名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

禁断のカチン 隠蔽された虐殺

2016-03-07 11:02:05 | 出来事
カチンの森
ポーランド高級将校らの虐殺は
ドイツか?ソ連か?
三たび埋め戻された各国列強の翻弄


Karol Edmund Wojtczak カチン虐殺被害者の一人

第二次大戦中。
ソ連の捕虜となっていたポーランドの高級将校や知識階級らが忽然と消えた。その数1万5千人。
数年後、占領したドイツ軍によって虐殺現場が暴かれた。発見されたのは不明者のおよそ1/3。
犯行はソ連によるものか、あるいは連合軍を撹乱するための、ドイツによる自作自演か?
事件の真相はなぜ封印されたのか?
流れを追い、事件に関わった人たちの言葉を再考してみようと思う。


1. 2つの全体主義国とポーランド

かつてドイツ、オーストリア、ロシアの三帝国に支配されていたポーランドは、第一次大戦を機とした三帝国の崩壊によって独立した。
独立から20年。ポーランドの両サイドの国は、この地を獲ようと狙っていた。左翼全体主義のソ連と右翼全体主義のドイツである。
世界が、ポーランドを挟んで対峙するこの二大国の対立に息をのんでいたが、1939年、二国は突然、独ソ不可侵条約を締結する。このとき両国外相により結ばれたモロトフ-リッベントロップ協定では、秘密裏にポーランド併合後の分割方法まで取り決めてあった。8月23日の締結後、堰を切ったようにポーランド侵攻が始まった。

1939年9月1日 ドイツがポーランドへ侵攻
9月17日 ソ連がポーランドへ侵攻
9月28日 独ソ友好国境条約
10月5日 ポーランド降伏

降伏後、ポーランドは東西にほぼ二分され、ソ連に併合された東側では、国民はシベリア北部に強制移住させられた。
宣戦布告なしに捕虜となったポーランドの将校らは、知識階級らととともに強制収容所に監禁された。
こうしたインテリゲンツィア弾圧は西のドイツ占領地側でも起こる。全体主義国家は、こうした指導階級及び知識層によって反乱、革命を起こされるのを恐れていたからだ。これは、ゲシュタポとNKVDとの数度にわたる秘密会合で確認しあい、双方が両輪を合わせるように決行した。

ドイツの行動は早い。同年、ダンツィヒ、ポメラニアでのインテリゲンツ・アクツィオンで2万3千人殺害、翌年アウサーオルデントリッヒ・ベフリードゥンクス・アクツィオン(特別鎮圧行動AB)により3万人を捕らえ内7千人殺害、さらにシュレジェンで5千人、ワルシャワ近郊パルミリの森で知識人3千5百人を虐殺する。
ナチスドイツといえば、ユダヤ人に対する民族浄化をイメージするだろう。しかし、それに先立ち、知識人に対する階級浄化を行い、それ以外に同性愛者、障害者も対象とした。

ナチス親衛隊長官ヒムラーは語る。

「ポーランド住民の指導層は効果的に無力化されるべきだ。残りの下層ポーランド人はいかなる教育も受けられない。最終的にユダヤ人とポーランド人は民族として浄化される」

と。つまり、ポーランド人という国民全体の浄化も対象にされていたのだった。
なお、知識層の虐殺は戦後、毛沢東やポル・ポトによっても行われている。独裁者は常に知識人の存在に怯えて生きるのだ。



2. 実際に起きていた事

ここからは、カチンの森事件を中心に、後年の調査や情報公開により解明した事実についてを述べる。

ポーランドの戦争捕虜は、58万7千人がドイツ軍、25万人がソ連軍の捕虜となった。うち、西ウクライナと西ベロルシア出身の兵士は解放。通常は戦争捕虜は陸軍で管理されるのだが、ソ連ではこのときNKVD(秘密警察)に引き渡される。そのうちポーランド人捕虜は15万5千人。8つの収容所に、民族、領土、出自によって分類して収監された。高級将校や知識層1万5千5百人は、3つの特別収容所に送られた。
ウクライナ、ベロルシア(現在のベラルーシ)で7千人の将校銃殺、他13万3千人が移動途中や強制労働で死んだ。
このあと、「忽然と」消えたのは3つの特別収容所へ送られた1万5千5百人である。
以下はその、本当の消息である。

捕虜となったポーランド将兵



3つの収容所へは捕虜をおおよその所属集団に分けて収監していた。

・スタロベルスク特別収容所 3811人
ハリコフNKVDが管理。主に、将軍、大佐、中佐、上級国家公務員、軍関係公務員。

・オスタシュコフ特別収容所 6236人
カリーニンNKVDが管理。主に、情報機関、防諜期間、憲兵、警察。

・コゼルスク特別収容所 4419人
スモレンスクNKVDが管理。ドイツに分割された領土出身の者。プティブル。およそ800人の医師、5人の将軍、400人の将校、教授、教師、芸術家。カチンで銃殺されたのはこの収容所の捕虜達。

将校らは従軍中で、ルーマニア国境などへ逃れようとしていたところを捕らえられたため、ほとんど皆軍装だった。勲章を付け、手入れされたブーツや革ベルトを着けていた。
収容所では一人一人に繰り返し尋問が行われた。共産党独特の「再教育」も試みられた。
しかし再教育は失敗した。ほんの20年前に戦争でソ連を負かしたポーランドの軍人らが、ドイツと組んだ汚いやり方で侵略してきたソ連の思惑通りになど、なるわけがなかった。プライド、愛国心、カトリック信仰は根強く、覆ることはなかった。

指紋、写真、調書を作成し終えたNKVDの管轄者は、彼らの運命はおそらく8~10年のシベリア送りだろうと予想していた。しかし、示された運命は「特別手続きによる処理」すなわち、
証人喚問なし、告発状なし、予備調査なし、証拠提出なし、三人審判、という特別手続きによる最高刑すなわち銃殺が、捕虜全員(特別収容所の1万5千とその他のNKVD監獄のポーランド将校1万人)に言い渡された。
これはNKVD委員長ベリヤによって提案され、スターリン以下政治局員7名の署名で決定された。
刑は捕虜の家族にも及ぶ。妻子と全ての親族がカザフスタンへ10年の追放と財産没収。こちらも特別手続きによる。

1940年4月1日、NKVD戦争捕虜管理局長は各収容所長に対し名簿引渡し命令。フィンランド戦争の捕虜を収容するための場所を早く空ける必要にも迫られていたためか、コゼルスクは、4月3日には早々、銃殺が開始された。オスタシュコフでは初回の4月4日は343人、最終の第18隊64人を以って5月22日、死刑の完了と統計が報告された。

ポーランド兵


カチン被害者の一人、元警官Jan Pacewicz
左は彼の長男




3. 処刑の模様

実は、収容所の捕虜全員が殺害されたわけではない。「利用価値のある」捕虜は予め他の収容所に移して良いとされ、コゼルスクからも448人が移送され銃殺を免れたが、移された者達は同僚の運命も我が身の幸運も当時知る由はなかった。彼らののちの証言、処刑された者の身につけていた手帳や日記、僅かな証言から明らかになった処刑の模様はこうだ。


●コゼルスク収容所→カチンの森
毎朝、モスクワから電話で名簿が読み上げられる。その日名前の上がった者は集められ、駅へ。「西へ向かう」という以外に行き先は知らないが、噂では解放されるのだと聞いている(NKVDの流した噂だが)。
ポーランド人にとって、「西」は祖国の方角だが、「西へ向かう」という言葉には死地に向かうという暗喩もあったので、喜びと不安が入り混じった。
汽車で4時間、確かに北東へ向かう。少し気になるのは、監視兵の態度が乱暴なのと、車内の環境が劣悪なことだった。車内には、先に移送された者達による走り書きが残されており、北西、グニエズドヴォ駅で降車することなどがわかる。その先の運命はもちろん車内には書かれていない。
その駅で釈放されるのだろうか?

スモレンスク郊外20キロのその駅。駅はNKVDの厳重な警戒が布かれている。ドニエプル川が見える。
捕虜は黒塗りの輸送車数台に移され、およそ3キロ先のカチンの森へ。
高さ2メートルの金網に囲まれた空き地には、3月初めに8つの穴が囚人によって掘ってあった。

処刑方法は1920年代から大粛清の時代を通じてNKVDが練り上げてきた秀逸なものだ。後頸部から斜め上に額へ抜ける、拳銃のたった1発の銃弾で止めを刺す。モスクワからスターリン直属の処刑人125人が実行する。
使われる拳銃はドイツ製ヴァルター拳銃。
故障が少なく、装填しやすく、反動が少ないので疲れにくい。弾薬もドイツ製を使用。
穴の縁に立たせ、後から頸部に直接あるいは外套の襟越しに射殺するのだが、当然、抵抗する。特に若い将兵は。
抵抗する者は予め切って用意してある縄で後手に縛る。縄は首に一絡げされていて、手を少しでも動かせば首が絞まる按配になっている。
外套をひっくり返して頭に被せ、縄で縛られている遺体、口におがくずを詰められ、フェルトで猿ぐつわされた遺体、3発頭を撃たれている遺体、銃剣で止めを刺したあとのある遺体。
抵抗の跡がうかがえる。
当然だ。理不尽な処刑に諾々とおとなしく殺される軍人がいるだろうか!
ここに、縄はロシア製、銃剣創はロシアの銃剣と検死で特定できるものだった。
深さ2~3メートルの穴には遺体を9~12層に積み重ね、土をかぶせてその上に松の苗木を植えた。
この地の発見は、ドイツ軍が侵攻して発掘した3年後だった。



●オスタシュコフ収容所→カリーニンNKVD施設処刑室
ここでは元NKVD責任者の証言により処刑のようすが明らかになった。
処刑と埋葬に30人が動員される。場所は4階建のNKVD施設の地下処刑室。
収容所から汽車に乗せ、バスで施設へ。
1人ずつ地下に連れて来られた捕虜は、「赤い隅」と呼ばれる小さな小部屋で、数名のNKVDに名前を確認されると、隣の処刑室に誘導され、たちまち後頭部に銃弾を撃ち込まれる。1人あたり1~2分。日暮れから夜明けまでに300名以上の処刑を速やかに終了し得た。
遺体は直ちに中庭に運び出され、トラックに積み、トラック5、6台がメドノエ村の埋葬地まで2往復。ブルドーザー2台が墓穴を掘り、埋め戻した。穴は23。植樹はせず。
この埋葬地が発見されたのは50年後、グラスノスチによってこの地が特定されてからだ。経年変化により、司法解剖は既に不可能。

●スタロベルスク収容所→ハリコフ市内場
ここでも埋葬地はグラスノスチ以降で明らかになった。

いずれの処刑場でも、捕虜達は最後の最期の時まで殺害されるとは思っていなかったらしい。
映画『カチン(邦題「カチンの森」)』(アンジェイ・ワイダ監督)の一部処刑場面は、証言に忠実に再現していると思われる。
黙々と、淡々と行われる処刑の冷酷さに、悲しみ以上のものを感じる。
ワイダ監督の父はカチンの犠牲者である。


映画『カチンの森』より 処刑場面(約10分)


メドノエ村の埋葬地
未明に処刑を知らされず地下室に連れてこられ、即座に銃殺、中庭、トラック、森に埋める
ロシア皇帝一家惨殺と酷似している




4. カチンの森の負った歴史

カチンの森は1920年代から既に政治犯の処刑地だった。ドイツ軍による発見の際に、別の年代の埋葬跡も同時に見つかっている。それは5~10年前のもので、ソ連製の服を着た男女20名の遺体だったことから、ここが過去にも処刑に使用されていたことがうかがえる。
言うまでもないが、カチンの虐殺は数ある虐殺事件の氷山の一角にすぎない。
ここではドイツ軍がカチンを報告して、この地が一躍世界に知れる過程を追う。



1941年6月22日、ドイツ軍がソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まる。それまで戦争はドイツの西部の戦線で展開し、戦線は西へ押し、フランスは手中に落ち、イギリスはドーバー海峡に追い落とされた。
しかし、この東部への展開が誤算となり、ドイツは破滅するのだ。ソ連、というより「ロシア」を甘く見たヒトラーの大誤算だった。今はそれを論ずるときではないが、逆に、カチンの一件でにおいては、ソ連は事実を甘く見過ぎだようだ。ドイツに暴かれてしまった事実は、どんな工作も突き破り、真実を露見させたのである。

