「超凡破格の教育者」徳永康起先生の人と教育

35歳にして校長職に抜擢され、5年で自ら平教諭へ降格願いを申し出、平教師としての教育人生を貫いた徳永先生の記録

親の祈り心を

2022年08月29日 | 横田南嶺館長日記第157回
臨済宗大本山円覚寺館長 横田南嶺

(「横田南嶺館長日記」から引用)
ハガキ道の坂田道信先生とお話ししていて、徳永康起先生の名前が何度も出てきました。
徳永康起先生は、「明治以後のわが国の教育界における『百年一出』の巨人」、「超凡破格の教育者」とまで森信三先生が高く評価されたのでした。
坂田先生は、森先生が複写ハガキの大切を説かれ、その一番の深い実践者である徳永先生から指導を受けたと仰っていました。
徳永先生は、三十代で小学校の校長になるのですが、五年で校長を辞めて一教師に戻られた方です。
教師の仕事は、教壇に立って教えることだという信念でした。
坂田先生の『ハガキ道に生きる』には、徳永先生は昼食を食べないということが書かれています。
坂田先生が、なぜ昼食を食べないのか聞いたのだそうです。
終戦直後、貧しくてお弁当を持って来られない子どもがいたらしいのです。
昼食の時間になると、そっと校庭にでて遊ぶ子が数人いることに徳永先生は気がついたのでした。
その子たちは、お弁当を持って来られないのです。
それを知って徳永先生はぴたっとご自身の昼食をやめてしまったのです。
昼食の時間になると、徳永先生は一番先に校庭に出ていって、その子たちと遊んだのだそうです。
この一事をみても、すばらしい先生であることがうかがえます。
坂田先生の本に、切り出しナイフが盗まれたことが書かれています。
あるとき学校で工作用の切り出しナイフを持ってくるようにお願いしました。
皆親に買ってもらったのでした。
ところがある生徒は、親に頼むことができませんでした。
その子は、貧しいわけではありません。
頭の良かったお兄さんといつも比べられて、叱られてばかりいたのでした。
学校でお金がいるときでも、兄が頼むと親は快く出してくれるのですが、その子が頼むと渋い顔をされたのでした。
だからその子は親に頼めずに、おとなしい同級生のナイフを盗んだのでした。
盗まれた子は、「ナイフがなくなった」と騒ぎました。
徳永先生は、誰が盗んだのか分かったのですが、すぐに生徒たちを全員校庭に出したのでした。
そして、その子の机を探してみると、やはりナイフが見つかりました。
そのあと、徳永先生は、自転車をこいですぐに金物屋に行って、同じナイフを買ってきて、無くなったという生徒の本にはさんで、机の奥に入れておきました。
生徒が教室に戻ってくると、徳永先生は、盗まれたと言っていた生徒に、
「きみは慌て者だから、もっとよく調べてごらん」と言いました。
するとその子は教科書の間に挟まっていたナイフを見つけ出して、
「ああ、あった」と喜びました。
徳永先生が盗んだ生徒をチラッと見ると、涙いっぱい眼にためて先生を見ていたのでした。
その子は、やがて大きくなって昭和十九年ニューギニア戦線に出撃しました。
いよいよ明日米軍と空中戦という前の晩、もはや生きて帰れぬと覚悟して、徳永先生に手紙を書いたのでした。
「先生はあのとき、ぼくをかばって許してくださいました。
本当にありがとうございました。
死に臨むにあたって、先生にくり返し、ありがとうございましたとお礼を申し上げます」
そして最後には、
「先生、ぼくのような子どもがいたら、どうぞ助けてやってください。
本当にありがとうございました。さようなら」
書き添えてありました。
そしてニューギニアのホーレンジャー沖の海戦で、米軍の戦艦に体当たりして散華したと、これは神渡良平先生がまとめられた『人を育てる道 伝説の教師 徳永康起の生き方』(致知出版社)に書かれています
同書によると、
徳永先生は八重くちなしの苗を買い求めて、彼の墓前に植えました。
「八重くちなしの花は香りがよくて、土の中で眠っている君の魂まで届き、芳香で温かく包んでくれるだろうと思って……。
この花が咲くころ、きっと君は生きていたころ、いろいろ苦しかったことを思いだすだろう。だから君のお墓は八重くちなしで包んでやりたいんです」
というのでした。
徳永先生の教え子からたくさんの戦死者が出ました。
徳永先生は毎年大晦日から元旦にかけて、板張りの床に正座して、戦死や戦病死した教え子の戒名、没年、死没場所などを和紙で綴じた冊子に毛筆で書いて、一人一人の冥福を祈ったそうなのです。
なんと素晴らしい先生なのかと思います。
坂村真民先生は、徳永先生のことを「康起菩薩」と呼ばれたそうなのです。
そんな先生に不幸が襲いました。先生の次男が突然事故で亡くなりました。まだ二十歳だったのでした。
志を達しないまま冷たくなったわが子に対面して、徳永先生は悲嘆に暮れました。
そのときに森先生が、徳永先生に出された手紙の内容を、神渡先生の本から引用させていただきます。
「おハガキはまったく夢としかおもわれませんでしたが、くり返し拝読して、夢ではなく、現実であり、しかも現実の中では最深の悲痛であることの動かぬ感がします。
それにしても、一体どういうことでしょう。
まったく天道ありや無しやと申したい感がいたします。
天はどこまでも冷厳にあなたという方を鍛えるのでしょう。
はたで見る身が辛くて耐えられない思いです。
奥さまに何とお言づていただいたらよいのか、まったく言葉がありません。」
という心のこもったお見舞いであります。
徳永先生は、この悲しみを抱いて、より一層学校では陽の当たらない子たちを抱きかかえようと決心されました。
それらの子が育つことこそが、わが子への供養だと思ったのでした。
そんな深い悲しみの底から出てきた言葉が、
まなこ閉じて
トッサに親の祈り心を察知しうる者
これ天下第一等の人材なり
というのでした。
坂田先生に出逢い、坂田先生の『ハガキ道に生きる』を読み、更に神渡良平先生のご労作『人を育てる道 伝説の教師 徳永康起の生き方』を拝読して、心が暖かくなりました。
こんな心を大切にしたいものであります。

