヒ到着と同時に戒厳令。

まずこれは、ハイドリヒ副総督就任時の秘密会議演説で、20年後に公開されたものだ。

「チェコの島をドイツ化することが問題でなく、全住民を民族的人種的に探査することを欲する」

その目的として語られたことをまとめるとこうだ。
「悪い人種で悪い志向」の連中
→東方へ追放
「悪い人種で良い志向」の連中
→ライヒまたは今後特定される地域への投入、かつ断種
「良い人種で悪い志向」の連中
→もっとも危険。
彼らは「良い人種の指導層」であるから一部を残して「最終的に壁に立たせる」(根絶)

このようにハイドリヒの中で当初から明確に方針が決まっていたので、行動も素早く迷いもなかった。
ところでハイドリヒはこういう場合分けが得意だ。分析的な思考力に優れているからこそ、粗漏のない計画を立て、読む者を誘導する報告書が書くことができるのだろう。
ユダヤ人の混血の処遇に関しても、実に事細かな分類とそれぞれに与えられる権利などが理由も明確にしてさだめたものがあり、舌を巻く。



副総督就任から数週間のうちに、即決裁判所で死刑判決400〜500、拘束4000〜5000。死刑判決はほとんどが指導層の者が対象で、ナチスの法的手続きさえも無視して即銃殺命令が下った。加えて公開処刑。12月15日には、プラハ聖堂前での公開処刑にヒムラーが初めて立ち会ったが、残酷さのあまりかヒムラーは気を失いかけた。この大々的な取締りにより、抵抗運動は影を潜めた。ハイドリヒはチェコに大いにムチを振るったが、アメもばら撒く。労働者層は産業に従事させるべき存在であり、保護する必要がある。労働者向けの雇用保険制度を設け、富裕者のためのリゾートを接収し、労働者の保養地に開放した。これは、チェコスロヴァキアの当時の待遇より格段に良かった。
ハイドリヒの主張はこうだ。
「戦争が続く限り、なんといってもこの地域には静寂が必要だ。チェコ人労働者がこの地の労働力を最大限に動員してドイツ軍の戦績に奉仕するためだ。そのためには、チェコ人労働者にエサを与えてやらねばならない。連中がちゃんと働けるように」

ドイツの敵国イギリスと、そこへ身を寄せているチェコ亡命政府にとってこの状況は危険だった。チェコは抵抗運動も衰え、亡命政府の復帰が遠のくばかりか、チェコの周辺国も同様におさまってしまう心配も出てきた。
ハイドリヒはここではただ保安警察長官というだけではなく、統治者としての力量も発揮しようとしていた。
チェコ市民に威圧的に見られないように、宮殿を住まいにせず、郊外の質素な家に家族と住んだ。家族との暮らしぶりも市民に知れるようにオープンにしていた。自宅から政府機関に向かう道は、護衛車も付けず、自分用のメルセデスをオープンカーに仕立てて、乗っている人物が誰であるのか敢えてわかるようにすること、市民に対して警戒していないというアピールに努めた。これにはヒトラーもヒムラーも驚き、護衛の必要を説き、せめてオープンカーは止めるよう注意したがハイドリヒは従わなかった。そこが、暗殺部隊の狙い所となってしまった。





8. アンスラポイド作戦、ハイドリヒの死



1942年5月27日、暗殺団は結果としてハイドリヒを抹殺するというミッションは達成したわけだが、それは偶発的だったと言える。銃撃は失敗し、投げた手榴弾はメルセデスの一部を壊しただけだったが、飛び散った破片がハイドリヒの身体に食い込んだ。その破片によって感染症をおこし、敗血症に至って死んだ。6月4日。
おそらくシートのクッション材の馬の毛の繊維から感染を起こしたのではないか、あるいは手榴弾にイギリスで仕込まれた毒物によるのではないか、とも。
ハイドリヒの国葬で、ヒトラーは「鋼鉄の心臓を持つ男」と讃えた。10歳にもならないハイドリヒの二人の息子達はヒムラーの両隣にいた。父親譲りの明るいブロンド、そしてまだあどけない顔。
ジャーナリストのラルフ・ジョルダーノはハイドリヒを、「冷酷の化身。国家のあらゆる敵に対する最も手ごわい対抗者」と評した。その息子達にはどんな未来があるのだろう。ただし、長男クラウスは1943年、10歳にして交通事故で亡くなった。ハイドリヒにはその下に二人の娘がいるが、次女はハイドリヒの死後に生まれている。

ハイドリヒの国葬








9. 報復
ナチス高官暗殺への報復は凄まじかった。
ハイドリヒが襲われてから死亡するまでの間でもすでに157人が射殺された。死後、後任に就いたクルト・ダリューゲは暗殺部隊を匿ったらしいという定かでない理由により、リディツェ村とレジャーキ村の絶滅を速やかに行った。そのくせ暗殺者達の消息をつかめずにいたが、賞金目当ての密告
によってようやく潜伏先の聖カール・ボロモイス教会をつきとめ、SS将校19名下士官740名で包囲の上殺害した。
一連の報復により、チェコ人3188人拘束、1357人に死刑判決が下った。英政府もチェコ亡命政府もこのリスクに恐怖し、以後はナチス高官を狙う作戦は控えるようになった。


10. 人物
音楽家の家庭に生まれ、自らも楽器を奏で、フェンシングや乗馬はオリンピック出場レベル。
背が高く見事なブロンド、所作にはどこか女性的な優美さもある。ただ、アンバランスに腰回りが太いのと、早口で甲高い声が多くを損なっている。その人間性を周囲に語らせればこうなる。

見事なまでの獣。
高圧的、邪悪、冷酷、残酷。
女性的でそれが一層悪党らしい。
神経質な、断続的な話し方。
野心的。
氷のように冷たい知性。
雌豚。
指は長く蜘蛛のように不気味。

しかし仕事は完璧で、ハイドリヒはまさにヒトラーの求めていた人物だったと言われている。そのため、もし存命していればヒトラーの後釜はハイドリヒだっただろうとも言われる一方、生前、数少ない友人にはヒトラーを老いぼれと呼んで物騒な事も口にしていたようだ。そういう面もにじみ出ていたのか、生きていれば7月20日事件では暗殺者側に名を連ねていたに違いないなどとも言われる。ハイドリヒにかかれば、ヒトラー暗殺は100%成功したにちがいない。惜しい幻想だ。(しかし、ハイドリヒが存命だったら1942年から1944年をどう生きただろう?)