1941年秋、ドイツ軍はスモレンスクへ攻め込み、カチン一帯も占領した。ただし、埋葬地の発見は1943年2月である。

1941年、ドイツ侵攻を受け、連合国と協調することになったソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とも協力協定を結び、ソ連領内のポーランド将兵によるポーランド軍をアンデルス将軍の下にて再編成することになった。
しかし、再召集をかけても特別収容所から解放されたはずの将校らがなぜか集まらず、編成の見通しが立たない。生き残っている家族の元へも、1940年の5月の便りを最後に、誰のところでも消息がわからないままだった。
そこで、アンデルスはスターリンとモロトフを訪ね、再度の釈放要求をする。スターリンは、彼らは満州に逃亡したか、ソ連領内のどこかにいる、といい、アンデルスの眼の前で部下に釈放を確認する電話までかける演技をした。
1万5千の、ポーランドの軍服を着た将校が、どうやって逃亡し、満州まで向かうのか?
あまりにもばかばかしい嘘にポーランド側は絶望した。それでもチャプスキ大尉を中心に、独自に必死に調べまわった。
戦況は、1943年2月2日にスターリングラードの戦いでソ連が勝利し、ドイツは敗退の危機に陥った。そんな中、2月18日にカチンの森でポーランド将校ら数千人の遺体が発見されたのである。

報告を受けたゲッベルス宣伝相は、これを連合軍内を掻き乱す機会として利用することにした。
国際社会に向けて4月13日にこれを発表、虐殺はソ連によるものだと主張した。ソ連は認めるわけもなく、他の連合国も、例によってゲッベルスの悪知恵であってドイツによる自作自演だろうと、冷ややかに看過した。しかし、ドイツは周到にも、ドイツ以外の国の専門家による国際医学調査委員会を組織し、遺体発掘調査を依頼。各国の報道機関にも広く呼びかけた。ポーランド赤十字調査団も個別で組織し、調査も独自に行った。調査団の中にはポーランド地下組織のメンバーも混ぜており、ロンドンの亡命政府に逐一報告することになっていた。さらに、連合国の捕虜数名も現地に連れて行き、自由に状況を見せた。





7つの穴が発見されていて、穴には遺体が同じ向きに層になって並べられて埋まっていた様子が見て取れた。遺体のほとんどは動かした跡はなかった。死後に死体から溶け出る酸の成分と、折重なっていた重みのために、遺体同士がところどころ癒着したままになっていたことで明らかだった。銃殺時期の特定につながる遺体のポケットの遺留品は、ドイツが仕込んだものであるとソ連は非難したが、立ち会った調査委員会によれば、手付かずの遺体の様子から、そうした工作の可能性はなかったと判断した。




委員会はドイツの指示を受けずに、自由に遺体を選び、調査できた。遺体にはたくさんの遺留品が残っており、勲章、階級章、ポケットには手帳、日記、家族写真、十字架などが、遺体の身元を明かしてくれた。遺体4143体のうちの2815体、68%が遺留品によって身元確認できたのである。





この調査で一番注目されたのは、死後どのくらいの時を経過したか、であった。それによって、これがドイツによる虐殺なのか、ソ連によるものかが特定できるからである。
●銃弾はドイツ製。ただし、かつてヴェルサイユ条約で軍縮を迫られた経緯により、ドイツ製の銃弾メーカーはソ連、バルト三国、ポーランドへも輸出していたため、それらの国による仕業とすることもできる。
●検死の結果により、一部の遺体に見られる銃剣創はソ連兵の使用しているものと確かめられた。
使用されている縄がソ連製であり、結び目がロシア結びだった。
●遺体のポケットにいくつかソ連製のマッチが入っていた。

そして肝心の死後経過年数だが、

●死後3年経たないと形成されない頭蓋内の物質が、頭蓋骨の解剖により検出できたこと、

●発掘された穴には1940年にNKVDが発行したプロパガンダ新聞が見られたこと、

●遺体のポケットに発見された手紙、日記の日付が1940年4月以降の物がなかったこと、

●遺体の上の樹木は樹齢5年だったが、年輪の境が3年前に見られること、

以上から、この地に植樹されて3年は経過していることが証明できる。つまり、ドイツがこの地に来たのが1年半前であり、それ以前の殺害であった、つまりソ連がこの虐殺を行った、ということが結論になった。
「殺害は1940年春、ソ連による」ものと発表された。













この発表を受け、ポーランドがドイツとほぼ同時期に国際赤十字に査察を要求したことで、ソ連がポーランド亡命政府と断交。英米は仲裁したがこじれ、結局連合国間の足並みは乱され、ゲッベルスの思惑通りに運んだ。
それでも、戦況はソ連が優勢を続け、6月には墓穴調査を中断、遺留品や調査結果は十数個の木箱に梱包され、クラクフ法医学研究所へ送られた。
実はこの証拠物品の詰まった箱は安全に運ばれることが叶わず、隠滅を図る複数の組織につけ狙われ、大変数奇な末路となった。如何せん、戦時中であり、しかも追手はソ連なのだから。


5. ソ連公式見解

1943年9月26日、ソ連はスモレンスクを奪回。
ソ連はカチンの森の再調査を独自に行い、公式見解を発表するため、「ナチ・ドイツ侵略者によるカチンの森でのポーランド戦争捕虜将校銃殺の状況を確認し調査する特別委員会」を公式に組織して調査した。この、冗談みたいに長い委員会名が示しているごとく、調査の目的と結果は、調査以前に決定されているようなものであった。
調査はソ連の成員のみによって行われ、連合国の立会いも許されなかったが、招かれた報道関係者の眼の前で既に台上に用意されていた遺体を委員である医師が解剖して解説した。遺体のポケットの遺留品として、1941年に家族とやりとりした手紙などが、脇の台に既に置いてあった。住所の地名のスペルに間違いのある手紙だった。
こうして、1944年1月、例の長い名前の委員会はソ連の公式報告書を発表。
この報告書の中で、掘り出された遺体は925体のみ。報告書のボリュームはドイツ調査団の1/15、ポーランド調査団の1/20。物的証拠は少なく、そのほとんどが現地の聞き取り調査であり、「森の近くでドイツ兵が活動しているのを見た」「ドイツに協力させられた人から話を聞いた」などが記載されているが、話をきいている時点が3月なのに、聞いた話の内容が4月の話だったりする矛盾。
処刑は8月か9月と結論しているが、遺体は冬外套を着ていたのではなかったか。
また、ドイツの調査に参加した委員たちは墓を開けた時に昆虫の類が土中に一切見つからなかったことに気づいている。昆虫が活動する前の早春だったことの証明である。9月とするならばこの点とも矛盾する(のちに9~12月、冬と修正)。

ドイツによる調査の時に立ち会った、考古学や法医学には縁のない連合国捕虜さえも、遺体の衣服や長靴がそれほど綻んでいないことを見て、死者は捕虜になってからそれほど長くは生きていなかったのだと直感したという。ソ連の報告では、カチンの森近くで強制労働の土木工事をさせられていたポーランド捕虜たちのところへドイツが急に侵攻してきたため、捕虜を残してソ連兵は撤退、捕虜はそのままドイツ軍に拘束されたのだと報告している。ソ連兵が去ったというのに、統制のとれた元将校達が逃亡の機会をみすみす棒に振り、そのままおとなしく、もう1つの敵であるドイツ軍に雁首そろえて捕まるなんてことがあるなら、作り話にしても面白すぎる。
また、ドイツの報告書にあってソ連の報告書にはない、松の木、縄、新聞の日付に関することからも、上記のソ連の説明に不備があるのがわかる。

また、殺害リスト入りを免れて他の収容所に送られ、のちに解放された者の証言と、遺留品の記録が証明するのだが、各列車の出発日と人数や名を記した将校のメモの通り、遺体は同じ順序で一団となって折り重なっていた。ドイツ拘束後数年経ってのち、再び同じ順序で処刑されていく可能性は相当低い。
そしてスターリンが以前、亡命政府に行方を尋ねられた時に答えたこととは大きく矛盾することになる。

ソ連公式見解のストーリーはこうだ。
1942~43年の冬、ソ連に対抗するために、ドイツは挑発行動としてカチンで行った虐殺をソ連の仕業として触れ回るべく、地元民を「殴り、脅し、説き伏せて証言させた」。その一方で、この件がドイツ到着前であったように見せかけるために、死体と墓に細工をした。死体1万1000人すべて発掘、衣類から記録文書を取り除いて埋めもどした。作業をさせた500人のソ連捕虜は射殺したが、その遺体は発見されていない。(と、自国の民の射殺に言及しているがその罪を全く追及していない)
数週間後に一部を掘り起こし、世界に発表した。

殴り、脅し、説き伏せて証言させる、
墓穴を掘らせた後は射殺する‥
ソ連の常習の手口を暴露しているように思える。

こうして、捏造した証拠品も、辻褄合わせたはずの架空の話も、事実の前に全て覆された。
ソ連の工作は事実には勝てなかった。


計画も唐突であったし、やり方も雑だった。
その割に遺体はきれいに積み重ねたが、それがまたアダとなった。
ドイツの処刑は靴も服も下着も全て身ぐるみ剥いで、髪まで刈って保管し、金歯を抜き取り、完膚なきまで人間性を奪って殺す。ポーランド捕虜は徽章を身につけたまま、軍装のまま銃殺。ドイツ式に比べれば人間味が感じられるが、人物特定につながった。もっとも、国内のこの地が暴かれることになることは考えなかったからに違いない。ドイツのやり方とて、隠蔽のためというより、あまりにも物資がなく、衣服の上に、髪まで再利用しようとしたまでだ。

ともあれ、事実は証明された。
ところが、真実は隠蔽された。無視された。
彼らはまた埋められた。
そこには列強の思惑があった。

その理不尽な顛末を次回に記す。








ヘッセン大公家 呪いのうわさ

2016-01-28 11:17:31 | 出来事
ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ
その生涯と周辺の数奇な不幸




前の記事のデンマーク王女アレクサンドラやダウマーによっても囁かれていましたが、その時代、ヨーロッパの王室ではヘッセン大公家には不幸な出来事が多く、婚姻関係を結ぶのは不吉を呼ぶと心配されていました。
確かにその当時までに、いくつかの不幸がヘッセン大公家で起きていましたが、むしろその後に数々の不幸に見舞われました。
19世紀から20世紀に移る時代は、ヴィクトリア女王崩御でヨーロッパがバランスを失い始めるとき。
その時代を生きたヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒを中心に、ヘッセン大公家が被った不幸な出来事(それが呪いであるかどうかはおき)を追います。


Ernest Louis Grand Duke of Hesse
1868~1937(1892~1918)





序 ヘッセン大公国とは
1806年、神聖ローマ帝国解体後、ナポレオンがそれまで存在したヘッセン=ダルムシュタット方伯を大公に格上げし、ヴィルヘルム10世が初代大公ヴィルヘルム1世として即位しました。1816年より国名をGroßherzogtum Hessen und bei Rhein(ヘッセンウントバイライン)とし、1871年よりドイツ帝国の構成国家となりました。1918年、第一次大戦後に大公国は廃止され、共和制のヘッセン民主国となりました。
その間、ヴィルヘルム1世、ヴィルヘルム2世、ヴィルヘルム3世、ヴィルヘルム4世、エルンスト・ルートヴィヒの5代が治めました。
1代目からエルンスト・ルートヴィヒに繋がる本家と、第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレグザンダーの貴賎結婚によって分家したバッテンベルグ家があります。
ただし、アレグザンダーとその妹マリーは母が夫と別居してから生まれた不義の子でしたが、大公は認知しています。マリーは、14歳の時に結婚相手を求めてドイツを旅していたロシア皇太子の目にとまり、周囲を押し切って結婚。アレクサンドル2世皇后となったが、皇帝の度重なる愛人問題に苦しみながらも、アレクサンドラ、ニコライ、アレクサンドル3世、ウラディミル、アレクセイ、マリア、セルゲイ、パーヴェルを生みました。
これらのうち、ニコライはデンマーク王女との婚約後に急逝、セルゲイはモスクワ総督退任直後に爆殺され、パーヴェルはロシア革命で銃殺、息子の1人もボリシェビキによって殺害されました。


第5代ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(1868~1937)は、父ルートヴィヒ4世と母アリスの第4子、長男として誕生します。
母アリスはヴィクトリア女王の第3子、血友病遺伝子の保因者でした。そのことから、エルンストは初めての悲しみに直面しました。エルンストの唯一の弟フリードリヒは血友病でした。




1.弟フリードリヒ、血友病による死
エルンストの兄弟姉妹は、
①ヴィクトリア(ルイス・バッテンバーグ妃)
②エリザベータ(ロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチ妃)
③イレーネ(ドイツ皇帝の弟ハインリヒ・フォン・プロイセン妃)
❹エルンスト
⑤アリクス(ロシア皇帝ニコライ2世妃)
❻フリードリヒ
⑦マリー
ですが、フリードリヒが血友病、イレーネとアリクスは保因者でした。もちろん、誰もそのことは知りえない事実でしたが、1873年2月、すでにフリードリヒは血友病であると診断されていました。

母アリスとエルンストと五姉妹

ヴィクトリア、エリザベータ、フリードリヒ


1873年5月、5歳のエルンストは2歳半の弟フリードリヒと母の寝室で遊んでいたが、窓際の椅子からフリードリヒは窓の手摺子をすり抜けて6メートル下に転落、外傷はなく無事であったのですが、血友病の致命傷となる脳内出血が原因で程なくして死亡した。
間近に弟の死と直面し、エルンストは死を強く恐れて看護師に、

When I die,you must die too,and all the others.
Why can't we all die together?
I don't want to die alone like Frittie!

