Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記250302 記事 ゼレンスキー氏「答えてもよいか」、トランプ氏「だめだ」

2025-03-02 22:49:02 | 政治

 

朝日記250302 記事 ゼレンスキー氏「答えてもよいか」、トランプ氏「だめだ」

…首脳会談で口論の主なやりとり 読売新聞 によるストーリー  
 • 5 時間 • 2025/3/2


おそらく世界中がこの口論の事態にこころ痛めているとおもいます。
2016年来Trump氏に関心を持ち、応援してきただけに今回の両大統領の会話の成り行きは残念です。
米国人の思考法の特長のひとつとして、Prima facieというのがあります。もとはラテン語からくるが、自分の思いを率直に語る、態度鮮明なる勇気が賞賛されてきた伝統があると聞いたことがあります。今回の論争はprima facie debateであると信じたい。二方とも,Good Guysなので感情に走ったことの誤りを率直にみとめて、冷静を回復し、はやく握手をしてさらに、 honest prima facieベースで問題解決の話を再開してほしい。交渉事であるからあるステップ毎で非公開の進行もあるとおもうが、Good Guysとしてお互いを認めあい思い直してほしいです。

この記事でのコメント欄で、今回の決裂はCIAが仕掛けたという懸念したものがあった。CIAがdeep stateとしての懸念については参考にはなるが、すべては信じがたい。

ところで今度のCIAのヘッドの交代で、duputy directorのDan Bongino氏が入ったのは出色であるとおもいます。かれのFoxNewsでのpod casterぶりを2020年ごろ見ていました。Tシャツ着て、Trump氏への熱血なる支持pod casteringをみたことを思いだしました。それこそCIAへのprima facie justiceの切り込みの仕事をしていくことに注目しています。

参考記事:

https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E6%B0%8F-%E7%AD%94%E3%81%88%E3%81%A6%E3%82%82%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%8B-%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E6%B0%8F-%E3%81%A0%E3%82%81%E3%81%A0-%E9%A6%96%E8%84%B3%E4%BC%9A%E8%AB%87%E3%81%A7%E5%8F%A3%E8%AB%96%E3%81%AE%E4%B8%BB%E3%81%AA%E3%82%84%E3%82%8A%E3%81%A8%E3%82%8A/ar-AA1A4LrC?ocid=socialshare&pc=ENTPSP&cvid=32945dc7bbf14d34b48d2da49c99c33f&ei=16

 

 

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朝日記250301 碩学の友人眞殿 宏さんの<今月読んだ本>

2025-03-01 07:47:32 | 自分史

朝日記250301 碩学の友人眞殿 宏さんの<今月読んだ本>を掲載します。

<今月読んだ本>

1)間に合わなかった兵器“新装解説版”(徳田八郎衛);光文社(文庫)

2)なぜ働いていると本が読めなくなるのか(三宅香帆);集英社(新書)

3)グッドフライト・グッドシティ(マーク・ヴァンホーナッカー);早川書房

4)アメリカ・イン・ジャパン(吉見俊哉);岩波書店(新書)

5)陸軍作戦部長田中新一(川田稔);文藝春秋社(新書)

 

ブログ;

https://kanazawalibrary.blogspot.com/

 

 

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朝日記250228  サールとデリダの論争'Searle and Derrida Debate'

2025-02-28 20:55:01 | 絵画と哲学

朝日記250228  サールとデリダの論争'Searle and Derrida Debate'

 