身震いさせるほど完璧な報告書や計画書を書いていたハイドリヒだが、妻リナに宛てた手紙は素朴で純真で、驚いてはいけないのだが驚く。



ハイドリヒは推理小説が好きで、仕事の合間にこっそり出して読むことがあった。その延長か、ハイドリヒの名案(迷案)で、諜報のための盗聴器をどっさり仕込んだ売春宿を経営するというものがあった。その名は『サロン・キティ』。もう一度言うと、『サロン‥・キティ』‥。なんだかとっても恥ずかしいネーミングだ。もちろんハイドリヒ自身も頻繁に客になる。そのときは盗聴器はオフ。ドイツ、イタリアの外相もよく通った。しかし諜報活動としては無益な場だったらしい。
ハイドリヒの反省、
「成果がなくて驚いた。秘密はベッドでもたらされるという話は幻想なのだろう」
無駄も隙もないナチス最高の高官なのだから、これは売春宿で遊ぶために失敗承知でわざと仕組んだものなのか、そうでないとすれば本当に推理小説の読みすぎか、何か、??と感じる。

もう一つは飛行機好き。空軍を訪れて頼み倒し、戦闘機を操縦させてもらう。これが昂じて、休暇中は実際の戦闘にも参加し、なかなかの手柄をあげることもあったが、ある時不時着し助けてもらうはめにあった。事故後、責任ある職務にある幹部が戦闘に加わるなど以ての外、とヒトラーの大目玉を喰らい、その後は一切戦闘機操縦は禁止された。
まるで不良少年のようだ。




11. ハイドリヒの弟、ユダヤ人を救う
1つ歳下の弟ハインツ・ジークフリート・ハイドリヒも親衛隊に所属しており、兵士向けの新聞のジャーナリストをしていた。兄ラインハルトとは子供の頃からフェンシングの練習でともに汗を流した。
兄の死後、ゲシュタポの金庫にあった兄のファイルを手にし、自宅に持ち帰った。おそらくユダヤ人虐殺ほか数々の衝撃的な施策が兄の手によるものだったことを知ったのだろう。朝までかけてファイルを燃やしていたという。その様子は心を失くし、石のようだったと妻。しかしそれ以降口は閉ざし、彼は自分の発行する新聞の他に偽造身分証を印刷し、それを使ってユダヤ人がスウェーデンへ行けるようにした。実際にこれは利用されて、ユダヤ人をかなり多く救うことができた。
しかしあるとき、州政府の審査が新聞編集部に入ることになり、偽造が露見したと思ったハインツは家族に被害が及ばないように自殺をはかった。実際はこのとき偽造身分証のことは露見しておらず、発行部数に関する調査程度の審査だったのだ。ハインツはThe list of Germans who resisted Natizumに数えられている。



海軍時代のハイドリヒにトラブルがなく、そのまま海軍でキャリアを積んで行ったならば、どんな生涯を送っただろうか。戦闘で死ぬことはあったとしても、暗殺はされなかっただろう。
印象として、彼は特に思想を持つことなく、与えられたミッションを「完璧に」やり遂げることに夢中だっただけなのではと疑問に思う。他の幹部らとちがって彼だけはヒトラーの人物や思想に心酔していなかったのだそうだ。逆に、ヒトラーの方がハイドリヒの人物に理想を見ていた。これはアルベルト・シュペーアについても正反対でありながら同じ傾向であるように感じられる。
ハイドリヒの行動能力は、その向かう先を見据えていたのかどうか。もっとも虐殺の誘導は鬼畜のわざであり、その先にどんな高邁な思想があったとしても許されない。

『荒野の40年』と「50年」ヴァイツゼッカー演説

2017-01-01 23:59:34 | 人物

「過去に目を閉ざす者は‥」
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
戦後40年5月8日演説と戦後50年日本での演説




Richard Karl Freiherr von Weizsäcker
Bundespräsident
1920〜2015


第6代ドイツ連邦大統領リヒャルト・カール・フライヘァ・フォン・ヴァイツゼッカーによる、ドイツ敗戦後40年にあたる1985年5月8日に行われた連邦議会での記念演説は、戦後70年を経た現在においても、この一節で広く知られている。

『過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる』

今回は、邦訳版『荒れ野の40年』(永井清彦訳)をもとに演説の内容を概括すること、ヴァイツゼッカー大統領の生涯、演説当時の背景などを書きたい。
また、連邦議会での演説から10年後に日本に招かれた時の演説で、日独の戦後の歩みが比較されており、日本の外交姿勢に示唆が与えられている。
動いている歴史の中でもう一度立ち止まって考え直すために、ヴァイツゼッカーの残した言葉に耳を傾けたい。

『荒れ野の40年』
ドイツでは5月8日演説と呼ばれているヴァイツゼッカー大統領によるこの演説は、1945年ドイツの無条件降伏から40年の記念式典で行われたものである。当然この日は、近隣の旧連合国では戦勝記念日として祝典が行われていた。しかし、この日はドイツにとってこそ大切な日であるとヴァイツゼッカーは言う。