と訴えたといいます。
この、「1人で死にたくない」という言葉が、のちに現実化してしまいます。




2.妹メイと母のジフテリアによる死
1878年、エルンスト10歳。ジフテリアがダルムシュタットで流行し、エリーザベトを除く兄弟姉妹全員が罹患しました。エリーザベトは父方の祖母エリーザベトを訪ねていたため、罹りませんでした。また、同じときに父ルートヴィヒも病気になり、母アリスは皆の看病につとめていましたが、最年少のマリー、愛称メイは亡くなってしまいました。メイをとても可愛がっていた病床のエルンストを気遣い、数週間の間、母はその死を伏せていたのですが、姉から聞いてその死を知り、エルンストはひどい悲しみに打ちひしがれたのです。気の毒なエルンストを慰めるために、母はエルンストにキスをしてあげたのですが、おそらくそれによって母は感染し、看病疲れで抵抗力が低下していたために、あっという間に母も亡くなってしまいました。11月6日に妹メイ、12月14日に母アリスがジフテリアで死亡。まだ幼かったエルンストやアリクスにとって、母の不在は大きな悲しみとなりました。

アリクス、エルンスト、メイ

母の葬儀の記念写真
中央はアリスの母ヴィクトリア女王


後列左から、エルンスト、ヴィクトリア、ルートヴィヒ4世、エリザベータ
前列左、アリクス、イレーネ


アリクスとエルンスト




3.不幸な結婚、娘エリザベスの腸チフスによる死
1892年、エルンストは大公国を継承しました。1894年、母方の祖母ヴィクトリア女王の強い勧めにより、従妹のヴィクトリア・メリタと結婚します。ヴィクトリア・メリタは、エルンストの母アリスの弟アルフレート・ザクセン=コーブルクとその妻、アレクサンドル2世の娘マリア・アレクサンドロヴナ(「美しきデンマーク王女アレクサンドラ」参考)の次女であり、よって祖母マリア皇后からヘッセン大公家傍系のバッテンバーグ家の血を引いています。ヴィクトリア・メリタの妹マリーはのちにルーマニア王妃となっています。長身で、おとなしい性格だったヴィクトリア・メリタ、愛称ダッキーですが、エルンストとは合わず、皿を投げ合うほどの激しい喧嘩をしていました。ダッキーによれば、不仲の主因としてエルンストの男色を理由にしています。



エディンバラ公アルフレート・ザクセン=コーブルク侯爵夫人マリア・アレクサンドロヴナと子女
(年齢順)アルフレート、マリー、ヴィクトリア・メリタ、アレクサンドラ、(男児死産)、ベアトリス
この写真では右端がダッキー


アルフレートとヴィクトリア・メリタ
公世子アルフレートは梅毒による麻痺生痴呆などで両親の銀婚式式典を欠席中拳銃自殺を図り翌月24歳で死亡。ある令嬢との秘密結婚を両親に咎められた事を悩んだ末の行動だったとされている


2人の間には、1895年に娘エリザベスが生まれましたが、1900年に生まれた息子は死産でした。
エルンストは娘エリザベスを溺愛しましたが、夫婦仲は悪化し、ヴィクトリア女王亡き後間もなく、正式に離婚しました。幼いエリザベスは母に捨てられたと思い、怒りを抱きました。半年ずつ父、母の元で暮らすことになっていたのですが、母方へ行くときにはソファの下で大泣きするほどでした。

巻き髪の愛らしいエリザベスは明るく華やかな少女だった



ロシア皇女オルガ、タチアナと


1903年10月6日、傍系バッテンバーグ家の長女アリスとギリシャ王子との結婚式がダルムシュタットのヘッセン大公家で行われるため、エリザベスは父方の叔母アレクサンドラ皇后に連れられ、ポーランド、スパラの、ロシア皇族らの狩猟用の宮殿で、歳の近い従姉妹オルガやタチアナとともに過ごしていました。
ところがそこでエリザベスは腸チフスに罹り、瀕死になります。医師は速やかに母親を呼び寄せるように言ったにもかかわらず、ダッキーを嫌う皇后アレクサンドラはなかなか電報を出しませんでした。何も知らず、狩猟のバカンスに合流しようと準備していたダッキーが受け取ったのは、娘の死の報せでした。
この死については謎があり、腸チフスに罹ったのがエリザベスだけであることから、毒の盛られた物をエリザベスが誤って食べてしまった、などとも言われています。

スパラの宮殿 山荘風の外観

内部

ニコライ皇帝は狩りが好きで何ヶ月も狩猟場に逗留した


なお、エリザベスの死の翌年1904年に生まれたロシアの待望の皇太子アレクセイが、1912年にこの宮殿でのバカンス中に、血友病で瀕死の状態になり、皇帝皇后は隠蔽に追われつつも息子の危篤に直面し、絶望のなかから一縷の望みをかけてラスプーチンに縋り、彼からの一本の電報によって死の淵から息子を引き戻したのでした。これ以後、皇帝一家はスパラ宮殿を訪れようとはしませんでした。
一命を取り留めたアレクセイは、翌年まで脚が曲がったままになってしまいましたが、快復を遂げ、皇后のラスプーチン崇拝は高じていきました。


翌年1913年はロマノフ300年祭であったが、皇太子の曲がった脚を隠すのに必死だった
記念写真ではポーズや立ち位置で巧みに隠しているが、この写真では脚の異常がそのまま見て取れる


皇太子は足首捻挫のため歩けない、ということにしていた

スパラ宮殿のバルコニーで休むアレクサンドラ皇后 平静を装いながら瀕死の息子を見守ることで急激に年老いていった
これほどの一大事が起きていたにもかかわらず、1912年のスパラ滞在時のスナップ写真(テニスや狩猟に興じる家族写真や馬車で出かけるアレクサンドラの写真など)が思いの外、多数存在する



血友病はイギリス王室からヘッセン大公家と、傍系のバッテンベルグ家によって拡散していきました。
ヘッセン大公家からは女系で、アリクス(アレクサンドラ皇后)を経てロシア皇太子アレクセイへ、イレーネを経てヴァルデマール王子へ、ヴィクトリア女王の娘ベアトリスからバッテンベルグ家男系で、レオポルト王子、モーリス王子、娘ヴィクトリア・ユージェニーからスペイン王室へと遺伝していきました。



4.姉エリザベータ、妹アレクサンドラがロシア革命によって殺害される
娘エリザベスの死に打ちひしがれながらも、歴代の大公として世継ぎをもうけなければならないエルンストは、1905年、ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ侯の娘エレオノーレと再婚しました。この結婚により、1906年に長男ゲオルク・ドナトゥス、1908年に次男ルートヴィヒが生まれ、ようやく幸せな家庭に恵まれました。



ベビーカーのルートヴィヒ、ゲオルク、ゲオルクの2歳上のアレクセイ皇太子

ロシア皇女マリア、アナスタシア、アレクセイとゲオルク

ギリシャ王女マルガリータ、テオドーラと
ゲオルクはこの2人の妹のセシールと結婚する







第一次世界大戦が始まると、ドイツ帝国軍に加わり、従軍します。ロシアとは敵国になり、エリザベータやアレクサンドラ皇后とは会えなくなりました。しかし、大戦中にロシア国内で革命が起き、妹の皇后や、可愛がっていた姪達は2月革命では臨時政府に捕らえられて軟禁され、10月革命後は修道女になっていた姉エリザベータまで捕らえられてしまいました。
この経緯のなかで、ロマノフ家の人々はそれぞれいろいろな運命を生きるわけですが、一人、非難を浴びる動きに出たのはキリル・ウラディミロヴィチです。キリル大公はアレクサンドル2世の三男ウラディミル・アレクサンドロヴィチを父に、マリア・パヴロヴナを母に持ち、1905年に周囲に嫌悪されながらも、エルンストと離婚したダッキーと再婚しました。皇帝により皇族の権利を剥奪され、国外へ逃れましたが、父ウラディミル死去により、皇帝の弟ミハイルに次いでキリルが帝位継承第3位となるため、許されて帰国し、権利も取り戻しました。大戦中は従軍しましたが、革命が起きると臨時政府に忠誠を誓うなど、帝室への裏切りとも取れる行動をとったため、ロマノフ家の人々は憤慨し、キリル及びその後裔をロシア帝位継承者として認めない立場をとりました。
これ以降もキリルは逃亡先で「全ロシアの皇帝」を自称、現在もその後裔らが係争しています。

キリル大公とヴィクトリア・メリタ夫妻
娘のキーラとマリア


逃亡先のフィンランドで生まれたウラディミル


エルンストにとって悲劇なのは、妹らの惨殺に乗じて厚かましく帝位継承を宣言したのが、ダッキー夫妻だったということでしょう。
また、皇女アナスタシアを騙る女の正体を、私立探偵を雇って突き止めたのはエルンストであり、エルンスト亡き後に高額な裁判費用を支払ったのはヘッセン大公家に繋がるルイス・マウントバッテンでした。


5.妻・息子・息子の妻・孫の飛行機事故死
エルンストは1937年10月9日、長く患った後、68歳で病死しました。すでに大公国は存在せず、君主としての大公ではありませんが、大公家家長は長男ゲオルク・ドナトゥスに継がれました。

3人の孫ルートヴィヒ、アレクサンダー、ヨハンナと晩年のエルンスト

ゲオルクとセシールの結婚式


ゲオルク・ドナトゥス

ゲオルクの家族写真


ゲオルク・ドナトゥスはこの年5月に、妻とともにナチス党員になっています。
家督を継いだ翌月、ロンドンでの弟ルートヴィヒの結婚式に参列するため、ゲオルク・ドナトゥスと母エレオノーレ、妻セシール、子供達は、まだ幼い娘ヨハンナは預けて同行せず、6歳の息子ルートヴィヒ、4歳の息子アレクサンダー、そのほか数人の友人とともに飛行機で向かいました。
しかし、途中、工場の煙突に激突して墜落死、乗員乗客全員即死しました。妻は妊娠8ヶ月でした。
ただ一人、幼くて何もわからないヨハンナだけが生き残り、ルートヴィヒ夫妻が引き取って養育していたのですが、不幸にも髄膜炎により事故の1年半後に亡くなりました。
ヨハンナの母方の祖母アリス・オブ・バッテンバーグ(セシールは母からバッテンバーグの血を引いています)は、「目を閉じて動かなくなったヨハンナは、同じくらいの年齢の頃のセシールとそっくりな顔立ちをしていた」と話していました。セシールはエリザベス女王の夫フィリップの姉の一人です。