これは十年まえ朝日記の再録です。 AIのバックグランドが人間の言行をを徹底的に真似た者ということから再度、登場してもらうことのしました。(朝日記「AIと哲学を語る」シリーズ) さて、どうなりますか。

~~~~
出典:
朝日記151231 ハイデガーの哲学で年末におもうことと今日の絵 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/9d4cb222a7396355c4a230ff197cb2df

サールとデリダの論争

'Searle and Derrida Debate'というのが目にはいり、どうもアングロ・アメリカン系の分析哲学系と大陸の合理哲学系との伝統を象徴している論争が面白いです。
この論争は、前者がevidence baseでの客観性(価値性)を、後者はvalue free baseでの実存性という視点にあります。 実は、当代を代表する二人の哲学者が馬が合わずで30年間対立が続いているようです。前者がSocial Institution(社会制度論)理論として 社会現象に対して問題解決的な思考を展開します。 さすがにプラグマティズムの国で 評価もさることながら、その展開が期待されます。(今年亡くなれた青木昌彦さんが支持する哲学者です)
後者は、現象論哲学のながれで、対象に対して、それに関わる自分との関係で、その存在(実存)の意味するものに’ひかり’を当てて行こうとする態度です。 存在について 言語などの論理だけではなく、芸術など非言語(感性)を含めて 人間の存在の意味を問うという態度です。こういうところでは、ピカソの芸術などの歴史的意味も思考の枠組みに入ってきておもしろいです。
私は、読んでいくうちに、二人は、関心の向かう対象領域が異なるだけで、本来 相互の位置づけられ、全体としては 人類にとっては、プロダクティヴなものになるはずのものと思っています。

そういう意味では、スタンフォードのネットで、上記三つの項目に注目しました。ここでの記述は バランスよく、二人の論争の意味が俯瞰できて、よく整理されているとおもいました。(おすすめです)

 ちなみに、2012年来の私のテーマはシステム思考と目的論理ですから、そのままふたりの論争によって、彼らの現代的な問題意識がわかり、思考の整理に助かりました。

 カントの認識哲学は、思考の共有場の候補という意味で、ひとつの「土俵」を提供してくれていると私は理解します。かれらドイツやフランスでは、はいまだにカントのそれに注意深く参考にしていることを知ります。アングロ系も、直接話題にすることが少ないだけで、それを否定していないようです。
しかし、カントは思考の場以上に、認識する対象を「現象」という’力士’を土俵に上げて みるということは後世に託したとも理解しています。 その意味では、フッサールやハイデガーは、それにメルロ・ポンティ等はそこにまともに取り組んだ人たちであると思います。
 私は、特に ハイデガーに着目して、「存在と時間」にいま取り組んでいます。 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」(cogito,sum)で、考える「われ」ということを均質に考えることに異議を呈し、主体と対象とを一体で考えていくことを提案します(「現存在」Da seinとよんでいます)。 そのときに たよりになるのは、いま自分が置かれ、問題として意識している環境であり、このなかに「現存在」があり、その存在状態を「実存」とよぶことになります。
しかし それをどう認識できるか、根拠はなにかということが出てきますが、かれは「存在了解」という用語で ひとは漠然としてそれを知っていてそれを認めているということにしています。

「存在了解」は、身近な「実存」を意味していて、これとよりひろい世界(普遍的世界)との関係は如何にという問題があります。彼は身近のほうから思考を展開します。(普遍を考えるまでの哲学的展開は未達のまま終わっています)
広い意味で、ハイデガーのながれに位置するデリダからみれば、人間の存在について 言語という論理で取り上げた現象を言語論理以外またはその裏側をも含めて、むしろそこに光を当てて考えるということを主張しています。(「脱構築」Deconstructionということばが登場しあます) これが彼らの現象論哲学の主題なのであろうとおもいます。
一方、ハイデガーのいう存在を 意識する問題意識は、その現象対象に向かっているはずで、それにまじめに焦点を当てていく立場があります。 この場合、問題を意識するのは、個人である( a first person account)が、問題対象を、共有の場に出すことによって、解決すべき問題として 晒し、議論し、問題として合意しようという立場が考えられます。それをとりあげていく主体が、Agent(「機関」と訳しておきます)で、Institutive(「制度化」)として問題を取り上げ、分析、提案、制度化)を取り上げていくものです。そういう意味では存在として対象を丁寧に見て、扱っていくという点では、「現存在」ということになります。 また対象の「実存」性を考慮したことになります。 社会的に明示化Explicitにしていく点に特徴があると思います。

 私が、ウィスコンシンの大学に留学したのは1969年からでしたから、もう50年弱の昔になります。 現地の彼らとの接触で、私の耳に残っていることばを4つほどならべますと 以下です: concern(関心), commitment(関与), encouragement(励まし),そして contribution(貢献)です。 彼らの会話は、共有的な「con-」につながっていて、みずからの意志のあり方を相手に表明していく姿でした。そして、それは、私のその後の社会生活に良きにつけ、悪しきつけ影響を与えつづけています。

 ところで、ハイデガーの哲学は、難解といわれています。
彼は、その著「存在と時間」のなかで、存在について、認識論哲学と、それに拮抗し姿を現す存在論哲学を展開します。 彼の論をよんでいくとそうであるのですが、抽象的概念ですから実世界との具体的なイメージが出にくいというということが難解にしているとようです。そんなときに ふとあのアメリカ人たちならどう読むかと勝手に想像して、おもいだしたのが 上の「con-」とつなげて読むということでした。そうすると 以下のようになります: 
彼の哲学は、対象の存在認知としての方法論として、現象論を積極的に導入します。その現象とは、考える主体の自分(共有をふくむ)とその対象を一体とした存在を取扱います。それを「実存」とよんでいます。さらに、その「実存」に<「関心」をもち>、その個別の存在として<「関与」していく>主観的概念として、「現存在」Da seinを導入したと理解する。

<…>の部分が「con-」です。注意して読むと、ハイデガーは論述の各所で この筋を使って、小まめに総括していますが、気が付きにくいところです。 私は、勝手に。彼の文のなかでの「現存在」を「関与」さらに「Agent(機関)」と読み替え、また、彼の文のなかの「実存」を、「関心」さらに「Institutive」として、読みかえることを試みました。 結果は、意味が一貫してきて刺激的で興味ふかいものになることを経験しました。(本来 もっとひろい解釈かもしれませんがひとまずそうしました)

そういう文脈で うえのScientific Objectivity(科学的客観性(価値性)と訳しました)を読んでいきますと、そこでは。価値自由理念Value Free Ideal(VFI)と価値負荷理念Value Laden Ideal(VKI)を別けて、意味をしっかり位置づけていることを知ります。前者が、カント~ウェーバーの認識論的な知そのものへの思考であり、後者は、経済学や政治学のような実践的(プラグマティズム)知として実社会への関与への思考としています。
おもしろい例として現代医療の中心が「Evident based medical」として 徹底的にデータベース依存になっている。これで目下米英系社会は、成果をあげている。ここでの医者は医療プロジェクトのメンバーのひとりで、その病気の専門家ではなく、データ科学実務者でして位置づけられています。(つまり技術者の集団です) これだけで、ほんとうによいのか、つまりValue Laden Idealだけでなく、Value Free Idealへの配慮が必要ではないのかの問い掛けは意識していて、その答えは出ていないと括っています。 
SearleとDerridaとの論争の背景は、多分こういうところに位置するのであろうと 想像しました。 最後にいきつくのは、価値の本源としての、「現存在」に帰ることになり、そして人間の生き方を基本から考えるという意味では、デリダのいう提言「脱構築」であろうと 思うものでもあります。

 人生の「終活」に入った私には、優しい提言であると悟ります。AgentやInstitutionに不満があってもそれからの恩恵に深謝するということでもあります。
徒然ことおわり。

 

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No 243variation 2014 12Oh,Holy Night

2025-02-22 06:15:45 | 自分史

No 243variation 2014 12Oh,Holy Night

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no164ばらの五月4 A golden worm 金色の羽虫.

2025-02-19 22:24:26 | 自分史

no164ばらの五月4 A golden worm 金色の羽虫.

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朝日記250219 Ongaku kaiga archives from early days音楽絵画のアーカイブ集≪2013年)

2025-02-19 21:05:03 | 自分史

Asa nikki250219 Ongaku kaiga archives from early days

音楽絵画のアーカイブ集≪2013年)

You can find each piece of Ongaku kaiga , and enjoy it .

Manipulate a copy-paste of  https  of each of  discription  below ,or find to do other way smart ;

(Sorry a little bit of cumbesome handlings to you)

 

朝日記250219 音楽絵画のアーカイブ集≪2013年)

<13の音楽絵画>
1.朝日記131224 <13の音楽絵画>その1からその3と今日の絵
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/7656f5fdaa62208f417a67a8d8f3d527


2.朝日記131230 <13の音楽絵画 その4と その5 >  と今日の絵
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/1b7eeff5ecdb6091d204b8046e7b7027

3.朝日記131230-II <13の音楽絵画 その6 と その7 >そして今日の絵です。 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/b54a2abd8fa53080b59c30c24ed8af37

4.朝日記131230-III 13の音楽絵画(その8,9,10,11,12,13の6編) 
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/a6fb65449a1afbc103971b7568750da3


<テーマ別の作品集>
1.音楽絵画131226 さかのぼる音楽絵画コレクションと Yassieの新しい音楽絵画 NO.197
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/3ca96781316814daf401635a9c60f05e

2.朝日記131223 大山スケッチのこと と今日の絵
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/5de861baea2b42675919fff1c742bc02


3.朝日記131220  「箱根Hakone View」音楽絵画集と今日の絵
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/4589823f93bdbdb20fc03b46a2785dfa


4.朝日記131208 音楽絵画 観世10篇と 新しい音楽絵画
https://blog.goo.ne.jp/gooararai/e/3a9dc0c7a95cafd08c422bfa534574f4

 

 

 

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朝日記250210 朗読「雲雀に贈る」

2025-02-11 10:24:35 | 自分史

朝日記250210 朗読「雲雀に贈る」

原作:パーシー・シェリの詩 To Lark

訳: 荒井康全

朗読: いろは

To lark