1985年5月8日演説

「われわれドイツ人はこの日にわれわれの間だけで記念の催しをいたしておりますが、これはどうしても必要なことであります。われわれは(判断の)規準を自らの力で見出さねばなりません。自分で、あるいは他人の力をかりて気持を慰めてみても、それだけのことでしかありません。ことを言いつくろったり、一面的になったりするのではなく、及ぶかぎり真実を直視する力がわれわれには必要であり、げんに力を備えております。

われわれにとっての5月8日とは、何よりもまず人びとがなめた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります」


人びとがなめた辛酸というのは、ドイツの被害だけでなく加害も含む。事実として何が起きたのかを知り、
心に刻むこと。心に「刻む」ということ。
(心に刻む: erinnernは英語のremind、rememberに相当。inner:中へ、に接頭語er:目的・到達・達成を付けて、思い出す、覚える、思い起こさせる
ただし、"Remember Pearl Harbor"のrememberとは意識が異なる )


そして、歴史の歩みに思いをこらすというのは、起きたことの原因と、その結果として編み出された歴史および社会変革の因果を正しく解析せよ、ということであろう。

それらは、歴史家によって行われる議論によるのではなく、全ての個人が「誠実かつ純粋に」取り組むべきことだと強調される。そして、「帰結にこだわりなく責任をとる」ことが求められる。

ヴァイツゼッカーによれば、5月8日はナチズムの暴力支配からの解放の日だとみなしつつも、

「解放であったといっても、5月8日になってから多くの人びとの深刻な苦しみが始まり、その後もつづいていったことは忘れようもありません。しかしながら、故郷を追われ、隷属に陥った原因は、戦いが終わったところにあるのではありません。戦いが始まったところに、戦いへと通じていったあの暴力支配が開始されたところにこそ、その原因はあるのです」

という。それはつまりヒトラーが政権についた1933年1月30日。
そこに思いをこらせ、という。

戦いが終わった5月8日以降に深刻な苦しみが始まった、というのは、日本の終戦後とは異なる。戦後すぐ、ドイツ東部の人びとへの強制移住(ドイツ人追放)により50万から200万の死者が出た。
満州引き揚げやシベリア抑留の被害者数と比べても、桁違いの規模といえる。
無条件降伏という大きな不安だけではなく、多大なる実害に晒されたドイツ。そして分断。
暗い奈落の過去、不確実な未来。
それは、日本の戦後の比ではない。しかし、終戦の5月8日は、ナチスの暴力支配と人間蔑視から解放された日、誤った流れの終点だった。

Stunde null(零時:シュトゥンデ ヌル)から、ドイツはどんな道を歩むべきであったか。
ヴァイツゼッカーによれば、
まずは真実を心に刻むこと。

「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし、犯罪そのものに加え、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります。当時まだ若く、ことの計画・実行に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの型がありました。戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかにしてなったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人はあまりにも多かったのであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたのもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。

ドイツ人であるというだけの理由で、粗布の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。
しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼互いに助け合わねばなりません。また助け会えるのであります。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

「心に刻むことなしに和解はない」

ヴァイツゼッカーはユダヤの格言のなかにメッセージを見つけている。

「忘れることを欲するならば捕囚は長びく
救いの秘密は心に刻むことにこそ」


「われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります」
智と情、この二つが必ず併存することが必要だと確かに理解できよう。
二つを併せ持つことは、人生のどんな場面でも必要だろう。(そして次には勇気だろうか?)

ユダヤ人に対する罪だけではない。
戦争を通して、西側諸国への蹂躙や、隣国ポーランドやソ連ほか、東側諸国へはより深刻な損害を与えたし、勿論戦争ゆえ敵から損害を喰らいもした。
そして戦後、戦勝国も戦敗国もそれぞれに復興に立ち上がるなかで、精神面の最初の課題が与えられる。
「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れることをしないという、人間としての力」が試されている。

故郷を追われる悲しみと喪失感は、なかなか想像しえないほど深く苦しいもののようである。それは島国の日本には全く経験のないものである。政治的な混乱の中、故郷を失った人々に対し、「法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという戒めを優先させる」こと、それが、ヨーロッパの平和的秩序のためになしうる、人間としての貢献であるとヴァイツゼッカーは語る。
故郷への愛が平和への愛。
それはパトリオティズムであって、ナショナリズムではない。パトリオティズムとは、自身と祖先につながる土地や共同体への帰属意識や絆といったものだろうか。自国への偏愛から、他国より髪一本でも優れていたいと考えるナショナリズムとは異なるものである。

ヴァイツゼッカーは、演説の中で、戦後40年の当時において、具体的に向かうべき方向をいくつか具体的に示している。

「第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、‥

人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人々に対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、‥

独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、‥

中東情勢についての判断を下すさいには、‥

東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、‥」


このうち、現在、ドイツも含めEUが直面している難民問題に絡む2番目の提起についてのヴァイツゼッカーの考えは、「今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう」とある。道徳的には確かに今のドイツには引き継がれているのだが、現実的な対応は相当困難だという印象は残念ながら否めない。ヴァイツゼッカーと同じCDU(ドイツキリスト教民主同盟)に属するメルケル首相は今、この問題に直面し、道徳と政治の計りの前で苦悩している。

この他に、演説のなかではドイツの分断についてが述べられている。一民族二国家という不自然な国家形態の悲しみや軋轢は、日本にも起こりうる分断だった。
演説から五年後、だれも予想できなかったドイツ統一が成る。演説では、ヴァイツゼッカーによって絞り出す涙のように語られた分断の悲しみと統一への果てなき切なる願いは、どれほど重いものだったのかが、語られる言葉のひとつひとつによって、分断を免れた我々の心すらも打つ。


さらに演説において、40年というのが、人間の生のスパンにおいて非常に大きな意味を持つと述べられている。
旧約聖書に照らして、遠い過去の聖書の言葉から警告を聴くのである。

「暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開かれるのか、あるいは忘れることの危険、その結果2対する警告であるのかは別として、40年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしております。‥
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。かつて起ったことへの責任は若い人たちにはありません。しかし、歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。‥
人間は何をしかねないのか、これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
道徳に反し究極の完成はありません
いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険にさらされつづけるでありましょう。しかし、われわれはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております」

若い人たちへは、他のあらゆる人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにと、年長者へは、率直さによって心に刻み続けることの重要性を若い人びとが理解できるように手助けする義務がある、と説く。「ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう」、若い人びとへの助力を求めている。

「及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか」

こう結んで終わる演説は、今を日本に生きる私達にも、たくさんの示唆あるいは警告をもたらしはしないだろうか。


リヒャルト・ヴァイツゼッカーの生涯
リヒャルト・ヴァイツゼッカーは1920年、外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(男爵)の三男一女の末子としてシトゥットガルト新宮殿で生まれる。父の仕事により、スイス、デンマーク、ノルウェーで育ち、ベルリンに戻る。
祖父カールは法律家で、ヴュルテンベルク公国首相を務めている。父は海軍少佐から転じて外交官に、ヒトラー政権下で外務次官、ヴァチカン駐在大使。父の弟は神経学者。
リヒャルトの長兄カール・フリードリヒは高名な物理学者・哲学者であり、第二次大戦中はドイツの原子爆弾開発をしていた。
リヒャルトは1938年(18歳)に奉仕義務によりドイツ国防軍に入営、翌年の1939年9月1日のポーランド侵攻作戦に動員された。侵攻の翌日、同じ部隊の上官であった3歳上の次兄ハインリヒが、リヒャルトの数百メートルの目前で戦死した。
ポーランド侵攻作戦後は、西方転戦、1941年からはバルバロッサ作戦など東部戦線に参加。
リヒャルトは従軍のあいだ、国防軍の犯罪にも不条理にも直面し失望する一方で、国防軍のなかの見知った者達による1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も身近で見、軍の一部には共感する部分もあったという。

手前にリヒャルト その後ろにハインリヒ 右端カール


1945年、戦後は大学で歴史学と法学を学ぶ。
しかし、父が、外務省に絡んだ一連の裁判(米軍による継続裁判で、連合国による裁判ではない)にかけられることとなり、リヒャルトは休学して弁護団の助手を務める。その際に手にし、目にしたドイツの犯罪に関する多数の報告書は、リヒャルトに大きな衝撃をもたらした。英国のチャーチルの援護を得たにもかかわらず、父は有罪となり5年拘留を下されたが、1年半で釈放された。裁判の後、父エルンストはその残りの生涯で二度と笑顔を見せなかったという。

父エルンストと若き日のリヒャルト

父エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー

兄カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー


エルンストは外務次官という立場にあり、人権犯罪を知りながらもそれを抗議しなかった。しかし、たとえそこで抗議を起こし、「殉教」したところで、誰一人救うことはできないのは明らかだった。
われわれはこういうとき、どうすればいいのだろうか。そしてそれを誰がどう裁けるのだろうか。
リヒャルトはどう考えたのだろう。
彼はのちの演説のなかで、法と裁判だけでは不十分であり、市民的勇気が必要だと説いている。
沈黙を破る勇気を一人一人の市民が持つべきだと、強い意志の言葉をわれわれは突きつけられている。


リヒャルトは裁判が終わって復学、1955年に法学博士号を取得。
その後は、西ベルリン市長を経て、国政の陰で道徳的な牽引者として信頼を集め、1984年、ヘルムート・コール首相当時に第6代大統領に就任した。
この当時、実はドイツ国内での敗戦国としての立ち位置の考え方には揺らぎがあった。経済的に発展し、世界に存在感を示してきたドイツ連邦が、その戦争責任をどう考えるのかに、コール首相はこう舵を切った。

「後から生まれた者の恩恵」と称し、敗戦時に15歳だった自分やその後の世代に戦争責任はない、と。


1984年 ドイツ連邦のコール首相とフランスのミッテラン大統領

それは、重苦しい過去から目を背けたがっていた大衆の感情に沿うところがあった。こうしたところから生まれた様々な議論の中で、他国にも目が向けられ、東欧からのドイツ人追放とて「人道に反する罪」に値する、ドイツ人も被害者である、という意見も上がった。

そんな中でむかえた1985年だった。
戦後40年の大統領演説は、その羅針盤になる重要な機となるのは、予期されていた。

その中で、コール首相より10歳年長かつ実戦経験も持つヴァイツゼッカー大統領によって、あのような演説が国民に届けられたのであった。

「歴史の真実を直視せよ」

さらに、戦争を知らない若い世代にも過去にたいする罪はなくても責任はあると説いた。

演説内容を事前に知った議員のうち、保守派のおよそ30人は賛同できないとして欠席した。議場の反応も薄かった。社会もすぐに絶賛したわけではなかった。しかし、言葉の力は深く響き続け、ドイツ国民ばかりでなく、世界に広く静かに反響を及ぼした。




日本においてもこの演説から省みるべき視点はいくつも浮かぶ。しかし、ヴァイツゼッカーはあの演説からさらに10年を経た1995年、戦後50年の折に来日し、各地で講演を行っている。そこでは、日本の立場を斟酌しつつ、ドイツの歩んだ道と比較しながら卓抜な評価を与えてくれている。それは、第三者による「真実の直視」という得難い視点である。充分に配慮された丁重な表現で、しかし厳しく核心を突いたものとなっている。それを以下に抜粋する。