ヨハンナ

弟の死に直面したとき、「僕が死ぬときは一人で死にたくない、みんな一緒に死んでよね」と哀切に懇願していたエルンストでしたが、まさか家族のほとんどがすぐに自分を追うように亡くなるとは、想像もしなかったでしょう。
ゲオルク亡き後家督を継いだ次男ルートヴィヒは子に恵まれず、ヘッセン大公の称号は遠縁の者が継ぎました。



6.マウントバッテン・キャリスブルック侯家の血友病
傍系のバッテンベルグ家の不幸な出来事について。
アレクサンダー・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットのユリア・ハウケとの貴賎結婚による長男ルイスは初代ミルフォードヘイブン侯ルイス・マウントバッテン、三男ハインリヒ・モーリッツ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットはイギリス王女ベアトリスと結婚、長男アレクサンダーが初代キャリスブルック侯アレクサンダー・マウントバッテンです。
ミルフォードヘイブン侯側には血友病は出ませんでしたが、キャリスブルック側はベアトリス王女によって血友病をもたらされたのです。
ハインリヒ・モーリッツの男3人女1人の子息のうち、アレクサンダーを除いて皆が遺伝子を引き継ぎました。詳しくは「王室の血友病 全体像」に書いています。

マウントバッテン家のアレクサンダー、レオポルト、モーリス、ヴィクトリア・ユージェニー
右下が後継者アレクサンダー


スペイン王家 ヴィクトリア・ユージェニーと子女 長男と四男が血友病


7.ルイス・マウントバッテンのIRAによる爆殺
ルイス・マウントバッテンは父方がバッテンベルグ家でヘッセン大公家の傍系であり、母はヘッセン大公女ヴィクトリア、ヘッセン大公エルンストの1番上の姉です。ヴィクトリアの子孫に血友病は1人も出ていません。
この事件に関しては、過去の記事「皇女マリアに恋したルイス・マウントバッテン」に書いています。ヘッセン大公家に連なるから殺害のターゲットになったわけではなく、イギリス王室や政府に向けての抵抗運動であり、ルイス個人を標的に狙っていたわけではないですが、たまたまアイルランドの拠点の近くでルイスが警戒する素振りもなく、悠然とバカンスを楽しむことへの憤りが殺害実行を後押ししたと言えるでしょう。ルイス自身はIRAの活動を批判したことはありませんでした。
百戦を戦い抜いてきたルイスのこと、狙えるものなら狙ってみろ、と開き直るかのような行動を示したのでしたが、まさか娘の姑と孫1人と孫の友人を道連れにしてしまったことは大誤算だったことでしょう。
同じくヘッセンの家系の従姉、若い頃に恋心を寄せていたロシア皇女マリアと同様、暗殺によって召されたルイスは、イギリスのために命を落としています。

左からチャールズ、ルイス、フィリップ
ルイスはフィリップの叔父だが、フィリップはルイスの母(フィリップの祖母)に引き取られて育てられていたため、フィリップにとって兄のような父のような存在であり続けた。チャールズにとっては祖父がわりだった。


事件のあった海岸付近




結び 呪いとは
ヘッセン大公家にまつわる人々の不幸な運命から、呪われていると囁かれていたのですが、何かの結果として呪われていたわけではなく、不自然に感じざるをえないような不幸が度重なっただけだと思われます。それは、ロシア革命のように、ただそういう時代だったということで説明のつくものもあります。
また、王宮の複雑な社会の中で生きることの過酷さから、ヴィクトリア・メリタの兄アルフレートの自殺や、オーストリア皇后エリザベートの息子の自殺(他殺?)や狂王ルートヴィヒの生涯など、呪わしいといえる運命は、この時代には珍しくはありませんでした。

強いて言うならば、子供の悲痛な恐れから飛び出した「僕が死ぬときは‥」の言葉が、まるで呪いの言葉のように、事態に合致してしまったと言えなくはないでしょう。


ゲオルク・ドナトゥスを抱くエレオノーレとエルンスト

ゲオルクと父母

事故で一緒に亡くなったエレオノーレと孫









皇女アナスタシアを騙る アンナ・アンダーソン

2015-10-12 10:58:14 | 出来事
ロシア皇帝一家殺害の生き残り?
皇女アナスタシアの詐称者アンダーソンと
皇室関係者の係争


Anna Anderson/Anastasia Monahan
Anna Tchaikovsky
Franziska Schauzkowska
1896~1984


最も有名なアナスタシア詐称者 アンナ・アンダーソン

1917年10月、ボリシェビキは臨時政府を倒すと、かねてから実行の機会をうかがっていたニコライ2世元皇帝一家及びロマノフ家のロシア在住者を処刑する計画に着手し始める。
レーニンは1918年6月~7月の処刑実行後、皇帝の銃殺のみ公表し、ミハイル大公や他のロマノフ血縁者は逃亡、皇帝の子女及び皇后は安全な場所に避難させていると虚偽の発表をした。
その後、ドイツが捕虜交換を希望し皇后らの安否確認を求めるが、突然応じなくなり、交渉は立ち消えとなっている。皇后、皇女、皇太子は戦後も不明のまま、怪しい目撃証言なども聞かれたが、レーニンの(虚偽)発表を信じる限りどこかに生存している可能性も残されていた。
一方、暗殺の数日後に白衛軍に制圧されたエカテリンブルグで、イパチェフハウスやガニナ・ヤマと呼ばれる坑道の縦穴(最初の埋葬場所)を調査した法務調査官ニコライ・ソコロフは、一家全員が殺害されていると推測する他なしと結論し、証拠物品として焚き火跡の骨や灰、ハウスの遺留物をトランクに詰め、皇太后に差し出そうとしたが、生存を信じ続けるマリア皇太后は頑として受取を拒否した。ソコロフはフランスに移った後、1929年に『ロシア皇帝一家暗殺に関する司法調査』と題する本を執筆し、刊行した。

焚き火跡でのソコロフ
実際はこの下に皇女一人と皇太子が埋められていたにもかかわらずソコロフは考え及ばず地下に手をつけなかった。しかしここで埋められたままだったことで遺体を今に残すことができたともいえる。でなければソ連時代に遺骨は意図的に消失されていただろう。


その一方で、あらゆる場所で数十名の偽アレクセイや偽アナスタシアらが名乗りを上げた。ほとんどは簡単に見破られる詐称者ばかりであったが、ロマノフの親族を震撼させ、生涯、詐称を証明できなかったのがアンナ・アンダーソンであった。

舞台はベルリンから始まる。

1920年、ベルリンのラントヴェア運河に身を投げた女性が救助され入院していたが、彼女は自分の身上を一切語らなかった。体や頭には、身投げによるものではない無数の傷があった。ロシア訛り風のドイツ語を話した。
1922年のある日、彼女は他の入院患者に、皇帝一家の写真のタチアナを指し、自分に似ていないかと聞き、自分はロシア皇女であると打ち明けた。彼女は過去の経緯をこう騙っている。


殺害の後、自分はまだ息があった。それに気づいたポーランド出身の警備兵アレクサンダー・チャイコフスキーが家に連れ帰り、すぐに家族とともにルーマニアのブカレストに逃亡した。その過程で意識不明のうちに犯され、妊娠し、男子を出産。現地のカトリック教会にて結婚。間もなく、チャイコフスキーは路上の喧嘩で死亡。子を家族の者に預け、ドイツのイレーネ王女(アレクサンドラ皇后の姉)に援助を願い出るべく、ベルリンへ向かったが、なぜか門番も居らず、王女に会えず失望し、運河に身を投げる‥。


(ルーマニアに居ながらなぜ顔見知りのルーマニア王妃マリアを頼らず、遥か遠いベルリンを目指したか?
マリア王妃ならばイレーネ叔母より寛容に今の状況の自分を受け入れる度量のあることを、アナスタシアならばわかっていたはず。
と、皇女オリガ・アレクサンドロヴナは分析している。)


彼女はしばらく、自分をチャイコフスキー夫人と名乗るようになる。実際のところ、イパチェフハウスの警備兵の名簿にアレクサンダー・チャイコフスキーなる名はなく、ルーマニアの教会で挙式した者のリストにも名はなく、ブカレストの傷害事件の記録にも名はなかった。


前列左から イレーネ、アレクサンドラ、エリザベータ
後列左から エルンスト、ヴィクトリア


この話が次第に周囲に知れ、皇室関係者が真偽を見極めるため面会に訪れるようになる。
以下、経時的に各皇室関係者の見解を中心に追う。

1922年
Captain Nicholas von Schwabe
→タチアナと認める

Zinaida Torstoy(皇后の友人)
→タチアナではない

Sophie Baxhoeveden伯爵夫人(皇后の従者)
→タチアナではない


Baxhoeveden伯爵夫人(右)と皇后の従者であり親友であるAnna Vurvova

面会中チャイコフスキー夫人は苛立ち、毛布で顔を半分隠していたが、一瞥した伯爵夫人に「タチアナ皇女はこんなに小柄じゃない」と否定された。
そのためか、後日になって、自分は自分がタチアナとは言っていない、アナスタシアだと言い出した。それを確かめるために面会に来たのはイレーネ、セシリアである。

Irene of Hesse by Rhine
(アナスタシアの伯母)
チャイコフスキー夫人は興奮して逃げ惑い、精神膠着状態で質問には何も答えなかった。イレーネは、似てないと感じた。
→アナスタシアではない


1925年
Cecilie of Prussia(元ドイツ皇太子妃)
膠着状態で会話不成立。
皇帝や皇太后に似ているが皇后に似ていない。
→アナスタシアではない
ただしのちに考え直し皇后にも似ていたとして1952年アナスタシアと認め、先生供述書にサインするが、息子ルイス・フェルディナント夫妻は強く反対した。

セシリア皇太子妃

Sigismund of Hesse by Rhine(イレーネの二男/皇女の従兄)
コスタ・リカ在住
アナスタシア本人でなければ答えられないと思われる18の質問状を送付
その回答により本人と断定可能
→アナスタシアと認める


ジギスムント



皇帝一家の従者で、側近く仕えていた者たちも面会に訪れた。オルガ・アレクサンドロヴナに依頼され、スイスから面会に訪れたのは、皇太子や皇女の仏語教師であり、また皇太子の教育係も兼ねていたPierre Gilliardとその妻で皇女付きの看護師だったAlexandra Tegrevaだった。


Pierre Gilliard(皇帝子女の家庭教師)
Alexandra Tegreva(皇女らの侍女)

二人が訪れた時、チャイコフスキー夫人は病で瀕死状態であり、会話はもちろん不可能だった。テグレヴァは、外反母趾だったアナスタシアと同じ足の形であることを確認した。あまりに病状が悪いため、手術の済んだ3ヶ月後に再び訪れ、ジリャールが会話を求めたが、彼女は憤激して会話にならなかった。ジリャールはアナスタシアと認めるに至らず、妻も同意見に。
→アナスタシアではない


テグレヴァとアレクセイ 後方にジリャール

ジリャールとアレクセイ
ジリャールは皇女や皇太子と一緒に収まっている写真は数多い。皇帝一家に流刑地まで付き添ったが、エカテリンブルグではチェカに付き添いを認められなかった。氏名から外国籍の者として処刑を免れている。テグレヴァはその点、危険な立場であったがジリャールと親密だったことが考慮され、事なきを得た。


その午後、訪れたのはオリガである。


GD Olga Alexandrovna
(ニコライの妹/皇女の叔母)
皇太后マリアはニコライや家族の生存に望みを捨てていなかったため、生き残りの者としてのアナスタシアに会うつもりはなく、身辺の者達にも会うのを禁じた。その禁をおかして、皇太后の二女であるオルガは一縷の望みを抱いてチャイコフスキー夫人に会いに来る。かつて心優しいオルガ叔母は、皇后の意向で宮殿に閉じこもりがちな皇女たちを街に連れ出し、外の空気に触れさせてあげていた。気取らず皇族らしくないオルガは、農民らに気軽に陽気に話しかける術も心得ていたと、マリア・パヴロヴナも著書に記している。