~~~~

―詩歌―雲雀に贈る(TO A SKYLARK)

(初出し;NPO法人 HEARTに会 会報 No.118、創立30周年記念 2024年夏季号)
                             会員 荒井 康全  

詩; パーシー ビッシー シェリー
Percy Bysshe Shelley (1792-1822)
翻訳;Yassie Arai 


~~~~~~~~~~~~~~~
かがやけ きみよ、みちあふれる生命(いのち)よ!
鳥(とり)よ きみ 鳥(とり)ならず、
天(そら)からのもの、否(いな) そのちかきもの
そは きみのこころを満(み)たす
ゆたかな緊張(きんちょう)のなか 
そは 思(おも)いもせぬほど ゆたかなるもの
     
高(たか)く さらに高(たか)く
大地(だいち)から跳(は)ね揚(あ)がる きみは 
火(ひ)の雲(くも)のように
羽(は)ばたき 空(そら)の藍(あい)の深(ふか)みに 
そして さらにうたう 歌(うた)は なお、ひびく
        
金色(こんじき)の夕日(ゆうひ)のなか
その上(うえ)の雲々(くもぐも)が また輝(かが)やく
きみは 浮(う)かびそして走(はし)る
あたらしい競(きそ)いがいまはじまるよう
形(かたち)にならないよろこびなり
   
青味(あおみ)が茜(あかね)にひろがり
きみの飛翔(ひそしょう)を溶(と)かす
天(そら)の星(ほし)のよう
ひろい陽(ひ)のひかりに
きみは見(み)えなくも
聞(き)こゆ きみ歓(よろこび)びのさえずりを
   
矢(や)のごとく鋭(するど)し
あの銀球(ぎんきゅう)の矢頭(やがしら)の
その反射(はんしゃ)はなお鋭(するど)く光(ひか)り
白(しろ)い夜明(よあけ)けの極(きわ)みまで 
そこにあるを感(かん)じるのみ
 
きみの声(こえ)に 大地(だいち)と大気(たいき)は
ともどもが 声(こえ)を上(あ)ぐ
夜(よる)が近(ちか)づけば ただひとつの雲(くも)の
月(つき)の雨(あめ)になりて 
光(ひかり)の条線(じょうせん)が降(ふ)りそそぐ
そして天(そら)は 流(なが)れに溢(あふ)れる


   
きみは何(なに)にてあるや われら知らず
何(なに)と例(たと)えんや?
虹雲(にじぐも)からの流(なが)れのなく
きらきらと水滴(みずたま)の弾(はじ)きおり
雨(あめ)は調(しら)べとなり降(ふり)り注(そそ)ぐ 
きみが居合(いあ)わせているが如(ごと)し 
    
うたびとが 侍(じ)すごとく  ひらめきのことばのなか
賛美(さんび)のうたは 控(ひか)えにて待(じ)す
そは、世(よ)が希望(のぞみ)に和(わ)し 
怖(おそ)れを掃(はら)うとき そのときを
     
高貴(こうき)なる乙女(おとめ)の 高楼(こうろう)にあり
その愛(あい)のこころの重(おも)きしも
あまき音色(ねいろ)の流(なが)れ出(い)でて
麗(うるわ)しき愛(あい)の会釈(えしゃく)を誘(いざな)わん 
        
金色(こんじき)にかがやく羽虫(はむし)のごとし 
朝露(あさつゆ)のしずけき硲(はざま)に
花々(はなばな)や草々(くさぐさ)のなかにも
空(そら)の色(いろ)が漂(ただよ)い 青(あお)を染(そ)める    
   


薔薇(ばら)の たおやかなに笑(え)み
みどり葉(は)をともないて 暖(あたた)かき風(かぜ)
花(はな)びらを散(ち)らすまで 香(かお)りをただよわす
みどり葉(は)はおもおもしく あまきかおりを控(ひか)えおく
     
春(はる)の驟雨(しゅうう)のおと 草々(くさぐさ)を揺(ゆ)らす
雨(あめ)は 花々(はなばな)を目覚(めざ)めさせる
古(いにし)えから すべてそうであったごと
陽気(ようき)、爽快(そうかい) 新鮮(しんせん)にて
きみの音楽(おんがく)は支配(しはい)する
 
妖精(ようせい)よ 鳥(とり)よ われらに教(おし)えよ
われは知(し)らず 何(なに)ぞ あまき思(おも)いなりしか  
聖(せい)なるかな 愛(あい)を 盃(さかずき)を賞(しょう)そうぞ
あまた舞(まい)のぼる泡(あわ)よ 溢(あふ)れ、弾(はじ)かせん
     
賛美(さんび)の合唱(がっしょう) 勝利(しょうり)のうたごえ
すべてが きみに和(わ)す なれど 
無邪気(むじゃき)なる誇(ほこ)りよ
ここにて感(かん)じえしもの すべてに 調和(ちょうわ)す
    
何(なん)たるものよ、 この はじける水(みず)の 
かく おおきの幸(さち)に みちたる緊張(きんちょう)何(なん)たることか 野(の)よ、波(なみ)よ そして山(やま)よ 
空(そら)のかたちや 地平(ちへい)のたたずまいよ
何(なに)たることよ きみの愛(あい)の、
何(なに)たる世界(せかい)か 
かくも苦痛(いたみ)とは程遠(ほどとお)おし

胸(むね)ときめくよろこびに なお気怠(けだる)さは
わざわいの影(かげ)ならず
しのびて 際(そば)に至(いた)ることなし
きみは愛(あい)する・・・ なれど 知(し)らずや、愛(あい)は、
その満(み)ち余(あま)る、かなしき性(さが)あるを
    
目覚(めざ)めつ、眠(まどろ)みみつ きみは 黄泉(よみ)をおもう
さらに露(あら)わなる ことごとよ  またふかく つねの夢(ゆめ)のごと
やがて おもむき異(こと)なりては、離(はな)れゆく
水(みず)は、なお青(あお)く澄(す)みて 
きみの書(か)きとめしものは 流れとなりて?
   
来(こ)し方(かた) いずくに われらの見(み)しは、
見(み)えずも あるを ねがうなり
きわみて 囃(はや)やす われらの者(もの)は
痛(いた)みに 満(み)ちる 疼(うず)きなり
甘(あま)き きわみの われらの うたは
哀(かな)しみ おもいを 伝(つた)うなり
 
よし、憎(にく)しみ よし、誇(ほこ)りに 
なお、恐(おそ)れ 騒(さわ)めくこころ
受(う)けて 生(うま)れし物(もの)なれば 
われらなお 一涙(いちる)のなみだ流(なが)すなし、  
知(し)らずや われら、きみがよろこびの
つとに近(ちか)きにあることを    
  
明(あか)きに あまたの奏器(かなで)にまさる 
貴(とうと)きも あまたの巻物(まきもの)にまさる 
技(わざ)を きみ求(もと)むか、
なお歌人(うたびと)にありしとて
  
きみ、歓(よろこ)びを教(おし)えたまえ、
きみや知(し)ることの なべてを もとめざる  
わが唇より 出(い)でしや、かの調(しら)べの
奇(く)しきは わが耳(みみ)のうちにあり響(ひび)きいる、
世(よ)よ、 とく耳傾(みみかたむ)けよ 
聞(き)くべし それなるを