ドイツと日本の戦後50年
この二国に共通している立場は、20世紀前半、ほとんどの近隣諸国と戦争状態に陥り、最終的に無条件降伏をしたということだ。
そもそも、地理的に遠く、文化も宗教も異なるにもかかわらず、たまたま戦争を介して、ソ連を挟んで牽制する目論見で同盟関係を結び、共に降伏したのだった。
ヨーロッパ大陸の中央に位置し、永年、隣国と密接に関わってきたドイツと異なり、島国日本はドイツにとってのイギリスのように、独自性を強く維持する伝統を、その国民感情に露わにしている、というのがドイツから見た日本の印象のようだ。
19世紀から20世紀へ、ヨーロッパではネイションという、本来は理性的な理念がナショナリズムへと膨大化し、二度の大戦による疲弊でイギリスすらも威信を失い、米ソのエルベ川の邂逅がその決定的な終止符になった。
今、EUとして存在することがヨーロッパの構成国ドイツの立場である。ネイションの理想は胸に、形態として求められるのはヨーロッパという国家理性(レゾン・デートル:存在理由、raison d'être)である、とヴァイツゼッカーは定義した。
ここから引用を挟んでいきたい。

しかし、過去の解釈は歴史家だけのものでしょうか。われわれ政治家や精神的指導者たちも参加する責任があるのではないでしょうか。
私は「ある」と確信しております。
仮に責任ある立場のドイツの指導者が

自国の戦時中の行為を歴史的に評価する用意がなかったり、あるいはそうできないとすれば、

戦争を始めたのがいったい誰であり、自国の軍隊が他の土地で何をしたのかについて判断を拒むようなことがあれば、

さっさと戦利品に手をだしておきながら、他国に対する攻撃を自衛だと解釈するようなことがあれば、

そんなことがあると、道徳的な結果はまったく論外としても、現在のわれわれにとって外交上の重大な結果をもたらすことになるでしょう。隣国から政治的・倫理的判断力に欠けるという評判をとったり、まだまだ何をするのか分からぬ危険な国だとみなされる、そんなことを望んだり、したりする余裕がドイツにあるものでしょうか。」

「自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分の現在の立場、なぜそこに居るのかが理解できません。そして過去を否定する人は、過去を繰り返す危険を冒しているのです」


ドイツではまず、暗い歴史を振り返る公の議論のきっかけは教会から起こった。キリスト教の告解の慣習が底流にあったと考えられる。それが、戦争の原因と結果をタブー視することなく直視する必要が認識される機会になったのだった。

「しかしながら、死、追放そして不幸の原因は戦争の終結にあるのではなく、戦争へと通じていった、あの暴力支配の開始にあったのだという事実を無視してはなりません。
戦いの終局はドイツの悪の一章の誤った道の終末でした。この終末の中にはよりよい未来の浄福への希望の芽が秘められており、だからこそ解放だったのです」


ここを読んで、私は戦慄した。
「ドイツの悪」、「誤った道」という言い方にである。これまで、日本国内で戦争を振り返るときに、はっきりと「日本の悪」「誤った道」と言い切ったのは聞いたことがない。日本は日本の悪を認めようとしてこなかった。

ドイツでは、フランスやポーランドとも共同して統一教科書委員会を持っている。
さらに、ドイツは東西統一にも慎重だった。統一されたドイツで、再びナショナリズムが起こり他国に脅威をふるうという心配を近隣国に起こさせないよう、EUの構成である立場を優先する態度を示し、慎重に理解を得ていった。

演説では次に、日本に視点を移す。

「わたしには日本の歴史の動向を解釈する資格は有りませんが、外国から観察する者の目にはいくつかの歴史的連関が印象的であります。アジア太平洋地域で日本は、西側の影響を受けながらもそれに従属することのなかったアジア太平洋地域の唯一の国になりました。こうした方向に歩むことによって日本は、格別強力となり、つねに国民としての自らのアイデンティティを保持し、強化する術を心得て、19世紀末以来は精神的な意味でアジアの隣人たちにある程度背を向け、同時にこの地域で軍事的・政治的な権力を拡大したのでした

こうしてさまざまな種類の重大な軍事的紛争が起こり、日本ではその解釈をめぐって論争が行われております。ただ日本軍が進出したアジアのすべての国の民衆が、戦争と占領の時代の日本の役割についてかなりの程度まで一致した見方をしていることは疑いありません。これは過去の意味ではなく、きわめて今日的な意味をもつ事実なのです」

「12年にわたるナチズムの支配はドイツの歴史における異常な一時期であり、断絶であったのに、日本の場合はむしろある程度の歴史的な連続性を確認することができます。
たしかに日本は戦後、軍事行動に完全に背を向け、市場経済と民主主義を基盤とする活動で、歴史に新しい時代を開きました。しかし、宗教的な基盤、天皇制、そして国家体制は大幅に維持されてきたのでした。」


ヴァイツゼッカーはここで改めて、明暗双方をもつ過去の全遺産を受け入れ、ともに責任をもってこれを担うことが重要だと説く。

さて、このあとヴァイツゼッカーは、戦争のもろもろの事件、結果との対立が、敵であった諸国にとっても重要な問題なのだとして、二つの例を上げる。
まずはドイツとチェコの関係において、戦後2年にわたって300万と言われるドイツ系民族を非人道的に追放したチェコでは、ハヴェル大統領が、ヒトラーの犯罪は避難しつつも、チェコ人も重大な不正を行ったと告白した、ということ。その勇気と誠実さをたたえている。

「勝つために、あるいは勝利のあとに用いた手段、これが正当であったかどうかについては、戦勝国も自らと世界に対して釈明する責務があります。勝者にとって最大の道徳的誘惑は、自己の正当化であります。
ハヴェル大統領は、自国民をそうした誘惑から守り、そうすることによってドイツ人とチェコ人との間の和解による平和に貢献することを、自らの責務といたしました」


第二の例はアメリカだ。
「無防備の日本の一般市民に原子爆弾を投下した」理由をめぐるアメリカでの議論についてはもう、年来変わることなく我々も聞かされていて承知している。

