↑仁淀川八田堰付近の清流 画像拡大は→クリック
宮尾登美子先生の自伝的長編「櫂」の読了以降、「春燈」「朱夏」と読み今月初旬
一応の流れの最終編である「仁淀川」を読了した。
特に「朱夏」は、筆者自身の渡満から引き揚げ迄の体験を基としたものであり丁度
私の亡き母と年代共に一致する関係から、とても興味深く、生前、それについて余
り詳しく語ることの無かった引き揚げの悲惨さを代わって語ってくれているような気
がして、時間を忘れ読みふけったのだった。
既に「櫂」は映画化、「春燈」はテレビドラマ化されており、「朱夏」と「仁淀川」を合
作すれば素晴らしい叙事詩となるのは間違い無いと思われ、大いに期待するとこ
ろなのだが、小説とはいえ今日現存する地名、何より「仁淀川」の澄んだ流れが
文章表現のままに実体験出来るという、高知県民の特権を最大限生かしてみよう
と企画、取材したわけなのです。
そのような意図なので、例によって小説中の文章を引用の形で掲載させて頂く。
それと、残念ながら時代背景が戦中戦後の混乱期なので食物関係については
前回の記事「櫂」と比べると全く彩り無く、命を繋ぐための「最小限の食」しか、登
場しない、だがそこには人間と食に関する「深い洞察」が含まれていることも見逃
してはならない。
第一章「故郷の山河」
↑八田堰(西岸より東岸を望む。撮影日は前日の大雨で水量は偶さか多かった
が全く濁り無く澄んでおり、水質レベルの高さは流石ですね)
※引揚船が佐世保に着き満州から乞食同然の姿で一年半振りに故郷に辿り着いた
親子三人は伊野駅から夫(要)の実家がある桑島村上(現在の弘岡上辺りか)に
向かう途中……
∫∫∫
【秋の陽ざし降りそそぐなか、目に沁みるほど鮮やかな緑の野菜がいちめんに拡が
っている畑の道を歩いているとき、地響きにも似たその水音を綾子の耳は捉えた。
轟々ととどろき、どうどうと響き、そして縷々と絶えないその音を聞いた瞬間、綾子
は思わず我を忘れて駆け出していた。畑の道から土手まではゆるい坂ながら、両手
に荷を提げ、美耶をおぶった身ではすぐぜいぜいと息切れするのもかまわず、一気
に登り切ったその眼下には、豊かな仁淀川の水をここで仕切った八田堰の一年半前
とすこしも変わらぬままの姿があった】(P-9)
↑行当岬手前の土手
↑行当岬の坂を曲がり桑島村上方向を望む。
※八田堰で分水された流れは右手後方にある「行当の切抜」を抜け、弘岡井筋
へと向かう。
∫∫∫
【この八田堰は藩政時代、山内家の家老野中兼山が吾川郡一帯の灌漑のために建
設したもので、仁淀川の堰ももう一ヶ所ある。要の家の前を流れる川も八田堰から分
水したもので、いま綾子が立っている土手からは、ゆるい坂の行当岬を直角に曲がれ
ば、もうそこは桑島村上であった】(P-12)
↑JR伊野駅
∫∫∫
【いつまでも川を眺めている綾子を要が促し、背中の美耶と三人、ゆっくりと歩き出し
たが、その風体はたまさかすれ違うひとたちが振返っては立って眺めるほどの印象
であったらしい。さきほど汽車から下りたあと、引揚事務手続きのため、三人は駅舎
の隣の地方事務所に寄ったが、そのとき誰かが「や、汚い。乞食が来た」といったの
を綾子は耳に止めているし……】(P-12)
↑土佐電鉄伊野駅
※現在も「JR伊野駅前」始発は変わらず。
∫∫∫
【この桑島村上の家から高知の町へ出る方法は二通りあり、ひとつは伊野駅前始発
の市電に乗る道と、もうひとつは家の前の用水に沿って半道近く下り、百笑という集
落でバスを待つのだが、このバスは木炭バスであり、また高知までは九十九折りの
難所、荒倉峠を越さねばならぬ。バスに馴れぬ人はほとんどが酔って吐くため、ここ
ら辺りではたとえ一里半の長道を歩いても、やはり伊野町まで歩いてごとごとの市電