~~~~~~~

原詩です;

To a Skylark
BY PERCY BYSSHE SHELLEY
Hail to thee, blithe Spirit!
Bird thou never wert,
That from Heaven, or near it,
Pourest thy full heart
In profuse strains of unpremeditated art.

Higher still and higher
From the earth thou springest
Like a cloud of fire;
The blue deep thou wingest,
And singing still dost soar, and soaring ever singest.

In the golden lightning
Of the sunken sun,
O'er which clouds are bright'ning,
Thou dost float and run;
Like an unbodied joy whose race is just begun.

The pale purple even
Melts around thy flight;
Like a star of Heaven,
In the broad day-light
Thou art unseen, but yet I hear thy shrill delight,

Keen as are the arrows
Of that silver sphere,
Whose intense lamp narrows
In the white dawn clear
Until we hardly see, we feel that it is there.

All the earth and air
With thy voice is loud,
As, when night is bare,
From one lonely cloud
The moon rains out her beams, and Heaven is overflow'd.

What thou art we know not;
What is most like thee?
From rainbow clouds there flow not
Drops so bright to see
As from thy presence showers a rain of melody.

Like a Poet hidden
In the light of thought,
Singing hymns unbidden,
Till the world is wrought
To sympathy with hopes and fears it heeded not:

Like a high-born maiden
In a palace-tower,
Soothing her love-laden
Soul in secret hour
With music sweet as love, which overflows her bower:

Like a glow-worm golden
In a dell of dew,
Scattering unbeholden
Its aëreal hue
Among the flowers and grass, which screen it from the view:

Like a rose embower'd
In its own green leaves,
By warm winds deflower'd,
Till the scent it gives
Makes faint with too much sweet those heavy-winged thieves:

Sound of vernal showers
On the twinkling grass,
Rain-awaken'd flowers,
All that ever was
Joyous, and clear, and fresh, thy music doth surpass.

Teach us, Sprite or Bird,
What sweet thoughts are thine:
I have never heard
Praise of love or wine
That panted forth a flood of rapture so divine.

Chorus Hymeneal,
Or triumphal chant,
Match'd with thine would be all
But an empty vaunt,
A thing wherein we feel there is some hidden want.

What objects are the fountains
Of thy happy strain?
What fields, or waves, or mountains?
What shapes of sky or plain?
What love of thine own kind? what ignorance of pain?

With thy clear keen joyance
Languor cannot be:
Shadow of annoyance
Never came near thee:
Thou lovest: but ne'er knew love's sad satiety.

Waking or asleep,
Thou of death must deem
Things more true and deep
Than we mortals dream,
Or how could thy notes flow in such a crystal stream?

We look before and after,
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.

Yet if we could scorn
Hate, and pride, and fear;
If we were things born
Not to shed a tear,
I know not how thy joy we ever should come near.

Better than all measures
Of delightful sound,
Better than all treasures
That in books are found,
Thy skill to poet were, thou scorner of the ground!

Teach me half the gladness
That thy brain must know,
Such harmonious madness
From my lips would flow
The world should listen then, as I am listening now.

朝日記250208―随想―シェリーの詩「雲雀」におもうこと

初出し:HEARTの会会報No.120 2025年新年号 NPO法人 人間環境活性化研究会 ISSN 2180-4454

 

音楽絵画 金色の羽虫

no164ばらの五月4 A golden worm 金色の羽虫.

