カチンの森
ポーランド高級将校らの虐殺は
ドイツか?ソ連か?
三たび埋め戻された各国列強の翻弄
Karol Edmund Wojtczak カチン虐殺被害者の一人
第二次大戦中。
ソ連の捕虜となっていたポーランドの高級将校や知識階級らが忽然と消えた。その数1万5千人。
数年後、占領したドイツ軍によって虐殺現場が暴かれた。発見されたのは不明者のおよそ1/3。
犯行はソ連によるものか、あるいは連合軍を撹乱するための、ドイツによる自作自演か?
事件の真相はなぜ封印されたのか?
流れを追い、事件に関わった人たちの言葉を再考してみようと思う。
1. 2つの全体主義国とポーランド
かつてドイツ、オーストリア、ロシアの三帝国に支配されていたポーランドは、第一次大戦を機とした三帝国の崩壊によって独立した。
独立から20年。ポーランドの両サイドの国は、この地を獲ようと狙っていた。左翼全体主義のソ連と右翼全体主義のドイツである。
世界が、ポーランドを挟んで対峙するこの二大国の対立に息をのんでいたが、1939年、二国は突然、独ソ不可侵条約を締結する。このとき両国外相により結ばれたモロトフ-リッベントロップ協定では、秘密裏にポーランド併合後の分割方法まで取り決めてあった。8月23日の締結後、堰を切ったようにポーランド侵攻が始まった。
1939年9月1日 ドイツがポーランドへ侵攻
9月17日 ソ連がポーランドへ侵攻
9月28日 独ソ友好国境条約
10月5日 ポーランド降伏
降伏後、ポーランドは東西にほぼ二分され、ソ連に併合された東側では、国民はシベリア北部に強制移住させられた。
宣戦布告なしに捕虜となったポーランドの将校らは、知識階級らととともに強制収容所に監禁された。
こうしたインテリゲンツィア弾圧は西のドイツ占領地側でも起こる。全体主義国家は、こうした指導階級及び知識層によって反乱、革命を起こされるのを恐れていたからだ。これは、ゲシュタポとNKVDとの数度にわたる秘密会合で確認しあい、双方が両輪を合わせるように決行した。
ドイツの行動は早い。同年、ダンツィヒ、ポメラニアでのインテリゲンツ・アクツィオンで2万3千人殺害、翌年アウサーオルデントリッヒ・ベフリードゥンクス・アクツィオン(特別鎮圧行動AB)により3万人を捕らえ内7千人殺害、さらにシュレジェンで5千人、ワルシャワ近郊パルミリの森で知識人3千5百人を虐殺する。
ナチスドイツといえば、ユダヤ人に対する民族浄化をイメージするだろう。しかし、それに先立ち、知識人に対する階級浄化を行い、それ以外に同性愛者、障害者も対象とした。
ナチス親衛隊長官ヒムラーは語る。
「ポーランド住民の指導層は効果的に無力化されるべきだ。残りの下層ポーランド人はいかなる教育も受けられない。最終的にユダヤ人とポーランド人は民族として浄化される」
と。つまり、ポーランド人という国民全体の浄化も対象にされていたのだった。
なお、知識層の虐殺は戦後、毛沢東やポル・ポトによっても行われている。独裁者は常に知識人の存在に怯えて生きるのだ。
2. 実際に起きていた事
ここからは、カチンの森事件を中心に、後年の調査や情報公開により解明した事実についてを述べる。
ポーランドの戦争捕虜は、58万7千人がドイツ軍、25万人がソ連軍の捕虜となった。うち、西ウクライナと西ベロルシア出身の兵士は解放。通常は戦争捕虜は陸軍で管理されるのだが、ソ連ではこのときNKVD(秘密警察)に引き渡される。そのうちポーランド人捕虜は15万5千人。8つの収容所に、民族、領土、出自によって分類して収監された。高級将校や知識層1万5千5百人は、3つの特別収容所に送られた。
ウクライナ、ベロルシア(現在のベラルーシ)で7千人の将校銃殺、他13万3千人が移動途中や強制労働で死んだ。
このあと、「忽然と」消えたのは3つの特別収容所へ送られた1万5千5百人である。
以下はその、本当の消息である。
捕虜となったポーランド将兵
3つの収容所へは捕虜をおおよその所属集団に分けて収監していた。
・スタロベルスク特別収容所 3811人
ハリコフNKVDが管理。主に、将軍、大佐、中佐、上級国家公務員、軍関係公務員。
・オスタシュコフ特別収容所 6236人
カリーニンNKVDが管理。主に、情報機関、防諜期間、憲兵、警察。
・コゼルスク特別収容所 4419人
スモレンスクNKVDが管理。ドイツに分割された領土出身の者。プティブル。およそ800人の医師、5人の将軍、400人の将校、教授、教師、芸術家。カチンで銃殺されたのはこの収容所の捕虜達。
将校らは従軍中で、ルーマニア国境などへ逃れようとしていたところを捕らえられたため、ほとんど皆軍装だった。勲章を付け、手入れされたブーツや革ベルトを着けていた。
収容所では一人一人に繰り返し尋問が行われた。共産党独特の「再教育」も試みられた。
しかし再教育は失敗した。ほんの20年前に戦争でソ連を負かしたポーランドの軍人らが、ドイツと組んだ汚いやり方で侵略してきたソ連の思惑通りになど、なるわけがなかった。プライド、愛国心、カトリック信仰は根強く、覆ることはなかった。
指紋、写真、調書を作成し終えたNKVDの管轄者は、彼らの運命はおそらく8~10年のシベリア送りだろうと予想していた。しかし、示された運命は「特別手続きによる処理」すなわち、