徳永康起少年が学んだ【合志義塾】

2022年08月01日 | 合志義塾
(以下の記事は、徳永先生が退職された後、森信三先生の命により「私が歩んできた道」と題して講演され、この内容を寺田一清先生が冊子として刊行され、その中の「合志義塾」の部分を引用したものです)

 私の一生に大きな影響を与えたのは、何としても「合志義塾」に1年間学んだことにあります。師範を受験するのに年齢が達しないため、県南の大野村から県北の合志義塾に入塾したのであります。

 今は廃校となりましたが、工藤左一・平田一十の両翁が、その全生命をかけて営まれた合志義塾という私塾であります。私はその塾にたった1年問学ばせて頂いたのですが、今でも師のお顔、お教えが脈々と生きています。いっさいの栄職を求めず、一生を育英の事業に捧げられたその熱烈な生そのものが、わたしの一生を通じて忘れ去ることのできないものになったのです。

 塾というものは塾長の徳を慕って生徒が集まる処であり、今日の学校とは全く違います。地域ごとに指定された学校に入学し、定められた教師に受け持たれるという世間一般の感激のない学校生活とは全然違っていました。
 この合志義塾は五十九年間続き、遠くは朝鮮や台湾から親子二代にわたって入塾した歴史があります。昭和25年に廃校になりましたが、この間、卒業生は6500名になります。学校令によらない私塾のため初等科2年、普通科3年を終わっても、何の資格も与えられないのに、遠くから子弟を托するというには、よほどの事がなくてはできないことであります。
合志義塾の教育は、学校教育で画一的に教師から与えられる教育とは全然違うのです。資格や卒業証書を獲得し就職条件を良くするための勉強に比べると雲泥の差があります。

 入塾の1年間、今も忘れないのは、塾長先生の「孝経・論語」の講義でした。長髭をしごきながら読みかつ説かれる口調を、今も尚ありありと思いうかべるのです。素読の楽しみを忘れることができません。板の間に長時間正座しての受講も苦になりませんでした。
 ここでは当時流行の優等生の表彰は一切ありません。ただ通告票の末尾に「その他注意」という欄があって、ここにその人物の評価を簡易に表現されます。私の場合「交友信望・洒掃精勤」と記入されていました。これは合志義塾最高の表彰とのことで、あくまで本人に示すだけで公表はされません。私の通告票にこの二項目が記入されていることを級友が見て「これはすごい事だ」と聞かされました。私自身1年間の入塾で初めての修学の通告票であり、このことを知らない私自身が大変びっくりしました。この一事が合志義塾を最も端的に語っているものと存じます。