面会を経て、アナスタシアではないと確信しながらも、チャイコフスキー夫人に強く同情し、度々会いに行ったり、手紙を送り、贈り物もした。
→アナスタシアではない


アナスタシアとオリガ皇女

剽軽者のアナスタシアとオリガは通じるところがある

オリガ・アレクサンドロヴナは最初の不幸な結婚の後、平民と再婚し男子2人、TikhonとGuriを得た。皇帝一家のミトコンドリアDNA鑑定への協力を当初ティクホンに願い出たところ(当時グリはすでに他界)協力を再三拒否。自分がロマノフの血を引いていないことを確かめる魂胆だろう、と疑ってきたので交渉を断念した経緯がある。


Glev Botkin(皇室関係者/遊び相手)
Tatiana melnik(同上)
皇女らをよく知る者として、幼い頃遊び相手になっていた皇帝付き医師ボトキンの息子Gleb Botkinと娘Tatiana Botkinaがいる。グレブは子供の頃から絵が上手く、皇女や皇太子にボトキン医師を通して絵をせがまれた。ユーモラスな動物の線画が皆に大好評だった。ボトキン医師はイパチェフハウスで皇帝一家と運命をともにした。タチアナとグレブはトボリスクまで同行したが、エカテリンブルグへの同行は許されず、皇帝皇后マリアとともに発つ父とはそれが永遠の別れになった。父の暗殺を知った彼らは日本を経て、最終的にアメリカに亡命した。
二人はヨーロッパ滞在中のチャイコフスキー夫人を訪ね、アナスタシアであると確信している。グレブが訪ねるとき、チャイコフスキー夫人はグレブが面白い動物のイラストを持ってきているか?と期待していたと知り、すっかり信じた。タチアナは、夫人は事件のショックによりロシア語への恐怖、時間感覚、会話能力を失っているだけだと理解した。
→アナスタシアと認める


ボトキン医師とタチアナ、グレブ

グレブ・ボトキン

グレブは後年、著作家兼挿絵画家として活躍


1927年
Ernst Ludwig of Hesse by Rhine
チャイコフスキー夫人の最大の敵は、元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(暗殺された皇后アレクサンドラとエリザヴェータ大公女の実兄)だった。
いまいましい詐称者の化けの皮を剥ぐべく、賛同したジリャールに働きかけてチャイコフスキー夫人を非難する記録を発表させ、さらに莫大な資金を投入して私立探偵を雇い、アナスタシアではないことを確実に実証するために、チャイコフスキー夫人の正体を調べ出し、公表した。
→アナスタシアではない

エルンスト・ルートヴィヒ大公"エルニー伯父さん"とオリガ、アレクセイ
クリミアのリバディア宮殿にて


アンナ・チャイコフスキーの正体は、ポーランド出身の工場労働者フランチスカ・シャンツコフスカであるとあばき、新聞に発表させた。のちのDNA鑑定でこのスクープが正しかった事は証明されたが、そのときにはエルンストもアンナも既に他界している。

フランチスカは第一次大戦中の1916年、武器工場で働いていたが誤って手榴弾を床に落とし、同僚1人を死亡させ、自身も重傷を負った。1920年に病院から姿を消し、行方不明になっていた。
フランチスカの兄フェリクスが面会し、即座にフランチスカ本人であることを認めたにもかかわらず、夫人と会話した後になって取り消した。

アンナ・アンダーソン(チャイコフスキー夫人)
写真の前歯は入れ歯で、普段は合わないので外し、人と会うときだけ着ける
そのためか人と会うときは扇子などで口元を隠していた


Felix Yusupov
(皇室と親交深い有力貴族)
ユスーポフは辛辣なコメントを残している。

"I claim categorically that she is not Anastasia Nicolaievna, but just an adventuress, a sick hysteric and a frightful playactress. I simply cannot understand how anyone can be in doubt of this. If you had seen her, I am convinced that you would recoil in horror at the thought that this frightful creature could be a daughter of our Tsar."

→アナスタシアではない


ユスーポフと妻イリナ(クセニアの娘、ニコライの姪)
彼らの孫娘イリナ・シェレメーティエフがニコライのミトコンドリアDNA検査に協力してくれたおかげで身元の解明に至った


1928年
ヨーロッパで立場を不利にしつつあるチャイコフスキー夫人を案じて、ボトキンはアメリカに渡るように勧める。
更にボトキンは行動を起こす。
当時、皇帝の隠し財産がイングランド銀行に眠っているという噂が流布した。生前の皇后や皇帝の言葉から、それらはいざという時の娘たちの嫁入り資金なのでは、と思われていた。
ボトキンは「アナスタシアのため」、チャイコフスキー夫人の委任状を手に法律家をイギリスへ、相続の権利を主張するために派遣した。

Andrei Vladimirovich
(ニコライの従兄弟)
チャイコフスキー夫人はアメリカへ向かう途中のパリで皇位請求者キリル・ウラディミロヴィチの弟アンドレイと会い、アンドレイは熱烈な支援者となった。
→アナスタシアと認める


アンドレイ・ウラディミロヴィチは、かつて結婚前のニコライの愛人であったバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤを叔父セルゲイと争い、結婚を勝ち取り、どちらの子がわからない息子を認知した。
チャイコフスキー夫人と対面したマチルダは、アナスタシアとは面識はないが夫人の眼にニコライの眼差しを覚え、彼女はアナスタシアに違いないと思った


Xenia Leed(元ロシア皇族)
アメリカに渡ったチャイコフスキー夫人はボトキンの口添えでアナスタシア支援を申し出た、もとロシア皇族でアメリカの富豪と結婚したクセニア・リードの下で暮らす。しかしチャイコフスキー夫人はいろいろなことで面倒事を起こし、クセニアと揉めることとなった。
→アナスタシアと認める


クセニア・リード

ニューヨークでのチャイコフスキー夫人は、作曲家兼演奏家のセルゲイ・ラフマニノフによって、NY Grand City Hotelのスイートルームを提供された。このとき、面倒な取材を受けないようにするためにAndersonの偽名を使う事を勧められ、以後彼女はチャイコフスキーの名を使わず、Anna Andersonを名乗るようになった。アンダーソンは一時期、ニューヨーク社交界でもてはやされたが、次第にその奇行が目立ち始め、精神病院に強制入院させられた。退院後再びドイツへ戻った。


1928年10月、アナスタシアには最後まで背を向けたまま、皇太后マリアが亡くなった。
その直後、ロマノフ家12家と元ヘッセン大公家のエルンスト、イリナ、ヴィクトリアらの署名による『ロマノフ家の宣言』が発表された。その内容は、空に浮いていた皇帝一家の安否について、『全員が暗殺されたことを認める』というものだった。
宣言者は、
クセニア・アレクサンドロヴナ大公女
オリガ・アレクサンドロヴナ大公女
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公(クセニアの夫)
アンドレイ公
フョードル公
ニキータ公
ドミトリ公
ロスチラフ公
ヴァシーリー公(以上クセニアの男子6名)
他、従兄弟2名

クセニアの家族 イリナとその下に6人の男子


1917年当時クリミアに逃れて助かったロマノフの者たち

つまりこれは、頑なに暗殺を認めないままにしていたマリア皇太后の意向に180度相反する内容の宣言であり、皇太后の死後24時間と経たぬうちに宣言されたのだった。この宣言は、皇太后の遺産のアナスタシア詐称者への相続をシャットアウトするものになる。ボトキンは憤慨し、抗議文をクセニア宛に送った。宣言は貪欲で破廉恥、醜い陰謀、アナスタシア皇女に対する迫害であり、皇帝一家を暗殺した犯罪者以上に理解に苦しむ、と、その筆は辛辣を極めた。
他方で、ボトキンが調査に送り出した法律家は私財まで投じて隠し財産を探し求めたが、手掛りを得られぬまま果てた。
銀行は決して預金の額はおろか、預金の有無も公表しない。しかし、のちに元イングランド銀行重役が在職中にそのような預金について、存在したとは思われないとの談があり、どうやらイングランド銀行にあった資金は第一次大戦中に引き出され、病院や病院列車の建設に費消されたもようだという。

若き日のマリア・フョードロヴナ ニコライを背負っている
青年は弟ヴァルデマール(デンマーク王子)
王子はマリアが禁じているにも関わらずアンダーソンを支援した
のちにアナスタシアであると立証された場合に王室がその無慈悲を非難されないために行ったという



皇帝関係者でアンナ・アンダーソンに最後に面会したのは、皇后の友人Lili Dehnと皇女皇太子の英語家庭教師Chales Sydney Gibbsであった。

Lili Dehn
→アナスタシアと認める


Chales Sydney Gibbs
「彼女がアナスタシアだというなら、私は中国人だよ」と友人に話したという。
→アナスタシアではない


リリ・デーン
ラスプーチン、アンナ・ヴュルヴォワと


アレクセイの教師陣 右から2人目がギッブス

ギッブスとアナスタシア
皇帝一家と親密だったギッブスは、一家の死に強く打ちひしがれ、帰国後ロンドンで剃髪して正教に改宗、生涯を祈りに捧げた。



1938年
シャンツコフスカの身内の姉2人兄2人との面会。これはナチスにより仕組まれた面会であった。自称アナスタシアが偽りであることが判明すれば彼女は逮捕されることになる。姉の1人は認めようとしたが他の兄弟達に止められた。彼女には彼女の今の生き方があるということを受けとめ、「確認できなかった」ということで締めくくられた。
これ以降、アナスタシアかどうかを確かめる面接は公式には行われなかった。
このあと、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。アンダーソンは支援者の庇護を受けながらドイツ内を転々として生き延びた。



話は時を少し戻る。
1932年
アンダーソンはヘッセンの親族間の小規模な不動産相続に際して、自分の権利を主張し、訴訟を起こした。これは先のロマノフ家の宣言に対する報復だろうか。裁判は第二次世界大戦を挟み、1970年に結審した。反証したのはもちろんエルンストのいる元ヘッセン大公家からだが、途中でエルンストは亡くなり、息子のルートヴィヒが後を継いだ。この訴訟に金銭的援助をしたのがイギリスのマウントバッテン卿であった。
ルイス・マウントバッテンはアレクサンドラやエルンストの甥にあたり、さらに英国女王の又従兄、王配フィリップの叔父でもあり、第二次世界大戦で活躍したイギリス海軍元帥、元インド総督である。ロシアの皇女たちは彼の幼き日の遊び相手であったし、アナスタシアの姉マリアは彼にとって特別な存在であり続けた。マウントバッテンは亡くなった妻の莫大な遺産を惜しみなく裁判費用に注ぎ込んだ。
マウントバッテンはアンダーソンに面会したことはついぞなかったが、あんな不埒な狂人まがいの人物が自分の従姉妹であるなど、到底受け容れられなかった。
ルイス・マウントバッテン

しかしながら裁判はアンダーソンに有利な証言が次々に展開された。そのほとんどが、筆跡学者、人類学者、犯罪学者らによる医学的、科学的なものであった。

同一人物か一卵性双生児にしかありえない一致だという

結果、裁判はアンダーソンがアナスタシアであることを立証できなかったという判断で終わった。つまり、アナスタシアではないという立証もできなかった。
そののち、アンダーソンはヨーロッパでは次第に話題に上らなくなっていった。

アメリカに戻ったアンダーソンはどんどん奇矯な人になっていった。ビザのために、ボトキンの知人でアンダーソンより20歳年下の裕福な支援者マナハンと結婚する。マナハンは、自分はロシア皇帝の義理の息子だとはしゃいだ。彼らは非常に沢山の犬猫を飼い、死んだ猫は暖炉で火葬し、周囲の住人から悪臭の苦情を受けていた。





1984年2月、アナスタシア・マナハンは肺炎で亡くなったが、とうとうその正体は明かされないままだった。
1920年に運河で救われてからその死まで、アンダーソンは1度も自ら働くことなく、全てその時々に誰かに支援を受けて暮らしていた。死後その遺体は、一時身を寄せていたことのあるドイツのSeeon城内に埋葬された。