証人喚問なし、告発状なし、予備調査なし、証拠提出なし、三人審判、という特別手続きによる最高刑すなわち銃殺が、捕虜全員(特別収容所の1万5千とその他のNKVD監獄のポーランド将校1万人)に言い渡された。
これはNKVD委員長ベリヤによって提案され、スターリン以下政治局員7名の署名で決定された。
刑は捕虜の家族にも及ぶ。妻子と全ての親族がカザフスタンへ10年の追放と財産没収。こちらも特別手続きによる。
1940年4月1日、NKVD戦争捕虜管理局長は各収容所長に対し名簿引渡し命令。フィンランド戦争の捕虜を収容するための場所を早く空ける必要にも迫られていたためか、コゼルスクは、4月3日には早々、銃殺が開始された。オスタシュコフでは初回の4月4日は343人、最終の第18隊64人を以って5月22日、死刑の完了と統計が報告された。
ポーランド兵
カチン被害者の一人、元警官Jan Pacewicz
左は彼の長男
3. 処刑の模様
実は、収容所の捕虜全員が殺害されたわけではない。「利用価値のある」捕虜は予め他の収容所に移して良いとされ、コゼルスクからも448人が移送され銃殺を免れたが、移された者達は同僚の運命も我が身の幸運も当時知る由はなかった。彼らののちの証言、処刑された者の身につけていた手帳や日記、僅かな証言から明らかになった処刑の模様はこうだ。
●コゼルスク収容所→カチンの森
毎朝、モスクワから電話で名簿が読み上げられる。その日名前の上がった者は集められ、駅へ。「西へ向かう」という以外に行き先は知らないが、噂では解放されるのだと聞いている(NKVDの流した噂だが)。
ポーランド人にとって、「西」は祖国の方角だが、「西へ向かう」という言葉には死地に向かうという暗喩もあったので、喜びと不安が入り混じった。
汽車で4時間、確かに北東へ向かう。少し気になるのは、監視兵の態度が乱暴なのと、車内の環境が劣悪なことだった。車内には、先に移送された者達による走り書きが残されており、北西、グニエズドヴォ駅で降車することなどがわかる。その先の運命はもちろん車内には書かれていない。
その駅で釈放されるのだろうか?
スモレンスク郊外20キロのその駅。駅はNKVDの厳重な警戒が布かれている。ドニエプル川が見える。
捕虜は黒塗りの輸送車数台に移され、およそ3キロ先のカチンの森へ。
高さ2メートルの金網に囲まれた空き地には、3月初めに8つの穴が囚人によって掘ってあった。
処刑方法は1920年代から大粛清の時代を通じてNKVDが練り上げてきた秀逸なものだ。後頸部から斜め上に額へ抜ける、拳銃のたった1発の銃弾で止めを刺す。モスクワからスターリン直属の処刑人125人が実行する。
使われる拳銃はドイツ製ヴァルター拳銃。
故障が少なく、装填しやすく、反動が少ないので疲れにくい。弾薬もドイツ製を使用。
穴の縁に立たせ、後から頸部に直接あるいは外套の襟越しに射殺するのだが、当然、抵抗する。特に若い将兵は。
抵抗する者は予め切って用意してある縄で後手に縛る。縄は首に一絡げされていて、手を少しでも動かせば首が絞まる按配になっている。
外套をひっくり返して頭に被せ、縄で縛られている遺体、口におがくずを詰められ、フェルトで猿ぐつわされた遺体、3発頭を撃たれている遺体、銃剣で止めを刺したあとのある遺体。
抵抗の跡がうかがえる。
当然だ。理不尽な処刑に諾々とおとなしく殺される軍人がいるだろうか!
ここに、縄はロシア製、銃剣創はロシアの銃剣と検死で特定できるものだった。
深さ2~3メートルの穴には遺体を9~12層に積み重ね、土をかぶせてその上に松の苗木を植えた。
この地の発見は、ドイツ軍が侵攻して発掘した3年後だった。
●オスタシュコフ収容所→カリーニンNKVD施設処刑室
ここでは元NKVD責任者の証言により処刑のようすが明らかになった。
処刑と埋葬に30人が動員される。場所は4階建のNKVD施設の地下処刑室。
収容所から汽車に乗せ、バスで施設へ。
1人ずつ地下に連れて来られた捕虜は、「赤い隅」と呼ばれる小さな小部屋で、数名のNKVDに名前を確認されると、隣の処刑室に誘導され、たちまち後頭部に銃弾を撃ち込まれる。1人あたり1~2分。日暮れから夜明けまでに300名以上の処刑を速やかに終了し得た。
遺体は直ちに中庭に運び出され、トラックに積み、トラック5、6台がメドノエ村の埋葬地まで2往復。ブルドーザー2台が墓穴を掘り、埋め戻した。穴は23。植樹はせず。
この埋葬地が発見されたのは50年後、グラスノスチによってこの地が特定されてからだ。経年変化により、司法解剖は既に不可能。
●スタロベルスク収容所→ハリコフ市内場
ここでも埋葬地はグラスノスチ以降で明らかになった。
いずれの処刑場でも、捕虜達は最後の最期の時まで殺害されるとは思っていなかったらしい。
映画『カチン(邦題「カチンの森」)』(アンジェイ・ワイダ監督)の一部処刑場面は、証言に忠実に再現していると思われる。
黙々と、淡々と行われる処刑の冷酷さに、悲しみ以上のものを感じる。
ワイダ監督の父はカチンの犠牲者である。
映画『カチンの森』より 処刑場面(約10分)
メドノエ村の埋葬地
未明に処刑を知らされず地下室に連れてこられ、即座に銃殺、中庭、トラック、森に埋める
ロシア皇帝一家惨殺と酷似している
4. カチンの森の負った歴史