 

 

―随想―
シェリーの詩「雲雀」におもうこと
会員 荒井 康全 
親愛なるいろはさま

 

HEARTの会2024夏号に掲載した英国のロマン派詩人シェリ―の詩「雲雀」の和訳への所感を書き留めておきます。 

夏目漱石の「草枕」の冒頭で彼が例の「智に働けば角が立つ…」にて画帳を抱えて山越えのスケッチの旅にでる。         
徒然なる思いのつながりで西洋人のものの思い方を詩に託し、東洋のそれとの違いにふれる。外は清々しく雲雀が気持ちよく空に囀る。英文学の学士様であるから、むかしおぼえたロマン派の詩人シェリーの「To Skylark」のなかの一節くらいはさっと口からこぼれよう;
 「We look before and after
 And pine for what is not;
Our sincerest laughter
  With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」
 この詩を漱石は次のように訳する;
「前を見ては、後えを見ては、物欲しと、あこがれるるかなわれ。腹からの、笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
この辺は有名な文の下りで、心地もいいので区切れまで続けておく:
 「成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌うわけには行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などという字がある。詩人なら万斛で素人なら一合で済むかもしれぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。」
ここまで考えのながれがおよぶと、この天気で眉間の立て皺を深めることも馬鹿げてくるから、まあいい放っとけとなる。
それで;
「春は眠くなる。猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。」
素直に現象派に戻って;
「雲雀の声を聴いたときに魂のありかが判然する。雲雀がなくのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。」


        
シェリーはバイロンとならぶ英国ロマン派の詩人であるらしい。因みに彼の妹であるアダは計算機の発明者として科学史に残るが、彼女はバイロンのパートナ
ーであり、あの怪人フランケンシュタインを創出した詩人としても知られる。
もう十年ほどまえであるが、ロンドンの郊外にすむ知日派の英国人Barry Byrne氏とHEARTの会の山内理事長を通じて、知己になった。彼は英国での高齢者活動活性化運動ACEの指導者のひとりで、乞われて日本でのカウンターパーティであるACJ(Age Concern Japan、理事長は塚谷皖子氏)との会議でお会いした人である。あの頃によく交信交流していたのである。

 

 

 


絵    康全

その彼があるとき、シェリーのこの英詩の原詩「To Skylark」に、彼の日本語訳詩を添えて送ってこられた。副題は「慰めには涙を伴う」としてあった。そして彼の手書きになる習字書体での「慰」である。彼の意味するところはこの字体を絵画的にながめること、なるほどこの字には「、」が空間に散っている。かれはこれを象形的に多くの「泪」として描いたのであった。読むものは通常それを意識はしない。
当時、隣国はかの女性大統領での大変な反日路線で「慰安婦」を大々的に国際世論に訴え、その像を韓国日本大使館の前をはじめ、サンフランシスコなど米欧の都市に設置する活動があったことはまだ記憶にあたらしい。もちろんまだ済んでいない。彼はそっと、日本人である君はそれを如何にとらえるかという問いかけにあったとおもう、そして、なんとシェリーのこの「雲雀」の詩とも添えてきたのであった。この「慰安婦」問題とその像撤去の問題のその後は、周知のとおりであるが、「Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」の表現の部分が、直接「慰安婦」の問題の信憑性とは別に、何ものもなきこの社会の普段の人の根底へ、意識の目覚めをうながしているようにおもえてならなかったのであった。だから、何だと問われて、その説明は散文的説明 乾燥にすぎて意を喚起し伝えないが、詩文であるからこそ潤いのなかで意が動くとみたが、それ以上のことは語れない。  
筆者の日本語訳「雲雀に捧ぐ」は、自然と文語表現になってしまった。手をたたいて拍子をとり、舞い囃す歌がつたえる何かなのであろう。
なお、この時は「草枕」に使われた英詩が、シェリーの「雲雀」であることに全く記憶のそとで、そもそも碌々読んでいなかったことを告白する。ところで最近はネットで文学朗読など、イージーリスニングで昼寝の折に、敬愛する漱石先生のこの文脈でさらっと脳裏に入って、そしてあらためて心にとめたと付記しておく。

康全さまへ      いろはより
雲雀は日本全国どこにでもいる鳥としてなじみ深く、歌にもよく詠われています。
万葉集の歌人大伴家持の誰もがそらんじることのできる歌
・うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しもひとりしおもへば
歌人佐佐木幸綱にひばりのお歌がたくさんあり
・ひばりひばりぴらぴら鳴いてかけのぼる青空の段(きだ)直立(すぐた)つらしき
『夏の鏡』
・靄の底に雲雀の声す茫として見えざることの清しき視界『直立せよ一行の詩』

春のあたたかな明るさのなかにも、郷愁をさそう雲雀の鳴き声が、愁いや慰めを呼ぶのでしょうね。

女性用下着の会社を興した塚本幸一氏は先の戦でインパールに行き、命からがら日本に戻って来たときに、アメリカ兵と腕を組みながら歩く日本の女性たちを目にして呆然とし、むなしさにうちひしがれ、戦をしてはならないと、意を決したのだとか。
慰の字には、なぐさめる・いたわる ・なぐさむ・気が晴れる・もてあそぶなどの意味があるようです。その時代にあって、今のように非難されるものなのかどうか。女たちの生きる方法のひとつの糧であったことはいなめず、名を変えていま尚続いていることをおもえば、ものの善悪では捉えきれない、おたがいの救いでもあったのではと。民族人種の違いはあれど、男と女という性別のくくり(いまは多様性あり)のなかで、永遠に続くテーマを貶めることなく、天高く飛びゆく雲雀のように歌い呼び合う自由さが、命の未来を繋いでいくのではと思います。



絵    康全

ご参考:

朝日記250210 朗読「雲雀に贈る」

朝日記241211 ―詩歌―雲雀に贈る(TO A SKYLARK)と今日の絵

朝日記250208―随想―シェリーの詩「雲雀」におもうこと

no164ばらの五月4 A golden worm 金色の羽虫.