すべての決着は、1989年に最初に発見された皇帝一家の遺骸からのDNA鑑定により、アンナ・アンダーソンが皇帝一家の型と一致しない、かつ、現存するシャンツコフスカの子孫とミトコンドリアDNA型が一致することが先に判明し、二つ目の墓の発見で、残る1人の皇女(マリアかアナスタシアかの確定はできていない)も発見されたことにより、皇帝一家で1918年以降を生き延びた者は誰もいなかったことが判明した。

アンダーソン存命中から、アナスタシアをロマンチックに取り上げた映画が幾つも制作されていたが、それらの作品は単に空想の世界の夢物語であり続ける方が望ましいものと思う。





Grand Duchess Anastasia Nikolaevna Romanova
1901~1918






















変顔が面白いアナスタシア!
つられてマリアやアレクセイもおかしな顔に‥

上の手紙はアナスタシアからルイス・マウントバッテンへ宛てたもの。アナスタシアは英語が苦手で、ドイツ語風に発音し、文法はマスターできてなかった。母への手紙にも表記ミスが目立った。他方、アンダーソンの英語は完璧だったという。アンダーソンはロシア語をしゃべらなかったが、聞いて理解することはできていたといわれている。フランス語で応じることもできたらしい。




戦場に投入された 若きヒトラー・ユーゲント

2015-09-01 16:47:05 | 出来事
国家の理想の下に捧げさせられた
ドイツ第三帝国の少年少女
最後は前線に立つ悲愴
Hitler Jugend / Hitler Youth




1.ヒトラー・ユーゲントの組織

ドイツではかねてから「民族老化」「青年神話」の思想があった。家庭や学校で抑圧されている青少年を一時的に解放し、自己教育に差し向けるためとして、20世紀初頭にはヴァンダーフォーゲル活動などが広まった。
参加は強制されるものではなく、規律もほとんどなく、本人の意志による自己教育の場として提供されていた。
それは、「老害」からの解放が目的であり、青少年による青少年の指導を根幹としていた。
さまざまな青年活動が組織され、旧来からのカトリック系の団体や、ブルジョワやエリートの子息が中心の同盟「青年」、労働者家庭の子らが所属する共産主義系、社会主義系団体など、階層によりある程度、分断されていた。

他方、20世紀初頭はナチの台頭があり、ナチ党にも青少年組織が結成される。
貴族出身でナチ党員のシーラッハが主導して組織し、当初は他の青少年活動と変わらず、週2回、水曜土曜の午後と、月1回日曜の週末キャンプ、夏休みは10日間の合宿を行うものだった。
10~13歳男子の少年団と、14~18歳男子の青年団があり、女子は別で同様に組織されていた。

キャンプ 週末月1~2回行われていた

会議 ナチスの思想について学ぶこともあったがそればかりというわけではなかった

人形劇の鑑賞

標準的なユーゲントの制服


心を沸き立たせる行動を他の仲間と一緒にできる可能性、重要な人間なったという感覚に青少年らは虜になる。
その上、従来の、個人による自己教育を重視する青少年活動とは異なり、ヒトラー・ユーゲントは、階級対立、大量失業のない民族共同体を目指しているナチの世界観と規律もたたきこまれ、若者のヒロイズム、犠牲的精神、冒険心、青少年の理想主義に強く訴えるものであった。





Jungvolk(Deuche Jungvolk)はHitler Jugend入会前の10~13歳の男子の組織

貧しい家庭の子には、家庭ではできない体験と、都市ブルジョワ層のくらしの一片を垣間見る機会を得たこと、そして労働者の子もエリート階層の子も同じ組織で対等の扱いを受けることが何より喜ばしいことだった。
一方、ブルジョワ家庭の子のこんな談もある。


僕は、労働者の子供たちからなる中隊のなかで、三人しかいないブルジョワ層の子どもの一人だった。たとえば、僕には、絶えずあやまったり、ありがとうと言ったりする習慣があった。そうすると、僕はすぐに口元に一発くらった。そんなブルジョワ的な言い方をしてはいけないというんだ。ブルジョワ的というのは、ナチズムの階級的な罵りの言葉だった。





地域ごとの組織で旗手になるのは名誉なことだった


ヒトラー・ユーゲントは、ヒトラーの名を冠しているものの、ヒトラーが結成したものではなく、シーラッハが主導し、ヒトラーの側近の地位を狙って組織し、捧げようとしたものである。ナチ直属の組織にすることには、周囲もヒトラーも、当初は抵抗を示した。
しかし、党のさらなる台頭とともに、ヒトラー・ユーゲントの台頭も進み、既存の青少年団体との対立も激化しており、それを鎮めるためにユーゲント内にパトロール隊を結成する。
やがて、ヒトラー・ユーゲント以外の青少年活動団体全ての解散と若者全員がヒトラー・ユーゲントに入隊するよう、1939年、法律で定められた。

シーラッハ ナチス党員 ヒトラー側近の一人

シーラッハ(右)とアクスマン アクスマンがユーゲントを引き継いでから積極的に戦場に駆り出されるようになった


パトロール隊には、長じてユーゲントを脱退するときに、優先的に突撃隊(SA)や親衛隊(SS)に入隊する資格が与えられた。親衛隊には、人種的、身体的に厳しい入隊基準がある。そのため、パトロール隊員になるにも厳しい選抜基準があった。
また、戦争開始に伴い、年長の隊員は国防軍に志願することを望まれ、ユーゲントも国防軍の後方支援にやられることとなった。
危険の少ない海軍部隊、自動車部隊、航空部隊など特別組織には裕福な家庭の子らが配属された。

ハノーファー家の子女がプロパガンダに登場している 左よりフリデリキ、ヴェルフ-ハインリッヒ、クリスチャン-オスカー
彼らの母は元ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の末子で一人娘ヴィクトリア-ルイーズ
フリデリキはのちにギリシャ王妃となり、娘は前スペイン王妃ソフィアである


クリスチャン-オスカー
国防軍ルフトヴァッフェに所属した
彼と二人の長兄が敵国ドイツ国防軍だったこともあり、ギリシャでフリデリキは非難された


ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の6男1女







海軍所属のヒトラー・ユーゲント


パトロール隊やユーゲントのリーダーになるためには結局、階層が反映されることになり、組織に反感、幻滅するものも生まれた。それがやがて、モイテン、エーデルワイス海賊団、スウィング青年などの、ヒトラー・ユーゲントに対する抵抗組織を生むことになる。

また、ユーゲントの地位が高まると、父親や学校の権威が失墜し、若者の数々の逸脱や狼藉を抑えるものがいなくなった。
生徒がドイツ少年団の制服を着ている時には、教師はその生徒を殴ってはならない。殴るどころか、学内に数名存在するユーゲントリーダーの権力を考えると、口も手も出せず、冷や汗をかきながら、教師は指導せねばならなかった。


2.戦時中のユーゲント



戦時中にユーゲントが割り当てられた活動は以下になる。

1.党活動や伝令、守衛
2.国家や地方自治体のための活動 食料切符、消防、警察、難民移送
3.国防軍のための活動
4.住民への食料や石炭の配給を保障するための活動
5.冬期救済事業 募金、工作、衣類の収集
6.廃品回収
7.薬草や野生の果物などの収集
8.農業労働や収穫作業における手伝い
9.社会奉仕活動
子だくさんの家庭での援助、幼稚園での手伝い、病人や老人の世話など、女子
10.文化的活動
住民の士気を高めるための演劇や音楽会の上演
11.東部占領地域への動員


農場での労働奉仕

水晶の夜事件ナチスによるユダヤ人迫害
ユダヤ人の経営する商店やシナゴークを夜間に打ち壊し、ヘブライ語の本、ユダヤ人による著作物などを燃やす
ユーゲントも手を下していた


路上でユダヤ人に歯ブラシなどで石畳を掃除させる、その惨めな姿を嘲笑するのが目的
写真で、ユーゲント団員が関わっていることがわかる



隊員たちには青少年奉仕義務、労働奉仕義務、兵役奉仕義務があった。義務を果たさない場合は150マルクの罰金となる。
青年男子が戦地に向うため、人員が不足し、女子がリーダーとして活躍していた。
東部占領地域の学校での授業、学童疎開キャンプ指導などで東部占領地域への出向した者たちは、戦争末期に、ちょうど日本の満蒙開拓青年団の辿った末路と同じ運命になった。

業務の一例として、14歳男子ユーゲント隊員の防空任務という奉仕活動をあげる。
午後帰宅後、6時に再登校、電話のついた防空壕でラジオを聞いて起きているという、徹夜に耐えるための訓練、となっている。
次第にこれは訓練ではなく、実際に夜間の空襲での高射砲隊員として実戦参加となった。


3.銃後から前線へ

戦争の長期化、激化に伴い、ユーゲントの役割も変わっていった。
戦時中のヒトラー・ユーゲントの毎年のスローガンにその推移が見て取れる。

1940 実証の年
1941 僕らの生活はリーダーへの道
1942 東部占領地域への動員と農業奉仕
1943 ドイツ青少年の戦争動員
1944 志願兵の年
1945 ヒトラー・ユーゲントによる前線援助と戦争動員

ドイツ軍の圧倒的な人員不足のため、ユーゲントから部隊を組織することとなった。
その最初で最後の部隊が、第12SS装甲師団である。ドイツ人のみで構成された最後の武装SS師団であり、構成は16歳以上の10代の兵士がほとんどだった。
当時動員された少年の、その後の回想を引用する。

僕たちは参加したいと親に圧力をかけた。そこでもらえるかっこいい制服が自慢だった。僕たちは兵士になりたかった。軍服を着れば大人の男だった。

若者特有の正義感、トップエリートであるSSの制服への憧れが、首尾よくマッチした。



SSの制服



ユーゲントによる年少部隊結成の情報を得た連合軍側は「ベイビー師団」と名付け、哺乳瓶をあしらった旗印を与えて嘲笑していた。
SS12の最初の戦闘はノルマンディー上陸防御となる。その初戦で、嘲笑していた連合軍は青ざめることとなった。
ベイビー師団の戦闘能力は高く、連合軍側では数週間で突破できると読んでいた作戦に3ヶ月以上も手こづってしまったのである。
幼いころからユーゲントの隊員は、「血と名誉」を刷り込まれ、忠誠心が高く、相応に士気も高い。捕虜になるよりは闘い続けての死を選ぶ、おそるべき「ベイビー」たちだったからだ。
SS12はノルマンディーでの3ヶ月のあいだに半数以上の死傷者を出しつつ、終戦まで闘った。
終戦時には、当初20540名だった戦員が455名までに減っていた。



15歳以上男子は志願を勧められる
まだ小さい身体で武器を操作したり弾薬を運んだりした


オートバイ部隊は15歳以上のHJ隊員から構成する


携行型対戦車砲パンツァーファウスト
国内での決戦を目前にし、ユーゲント隊員達に進軍してきた戦車に対抗させる主な武器
小さい身体には扱いが相当困難で、大けがをするリスクが高い


擲弾補助員



ノルマンディー上陸を困難にさせたSS12だが、圧倒的武力の差により数を減らし、投降となる
降伏者4人に対し1人はその場で処刑、3人を捕虜にしたらしい
下の写真は暴行で殺されたように見える




4.ヒトラー・ユーゲントの最期

一方、少年団はもっと過酷な運命にあった。
16歳~60歳男性は国民突撃隊(フォルクスシュトルム)に、15.16歳は特別部隊(ヴェアヴォルフ)、13歳は兵器工場に動員。
のちに12歳から国民突撃隊に動員される。
15歳以上は全員、兵に志願するよう呼びかけられた。






航空ユーゲント、オートバイユーゲント、グライダー、ヨットなどの部隊へ配属されていた良家の息子たちも前線へ立たされた。
各戦端で少年や老人が死闘に挑む一方、ヒトラーはすでに廃人同様になり、想像を絶する終末期な考えに取りつかれていた。

戦争が負けとなれば、国民も終わりである。ドイツ国民が最も原始的な生存を続けるのに要する基盤など考慮する必要は無い。むしろこれらのものを自ら破壊したほうがましである。なぜなら国民は弱者であることを証明したからである。未来はもっぱら強者である東の民族のものとなる。それにこの戦いの後に残るものはつまらぬ連中だけである。なぜなら優れた者は死んだからだ。