カチンの森は1920年代から既に政治犯の処刑地だった。ドイツ軍による発見の際に、別の年代の埋葬跡も同時に見つかっている。それは5~10年前のもので、ソ連製の服を着た男女20名の遺体だったことから、ここが過去にも処刑に使用されていたことがうかがえる。
言うまでもないが、カチンの虐殺は数ある虐殺事件の氷山の一角にすぎない。
ここではドイツ軍がカチンを報告して、この地が一躍世界に知れる過程を追う。
1941年6月22日、ドイツ軍がソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まる。それまで戦争はドイツの西部の戦線で展開し、戦線は西へ押し、フランスは手中に落ち、イギリスはドーバー海峡に追い落とされた。
しかし、この東部への展開が誤算となり、ドイツは破滅するのだ。ソ連、というより「ロシア」を甘く見たヒトラーの大誤算だった。今はそれを論ずるときではないが、逆に、カチンの一件でにおいては、ソ連は事実を甘く見過ぎだようだ。ドイツに暴かれてしまった事実は、どんな工作も突き破り、真実を露見させたのである。
1941年秋、ドイツ軍はスモレンスクへ攻め込み、カチン一帯も占領した。ただし、埋葬地の発見は1943年2月である。
1941年、ドイツ侵攻を受け、連合国と協調することになったソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とも協力協定を結び、ソ連領内のポーランド将兵によるポーランド軍をアンデルス将軍の下にて再編成することになった。
しかし、再召集をかけても特別収容所から解放されたはずの将校らがなぜか集まらず、編成の見通しが立たない。生き残っている家族の元へも、1940年の5月の便りを最後に、誰のところでも消息がわからないままだった。
そこで、アンデルスはスターリンとモロトフを訪ね、再度の釈放要求をする。スターリンは、彼らは満州に逃亡したか、ソ連領内のどこかにいる、といい、アンデルスの眼の前で部下に釈放を確認する電話までかける演技をした。
1万5千の、ポーランドの軍服を着た将校が、どうやって逃亡し、満州まで向かうのか?
あまりにもばかばかしい嘘にポーランド側は絶望した。それでもチャプスキ大尉を中心に、独自に必死に調べまわった。
戦況は、1943年2月2日にスターリングラードの戦いでソ連が勝利し、ドイツは敗退の危機に陥った。そんな中、2月18日にカチンの森でポーランド将校ら数千人の遺体が発見されたのである。
報告を受けたゲッベルス宣伝相は、これを連合軍内を掻き乱す機会として利用することにした。
国際社会に向けて4月13日にこれを発表、虐殺はソ連によるものだと主張した。ソ連は認めるわけもなく、他の連合国も、例によってゲッベルスの悪知恵であってドイツによる自作自演だろうと、冷ややかに看過した。しかし、ドイツは周到にも、ドイツ以外の国の専門家による国際医学調査委員会を組織し、遺体発掘調査を依頼。各国の報道機関にも広く呼びかけた。ポーランド赤十字調査団も個別で組織し、調査も独自に行った。調査団の中にはポーランド地下組織のメンバーも混ぜており、ロンドンの亡命政府に逐一報告することになっていた。さらに、連合国の捕虜数名も現地に連れて行き、自由に状況を見せた。
7つの穴が発見されていて、穴には遺体が同じ向きに層になって並べられて埋まっていた様子が見て取れた。遺体のほとんどは動かした跡はなかった。死後に死体から溶け出る酸の成分と、折重なっていた重みのために、遺体同士がところどころ癒着したままになっていたことで明らかだった。銃殺時期の特定につながる遺体のポケットの遺留品は、ドイツが仕込んだものであるとソ連は非難したが、立ち会った調査委員会によれば、手付かずの遺体の様子から、そうした工作の可能性はなかったと判断した。
委員会はドイツの指示を受けずに、自由に遺体を選び、調査できた。遺体にはたくさんの遺留品が残っており、勲章、階級章、ポケットには手帳、日記、家族写真、十字架などが、遺体の身元を明かしてくれた。遺体4143体のうちの2815体、68%が遺留品によって身元確認できたのである。
この調査で一番注目されたのは、死後どのくらいの時を経過したか、であった。それによって、これがドイツによる虐殺なのか、ソ連によるものかが特定できるからである。
●銃弾はドイツ製。ただし、かつてヴェルサイユ条約で軍縮を迫られた経緯により、ドイツ製の銃弾メーカーはソ連、バルト三国、ポーランドへも輸出していたため、それらの国による仕業とすることもできる。
●検死の結果により、一部の遺体に見られる銃剣創はソ連兵の使用しているものと確かめられた。
使用されている縄がソ連製であり、結び目がロシア結びだった。
●遺体のポケットにいくつかソ連製のマッチが入っていた。
そして肝心の死後経過年数だが、
●死後3年経たないと形成されない頭蓋内の物質が、頭蓋骨の解剖により検出できたこと、
●発掘された穴には1940年にNKVDが発行したプロパガンダ新聞が見られたこと、
●遺体のポケットに発見された手紙、日記の日付が1940年4月以降の物がなかったこと、
●遺体の上の樹木は樹齢5年だったが、年輪の境が3年前に見られること、
以上から、この地に植樹されて3年は経過していることが証明できる。つまり、ドイツがこの地に来たのが1年半前であり、それ以前の殺害であった、つまりソ連がこの虐殺を行った、ということが結論になった。
「殺害は1940年春、ソ連による」ものと発表された。
