私の家系は父、祖父が大工で父の兄弟3人も大工という職人家系に生まれ育ちました。
家の前の敷地に作業場があり、そこで柱や梁などを加工していました。今はプレカット工場で何時間もかかりませんが昔は5人で2週間ぐらいかけて木を刻んでいたのです。
小さい時の遊びは端材などの木を並べたり、積み上げたりして遊んでいました。建材のカタログを見るのも好きでそれを見ながら家のプランのようなものをしていました。建築のまねごととして布団の下に敷くマットを半丸にしたものを縦と横にならべ、その上にシーツをかぶせ屋根をつくっていました。その中で姉とお菓子などを食べていた記憶があります。毎回同じ形で…何もない時代、そんなことをして遊んでいました。
その当時の朝ご飯は、これから現場に出る職人のお茶飲みと一緒でした…。
晩ご飯も、帰ってきた職人さんを交えての夕食で、朝と違うのはお茶からお酒に変わることです。想像がつくと思いますが、夕食の終盤は言い合いがはじまり、最後は怒鳴り合いの喧嘩になり…一日が終わるのでした。翌日は何事もなくお茶飲みを…。これが365日続きます。仕事がない日も、お正月も誰かが来て大騒ぎ、まさに昭和の時代です。
今にしてみると懐かしいですが、そんな職人家系の家が嫌でした…。
家にいるのが嫌でしたが、将来に家をどう受け継がなくてはいけないのか…も考えていました。そんな思いもあり、建築の道を歩むことになります。
地元の住宅会社で木造住宅の設計、設計事務所では鉄骨造の設計や内装の設計施工、地元ゼネコンではコンクリート4階建てのアパート等の現場監督を経験させていただきました。たくさんの人と出会い、いろんなことを教えていただき、お世話になったのです。
時には厳しく、時には優しく…。
設計事務所として独立した後は、専門学校の講師、大手ハウスメーカーの設計協力事務所、大手ゼネコンの設計部では23階建ての事務所棟の計画等に参加しました。
バブルがはじけた頃です。この時点では、まだ小さい時の記憶が邪魔してか家の工務店を継ぐ意識はありません…。
今から19年前の5月に
新緑が芽生え、色濃くなるころ、父が急死しました。入院してわずか3週間のこと、突然でした。死の覚悟もできないまま…。家のことも、家族の問題もそのままにして…。
小さい頃から顔なじみの職人さん、業者さんに集まっていただき、これからどうすればいいか、みなさんにお伺いしました。表向き応援してくれる人、足をひっぱる人、無条件で応援する人、隠れて応援する人…いろんな方がいましたがこの時、継ぐのではなく新しく会社をつくればいいと思ったのです。松下さんの「やってみなはれ」ではありませんが自分の想う会社をつくればいい…継ぐことを問題視にするのではなく、誰のために何をするのか、それは自分しかできないものであればやってみる価値はある!視点が変わりました。
何を目標とするのか「理念」を掲げました。家は近くの木と職人でつくり、守っていくものと思い、設立時からみやぎ材を積極的に活用し、近くの職人で家をつくってきました。
それから数年後に優良みやぎ材(県)、木の家整備事業(国)、地域型住宅ブランド化事業(国)、地域型住宅グリーン化事業において地域材活用や地域型住宅が問われるようになりましたが、設立時から利用し、地域型住宅をつくってきたのでこれらの助成金事業にスムーズに対応でき、今があります。
伊藤工設計のことばに「想いは種、全身を想いにする」「困難にあきらめないこと。困難は避けるものではない、解決するものである」があります。
そんな思いで一つ一つ…。19年前を思い出します。
あと10年すると父が亡くなった歳と同じになります。
田植えが終わり、きれいな風を病院の待合室から見ていたあの時より自分は成長しているのだろうか…5月に想うのでした。
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