ヒトラーは残った弾薬は全て国内に打ち込めと命令したが、側近が必死で止めた。自暴自棄を越えて、狂気である。これに従ってきたドイツ国民たちこそ悲劇である。
ヒトラーはその後、自殺した。


もはや連合国軍は、各国で首都制圧争いに乗り出す。
どの国が先にベルリンを制圧するか。各方面からベルリンが目指されたが、一番乗りはソ連だった。
ベルリンまでの各都市では、制圧に対して国民突撃隊が無闇に抵抗したため、無駄な犬死だけでなく、報復で市街地を焼かれるなど、被害を大きくしてしまった。
ベルリンでも果敢な抵抗は続けられ、制圧されるまでには想像以上に時間がかかった。
武器もわずかな手榴弾程度のものしかなく、ソ連の戦車が向かってくるのに対し、ほとんど身一つでの応戦をするのは少年たちなのである。
折り重なる死体を見て、連合軍は、そのあどけない顔、手先がかくれるほどの長い袖の大人の軍服姿をした少年たちに驚愕した。










戦争終結後、拘束された少年たち。
涙する者、悄然とする者。
彼らは何を思ったのか。
戦死したユーゲントたちは死のときに何を思ったか。
その親たちは何を思ったか。

彼らは最善を尽くした、彼らの考えうる限りの最善を。
知らなかったのは自分の命の重みだろう。命は差し出すものと教え込まれてきたためだろう。
そして、自分の命の重みを感じることがなかったのと同様、他者の命の重みも知らされなかった。
民族の純潔のために、それを妨げる人間の存在を否定することに抵抗を感じない。

戦争そのものには、自分が殺される可能性が一番心配されるが、他者を殺す可能性を孕むことを見落としがちである。
人間性が失われていくこと、憎悪が増大し、報復の応酬が際限なく繰り返される。そして、勝者敗者ともに多大なものを失って戦争終結を迎え、不平等な講和が新たな憎悪を生み、民族の心の底に新たな戦争の芽が生まれる。民族間の紛争は今なおくすぶり続けている。

時代に呑み込まれて次々に死んでゆく若者を憂えて、こんな思いを抱いた人がいた。
1944年、オースターベーク(オランダの、マーケット・ガーデン作戦が展開された地)のケーテ・テア・ホルストの回想より。



彼らはみな、こんな銃弾の嵐の中で死に赴かねばならないのだろうか?神よ、われわれに一瞬の静寂、平穏をお与えください。彼らが平和に死んでいけますよう、たった一瞬でもかまいませんから。

死が逃れられないのなら、せめてその死が静かに向かえられるものであって欲しいと願う。しかしおそらくそれは、戦地でかなうものではなかっただろう。















考察

ソ連軍が首都を制圧しにくる。皆が建物に影を潜めているとき、通りでひとり大泣きしている少年がいる。
12、13歳ほどの少年が、大きな鉄兜をかぶり、手に手榴弾を持って。いたたまれず声をかけた者に、少年は言う。通りがかりの男性に、敵が来たらお前はこれを持って戦車に突っ込めと、鉄兜を被され手榴弾を握らされた、と。
でも、どうやって使うのかもわからない。
そう言って泣いていた、と。
この少年の悲しさ。

簡単に死を強要される、命の軽さ。
どのみち拒否しても銃殺される、泣いているだけでも殺されるかもしれない。
それでもどうしようもなく泣いていたこの少年を、だれも抱きしめてあげられない。
未来から、過去のすべての経過を知る者として、私がその少年のところへ行って、寄り添って手を取って、涙を拭ってあげたいと思う。
しかし、もし私がその時代に生きる者のうちの一人だったとしたら、彼に手をさしのべただろうか?

その時代の空気の中に置かれなくてはわからないことがある。

しかし、以下のエルンスト・ユンカーの言葉に力を得て、過去の彼らの悲しみ尽くした心のために、私は日々彼らのことを思い遣る。見たわけでもないのに、手榴弾を手に泣いている少年の映像が心に焼き付いているために。

「おそらくわれわれも今日こうして過去の祈りによってだけでなく、われわれの死後に唱えられる未来の祈りによって生きているのである」


戦地から戻ってみると我が家も家族も失われていた


真面目な犠牲的な姿勢が
平和に直結するとは限らない。
それが正義であると?

戦争では、銃後を守らなければならない。
どんな手を使っても良い。戦闘の正当性もヒロイズムも無用だ。

ユーゲントのSS12はよく戦ったが、目前の戦闘に勝つことにこだわり、自ら無駄に消耗していった。それが戦争に勝つことには繋がらない。
戦争と戦闘の違いを分けて考える。戦争には、戦闘だけでなく、経済も外交も、その土俵を持っている。
また、勝つにしても負けるにしても引き時を見誤ってはならない。



以下は、戦争末期の、名もなき者の書いた野戦郵便からの引用である。

「あらゆることについてよくよく考えてみると、次のことだけは言わなくてはなりません。我々は何としても戦争を阻止しなければならなかったということ、そしてあのような大口はたたくべきではなかった、ということです。我々はロシアとの戦争は阻止しなければなりませんでしたし、モロトフがベルリンを訪問したときには、彼らの希望を受け入れるべきだったのです。」
(検閲はあったがたまたまこのような内容のものもすり抜けることもあった)

ヒトラー自身が言った。
「真面目なヒトラー・ユーゲント団員がいなければ、戦争はもう少し早く集結し、犠牲や破壊ももっと少なくてすんだかもしれないのである」

自ら彼らを戦場に送りながら、何ということを言うのだろう。
悲しいことに、それは事実だ。
しかし、彼らを犠牲にしておきながら、犠牲を、破壊を、彼らのせいにすることは絶対に許せない。ユダヤ人に対して為したこと以上に、このことは、私には許せない。








同じ同盟国として諸大国を相手に戦ったドイツと日本。なぜ戦争することになったかの原因も似ている。どちらの国も持たざる国であった。資源、領土を持たぬ国、そして植民地争いに遅れて乗り出し、あえなく帝国主義国に駆逐された苦い経験があったためだ。
第二次大戦はどの国も総力戦であり、戦力によらず国力に左右される戦いであった。戦勝国のイギリスでさえも底まで落ちた。
国粋主義のもと、厳しく言論統制され、大本営発表は苦しい戦況をひた隠し、国民に奉仕を強いて、逆らえば非国民として収監される。ドイツも同じだ。国民への締め付けがどんどん厳しくなり、自分が密告されないために他人を密告する。ユダヤ人がスケープゴートとされたように、朝鮮人、韓国人を弾圧する。若者を前線に駆り出す。
実際には、敵国と国境を接し、最終的に市街地戦となったドイツは、本土決戦をする前に終戦した日本に比べれば、一層過酷な恐怖に晒された。
首都が制圧され、略奪の限りを尽くされ、女性は幼女から老女までもが繰り返し強姦された。
戦争の恐怖を肌感覚で体験した。かつて蹂躙してきた近隣諸国でしてきたこと。

国民を戦死させるような国家のどこに大義があろうか。ならば国民を死なせないためとして、他国民を殺すことに大義はあるのか。
戦争は人を殺すことでしかない。
武器は人を殺すものでしかない。
(脅かすものとして使えば良いと?)










画像はお借りしました

王室の血友病 遺伝子鑑定

2015-07-30 07:40:27 | 出来事

前回に引き続き、英ヴィクトリア女王由来の遺伝子変異からヨーロッパ各国の王室に広がった血友病を検証します。先頃、90年を経て発見されたロシア皇太子の遺骸のDNA鑑定で、王室の血友病の詳細が判明した過程を見ていきます。


⑴二つの墓穴と遺骸のDNA鑑定

①一つ目の墓穴

1918年7月17日の午前1時頃、ニコライの家族7人と従僕4人は監禁されているエカテリンブルクのイパチェフ館の地下室で、銃殺、銃剣による刺殺、銃床による撲殺により殺害された。
殺害後、レーニンの革命政府は、元皇帝を銃殺したことと、元皇帝の家族らは安全な場所に移したという虚偽を公表した。
しかし遺体も家族らも忽然と消え、所在はようとして不明のままであった。


殺害から10日後の新聞記事 家族はどこかにいると書かれている




殺害から8日後、白軍がエカチェリンブルクを制圧 直後から皇帝一家の捜索が続けられたが発見できなかった
林の中に一家の衣服や持ち物が焼かれた焚き火のあとが発見された その中にあった燃えかすとしてアレクセイのセーラー服の断片が採集された



1991年、皇帝らのものと思われる9体分の遺骸(約900個の骨片や歯)が掘り起こされ、DNA鑑定が行われた。
ニコライは皇太子時代に日本に来訪した際、誤って斬りつけられた(大津事件)ことがあり、このときの血染めのシャツの血液を採取したが、あまりにいろいろな人が触れたためにDNAを分析するには不適切な試料だった。この検体からは血液型だけ特定できた。


図の番号は下の図の番号と符合する 穴の深さ2メートル、大きさ2.5メートル四方
400ガロンの石油、400ポンドの硫酸、2本の斧が遺体隠蔽に用いられた







1.XY染色体アメロゲニン遺伝子の検出による性別判定

2.STR(Short Tandem Repeat:4塩基の配列が反復し、反復回数に個人差がある遺伝子)の検査による親子判定

3.ミトコンドリアDNAによる母系解析




最初に発見された9体の埋められてた所
道の下だったのが盲点になり、白軍は見つけられなかった



STRの分析により、9体のうちに親2人とその子供3人が含まれ、アメロゲニンの検査によりその3人は皆女性であることが判明。

さらに、mtDNA(ミトコンドリアDNA)解析によって、この親子が一体誰なのかを調べることができる。
それは、現在存命の母系の血縁者と一致することで、その先祖であることを証明できるものである。
皇后アレクサンドラの母系の血縁者であるエディンバラ公フィリップ(英エリザベス2世女王の夫)の血液の提供を受け、その一致することが確かめられた。


エリザベス女王とエディンバラ公 アレクサンドラ皇后の姉の娘の子なので母系


エディンバラ公の母アリスはアレクサンドラの姉ヴィクトリアの娘 生まれつきの聾唖であったが読唇で数カ国語を理解した ギリシアの王子アンドレイオスと結婚

一方、皇帝ニコライの方も、母系の遠戚と比較し、ほぼ一致したが、一部にヘテロプラスミーが混在していた。ヘテロプラスミーは三世代以内に消失するため、ニコライの弟であるゲオルギー大公の墓を開けて検体を取り出し、調べたところ、こちらもヘテロプラスミーが確認された。これにより、この遺骸がニコライであることが強力に確かめられたかたちになった。



発見された遺骸のうち家族のもの2体が足りない。
この段階でアレクセイと皇女1名の遺体が見つかっていない。
それまで度々、偽アナスタシアや偽アレクセイが何人も現れていたが、この2体が見つからないということで、ほんとうに彼らは生存していたかもしれないという可能性を拡げることにもなった。


左から アナスタシア、オリガ、マリア、タチアナ 5人の子供達はちょうど2月革命で宮殿を包囲されていた頃麻疹に罹っていた 治った後で髪の毛が抜け始めたので、どういうわけか全員丸坊主にした 6月頃のこと。
そのときに面白がって撮った写真が、遺骨の判別に役立つことになった 頭蓋骨頂部の形でマリアが除外されたのだが、ロシアの専門家が行ったこの修復の過程に精密さを欠いたとしてアメリカの学者が異議を唱え、米側は身長やある部分の骨端部の成長具合により、不明遺体はアナスタシアのものだと主張した





②二つ目の墓穴
しかしその後の2007年、殺害から90年ののちに、アレクセイと皇女ひとりのもの(推定ではマリア)と思われる遺骸が、両親らの発見された地点から70メートルほど離れた林の中で発見された。
44個の砕かれ焼かれた骨片(管状骨、子供の頭蓋骨片、歯、著しく損傷した骨盤骨)や銃弾、日本製の壺の破片。
最初に発見された遺骸と比べて、こちらのものは損傷の程度が極めてひどかった。
遺体は硫酸をかけられ、切り刻まれ、焼かれていたためだ。
壺のかけらは硫酸が入っていたものだった。
ここでも、遺骸を焼き、その地を掘って埋め、埋めた跡を消すためにその上でまた焚き火をした。