この発表を受け、ポーランドがドイツとほぼ同時期に国際赤十字に査察を要求したことで、ソ連がポーランド亡命政府と断交。英米は仲裁したがこじれ、結局連合国間の足並みは乱され、ゲッベルスの思惑通りに運んだ。
それでも、戦況はソ連が優勢を続け、6月には墓穴調査を中断、遺留品や調査結果は十数個の木箱に梱包され、クラクフ法医学研究所へ送られた。
実はこの証拠物品の詰まった箱は安全に運ばれることが叶わず、隠滅を図る複数の組織につけ狙われ、大変数奇な末路となった。如何せん、戦時中であり、しかも追手はソ連なのだから。
5. ソ連公式見解
1943年9月26日、ソ連はスモレンスクを奪回。
ソ連はカチンの森の再調査を独自に行い、公式見解を発表するため、「ナチ・ドイツ侵略者によるカチンの森でのポーランド戦争捕虜将校銃殺の状況を確認し調査する特別委員会」を公式に組織して調査した。この、冗談みたいに長い委員会名が示しているごとく、調査の目的と結果は、調査以前に決定されているようなものであった。
調査はソ連の成員のみによって行われ、連合国の立会いも許されなかったが、招かれた報道関係者の眼の前で既に台上に用意されていた遺体を委員である医師が解剖して解説した。遺体のポケットの遺留品として、1941年に家族とやりとりした手紙などが、脇の台に既に置いてあった。住所の地名のスペルに間違いのある手紙だった。
こうして、1944年1月、例の長い名前の委員会はソ連の公式報告書を発表。
この報告書の中で、掘り出された遺体は925体のみ。報告書のボリュームはドイツ調査団の1/15、ポーランド調査団の1/20。物的証拠は少なく、そのほとんどが現地の聞き取り調査であり、「森の近くでドイツ兵が活動しているのを見た」「ドイツに協力させられた人から話を聞いた」などが記載されているが、話をきいている時点が3月なのに、聞いた話の内容が4月の話だったりする矛盾。
処刑は8月か9月と結論しているが、遺体は冬外套を着ていたのではなかったか。
また、ドイツの調査に参加した委員たちは墓を開けた時に昆虫の類が土中に一切見つからなかったことに気づいている。昆虫が活動する前の早春だったことの証明である。9月とするならばこの点とも矛盾する(のちに9~12月、冬と修正)。
ドイツによる調査の時に立ち会った、考古学や法医学には縁のない連合国捕虜さえも、遺体の衣服や長靴がそれほど綻んでいないことを見て、死者は捕虜になってからそれほど長くは生きていなかったのだと直感したという。ソ連の報告では、カチンの森近くで強制労働の土木工事をさせられていたポーランド捕虜たちのところへドイツが急に侵攻してきたため、捕虜を残してソ連兵は撤退、捕虜はそのままドイツ軍に拘束されたのだと報告している。ソ連兵が去ったというのに、統制のとれた元将校達が逃亡の機会をみすみす棒に振り、そのままおとなしく、もう1つの敵であるドイツ軍に雁首そろえて捕まるなんてことがあるなら、作り話にしても面白すぎる。
また、ドイツの報告書にあってソ連の報告書にはない、松の木、縄、新聞の日付に関することからも、上記のソ連の説明に不備があるのがわかる。
また、殺害リスト入りを免れて他の収容所に送られ、のちに解放された者の証言と、遺留品の記録が証明するのだが、各列車の出発日と人数や名を記した将校のメモの通り、遺体は同じ順序で一団となって折り重なっていた。ドイツ拘束後数年経ってのち、再び同じ順序で処刑されていく可能性は相当低い。
そしてスターリンが以前、亡命政府に行方を尋ねられた時に答えたこととは大きく矛盾することになる。
ソ連公式見解のストーリーはこうだ。
1942~43年の冬、ソ連に対抗するために、ドイツは挑発行動としてカチンで行った虐殺をソ連の仕業として触れ回るべく、地元民を「殴り、脅し、説き伏せて証言させた」。その一方で、この件がドイツ到着前であったように見せかけるために、死体と墓に細工をした。死体1万1000人すべて発掘、衣類から記録文書を取り除いて埋めもどした。作業をさせた500人のソ連捕虜は射殺したが、その遺体は発見されていない。(と、自国の民の射殺に言及しているがその罪を全く追及していない)
数週間後に一部を掘り起こし、世界に発表した。
殴り、脅し、説き伏せて証言させる、
墓穴を掘らせた後は射殺する‥
ソ連の常習の手口を暴露しているように思える。
こうして、捏造した証拠品も、辻褄合わせたはずの架空の話も、事実の前に全て覆された。
ソ連の工作は事実には勝てなかった。
計画も唐突であったし、やり方も雑だった。
その割に遺体はきれいに積み重ねたが、それがまたアダとなった。
ドイツの処刑は靴も服も下着も全て身ぐるみ剥いで、髪まで刈って保管し、金歯を抜き取り、完膚なきまで人間性を奪って殺す。ポーランド捕虜は徽章を身につけたまま、軍装のまま銃殺。ドイツ式に比べれば人間味が感じられるが、人物特定につながった。もっとも、国内のこの地が暴かれることになることは考えなかったからに違いない。ドイツのやり方とて、隠蔽のためというより、あまりにも物資がなく、衣服の上に、髪まで再利用しようとしたまでだ。
ともあれ、事実は証明された。
ところが、真実は隠蔽された。無視された。
彼らはまた埋められた。
そこには列強の思惑があった。
その理不尽な顛末を次回に記す。
ポーランド高級将校らの虐殺は
ドイツか?ソ連か?