 

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朝日記250210 L. Ciompi「システム理論における感情の意義について」

2025-02-10 07:20:36 | 絵画と哲学

朝日記250210 L. Ciompi「システム理論における感情の意義について」

 

Communication

L. Ciompi「システム理論における感情の意義について」の記事から


Ciompis’ Note “On the Significance of Emotions in System Theory”


荒井康全

(初稿;2022-11-14)2025-2-10

概容
Ciompi L. はスイスの精神治療医師です。ドイツ語圏でのシステム理論はNiklas Luhmannの現象構造理解を核とする理論がひろく理解されている。Ciompiは社会的空気が
個々の感情と思考の結合単位との単位間間の相互作用状態をシステム上の高次構造としてとらえた。これが動力学的(時間)に変化するものとしその‘複雑構造’をフラクタル構造としてとらえ、これを使っての感覚と思考からの行為(なんらかの出力)を階層的システムモデル化し、それによって多様に変化する社会的感情出現の現象論的理解と予測の方法論の提案解説である。Ciompiは現在91歳(2022年11月)でなお健在であることをつたえてぉきている。
Tags: Luc Ciompi, Blog Ciompi, Affect-logic

記事本文 
著者Ciompiの意見として、心理学的および社会的プロセスについてのシステム-理論的理解は特にドイツ語圏では社会学者Niklas Lumannの概念が非常に強力な影響下にあって、いくつの意味で全体をとおしての見直しと明確化が求められていると考えるものである。
特に、感情の意義と思考および行動との相互作用についての概念としては、Rosemarie Welter-Enderlinの“emotional framing” 感情的枠組み  や Fritz Simonの “symbolically generalized communication media”シンボリック的に一般化されたコミュニケーション媒体論  のような感情についての考察があるがこれらは実践的もしくは理論利用にひろく供するにはあまりにもおおまかなもののようにみえるのである。
感情のエネルギー-動力学的役割りについては一般にあまりにも注意が払われていない。
Elisabeth Wagnerの情報論的新著ならびにUlrike Russingerの感情中心におく心理療法もまたその意味  で十分な解明をあたえていない。
著者は数年まえに“A Blind Spot in Niklas Luhmann?...  ,という報文でつぎのことを詳しく説明した、それはLuhmannの説では感情は心理学的領域に属していて社会科学では適切なものではない、ときとして感情は研究での論理遂行上の障害や警告的外乱(ノイズ)として社会科学では位置づけてきたのであるが、これは再考すべきものであると主張する。
この著者の見解としては、感情こそが、逆に、社会の場での中核的な役割りを演じるとするのである。
Luhmannは驚くほど 集合的感情が社会的紛争と緊張をよび混沌に起動をかける事実に注意を払わず、決定づけるのは駆動とエネルギー供給原としてのfunctions機能であると言い続けるのである。Luhmannは機能こそがミクロ社会とマクロ社会のプロセスの動力学の駆動力として位置付けうるとするのである。
家庭内不和、集団的パニックや集団的熱狂、抗議運動、また革命はこの問題への分かりやすい例を与える。
長期にわたる社会的プロセス、たとえば社会での女性の役割りにおいての数十年にわたる漸進的変化にみるようにこれらは感情的エネルギーが究極的に駆動をかけてきたものである。
さらに、(Simonの仮説であるが、)感情はコミュニケーションの媒体としては必要不可欠なものであり、そのコミュニケーションそれ自体が顕著な社会現象なのである。
この著者の主張は、感情抜きの情報(もしくは“emotional framing”感情的枠組みを除いた情報)は実践的には効果のないものに留まるということは真であるとさえいえる、すなわちそのようなものは注意を喚起はするがなんら我々の思考のなかで統合化されないからである。 
そして最終的にして、しかし少なからず、価値システムは正または負の感情にリンクするのであり、重要な役割りを担うのであり、それは心理学的にもそして社会的圏においても行為についての必要不可欠な規律者として、そして複雑性についての帰納的解釈者として双方において位置づけとなるのである。

10個の中核的項目、感情と認知の相互作用について
以下に非常に簡単ではあるがまとめる、10個のもっとも重要な感情と認知の相互作用に関する綱目である、これらは著者の意見として、精神と社会システムについての現在存在する理論のなかに系統的に組み込まれていくべきである。
1.感情と認知は精神と社会プロセスにおいて循環的に相互作用する。
特定の認知は特定の感情にトリガーをかける、そして特定の感情はそれらの特定のスイッチングとフィルター効果をとおして認知に影響する。 

2.感情はcomprehensive共感性、psychosomatic moods心身的気分からの進化性に根ざす。これは意識に変化するduration持続性、intensity意図性、そしてproximity近郊性である。 
それらは特定のエネルギー性と組みあわされ(もしくはエネルギー消費パターン)そのmoving うごきのbasic tendency基本傾向はcertain cognitive objectsしかるべき認知対象に“away from” 離れるかあるいは“toward”向かうかである。 
3.集合的感情はどのような規模の集合体であってもそのメンバーの多数派や少数派によってシェアされる感情である。
集合的感情エネルギーは、もし同じ方向に向かうなら、顕著場としての社会的効果をもつことができる。 
4.Cognitions認知 (これは perception感受, attention,注目 memory記憶, combinatory thinking結合的思考, およびdecision-making意思決定)はsensory distinctions,感覚的区別、もしくはSoncer-Brown  の意味で、区別についての区別に究極的に基づいている。   
5.同時的に経験された感情、認知、そして行為は記憶にintegrated feeling-thinking-behaving programs,総合化された感覚-思考-行為プログラム(FTB programs)にストアされる、これが類似状況での未来行為をコントロールする。 

6. 種々のサイズのFTB programsはそのpsycheのbasic基本となる “building blocks” を形成する。
FTB programsの合計はpersonality-specific,個人特定 group-specific グループ特定、そしてculture-specific affective-cognitive views of the worldその世界での文化-特定的影響-認知見解 (“Eigenworlds”固有世界)の結果のものである。 
7.個人FTB programs および個人もしくは集合的感情 -認知的affective-cognitive worldviewsな世界観はそのシステム-理論的意味での典型的システムに対応する。ここではequilibration 平衡化(homoeostasisホメオスタシス) またはtransformation 移行化(morphogenesis形態発現)は正もしくは負のfeedback mechanisms.帰還機構の多重性によって規制される。 
8.認知は精神および社会のシステムの構造を決定し、そして感情はその動力学を決定する。 
9.FTB systemsでのいかなる次元において。限界判断的に起る感情-エネルギー的緊張は突然的非線形シフト(a bifurcation分岐)を引き起こし感覚の別途のグローバルパターンに向かわせる(たとえば、a “logic of peace平和論理” からa “logic of war,戦争論理”、日常論理から恐怖や怒りの論理へ、特定の配置をもつ人物にあるものからの“psychotic logic.”精神病的な論理世界へ) 
10.感情と認知との間の-およそ循環的-相互作用はフラクタル的構造化される;それらは精神的および如何なる次元の社会システムにおいてself-similar自己類似的である。 
   