第3皇女マリア


マリアは2歳下のアナスタシアと過ごすことが多かったが、穏やかな性格のマリアはやんちゃなアナスタシアに押され気味だったようだ。将来は兵士と結婚してあたたかい家庭を持ちたいと願っていた。少し太り気味なことを本人も家族も気にしていたが、ロマノフ家系独特の美貌を姉妹の中では最もよく継承している。弟アレクセイと顔立ちがよく似ている。
男性を持ち上げられるほど力持ちであり、病弱なアレクセイを動かす時には惜しみなく活躍した。素朴で親しみやすく、エカテリンブルグでも警備兵と談笑し、姉や母に厳しく叱責された。生涯にわたってマリアに憧れ続けた従弟ルイス・マウントバッテンの存在や、姉オルガの縁談相手のルーマニア王子が破談後にマリアとの婚姻を望んできたこと、父と弟をスタフカに尋ねたときにある将校に恋し、お手製のプレゼントを贈るなど、10代の女性として魅力的な日々の中にいた。アレクセイとともに埋められていたのはマリアだという説(ロシア)とアナスタシアだとする説(米)がある。当初、皇后を皇太子とともに埋める手筈だったので、生前の恰幅の良さからマリアが皇后と間違われたのではないかと私は思っている。当時、皇后は心労のため大変痩せ細ってしまっていた。遺体は皆衣服を剥がれ、顔は銃床で砕かれ、硫酸もかけられたので、判別し得なかったと思う。



マリアとアレクセイ




第2の墓穴 3本の白樺に囲まれた場所 埋めたチェキストは白樺に印をつけておいたという




骨片


斧か鋸のような刃物でカットされた様子がわかる



まずは考古学者による分析
以下は2009年3月11日のPLOS oneの記事より。

Based on duplicative anatomical units such as the midline portion of the occipital, no less than, or a minimum of two people were present among the recovered remains.
One person present among the remains was of female sex, based on clearly visible sciatic notch dimensions, with a biological or developmental age of approximately 15–19 years.
The sex of the other person was probably male, again based on the incipient breadth of the sciatic notch, and the biological age ranged from 12–15 years.
Given the limited fragmented material coupled with the lack of representative diagnostic anatomy, it was not possible to determine the racial or ancestral type or estimate living stature from the remains.
Three silver amalgam fillings discovered on the crowns of two molars recovered from the grave suggest that at least one person was of an aristocratic status.
The overall age of the burial site was most likely greater than 60 years old based on culturally diagnostic material found contextually with the bones.


さらに、遺伝学者によりDNAの分析も始まる。

DNA鑑定は独立した3つの研究機関で行われた。

1.mtDNA
2.autosomal STR
3.Y-STR


Y-STRは、男性のY染色体のDNA上の配列を比較することにより、父子関係を調べるものである。ここでは、ニコライ、アレクセイ(仮定)、存命の子孫であるアンドリュー・アンドレーエヴィチ・ロマノフのもので比較をする。

DNA鑑定の結果は以下である。
(出典:同上)





The mtDNA results alone can be considered conclusive. The new samples matched exactly the mtDNA data of Tsarina Alexandra (and the HVI and HVII data of a living relative, HRH Prince Philip), indicating that these samples were maternally related to her. If one includes the anthropological information about these samples: specifically that one of the samples recovered from the second grave was most likely the femur of a young woman (sample 147), we can conclude that these samples were from the missing children of the Tsarina since the femora from the Tsarina and her three other children were recovered and accounted for in the first grave.

Autosomal STR genotypes were developed to form a family pedigree of the Romanov family. The DNA profiles of the two samples from the second grave fit perfectly into the family tree of the Tsar and Tsarina with all of the alleles of the two samples explained by Mendelian inheritance.

A 17-marker Y-STR haplotype from the remains of Tsar Nicholas II matched exactly to the Y-STR haplotype from femur of the male sample (sample 146.1) found in the second grave. The same 17-marker haplotype was also observed to match a living Romanov relative.



⬆︎Y-STR検査 見事に一致!



ここまでの経過のドキュメンタリー動画があるので詳しくはこちらを⬇︎


http://youtu.be/3eAdBHwUr5w
こちらはpart1です。全部でpart5まであります。

上記ドキュメンタリー動画より


研究室にはアレクセイのイコンが飾られた



5ヶ月を経てSTRの分析結果が説明されているシーン。
上から、アレクサンドラ、アレクセイ、ニコライのSTR比較
(動画Part5にて解説されています)


さて、ここでようやく遺骸が特定できたまでで、血友病の同定についてはここからになる。

研究に携わった遺伝学者Terry Meltovは、

“This family has been reunited finally.”

と語る。皇帝一家がようやく、過去に存在したものとして証されたことで、彼らが一つに繋がった悲願の瞬間でもあった。


粉砕された小さな骨のかけらから、自分は一体誰であるかを無言のまま強く語る。そして証明される。
さまざまな嘘の証言や、なりすましの者の言葉を全てを否定し去り、覚たる存在性を発し続ける骨片に、悲しい叫びを聴く想いがする。
小さな欠片に過ぎなくても生きた証。欠片の、その核に不動のものとして封じられている。



⑵血友病の遺伝子検査

ここからが血友病の遺伝子の同定の話である。
それぞれすでに特定されたアレクサンドラのDNAとアレクセイのDNAを、両者の骨片から抽出する。

まず、血友病のうちの80%を占める血友病Aを引き起こす、F8遺伝子をコードする26エクソンと、血友病Bを引き起こすF9遺伝子をコードする8エクソンを分析する。結果は、F9遺伝子エクソン4の3bp上流に局在するイントロンにおけるA>Gが認められた。この遺伝子変異がスプライシング異常を起こさせ、大量の異常mRNAを合成し、このことは少なくとも3例で報告されている重症血友病B患者の例と一致する。なお、このスプライシング異常はアレクセイの姉アナスタシアにも見られた。つまり、アナスタシアも母と同様、血友病保因者であった。
血友病は重症から軽症まで段階はさまざまであり、重症に部類されるのは血液凝固の能力が健常者の1%以下である。
アレクセイと母系でつながる王室の血友病罹患者たちはみなこのタイプだったことが判明した。





アナスタシアとアレクセイ 人を面白がらせるのが得意なアナスタシアは一番歳が近いこともあってアレクセイは最も慕っていた ただし最もアレクセイに優しかったのは長女のオリガだった


アレクセイの遺骨の状態は、その処分のされ方が酷く、鑑定は不可能かとも思われていた。しかし、本人特定ばかりでなく、骨片の内部の血液も採取できたために血友病の遺伝子変異まで特定することができた。

たった一箇所の遺伝子変異が、ヴィクトリア女王を起源にして王室に現れた。しかもちょうど世界が激動している時期に重なった。そのことが、社会、国家に少なからず影響を与えることになった。ほんのささいな気まぐれのような遺伝の変異に、本人の人生も周囲の世界も翻弄されたのは、皮肉な運命といえよう。



革命に巻き込まれて命を落とした子供は、アレクセイだけでなくたくさんいたと思います。けれども彼は皇太子であったがために、遺体は酸をかけられ、刻まれ、焼かれました。死後の、本人の知らぬことではあっても、すべての夢を砕き尽くすかのごとき残酷さに鳥肌が立ちます。しかし、技術が醸成するのを待っていたのか、90年を経て沈黙を破り、わずかに残った遺物を晒し、なにがその身に起きたのかを証明した、様々な偶然の鎖がつながれてここに至ったことを、言葉なき強いメッセージとして受け取りました。










⑶ 血友病の症状

ここでは血友病の一般的な症状を上げて行きます。

特徴的な症状は、筋肉や関節の出血です。皮膚の下、鼻や口の中の出血は止血がしにくく、対処の困難な場所です。

出血症状は活動が活発になる乳幼児後半に転んだりぶつけたりで、臀部(おしり)や前額部(ひたい)などに皮下出血がみられるようになります。頭を強打すると重篤になる可能性があります。
内出血を起こすと血液が組織内に流れ出し、グレープフルーツ大の血腫となり、周囲の神経を圧迫するので想像を絶する痛みが持続します。10日から14日がピークです。敗血症を起こしたり、臓器出血を起こしたりすれば死に直結します。

現代では、止血剤やホルモン、血液製剤などが投与されます。家庭で投与することも可能です。また、運動会のまえなど、けがのリスクのある時はあらかじめ予防的に事前投与することもあるそうです。非出血時に定期的に製剤を注射することにより、血友病性関節症や、滑膜炎を予防します。

出血時には凝固因子を注射し、止血します。出血早期に注射する必要があります。

関節内の出血を繰り返すと炎症が起こり、長引くと関節が壊され変形し、痛みを伴います(血友病性関節症)。
筋肉内では筋肉痛のようにだんだん熱を帯び、腫れてきます。

現代では、症状に合わせてすみやかに治療すれば、死に至るということはないようです。
その点、100年前の各王室ではなすすべもなく、死が背中合わせでの生活になりました。

以下、『ニコライ二世とアレクサンドラ皇后』ロバート・K・マッシーの著作から引用します。

ひとたび関節内に出血すると、血は侵蝕力を持ち、骨や軟骨や組織を破壊する。骨の組成が変化すると、手足が曲がったままの位置に固定してしまう。この状態に対する最善の治療は不断のマッサージだが、それも再び出血する危険がある。その結果、アレクセイの通常の治療法には、熱い泥水浴と共に、手足を伸ばすための重い鉄製整形外科器具による治療も含まれていた。

皇后にとって現実の出血よりもっと悪いことは、血友病がダモクレスの剣のようにいつ危険が振りかかってくるかわからないことであった。血友病には現状維持ということがない。アレクセイが一時普通に元気に遊んでいるかと思うと、次の瞬間には転んで瀕死の出血を起こすかもしれないのである。
ヴィクトリア女王がそうであったように、アレクサンドラも過保護になった。スペインの王室では、血友病の息子に詰め物をした着物を着せ、遊びに行く庭園の立木には衝撃を防ぐ当て物をした。…
…息子に普通の行動をとらせると同時に適正な保護を加えるというこのバランスは、母親に過酷な緊張を強いるものであった。子供の眠っている時以外は緊張の連続であり、このため彼女は疲れ切って戦場神経症のようになった。…

最悪の時期の十一日間アレクサンドラはほとんど息子のベッドから離れることはなかった。息子の顔は血の気がなく、体はねじれ、眼は吊り上がり周りに黒い隈が出来ていた。皇后は一度も着替えず、ベッドに入りもしなかった。…この十一日間に、彼女の金髪は色褪せて行った。






マッドバス(泥水浴)中のアレクセイ アレクセイの日記から一時期毎日のようにやっていた様子がわかります


ロシアの皇帝一家の文献しか持ち合わせてていないので、各王室での葛藤は残念ながら知り得ません。息子であり、たったひとりの皇太子を守り抜こうとする母親の、病人以上に苦しむ姿、さらにアレクサンドラの場合、その苦しみを息子にもたらしたのが自分の遺伝によるものであると知っているために、大変な重圧だったろうと思います。そこで盲目のようになって掴んだのがラスプーチンでした。皇后は誰にも相談できなかったのです。皇太子の病気は口外できない、隠し通さねばならなかったために。
気の毒ですが、結局、息子の治療以外のことでもラスプーチンに頼ってしまったことにより、革命を急進させ、結果、我が子全てを失う羽目になったのは悲劇という他ありません。



血友病で生まれてきた王子たち、そして彼らを支えた親たち。一方で、王后であり、皇后でもあらねばならなかった。

10名の王子達。両親の苦しみの甲斐もなく、父親より先に亡くなった者5人、全員が母親より先に亡くなっています。(同時に亡くなったアレクセイを除く)
母はどれほど悲しかったことか。
子供に先立たれるのはどんな場合でも悲しいけれど、自分が保因者であったことに一層くるしめられるのです。
何より、自分ではなく子供の死が隣り合わせというのは生きた心地がしなかっただろうと、心から同情します。