に乗るのであった】(P-29)
↑中の橋通り
※電停は数年前まで利用されていたが現在は撤去された。
※夫(要)の実家に戻った翌日、綾子は父、岩伍を秦泉寺の仮住まいに訪ねる。
∫∫∫
【綾子の目に、窓外の景は伊野駅につづく田園地帯から市街地へと移り移るにつれ
て空襲の傷跡はだんだんとひどくなるのがはっきりと判る。
ところどころに焼け残っている一角と急造のバラックの他はいちめん瓦礫の原で以
前の町の面影もうかがえなかった。中の橋通りで電車を下り、もとの繁華街を北へ
真っ直に向う道のわきには、それぞれの裁量で建てたと思われる不揃いのバラック
が焼跡のあいだに欠け歯のようにぽつぽつと建ち、行き交う人々もまだ男は古びた
軍服、女はもんぺのままが多かった。】(P-30)
↑追手前小学校のクスノキ
∫∫∫
中略。
【そうは思っても、この道は女学校時代、綾子が通学路として毎日歩いた道であり
この角は文房具屋さん、その向かいはお惣菜やさん、ここには小学校の裏門があっ
た、校庭には楠の大木もあったっけ、と地上からかき消されてしまった建物をしのび
ながら歩くのはいいようもなくさびしく、家並みを抜けて久万川の土手に出たとき
「ちょっと休もうか」と要を誘い、綾子は美耶をおぶったまま草の上に足を伸ばした。】
(P-31)
↑高知市立愛宕中学校舎(高坂高等女学校跡地)
∫∫∫
【この土手は、焼失した綾子の母校高坂高女からは近距離にあり、体操の時間
黒いブルーマー姿でたびたび駆足で通ったことなどしきりに記憶を過ぎるが、土手
はいま、いちめんの彼岸花が終わったばかりであった。】(P-31)
第二部へつづく……
宮尾登美子先生の自伝的長編「櫂」の読了以降、「春燈」「朱夏」と読み今月初旬
一応の流れの最終編である「仁淀川」を読了した。
特に「朱夏」は、筆者自身の渡満から引き揚げ迄の体験を基としたものであり丁度
私の亡き母と年代共に一致する関係から、とても興味深く、生前、それについて余
り詳しく語ることの無かった引き揚げの悲惨さを代わって語ってくれているような気
がして、時間を忘れ読みふけったのだった。
既に「櫂」は映画化、「春燈」はテレビドラマ化されており、「朱夏」と「仁淀川」を合
作すれば素晴らしい叙事詩となるのは間違い無いと思われ、大いに期待するとこ
ろなのだが、小説とはいえ今日現存する地名、何より「仁淀川」の澄んだ流れが
文章表現のままに実体験出来るという、高知県民の特権を最大限生かしてみよう
と企画、取材したわけなのです。
そのような意図なので、例によって小説中の文章を引用の形で掲載させて頂く。
それと、残念ながら時代背景が戦中戦後の混乱期なので食物関係については
前回の記事「櫂」と比べると全く彩り無く、命を繋ぐための「最小限の食」しか、登
場しない、だがそこには人間と食に関する「深い洞察」が含まれていることも見逃
してはならない。
第一章「故郷の山河」
↑八田堰(西岸より東岸を望む。撮影日は前日の大雨で水量は偶さか多かった
が全く濁り無く澄んでおり、水質レベルの高さは流石ですね)
※引揚船が佐世保に着き満州から乞食同然の姿で一年半振りに故郷に辿り着いた
親子三人は伊野駅から夫(要)の実家がある桑島村上(現在の弘岡上辺りか)に
向かう途中……
∫∫∫
【秋の陽ざし降りそそぐなか、目に沁みるほど鮮やかな緑の野菜がいちめんに拡が
っている畑の道を歩いているとき、地響きにも似たその水音を綾子の耳は捉えた。
轟々ととどろき、どうどうと響き、そして縷々と絶えないその音を聞いた瞬間、綾子
は思わず我を忘れて駆け出していた。畑の道から土手まではゆるい坂ながら、両手
に荷を提げ、美耶をおぶった身ではすぐぜいぜいと息切れするのもかまわず、一気
に登り切ったその眼下には、豊かな仁淀川の水をここで仕切った八田堰の一年半前