これらの項目すべてはaffect logic.影響論理の概念にもとづいているのである。
このことをさらに詳しく説明するのにはあまりには紙面が限られているこの場ではあまりに遠く、困難であり私の著書で事例を見てほしい。
しかしながら、これらの仮定によって提供されたシステム理論が提供することになるたくさんの利点を簡単にあげることができよう。
これらの10項目を精神的ならびに社会的プロセスについてのシステム理論に持ち込むことのよき理由である。
上記すべてにわたり、感情についての心理学的動力学と社会的動力学効果はすぐれて精神的ならびに社会的プロセスのシステム理論のなかにおいて重要性に基づいて、統合化されるのである。それは非鮮明にして周辺的役割りにおいてのみ演ずるこれまでの方法論に替わるものである。
同時に実践的および理論的に意味ある継続性が確立されるである、これは感情と認知的次元のプロセスにとどまらず、精神的と社会的プロセスへとおよぶのである。
一般に感情と認知について、それを現象とみるときに、多重的な現象次元の構造でも双方での相互作用をより理解することができよう。この現象ではその構成要素が不十分に明示化された状況においての相互作用となるからである(たとえば、信頼/非信頼、恥辱、嫉妬などである)。
同じことがつぎのような意識にたいしても有効である。“institutional climate制度論的空気、“mentality” モノの考え方や気質、“class spirit”階級的精神などはFTBプログラムやシステムの典型問題を形成しよう。
そこに含まれた認知がこのシステムの内容と構造を決定する、そしてここに含まれた感情の切り替え効果がその動力学を決定する(e.g. 防御と回避行為、または反対に、接近と結合行為)。
これらのふたつの要素の間での相違性と場所をこえた相互性を明解に把握することは影響的感情と/あるいは認知への実際的可能性を提供する。
提案されている概念化についての別途の有利としては、その経済性がある。
事実、感情と認知のdescribed interplay記述化相互活動は顕著な効率と経済性の進化によって生みだされた発生的二進コード に対応しているのである。
基本となる感情的状態は限られた数でありこれが、認知対象は無限の数で、それとの結合よって、このコードは無限多様な経験ベースFTBプログラムを発生することが可能となり、このプログラムが生存のための奉仕ということにおいて思考と行為をすべてをコントロールする。
このコードはより経済的にすぐれているとさえいえる結果をみせている、ひとをして、わたしCiompiが埋め込んだ仮説であると次のように考えるときにである、ここでは、感情的要素はすでに組み込まれておりそれに沿って有意に演じている初期構成での有意な構造的役割りと記憶のなかでのFTB系でのストレージによってきまるのである。 
Antonio Damasio 提案による謂うところのmarker hypothesisマーク付け仮説と全く類似したものである。 

多元的実用内容
これらの概念によって装備されたシステム理論の実用的な内容は、つぎの状態のときに明示的になる;あらゆる種の精神的もしくは社会的システムの動力学的状況たとえば紛争の管理や、精神治療や、危機介入や仲裁といった状況にあるときである。
思考と行為の感情のエネルギー化された効果は組織体の運営、宣伝、またpolitical propaganda24という政治的宣伝での中核的役割りを演じている。
この事実は永い時間のあいだ使われてきた、当初は、より直観的ベースに乗っていたが、より最近ではさらなる高度に知的な内容をくわえた科学的ベースにのっている。
 ひとつの例として現在の米英のコンサルタントであるCambridge AnalyticsによるFacebook情報についてのBig Data analyses巨大データ解析がスキャンダル的なデータ解析であることをあげることができる。この結果2016年の選挙投票で二大政党が極端に肉薄した結果になってあらわれたことに統計的にすべて決定的貢献をしている;
欧州連合からのイングランドの脱離運動(the “Brexit”)、およびアメリカ大統領選でHillary ClintonにたいしてDonald Trumpの選挙運動がそれである。

Luc Ciompi(1929生まれ)、スイスの精神科医師、結合失調症研究者、統合的精神廟のパイオニア、かつAffect-Logicの創設者である。いま九十歳の誕生(2022年11月)を祝う。
彼はわれわれに彼自身の,科学的および思想的反省に参加することを許している。それは高齢であることでさえ期待せざる高揚のうねりに満ちた魅力的な時間にあることが可能であることを証明するものである。

Ciompiが自ら推奨する著書を以下にあげておく;
1.Ciompim,L.(1997) Die emotionlalen Grundlagen des Dennkens,Ent-wurf einer fraktalen Affedtlogik, Vandenhoeck & Ruprechi, Goetingen 1997
邦訳版;ルック・チオンピ、訳山岸、野間、菅原、松本 「基礎としての情動 フラクタル感情論理の構想」、学樹書院 2005
2.ルック・チオンピ、訳 松本、井上、菅原、 「感情論理」、学樹書院、1994
3.河本英雄、L.チオンピ、花村誠一、W,フランケンブルグ「精神医学」青土社, 1008

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Tags: Luc Ciompi, Blog Ciompi, Affect-logic

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朝日記250208―随想―シェリーの詩「雲雀」におもうこと

2025-02-08 15:54:05 | 自分史

朝日記250208―随想―シェリーの詩「雲雀」におもうこと

初出し:HEARTの会会報No.120 2025年新年号 NPO法人 人間環境活性化研究会 ISSN 2180-4454

―随想―
シェリーの詩「雲雀」におもうこと
会員 荒井 康全 
親愛なるいろはさま

 

