福井県 金剛院 釈迦如来坐像
今朝の4時40分頃目が覚めると、つけっぱなしのラジオからNHKラジオ深夜便「明日への言葉」が聴こえてきた。
タイトルは「柔らかに死を見つめる」。野の花診療所医師徳永進さんにインタビューしたもので、聞き手のディレクターが父親の死に目にあえなくて、後悔が残っているという話が耳に入る。このとき自分もそうであったことを思い出した。
父が亡くなったのは郷里浜松の日赤病院で、突然で看取ることは叶わなかった。母のときは、横浜の今の自宅にいて、やはり浜松の病院で突然亡くなったとの連絡が入った。父は72歳、母は83歳だった。
親の死に目にあえなかったことは、痛恨の極みであった。とくに母については、1ケ月毎に横浜の自宅に居住して、週3回カミサンが付き添って透析に通っていたこと、亡くなる直前母を浜松に送り届けての帰り道、カミサンがポロポロ涙を流していたのは、別れの予兆だったのかもしれない。
小さい時から両親の折り合いが悪く、父の暴力に耐えきれず母はちょこちょこ家出していた。母のいない少年時代を過ごしてきた私は暗かった。私の先妻が27歳の若さでガンで逝ったこともあり、0歳と3歳の息子の養育のために、郷里浜松で母と子と孫3世代の生活が始まる。このとき母は58歳で働き盛りだった。
その後横浜へ転勤、今の家に住むまでの16年余り、母は不肖の息子とやんちゃ盛りの孫の面倒をよくみてくれた。運命のいたずらとはいえ、母にしてみれば息子と孫と同じ屋根の下で過ごした16年は幸せであったと思う。身勝手だが、ある意味親孝行できたのかもしれない。
日本人の多くは家族の死をもって初めて死について体験する。私の場合、初めて家族の死に立ち会ったのは先妻のときだった。余命1ケ月のガン宣告を受けたときは涙が止まらなかったが、4ケ月後に亡くなったときは、覚悟していたこともあってかすぐには涙が出てこなかった記憶がある。
家族の死は辛いものだ。先妻のとき悲嘆にくれたことは勿論であるが、母の葬儀のときは親族代表の挨拶で泣いてしまった。我が家の三男ハチが亡くなったときも夫婦で泣いた。
いつか自分も死を迎える。そう遠くないことかもしれない。死ぬことが怖くないかといえば嘘になる。死後のことは自分ではどうにもできないし、神仏にお任せである。しかし、生きてる間は健康で過ごすことが、カミサンや息子たちに対する私のせめてもの感謝であろうと思っている。
仏像写真家目指す私にとって、仏教を深く知ることとなり、死後の世界もある程度勉強させてもらったので、死について思うことはたくさんあるが、折々にまかせて書くこととしよう。
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