「ワシントンのスミソニアン博物館で企画されていた展示をめぐる激しい論争を通じてわれわれが知ったことは、一方で退役軍人の名誉を守りつつ、他方で恐るべき原子爆弾の投下の動機に真実に即した迫り方をすることが、アメリカ人にとってどんなに困難かということでした。しかし、一点とくに強調しておきたいことがあります。わたしがアメリカとチェコの二つの例に言及致しましたのは、相手の側に自らの免責の理由を求めているからではありません。われわれは事件の歴史的な順序を否定してはなりませんし、相手側の犯した不正が言い訳になるわけでもありません

「戦争での罪や不正を公平に判断するには、歴史の真実に目を閉ざしてはなりません。この真実は不正を克服し、新たに相互の信頼を打ち樹てるという目的にして役立ちます。これが可能なのは、すべての側が独善を排している場合であります。

「過去を川のように流してしまえ」(水に流す)という原則にしたがっていたならば、何も解決できず、外交面での孤立を長引かせ、内政面では硬直状態を助長していただろう、ということです。‥ときには謝罪が必要ですが、信じてもいない謝罪なら、むしろ止めておくべきでしょう。本気でなければ、謝罪などしない方がましです。ドイツでの経験では、謝罪と償いの行動には特段の意味があり、ときには単なる言葉よりも大切であり効果的でさえありました」



「人間が歴史から学べるという証拠はありません」

それは率直だと思う。学べる可能性はあるものの、必ずしも学べるとは限らない。当たり前だが、歴史を経験さえすれば何もしなくても全自動でなにがしかを学べるなどというものではないし、真剣に日夜考え続けたとしても、それでよい結論へと導かれる保証もない。
しかし、誠実に歴史と向き合う姿勢が、人と人との間で手を取り合って平和に生きる大切なステップであり、それは必要なステップである。

ヴァイツゼッカーの日本へのメッセージは、改めて今に照らせば、現在、政治的に明らかに退行していることを示すインジケーターになっており、この先を思うと暗雲が空に立ち込めてくるような不安に襲われる。

日本はドイツに比べれば、戦争への反省は消極的なばかりでなく、一方的に水に流そうと、忘れようとしている。大衆の多くは、ヒロシマナガサキの原爆被害のことは大抵がわかっていても、戦時中に中国大陸で、太平洋の国ぐにで、日本が何をしてきたかを知らない。「そんな話、終戦記念日でもないのに‥」と、関心を示さない。そんななかの、米大統領のヒロシマ訪問や日本の首相の真珠湾訪問は、それ自体が中身のない外交なのを反映して、誰の心にも響かない。政治家の心は空き樽で、むなしく響くか、何の音も返ってこない。


改めて読むヴァイツゼッカーの演説に、まずは真実を知ることから始めたい。真実を直視する勇気と誠実さを、人は誰でも備えている。


ヴァイツゼッカーは信仰心の篤かった母親の影響により、自身の根底に聖書(特に旧約)の教養を敷いていて、演説においても引用することが多い。政治家として活躍する一方で、道徳家として一目おかれた人物であったのには、軸足が必ず信仰の世界にあったためであろう。
ただし、信仰心がそのまま人々の心を動かしたり世界を良くするというわけではなく、信仰する人の誠実な姿が周囲によい影響をもたらすのだと考えていた。それで彼は、信仰心を養い、言葉という媒体を駆使し、政治という形に落としていった。

崇高な道徳心は孤峰の花にせず、すべての人々のために、誰もが手に取れる身近な花のように、わかりやすい言葉のかたちで説いていく。

2015年1月31日に他界。94歳。
笑顔を取り戻すことのなかった父とは違い、晩年の穏やかな笑顔と屈託ない笑い声が、安心を与えてくれる。




執務机にて




少し長い動画だが、さわやかなオーラを放つヴァイツゼッカーに触れていただきたく、お勧め。

Richard von Weizsäcker - Für immer Präsident





こちらは1985年のドイツ連邦議会における演説の動画↓

Die Rede des Bundespräsidenten Herrn Richard von Weizsäcker



幼き日の甘い思い出 ルーマニア王女イレアナ

2016-12-15 21:47:18 | 人物

ルーマニア王女イレアナ
果たせなくなった
ロシア皇太子アレクセイとの可愛い約束




Princess Ileana of Romania
1909〜1991


以前の記事で、ルイス・マウントバッテンがマリア皇女に片想いしていたことを書きましたが、アレクセイ皇太子も可愛い思い出を生前に残しています。
ルーマニア王女イレアナは、ロマノフの皇帝一家がルーマニアを訪問した際、王家同志の交流を通して、子供らしい自然な好意から、4つ上のロシア皇太子と楽しい思い出を作りました。
5歳と9歳ですからもちろん恋とは違うでしょう。
しかし、ルーマニア滞在を終え、帰国するとき、アレクセイはイレアナに、「また会いに来る」そして「結婚を」と約束したと、イレアナの遠く甘い記憶に残されていました。
1914年春、ヨーロッパが戦争に突入するごくわずか前の、最後の煌めきの時。
子供が子供らしさを謳歌する。
美しく健康的なイレアナには、病気に、かけがえのない子供時代を中断させられてきたアレクセイには眩しかったことでしょう。この時は、アレクセイも健康で、ヨットの旅とルーマニアの国土を精いっぱい楽しんだことでしょう。
運命が決めた二人の行く末、
「生きる」ほうの運命を生きたイレアナの生涯を追います。


最後のロシア皇太子アレクセイ


1. ルーマニア王国
1859年に独立したルーマニア公国は、1881年にルーマニア王国となり、1947年にソ連共産党によって王が廃位させられ、1989年まで社会主義国家でした。ルーマニアの浅い歴史のなかで、現時点でもっとも長かったのは王国時代であり、現代でもなお、帰国した元国王は、権限は持たないものの旧王室として保護されています。