三たび埋め戻された各国列強の翻弄
Karol Edmund Wojtczak カチン虐殺被害者の一人
第二次大戦中。
ソ連の捕虜となっていたポーランドの高級将校や知識階級らが忽然と消えた。その数1万5千人。
数年後、占領したドイツ軍によって虐殺現場が暴かれた。発見されたのは不明者のおよそ1/3。
犯行はソ連によるものか、あるいは連合軍を撹乱するための、ドイツによる自作自演か?
事件の真相はなぜ封印されたのか?
流れを追い、事件に関わった人たちの言葉を再考してみようと思う。
1. 2つの全体主義国とポーランド
かつてドイツ、オーストリア、ロシアの三帝国に支配されていたポーランドは、第一次大戦を機とした三帝国の崩壊によって独立した。
独立から20年。ポーランドの両サイドの国は、この地を獲ようと狙っていた。左翼全体主義のソ連と右翼全体主義のドイツである。
世界が、ポーランドを挟んで対峙するこの二大国の対立に息をのんでいたが、1939年、二国は突然、独ソ不可侵条約を締結する。このとき両国外相により結ばれたモロトフ-リッベントロップ協定では、秘密裏にポーランド併合後の分割方法まで取り決めてあった。8月23日の締結後、堰を切ったようにポーランド侵攻が始まった。
1939年9月1日 ドイツがポーランドへ侵攻
9月17日 ソ連がポーランドへ侵攻
9月28日 独ソ友好国境条約
10月5日 ポーランド降伏
降伏後、ポーランドは東西にほぼ二分され、ソ連に併合された東側では、国民はシベリア北部に強制移住させられた。
宣戦布告なしに捕虜となったポーランドの将校らは、知識階級らととともに強制収容所に監禁された。
こうしたインテリゲンツィア弾圧は西のドイツ占領地側でも起こる。全体主義国家は、こうした指導階級及び知識層によって反乱、革命を起こされるのを恐れていたからだ。これは、ゲシュタポとNKVDとの数度にわたる秘密会合で確認しあい、双方が両輪を合わせるように決行した。
ドイツの行動は早い。同年、ダンツィヒ、ポメラニアでのインテリゲンツ・アクツィオンで2万3千人殺害、翌年アウサーオルデントリッヒ・ベフリードゥンクス・アクツィオン(特別鎮圧行動AB)により3万人を捕らえ内7千人殺害、さらにシュレジェンで5千人、ワルシャワ近郊パルミリの森で知識人3千5百人を虐殺する。
ナチスドイツといえば、ユダヤ人に対する民族浄化をイメージするだろう。しかし、それに先立ち、知識人に対する階級浄化を行い、それ以外に同性愛者、障害者も対象とした。
ナチス親衛隊長官ヒムラーは語る。
「ポーランド住民の指導層は効果的に無力化されるべきだ。残りの下層ポーランド人はいかなる教育も受けられない。最終的にユダヤ人とポーランド人は民族として浄化される」
と。つまり、ポーランド人という国民全体の浄化も対象にされていたのだった。
なお、知識層の虐殺は戦後、毛沢東やポル・ポトによっても行われている。独裁者は常に知識人の存在に怯えて生きるのだ。
2. 実際に起きていた事
ここからは、カチンの森事件を中心に、後年の調査や情報公開により解明した事実についてを述べる。
ポーランドの戦争捕虜は、58万7千人がドイツ軍、25万人がソ連軍の捕虜となった。うち、西ウクライナと西ベロルシア出身の兵士は解放。通常は戦争捕虜は陸軍で管理されるのだが、ソ連ではこのときNKVD(秘密警察)に引き渡される。そのうちポーランド人捕虜は15万5千人。8つの収容所に、民族、領土、出自によって分類して収監された。高級将校や知識層1万5千5百人は、3つの特別収容所に送られた。
ウクライナ、ベロルシア(現在のベラルーシ)で7千人の将校銃殺、他13万3千人が移動途中や強制労働で死んだ。
このあと、「忽然と」消えたのは3つの特別収容所へ送られた1万5千5百人である。
以下はその、本当の消息である。
捕虜となったポーランド将兵
3つの収容所へは捕虜をおおよその所属集団に分けて収監していた。
・スタロベルスク特別収容所 3811人
ハリコフNKVDが管理。主に、将軍、大佐、中佐、上級国家公務員、軍関係公務員。
・オスタシュコフ特別収容所 6236人
カリーニンNKVDが管理。主に、情報機関、防諜期間、憲兵、警察。
・コゼルスク特別収容所 4419人
スモレンスクNKVDが管理。ドイツに分割された領土出身の者。プティブル。およそ800人の医師、5人の将軍、400人の将校、教授、教師、芸術家。カチンで銃殺されたのはこの収容所の捕虜達。
将校らは従軍中で、ルーマニア国境などへ逃れようとしていたところを捕らえられたため、ほとんど皆軍装だった。勲章を付け、手入れされたブーツや革ベルトを着けていた。
収容所では一人一人に繰り返し尋問が行われた。共産党独特の「再教育」も試みられた。
しかし再教育は失敗した。ほんの20年前に戦争でソ連を負かしたポーランドの軍人らが、ドイツと組んだ汚いやり方で侵略してきたソ連の思惑通りになど、なるわけがなかった。プライド、愛国心、カトリック信仰は根強く、覆ることはなかった。
指紋、写真、調書を作成し終えたNKVDの管轄者は、彼らの運命はおそらく8~10年のシベリア送りだろうと予想していた。しかし、示された運命は「特別手続きによる処理」すなわち、