 合志義塾の塾生にも熊本師範を受験する者が多くいました。受験といえども補習授業などは全然なく、課外は剣道で鍛え、詩吟を楽しんでいました。
 昭和2年当時は不景気のせいもあり、塾からの師範志望者は少なく36名が受験し6名が合格する状況でした。工藤塾長は「教師になるなら碁をしてはならぬ。その時間には読書するなり心身を鍛えよ!」と指導されました。そのおかげで現在に至るまで、碁石を握ったことがありません。「良師の感化は墓場まで」とは本当だと思います。
 通塾生を除き、遠隔の地から来ている者は、それぞれ下宿するわけですが、私は阿蘇郡出身の人たちと一緒に下宿しました。 ご飯は粟・芋・豆の炊込みご飯と決まっており、当番を決めての自炊生活でした。しかし副食物は各自で用意しなければなりません。同宿の人たちは土曜日に家へ帰って1週間分を用意してきますが、県南の遠隔地出身の私にはそれが出来ません。1日に梅干し1個の日もありました。 しかしそのお蔭で、今日に到るまで、ただの一度も食事のことで小言を言ったことはありません。そしてこれだけは家内からも感謝されております。

 ある時、熊本市に出張してきた父が一度だけ塾を訪れたことがありました。着物は一着で過ごしたので、さすがの父も私の姿を見てびっくりして、連れ戻そうとしましたが、私は頑として言うことを聞かず頑張り通したので父は諦め、次に、有無を言わさず熊本市内の洋服屋に連れて行き寸法を取らせました。その時の格好は今も覚えておりますが、冬だというのに青縞の単衣、よれよれの帯、素足に草履ですから、どう見ても乞食の子そっくりだったに違いありません。

 先ほど申しあげました、「交友信望・洒掃精勤」という事は、その後私の頭にこびりついて離れません。えてして学校という処は、点数さえ良ければよい生徒だと決めつけてしまう不思議な場所であります。しかしそれが果たして、人様のお子を育てる真の道であろうかと、いつも合志義塾の教育が甦って来るのでございます。 

【参考】民俗学者の宮本常一氏は自身の「宮本常一が見た合志義塾」の著書に、戦後教育と比較し「人間が全力をあげて教えようとし、また学ぼうとする場合、もっと真剣な気迫が満ちあふれ、もっと体当たり的ものがあった」と記述している。また、司馬遼太郎も「街道を行く」の第41巻に合志義塾の教育を取りあげている。


【超凡破格の教育者・徳永康起先生】―森 信三の思想と生涯―神渡 良平 著

2020年09月15日 | 神渡良平著作引用

 

   「超凡破格の教育者・徳永康起先生」     《実践人誌「『人生二度なし』森信三の世界」より引用》

写真は令和元年6月「広島ハガキ祭り」で講演の神渡良平氏

人間のあらゆる行為の中で、一番美 しいものは、人を生かす行為である。教職があらゆる職業以上に。聖職”と呼ばれるのは、それが人を生かす行為だからである。森は一人の人物をどう育み、生かしたか。森の数多くいる弟子たちの中でも、抜きん出て大きい存在である、

 熊本県八代市が生んだ超凡破格な教育者徳永康起の例で見てみよう。

 徳永康起は早くから優れた教育者として注目され、最年少で小学校校長に抜擢された人である。ところが5年後、校長職では直接に子どもたちの教育に関われないからと、自ら進んで平教員となることを願い出て、子どもたちの魂の成長のため献身した。徳永は担任の子どもたちは言うに及ばず、卒業生たちともハガキでこまめに交流を続け、その成長を見守り続けた。

 昭和十四(一九三九)年、二十六歳の若さ溢れる教師だった徳永は、魂が震えるほどの経験をしている。年若くして亡くなった教え子の通夜に駆け付けてみると、死の枕辺に「徳永康起先生手跡」と題した一冊のノートが置かれていた。担任したクラスの日記の末尾に、徳永が赤インクで記したものに、解説を付けてまとめたものだった。そのノートを見て徳永は、日記に添えられた数行が、その子を死の直前まで奮い立たせていたことを知って、愕然とした。以来、ますます真剣にクラスの日記に対するようになった。

『教え子みな吾が師なり』に、徳永はこう書いている。
「『つくしの記』からスタートした学級日記は、次々に題名を与えて、順調に二ヵ年続いた。子どもから抗議があったり、悲しみを訴えたり、相談ごとがあったり……。童心との生命の呼応を楽しみながら、毎日指には赤インクがつき、一語でもよいから、私のいのちのしたたりを記そうとしたのも、死の枕辺に置かれた一冊のノートが、私にそうさせたのであった」