とすこしも変わらぬままの姿があった】(P-9)
↑行当岬手前の土手
↑行当岬の坂を曲がり桑島村上方向を望む。
※八田堰で分水された流れは右手後方にある「行当の切抜」を抜け、弘岡井筋
へと向かう。
∫∫∫
【この八田堰は藩政時代、山内家の家老野中兼山が吾川郡一帯の灌漑のために建
設したもので、仁淀川の堰ももう一ヶ所ある。要の家の前を流れる川も八田堰から分
水したもので、いま綾子が立っている土手からは、ゆるい坂の行当岬を直角に曲がれ
ば、もうそこは桑島村上であった】(P-12)
↑JR伊野駅
∫∫∫
【いつまでも川を眺めている綾子を要が促し、背中の美耶と三人、ゆっくりと歩き出し
たが、その風体はたまさかすれ違うひとたちが振返っては立って眺めるほどの印象
であったらしい。さきほど汽車から下りたあと、引揚事務手続きのため、三人は駅舎
の隣の地方事務所に寄ったが、そのとき誰かが「や、汚い。乞食が来た」といったの
を綾子は耳に止めているし……】(P-12)
↑土佐電鉄伊野駅
※現在も「JR伊野駅前」始発は変わらず。
∫∫∫
【この桑島村上の家から高知の町へ出る方法は二通りあり、ひとつは伊野駅前始発
の市電に乗る道と、もうひとつは家の前の用水に沿って半道近く下り、百笑という集
落でバスを待つのだが、このバスは木炭バスであり、また高知までは九十九折りの
難所、荒倉峠を越さねばならぬ。バスに馴れぬ人はほとんどが酔って吐くため、ここ
ら辺りではたとえ一里半の長道を歩いても、やはり伊野町まで歩いてごとごとの市電
に乗るのであった】(P-29)
↑中の橋通り
※電停は数年前まで利用されていたが現在は撤去された。
※夫(要)の実家に戻った翌日、綾子は父、岩伍を秦泉寺の仮住まいに訪ねる。
∫∫∫
【綾子の目に、窓外の景は伊野駅につづく田園地帯から市街地へと移り移るにつれ
て空襲の傷跡はだんだんとひどくなるのがはっきりと判る。
ところどころに焼け残っている一角と急造のバラックの他はいちめん瓦礫の原で以
前の町の面影もうかがえなかった。中の橋通りで電車を下り、もとの繁華街を北へ
真っ直に向う道のわきには、それぞれの裁量で建てたと思われる不揃いのバラック
が焼跡のあいだに欠け歯のようにぽつぽつと建ち、行き交う人々もまだ男は古びた
軍服、女はもんぺのままが多かった。】(P-30)
↑追手前小学校のクスノキ
∫∫∫
中略。
【そうは思っても、この道は女学校時代、綾子が通学路として毎日歩いた道であり
この角は文房具屋さん、その向かいはお惣菜やさん、ここには小学校の裏門があっ
た、校庭には楠の大木もあったっけ、と地上からかき消されてしまった建物をしのび
ながら歩くのはいいようもなくさびしく、家並みを抜けて久万川の土手に出たとき
「ちょっと休もうか」と要を誘い、綾子は美耶をおぶったまま草の上に足を伸ばした。】
(P-31)
↑高知市立愛宕中学校舎(高坂高等女学校跡地)
∫∫∫
【この土手は、焼失した綾子の母校高坂高女からは近距離にあり、体操の時間
黒いブルーマー姿でたびたび駆足で通ったことなどしきりに記憶を過ぎるが、土手
はいま、いちめんの彼岸花が終わったばかりであった。】(P-31)
第二部へつづく……
私はたまたま、宮尾本平家物語4編を読んで宮尾ファンになりました。これほどの書き手はそう見あたりませんね。
昨日から湿地帯に挑んでいます。(^.*)
宮尾ファンに仁淀川に残る自然の素晴らしさを伝えたかったからです。終戦後、満州か
ら引き揚げてきて昭和の30年代の一時期、仁淀川沿いの伊野の町に住んでいた祖父の思
い出も残る、いの町には一方ならぬ思いもあります。
私も次の宮尾作品は「湿地帯」と決めています、どうぞまた読了後の感想等、お寄せ頂
けると有り難いです。