証人喚問なし、告発状なし、予備調査なし、証拠提出なし、三人審判、という特別手続きによる最高刑すなわち銃殺が、捕虜全員(特別収容所の1万5千とその他のNKVD監獄のポーランド将校1万人)に言い渡された。
これはNKVD委員長ベリヤによって提案され、スターリン以下政治局員7名の署名で決定された。
刑は捕虜の家族にも及ぶ。妻子と全ての親族がカザフスタンへ10年の追放と財産没収。こちらも特別手続きによる。
1940年4月1日、NKVD戦争捕虜管理局長は各収容所長に対し名簿引渡し命令。フィンランド戦争の捕虜を収容するための場所を早く空ける必要にも迫られていたためか、コゼルスクは、4月3日には早々、銃殺が開始された。オスタシュコフでは初回の4月4日は343人、最終の第18隊64人を以って5月22日、死刑の完了と統計が報告された。
ポーランド兵
カチン被害者の一人、元警官Jan Pacewicz
左は彼の長男
3. 処刑の模様
実は、収容所の捕虜全員が殺害されたわけではない。「利用価値のある」捕虜は予め他の収容所に移して良いとされ、コゼルスクからも448人が移送され銃殺を免れたが、移された者達は同僚の運命も我が身の幸運も当時知る由はなかった。彼らののちの証言、処刑された者の身につけていた手帳や日記、僅かな証言から明らかになった処刑の模様はこうだ。
●コゼルスク収容所→カチンの森
毎朝、モスクワから電話で名簿が読み上げられる。その日名前の上がった者は集められ、駅へ。「西へ向かう」という以外に行き先は知らないが、噂では解放されるのだと聞いている(NKVDの流した噂だが)。
ポーランド人にとって、「西」は祖国の方角だが、「西へ向かう」という言葉には死地に向かうという暗喩もあったので、喜びと不安が入り混じった。
汽車で4時間、確かに北東へ向かう。少し気になるのは、監視兵の態度が乱暴なのと、車内の環境が劣悪なことだった。車内には、先に移送された者達による走り書きが残されており、北西、グニエズドヴォ駅で降車することなどがわかる。その先の運命はもちろん車内には書かれていない。
その駅で釈放されるのだろうか?
スモレンスク郊外20キロのその駅。駅はNKVDの厳重な警戒が布かれている。ドニエプル川が見える。
捕虜は黒塗りの輸送車数台に移され、およそ3キロ先のカチンの森へ。
高さ2メートルの金網に囲まれた空き地には、3月初めに8つの穴が囚人によって掘ってあった。
処刑方法は1920年代から大粛清の時代を通じてNKVDが練り上げてきた秀逸なものだ。後頸部から斜め上に額へ抜ける、拳銃のたった1発の銃弾で止めを刺す。モスクワからスターリン直属の処刑人125人が実行する。
使われる拳銃はドイツ製ヴァルター拳銃。
故障が少なく、装填しやすく、反動が少ないので疲れにくい。弾薬もドイツ製を使用。
穴の縁に立たせ、後から頸部に直接あるいは外套の襟越しに射殺するのだが、当然、抵抗する。特に若い将兵は。
抵抗する者は予め切って用意してある縄で後手に縛る。縄は首に一絡げされていて、手を少しでも動かせば首が絞まる按配になっている。
外套をひっくり返して頭に被せ、縄で縛られている遺体、口におがくずを詰められ、フェルトで猿ぐつわされた遺体、3発頭を撃たれている遺体、銃剣で止めを刺したあとのある遺体。
抵抗の跡がうかがえる。
当然だ。理不尽な処刑に諾々とおとなしく殺される軍人がいるだろうか!
ここに、縄はロシア製、銃剣創はロシアの銃剣と検死で特定できるものだった。
深さ2~3メートルの穴には遺体を9~12層に積み重ね、土をかぶせてその上に松の苗木を植えた。
この地の発見は、ドイツ軍が侵攻して発掘した3年後だった。
●オスタシュコフ収容所→カリーニンNKVD施設処刑室
ここでは元NKVD責任者の証言により処刑のようすが明らかになった。
処刑と埋葬に30人が動員される。場所は4階建のNKVD施設の地下処刑室。
収容所から汽車に乗せ、バスで施設へ。
1人ずつ地下に連れて来られた捕虜は、「赤い隅」と呼ばれる小さな小部屋で、数名のNKVDに名前を確認されると、隣の処刑室に誘導され、たちまち後頭部に銃弾を撃ち込まれる。1人あたり1~2分。日暮れから夜明けまでに300名以上の処刑を速やかに終了し得た。
遺体は直ちに中庭に運び出され、トラックに積み、トラック5、6台がメドノエ村の埋葬地まで2往復。ブルドーザー2台が墓穴を掘り、埋め戻した。穴は23。植樹はせず。
この埋葬地が発見されたのは50年後、グラスノスチによってこの地が特定されてからだ。経年変化により、司法解剖は既に不可能。
●スタロベルスク収容所→ハリコフ市内場
ここでも埋葬地はグラスノスチ以降で明らかになった。
いずれの処刑場でも、捕虜達は最後の最期の時まで殺害されるとは思っていなかったらしい。
映画『カチン(邦題「カチンの森」)』(アンジェイ・ワイダ監督)の一部処刑場面は、証言に忠実に再現していると思われる。
黙々と、淡々と行われる処刑の冷酷さに、悲しみ以上のものを感じる。
ワイダ監督の父はカチンの犠牲者である。
映画『カチンの森』より 処刑場面(約10分)
メドノエ村の埋葬地
未明に処刑を知らされず地下室に連れてこられ、即座に銃殺、中庭、トラック、森に埋める
ロシア皇帝一家惨殺と酷似している
4. カチンの森の負った歴史
カチンの森は1920年代から既に政治犯の処刑地だった。ドイツ軍による発見の際に、別の年代の埋葬跡も同時に見つかっている。それは5~10年前のもので、ソ連製の服を着た男女20名の遺体だったことから、ここが過去にも処刑に使用されていたことがうかがえる。