イレアナ王女は第二代王フェルディナント1世の3男3女子のうちの第五子三女として誕生。
母はイギリスのサクス=コバーク=ゴータ王女マリアです。

母、兄ニコラと









2. 母マリア
母マリアについて、マリアの父はヴィクトリア女王の二男エディンバラ公アルフレート、母はロシア皇女マリア・アレクサンドロヴナです。この辺りについては過去記事「デンマーク王女アレクサンドラ」をご参考下さい。

婚約時のマリーとフェルディナント




マリアの兄弟姉妹は、
❶アルフレート 1874〜1899
②マリー(マリア) 1875〜1938
③ヴィクトリア・メリタ 1876〜1936
④アレクサンドラ 1878〜1942
❺男子 夭折
⑥ベアトリス

ヴィクトリア・メリタについては、過去記事「ヘッセン大公家」と「ロマノフ大公 アレクサンドロヴィチ」をご参考下さい。
ベアトリスについては、「ミハイル・アレクサンドロヴィチ」のなかで、最初にミハイルが相思相愛の上結婚を希望したものの従兄弟関係のために許しを得られなかったのが、この方です。
また、スペインのアルフォンソ13世とも関係があり、問題になっていました。

サクス=コバーク=ゴータでは、エディンバラ公アルフレートの長男アルフレートが自殺してしまい、オールバニ公レオポルドの遺児が引き継ぎました。「王室の血友病」をご参考下さい。

マリーは従兄弟のジョージと相思相愛となり、兄弟である父親達は歓迎したものの、イギリスを心底嫌う母に猛反対され、縁談はあきらめることに。このくだりは「ジョージ5世」をご参考下さい。

マリーは結局、王家(イギリスを除く)に娘たちを嫁がせたい母に勧められるままに、ルーマニア王太子フェルディナントと結婚しますが、彼をすぐにひどく嫌い、「大嫌いな男」と周囲に公言していました。
マリア(結婚後にマリアと改名)には6人の子供がいます。そのうち、上の2人はフェルディナントとの子のようですが、真ん中の2人はロシア大公で従兄弟のボリス・ウラディミロヴィチとの子、下の2人は愛人バルブ・シュティルベイの子だと言われています。つまり、マリアとヴィクトリア・メリタ姉妹は、それぞれ従兄弟のキリルとボリス兄弟と浮気をしていたことになります。
温順で、波風立つのを嫌うフェルディナント王は、子供たちは全て認知しています。

❶カロル
②エリザベータ
③マリア
❹ニコラ
⑤イレアナ
❻ミルチャ

カロル1世、フェルディナント、マリアと上から4人までの子供達




王も王妃も青い眼であるのに、ミルチャにいたっては瞳が茶色だったため、明らかに怪しまれていたそうです。
それにもかかわらず、王妃マリアは国民に信頼され、尊敬されていました。
結婚してルーマニアに来てからは、熱烈な愛国者となり、ともすると流されやすい王に代わって実質的に統治していました。また、第一次大戦中には、赤十字の下で活動、積極的なボランティアを行うとともに、勇敢にもドイツとロシアの両方と戦う英断をし、ヴェルサイユ講和会議には王の代わりに出席。各国王室とのパイプもあり、講和では領土を4割も拡大する、見事な手腕で国民の期待に応えました。


マリア王妃

3. 少女時代の思い出
イレアナは、とても大きくて美しい青い瞳を持って生まれてきた女の子。マリア王妃はとりわけこの青い瞳の娘を愛しました。年上の子供たちの名は、王族のならいの通りに付けただけでしたが、外国へ嫁いできて年月も経ち、自分の考えを通すことにも自信を持ちつつあった王妃は、最愛の娘に、音楽的な響きのイレアナという名を自ら授けました。イレアナの弟ミルチャも同じでしたが、チフスで夭折しました。

夭折したミルチャ

母の教えねばならないことも、イレアナはすでに天から具わっている。
母の愛を、静かに、拒むことなく受け容れる。
健康でエレルギーに満ち、周囲を魅了してやまないイレアナを、尊い存在のように感じる。
マリアは晩年、娘を賛美する手記をのこしています。『The Child with the Blue Eyes』、母が我が子に向けるまなざしが、美しい表現で描かれている素晴らしい文章です。

母マリアとイレアナ

年上の兄姉とは歳が離れているため、イレアナの少女時期に、すでに姉たちは嫁いでいました。尚更、側に置いて愛でたい娘だったことでしょう。
エリザベータはギリシア王妃に、マリアはユーゴスラビア王妃になりました。





兄カロルとイレアナ

母マリアとエリザベート

次女マリア(愛称ミニョン)



4. 二つの戦争
第一次世界大戦は、だれも予想もしていなかったし、それゆえ、どんな戦いになるか、予測もできませんでした。
1914年春、まだ大戦の風の気配もない頃、皇帝専用ヨットはルーマニア、コストロマに寄せ、ルーマニア王室と親睦のときを持ちました。着艦から挨拶までの映像が残されています。










この旅は、オリガ皇女とカロル王太子のお見合いも兼ねていたのです。オリガはカロルを好ましく思わず、会話することすら不愉快なようでした。一方、ルーマニアのマリア王妃は、オリガの寡黙なところ、あまり美しくない顔立が気に入らなかったようです。オリガはこのあと、ロシアから離れたくないという理由で、他国の王室からの申し入れは断りました。イギリスのエドワード王子も候補だったそうです。

この気まずい雰囲気の中にありながら、純真に子どもの世界を楽しんでいたのは、アレクセイ皇太子とイレアナ王女、イレアナの兄のニコラ王子です。
3人で手をつなぎ走っている映像もありました。
この、たった一度の出会いが、きらきらと忘れがたい思い出を刻んで、大国の皇太子の可愛い約束が残されたのでした。
まもなく大戦が始まりましたが、遠い未来の平和なときに、再び出会えることを心の隅で信じていたかもしれません。でもそんな未来は来なかったのです。4年後、アレクセイは銃殺され、約束は永久に果たされなくなってしまいました。