 昭和三十(一九五五)年、校長から再び一教師となり、八代市立太田郷小学校で五年五組を担任した四十二歳の徳永は、その子たちを六年生まで持ち上がり、いよいよ卒業が近付くと考えた。
「一番苦しいとき、励ましになるものは何だろうか」やはり何といっても親の励まし以上のものはない。そこで保護者に呼びかけた。
「親はわが子の寝顔を見て、そっと『〇△よ』と語りかけるものです。その語りかけを手紙にして私に送ってください。大切に保存しておいて、卒業から十年後、文集にしてみんなに送りたいと思います」
 そして集まった三十一通の手紙を保管し、昭和四十(一九六五)年一月、『生命の呼応限りなきかな』と題した文集にして、二十二歳になった教え子たちに送った。文集には親からのこんなメッセージが載っていた。
「知之よ。あなたのことを思うとき、私はいつも笑顔になっている。それはいつも私たちの心が通い合っているからだ。意地っ張りで、でも働き手の知之さん。いつまでもその心を忘れずに成長してね。母」
「秀章よ。満州の酷寒の二月に、お前の産声を聞いて戸外に飛び出したのが、つい昨日のようだが、もうお前も六年生。ひ弱い体で、一人前に育つのかと心配していたのが夢のようだ。正しい心の持ち主となるよう、心身共に伸びて欲しいと切に祈っている。父」

 これを読んだ教え子たちは、白分たちの背後にあった親の。”祈り”を発見して、感涙に咽んだ。徳永は子どもたちにいつもそんな励ましを送る人たった。だから卒業後も教え子たちとの絆が日増しに深くなった。
 だから彼らは寄ると徳永との思い出を語り合い、それが消え去らないようにと、昭和四十五(一九七〇)年、本にして残すことにした。
書名は徳永が口癖のように言っていた言葉『教え子みな吾が師なり』から取って付け、五十万円の大金を出し合って、浪速社から出版したのだ。

 森も徳永を慕う教え子たちの熱き思いに打たれ、同書にこんな序文を寄せた。
「この書は、今や戦後四分の一世紀を迎える今日、初めて出現した、真に万人の胸を打ち、その心を揺さぶる『民族教育記録』といってよいであろう。従ってこの書はまた、戦後わが国の教育界を風扉したかの無着成恭氏の『山びこ学級』、及び小西健二郎氏の『学級革命』を超える高次元に立つ成果といってよく、それ故この書は、以上の二書以上に、わが国戦後の教育的文献として、真に歴史的意義を有するといえるであろう」

 徳永は実践人の家夏季研修会に毎年参加することを楽しみにし、森を「私の終生の師」と呼んで慕った。それは「私は森先生によって生かされた!」という思いが深かったからだ。人間の行為の中で、人を生かすことは最高に美しい行為だ。森はそれを徳永に対しても行い、徳永はそれを教え子たちに対して行ったのだ。


校長職を辞し志願して平教師へ

2020年04月23日 | 徳永康起先生の歩み


1 理想の教育を求めて

 徳永先生の教育人生は、温かい慈悲の心で児童を育むとともに、自らの教育目標への実践力には、稀なるものがあった。

 その源流となるのは、生家徳永家の家風にあり、熊本の県北の「合志義塾」で培った「清貧にして志の高い」教育、そして実兄宗起氏のペスタロッチに学ぶ慈悲に満ちた浮浪少年たちの訓育に学んだことにある。その事を若き教師時代に自身の理想教育について心情を語られた記録がある。

 徳永先生は、県南佐敷町の代用教員錬成所に出講した際、受講生の一人吉田(石牟礼)道子と出会った。当時十六歳の吉田は、多感な少女時代の悩みを手紙に綴り徳永先生に相談していた。徳永先生は、彼女の浮浪少女を救済する慈悲の心、そして伸びやかな感性を見抜き、彼女に「私は、志の高い理想の学校を創りたい。校長先生は井上先生、そして私と彼方と幾人かの先生で、全ての児童を温かく見守り育てられるような環境の学校を…」(石牟礼道子著作「葭の渚」から引用)と自らの想いを語っておられる。その理想を如何に実現するか、常に心の中に抱かれていたのである。
 35才で校長職に抜擢され約四年を経て、日々の校長としての職務を行いながら自らの理想とする教育を実践するには限界があり、現実的に児童と校長の間には担任教師が在り、その領域は超えられない立場があることを痛感されていた。直接児童と向き合い心と心の通い合う教育を実践するには、やはり教育現場の最前線に立つ以外なしとの思いに至り、結論は、平教師に復帰する道であった。