言うまでもないが、カチンの虐殺は数ある虐殺事件の氷山の一角にすぎない。
ここではドイツ軍がカチンを報告して、この地が一躍世界に知れる過程を追う。
1941年6月22日、ドイツ軍がソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まる。それまで戦争はドイツの西部の戦線で展開し、戦線は西へ押し、フランスは手中に落ち、イギリスはドーバー海峡に追い落とされた。
しかし、この東部への展開が誤算となり、ドイツは破滅するのだ。ソ連、というより「ロシア」を甘く見たヒトラーの大誤算だった。今はそれを論ずるときではないが、逆に、カチンの一件でにおいては、ソ連は事実を甘く見過ぎだようだ。ドイツに暴かれてしまった事実は、どんな工作も突き破り、真実を露見させたのである。
1941年秋、ドイツ軍はスモレンスクへ攻め込み、カチン一帯も占領した。ただし、埋葬地の発見は1943年2月である。
1941年、ドイツ侵攻を受け、連合国と協調することになったソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とも協力協定を結び、ソ連領内のポーランド将兵によるポーランド軍をアンデルス将軍の下にて再編成することになった。
しかし、再召集をかけても特別収容所から解放されたはずの将校らがなぜか集まらず、編成の見通しが立たない。生き残っている家族の元へも、1940年の5月の便りを最後に、誰のところでも消息がわからないままだった。
そこで、アンデルスはスターリンとモロトフを訪ね、再度の釈放要求をする。スターリンは、彼らは満州に逃亡したか、ソ連領内のどこかにいる、といい、アンデルスの眼の前で部下に釈放を確認する電話までかける演技をした。
1万5千の、ポーランドの軍服を着た将校が、どうやって逃亡し、満州まで向かうのか?
あまりにもばかばかしい嘘にポーランド側は絶望した。それでもチャプスキ大尉を中心に、独自に必死に調べまわった。
戦況は、1943年2月2日にスターリングラードの戦いでソ連が勝利し、ドイツは敗退の危機に陥った。そんな中、2月18日にカチンの森でポーランド将校ら数千人の遺体が発見されたのである。
報告を受けたゲッベルス宣伝相は、これを連合軍内を掻き乱す機会として利用することにした。
国際社会に向けて4月13日にこれを発表、虐殺はソ連によるものだと主張した。ソ連は認めるわけもなく、他の連合国も、例によってゲッベルスの悪知恵であってドイツによる自作自演だろうと、冷ややかに看過した。しかし、ドイツは周到にも、ドイツ以外の国の専門家による国際医学調査委員会を組織し、遺体発掘調査を依頼。各国の報道機関にも広く呼びかけた。ポーランド赤十字調査団も個別で組織し、調査も独自に行った。調査団の中にはポーランド地下組織のメンバーも混ぜており、ロンドンの亡命政府に逐一報告することになっていた。さらに、連合国の捕虜数名も現地に連れて行き、自由に状況を見せた。
7つの穴が発見されていて、穴には遺体が同じ向きに層になって並べられて埋まっていた様子が見て取れた。遺体のほとんどは動かした跡はなかった。死後に死体から溶け出る酸の成分と、折重なっていた重みのために、遺体同士がところどころ癒着したままになっていたことで明らかだった。銃殺時期の特定につながる遺体のポケットの遺留品は、ドイツが仕込んだものであるとソ連は非難したが、立ち会った調査委員会によれば、手付かずの遺体の様子から、そうした工作の可能性はなかったと判断した。
委員会はドイツの指示を受けずに、自由に遺体を選び、調査できた。遺体にはたくさんの遺留品が残っており、勲章、階級章、ポケットには手帳、日記、家族写真、十字架などが、遺体の身元を明かしてくれた。遺体4143体のうちの2815体、68%が遺留品によって身元確認できたのである。
この調査で一番注目されたのは、死後どのくらいの時を経過したか、であった。それによって、これがドイツによる虐殺なのか、ソ連によるものかが特定できるからである。
●銃弾はドイツ製。ただし、かつてヴェルサイユ条約で軍縮を迫られた経緯により、ドイツ製の銃弾メーカーはソ連、バルト三国、ポーランドへも輸出していたため、それらの国による仕業とすることもできる。
●検死の結果により、一部の遺体に見られる銃剣創はソ連兵の使用しているものと確かめられた。
使用されている縄がソ連製であり、結び目がロシア結びだった。
●遺体のポケットにいくつかソ連製のマッチが入っていた。
そして肝心の死後経過年数だが、
●死後3年経たないと形成されない頭蓋内の物質が、頭蓋骨の解剖により検出できたこと、
●発掘された穴には1940年にNKVDが発行したプロパガンダ新聞が見られたこと、
●遺体のポケットに発見された手紙、日記の日付が1940年4月以降の物がなかったこと、
●遺体の上の樹木は樹齢5年だったが、年輪の境が3年前に見られること、
以上から、この地に植樹されて3年は経過していることが証明できる。つまり、ドイツがこの地に来たのが1年半前であり、それ以前の殺害であった、つまりソ連がこの虐殺を行った、ということが結論になった。