アレクセイとオリガ 最後の写真




5. I Live Again
気丈で、高い精神力と行動力を持つイレアナは、戦時中、7歳のうちから赤十字の通訳をつとめたり、母とともに病院で看護をしたり。できることは躊躇せず、すすんで奉仕しました。
やがて戦争は終わります。
ルーマニア王室では、信頼を失うような出来事が起きます。イレアナの16歳歳上の兄カロルは、父と以前から折り合いが悪かったのでした。
その上、1918年、突然、ジジ・ランブリノという平民女性と勝手に結婚し、子供ももうけます。この結婚は王室法に反するとして無効にされ、1921年、母が苦心して決めてきた相手、ギリシャ王女エレーニと結婚、ミハイ王子が生まれます。ところが、たちまち別の女性マグダ・ルペスクとの醜聞。彼女はユダヤ系で離婚歴もあります。反ユダヤのルーマニアにおいて、国民は激怒。1925年、カロルは、国王の面前で王位継承権放棄の声明を出します。
1927年、カロルの子ミハイが、幼い王として即位。1928年、エレーニ王妃と正式に離婚。ただし、エレーニはルーマニアに王母として残りました。さらに、あろうことか、マルティーニという女子高校生との間に一男一女が生まれます。

カロルとジジ

正式結婚したエレーニとカロル

カロルと息子ミハイ

この破廉恥な王父、政治家にクーデターに利用され、1930年、突然帰国し、国王宣言します。傀儡の王は、第二次大戦の攻防で失敗、退位を迫られ、ポルトガルに逃亡しました。またしても父の残した混乱を、ミハイは復位して引き継ぎますが、すでに青年となっていたミハイ1世は、1947年にソ連の共産党に追われるまでを治め続けました。
カロルは逃亡するとき、王室の財宝をごっそり持ち出し、逃亡先で売って、生涯裕福に暮らせたそうですが、ルーマニアには2度と戻れませんでした。

この間の1930年、イレアナはスペインで出会ったハプスブルク=トスカーナ大公アントンと恋に落ち、翌年、ルーマニアで結婚します。






当時の国王カロル2世は、当日国内で自分よりも、慈善事業などを通して国民に愛されているイレアナにかつてから嫉妬しており、この結婚相手がハプスブルクであることに目をつけ、ルーマニアがハプスブルク家に支配される恐れがあると焚きつけて、2人を国外追放しました。
さらに、弟のニコラは、イギリス海軍のキャリアを捨てて、ミハイの摂政となるために帰国していましたが、兄カロルの帰国復帰の際に、離婚経験のある平民女性との結婚を望んでいることを相談します。兄は始めは優しく、先に既成事実を作ればあとで同意するとなだめておきながら、既成事実化したところで非難に転じ、ニコラの称号剥奪、国外追放を命じました。こうして、国内から弟妹を追い払い、母マリアも他界して、国はカロル1人の思うようになりました。
しかし1940年、国土を割譲しなければならない原因を作ったとしてカロル2世は退位させられ、ミハイ1世が復位することになりました。

ニコラ




カロル2世に国外追放されたアントン大公とイレアナはウィーン郊外に住まい、アントンはドイツ軍の航空隊に入隊していました。6人の子供に恵まれます。
戦時中は居城を病院として開放、近隣の村でも、孤児や貧困者を救うための施設を運営しました。
ドイツが降伏した1944年以降、ルーマニアに戻り、ブラン城に住みます。除隊した夫アントンも合流しました。ここでも、The Hospital of the Queen's Heartという病院を開設します。この名は、愛する亡き母を記念しています。

ブラン城
ドラキュラの城と言われているが実際はここにすんでいなかったらしい



ところが、ミハイが退位させられたあと、イレアナと家族も国外退去をせまられました。
一家は、ウィーン、スイス、アルゼンチン、アメリカへと身を移して行きました。
かつての王女は、いまは下僕も料理人も持たない、家庭の主婦になりました。キッチンに立ち、何をどうすればいいのか途方にくれたのは最初だけ。ジャムを作り、飼っている羊からホームスパンを編んだり、開拓精神でなんでも自分の能力に獲得しました。「子供たちを飢えさせないこと」に心血を注ぐ、積極的な主婦の生活を、アメリカで築いていきました。

アメリカで『I Live Again』というエッセイが書かれています。親しみやすい表現で、身近に彼女を感じる、優しさにあふれたエッセイです。

アメリカではミセス・ハプスブルク




6. 再び、I Live Again
子育ての手が離れてからは、アメリカの地で、共産党反対運動や正教会保護活動に尽力しました。
一方、家庭では、1954年、長く連れ添ったアントンと離婚。ひと月たたぬうちに再婚しましたが、11年後に再び離婚しました。その間、フランスに渡り、正教会で修道女になり、1967年、シスター・アレクサンドラとなってアメリカに戻りました。その後、1991年に亡くなるまで、正教会の修道女として祈りの生活を続けました。





王女から、居住を転々とし、晩年は静謐な祈りの中で穏やかに過ごしたイレアナ。天使のような子供時代も、老修道女の笑顔も、どちらもとても魅力的です。日本だったら、朝ドラのヒロインでしょう。

むかしむかしに、もうすでに残りわずかな人生しか残されていなかったアレクセイに、明るい楽しい時間を与えたイレアナ。20世紀を生き抜いてきたその手に、失われた皇太子の手の感触が時折よみがえることはあったでしょうか。育て上げた6人の子供達の手の記憶に混じりながら?
その手が彼女の時計を止めるまでのあいだに。








『I Live Again』『The child with Blue Eyes』などは英語版ウィキペディアのリンクから、閲覧していただくことが可能です。