 志を燃やして自らの決断で「平教師への降格願い」を県教育委員会に提出した。

2 森信三先生への報告

 「お叱りを受けるかも知れぬと思いますが、今月から教壇に帰ることになりました。三十余歳で任命されてから約五年、柄にもなく校長職を務めましたが、満四十歳を期して一教師に返ることを、必ずや森先生はお喜びくださることと存じます。畢竟、私の生きる道は一日八時間の子供とのふれあいにあると深く考えての事です。

 七年前に、教育者の望む最後の地位が校長であってはならぬと…… (中略) …。十一月四目の正式発令を待ってこの学校を去ります。
職員も今回の異動内報に、泣いて別離を悲しんでくれますが、ただ同一基盤に立って、その道を磨くためだということは分かってもらえるようです。

 思えば、私をして教壇復帰、学級担任教師たれ!との息吹は、芦田(恵之助)老師に発し、二月、先生のご来熊によって決したものと有り難く存じます。十五年近く教えてきた谷地の教え子達の大半も、必ずや一教師となった私を喜んでくれることと思います。

 

(森信三主幹「開顕」第65号・昭和27年12月号から抄出)


「複写ハガキの元祖」と言われた徳永先生

2015年01月24日 | 徳永康起先生の歩み
「徳永先生の書斎」

 昭和二十七年、平教諭になって八代に赴任。当初は、八代駅に近い萩原神社の社務所に仮住まいされた。半年して市内の静かな千反町に終の棲家を構えられた。家は、六畳の和室二間、八畳の応接間、三畳ほどの板張りの部屋、茶の間、そして台所と五衛門風呂があった。 
 先生は、玄関を上がって直ぐの三畳ほどの狭い板張りの部屋を書斎にされた。障子戸を引いて部屋に入ると、正面に、父から教師初任の祝としてもらった欅の机が据えられ、目の前に森信三先生の「死期を覚悟しつつ」の書と、母キカの若い頃の写真の額が掲げられていた。日々手を合わせる時に、年老いた晩年の母の写真よりも若い頃の張りのある写真の方が、安らぎを覚えるとの理由からである。机上には、直ぐ郵便の宛名を書けるように硯と筆が揃えられた。

 徳永先生の一日は、毎朝三時には起床し、冷水でさっと顔を洗って書斎に入り、正座して母の写真に手を合わせ感謝の挨拶に始まる。心静かにハガキを書き、鉄筆を握ると気持ちが「リンリン」と冴えてくる。一枚のハガキに教え子の成長を楽しみにされ、時に水彩画を挿入されたり、最も至福とされたときであった。        
                                                  
「複写ハガキの元祖」 

 森先生が徳永先生を「超凡破格の教育者」と評され、更に「複写ハガキの元祖」とも称されている。現在、広島の坂田道信先生が、複写ハガキ伝道者として長年その道を究め啓発されている。
 徳永先生は、免田十年会・井牟田大木会等の教え子に対し、早い時期から激励のハガキを書いておられた。特に戦地に赴いた教え子に対するハガキは熱き情念の発露でもあった。このため早暁から書斎に寒室寒座し、教え子・師友にハガキを書くことを日課とし、ハガキを「命の実弾」とされた。一枚一枚心のこもったハガキである。多い日は二十通を超える事もあった。

 徳永先生と教え子の心のつながりは担任の期間だけでなく、生徒が巣立った後はハガキによる激励となった。同志同友のなかには、一日一信を交わされたが、これは並大抵な気持ちで出来るものではない。また、師友間では、個人誌を発行して互いの切磋琢磨、近況報告の場とされた。この郵便物について幾つかのエピソードがある。

 一つには、郵便物が「熊本県・徳永様」等の宛名書きだけで届いたことがあった。また、郵便配達の人が「先生は封書やハガキが多く、お金が大変でしょう。」と言うと、先生曰く「いや、これを一人一人に持参したら時間も費用も莫大なものになります。私は貧乏だから郵便を利用しているのです。この方が正確で早いです。」と言って二人で大笑いされたのである。