「殺害は1940年春、ソ連による」ものと発表された。
この発表を受け、ポーランドがドイツとほぼ同時期に国際赤十字に査察を要求したことで、ソ連がポーランド亡命政府と断交。英米は仲裁したがこじれ、結局連合国間の足並みは乱され、ゲッベルスの思惑通りに運んだ。
それでも、戦況はソ連が優勢を続け、6月には墓穴調査を中断、遺留品や調査結果は十数個の木箱に梱包され、クラクフ法医学研究所へ送られた。
実はこの証拠物品の詰まった箱は安全に運ばれることが叶わず、隠滅を図る複数の組織につけ狙われ、大変数奇な末路となった。如何せん、戦時中であり、しかも追手はソ連なのだから。
5. ソ連公式見解
1943年9月26日、ソ連はスモレンスクを奪回。
ソ連はカチンの森の再調査を独自に行い、公式見解を発表するため、「ナチ・ドイツ侵略者によるカチンの森でのポーランド戦争捕虜将校銃殺の状況を確認し調査する特別委員会」を公式に組織して調査した。この、冗談みたいに長い委員会名が示しているごとく、調査の目的と結果は、調査以前に決定されているようなものであった。
調査はソ連の成員のみによって行われ、連合国の立会いも許されなかったが、招かれた報道関係者の眼の前で既に台上に用意されていた遺体を委員である医師が解剖して解説した。遺体のポケットの遺留品として、1941年に家族とやりとりした手紙などが、脇の台に既に置いてあった。住所の地名のスペルに間違いのある手紙だった。
こうして、1944年1月、例の長い名前の委員会はソ連の公式報告書を発表。
この報告書の中で、掘り出された遺体は925体のみ。報告書のボリュームはドイツ調査団の1/15、ポーランド調査団の1/20。物的証拠は少なく、そのほとんどが現地の聞き取り調査であり、「森の近くでドイツ兵が活動しているのを見た」「ドイツに協力させられた人から話を聞いた」などが記載されているが、話をきいている時点が3月なのに、聞いた話の内容が4月の話だったりする矛盾。
処刑は8月か9月と結論しているが、遺体は冬外套を着ていたのではなかったか。
また、ドイツの調査に参加した委員たちは墓を開けた時に昆虫の類が土中に一切見つからなかったことに気づいている。昆虫が活動する前の早春だったことの証明である。9月とするならばこの点とも矛盾する(のちに9~12月、冬と修正)。
ドイツによる調査の時に立ち会った、考古学や法医学には縁のない連合国捕虜さえも、遺体の衣服や長靴がそれほど綻んでいないことを見て、死者は捕虜になってからそれほど長くは生きていなかったのだと直感したという。ソ連の報告では、カチンの森近くで強制労働の土木工事をさせられていたポーランド捕虜たちのところへドイツが急に侵攻してきたため、捕虜を残してソ連兵は撤退、捕虜はそのままドイツ軍に拘束されたのだと報告している。ソ連兵が去ったというのに、統制のとれた元将校達が逃亡の機会をみすみす棒に振り、そのままおとなしく、もう1つの敵であるドイツ軍に雁首そろえて捕まるなんてことがあるなら、作り話にしても面白すぎる。
また、ドイツの報告書にあってソ連の報告書にはない、松の木、縄、新聞の日付に関することからも、上記のソ連の説明に不備があるのがわかる。
また、殺害リスト入りを免れて他の収容所に送られ、のちに解放された者の証言と、遺留品の記録が証明するのだが、各列車の出発日と人数や名を記した将校のメモの通り、遺体は同じ順序で一団となって折り重なっていた。ドイツ拘束後数年経ってのち、再び同じ順序で処刑されていく可能性は相当低い。
そしてスターリンが以前、亡命政府に行方を尋ねられた時に答えたこととは大きく矛盾することになる。
ソ連公式見解のストーリーはこうだ。
1942~43年の冬、ソ連に対抗するために、ドイツは挑発行動としてカチンで行った虐殺をソ連の仕業として触れ回るべく、地元民を「殴り、脅し、説き伏せて証言させた」。その一方で、この件がドイツ到着前であったように見せかけるために、死体と墓に細工をした。死体1万1000人すべて発掘、衣類から記録文書を取り除いて埋めもどした。作業をさせた500人のソ連捕虜は射殺したが、その遺体は発見されていない。(と、自国の民の射殺に言及しているがその罪を全く追及していない)
数週間後に一部を掘り起こし、世界に発表した。
殴り、脅し、説き伏せて証言させる、
墓穴を掘らせた後は射殺する‥
ソ連の常習の手口を暴露しているように思える。
こうして、捏造した証拠品も、辻褄合わせたはずの架空の話も、事実の前に全て覆された。
ソ連の工作は事実には勝てなかった。
計画も唐突であったし、やり方も雑だった。
その割に遺体はきれいに積み重ねたが、それがまたアダとなった。
ドイツの処刑は靴も服も下着も全て身ぐるみ剥いで、髪まで刈って保管し、金歯を抜き取り、完膚なきまで人間性を奪って殺す。ポーランド捕虜は徽章を身につけたまま、軍装のまま銃殺。ドイツ式に比べれば人間味が感じられるが、人物特定につながった。もっとも、国内のこの地が暴かれることになることは考えなかったからに違いない。ドイツのやり方とて、隠蔽のためというより、あまりにも物資がなく、衣服の上に、髪まで再利用しようとしたまでだ。
ともあれ、事実は証明された。
ところが、真実は隠蔽された。無視された。
彼らはまた埋められた。
そこには列強の思惑があった。
その理不尽な顛末を次回に記す。