HEARTの会2024夏号に掲載した英国のロマン派詩人シェリ―の詩「雲雀」の和訳への所感を書き留めておきます。 

夏目漱石の「草枕」の冒頭で彼が例の「智に働けば角が立つ…」にて画帳を抱えて山越えのスケッチの旅にでる。         
徒然なる思いのつながりで西洋人のものの思い方を詩に託し、東洋のそれとの違いにふれる。外は清々しく雲雀が気持ちよく空に囀る。英文学の学士様であるから、むかしおぼえたロマン派の詩人シェリーの「To Skylark」のなかの一節くらいはさっと口からこぼれよう;
 「We look before and after
 And pine for what is not;
Our sincerest laughter
  With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」
 この詩を漱石は次のように訳する;
「前を見ては、後えを見ては、物欲しと、あこがれるるかなわれ。腹からの、笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
この辺は有名な文の下りで、心地もいいので区切れまで続けておく:
 「成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌うわけには行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などという字がある。詩人なら万斛で素人なら一合で済むかもしれぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。」
ここまで考えのながれがおよぶと、この天気で眉間の立て皺を深めることも馬鹿げてくるから、まあいい放っとけとなる。
それで;
「春は眠くなる。猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。」
素直に現象派に戻って;
「雲雀の声を聴いたときに魂のありかが判然する。雲雀がなくのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。」


        
シェリーはバイロンとならぶ英国ロマン派の詩人であるらしい。因みに彼の妹であるアダは計算機の発明者として科学史に残るが、彼女はバイロンのパートナ
ーであり、あの怪人フランケンシュタインを創出した詩人としても知られる。
もう十年ほどまえであるが、ロンドンの郊外にすむ知日派の英国人Barry Byrne氏とHEARTの会の山内理事長を通じて、知己になった。彼は英国での高齢者活動活性化運動ACEの指導者のひとりで、乞われて日本でのカウンターパーティであるACJ(Age Concern Japan、理事長は塚谷皖子氏)との会議でお会いした人である。あの頃によく交信交流していたのである。

 

朝日記250210 朗読「雲雀に贈る」

 

朝日記241211 ―詩歌―雲雀に贈る(TO A SKYLARK)と今日の絵

 


絵    康全

その彼があるとき、シェリーのこの英詩の原詩「To Skylark」に、彼の日本語訳詩を添えて送ってこられた。副題は「慰めには涙を伴う」としてあった。そして彼の手書きになる習字書体での「慰」である。彼の意味するところはこの字体を絵画的にながめること、なるほどこの字には「、」が空間に散っている。かれはこれを象形的に多くの「泪」として描いたのであった。読むものは通常それを意識はしない。
当時、隣国はかの女性大統領での大変な反日路線で「慰安婦」を大々的に国際世論に訴え、その像を韓国日本大使館の前をはじめ、サンフランシスコなど米欧の都市に設置する活動があったことはまだ記憶にあたらしい。もちろんまだ済んでいない。彼はそっと、日本人である君はそれを如何にとらえるかという問いかけにあったとおもう、そして、なんとシェリーのこの「雲雀」の詩とも添えてきたのであった。この「慰安婦」問題とその像撤去の問題のその後は、周知のとおりであるが、「Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」の表現の部分が、直接「慰安婦」の問題の信憑性とは別に、何ものもなきこの社会の普段の人の根底へ、意識の目覚めをうながしているようにおもえてならなかったのであった。だから、何だと問われて、その説明は散文的説明 乾燥にすぎて意を喚起し伝えないが、詩文であるからこそ潤いのなかで意が動くとみたが、それ以上のことは語れない。  
筆者の日本語訳「雲雀に捧ぐ」は、自然と文語表現になってしまった。手をたたいて拍子をとり、舞い囃す歌がつたえる何かなのであろう。
なお、この時は「草枕」に使われた英詩が、シェリーの「雲雀」であることに全く記憶のそとで、そもそも碌々読んでいなかったことを告白する。ところで最近はネットで文学朗読など、イージーリスニングで昼寝の折に、敬愛する漱石先生のこの文脈でさらっと脳裏に入って、そしてあらためて心にとめたと付記しておく。

康全さまへ      いろはより
雲雀は日本全国どこにでもいる鳥としてなじみ深く、歌にもよく詠われています。
万葉集の歌人大伴家持の誰もがそらんじることのできる歌
・うらうらに照れる春日に雲雀あがりこころ悲しもひとりしおもへば
歌人佐佐木幸綱にひばりのお歌がたくさんあり
・ひばりひばりぴらぴら鳴いてかけのぼる青空の段(きだ)直立(すぐた)つらしき
『夏の鏡』
・靄の底に雲雀の声す茫として見えざることの清しき視界『直立せよ一行の詩』

春のあたたかな明るさのなかにも、郷愁をさそう雲雀の鳴き声が、愁いや慰めを呼ぶのでしょうね。

女性用下着の会社を興した塚本幸一氏は先の戦でインパールに行き、命からがら日本に戻って来たときに、アメリカ兵と腕を組みながら歩く日本の女性たちを目にして呆然とし、むなしさにうちひしがれ、戦をしてはならないと、意を決したのだとか。
慰の字には、なぐさめる・いたわる ・なぐさむ・気が晴れる・もてあそぶなどの意味があるようです。その時代にあって、今のように非難されるものなのかどうか。女たちの生きる方法のひとつの糧であったことはいなめず、名を変えていま尚続いていることをおもえば、ものの善悪では捉えきれない、おたがいの救いでもあったのではと。民族人種の違いはあれど、男と女という性別のくくり(いまは多様性あり)のなかで、永遠に続くテーマを貶めることなく、天高く飛びゆく雲雀のように歌い呼び合う自由さが、命の未来を繋いでいくのではと思います。



絵    康全

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朝日記250208―随想―相模国に鎮座する丹沢の峰々

2025-02-08 15:08:39 | 自分史

朝日記250208―随想―相模国に鎮座する丹沢の峰々

初出し:HEARTの会会報No.120 2025年新年号 NPO法人 人間環境活性化研究会 ISSN 2180-4454

 

―随想―
相模国に鎮座する丹沢の峰々

会員 荒井 康全
『性霊集』身は花とともに落つれども心は香とともに飛ぶ ~空海

 

景0 朝の丹沢・大山

 

景1 トーラス気流の丹沢・大山

 

景2 黒い丹沢・大山

 

景3 青い丹沢・大山

 

景4 早暁の丹沢・大山

 

景5 赤い丹沢・大山

 

景6 三峰山の見える丹沢・大山

 

景7 葵い丹沢・大山

 

景8 See you, Mt. TANZAWA -OHYAMA

 

     

景10 A Deep Fall Scape    景11GRANBERRY 's

 

覚悟して山の稜線を追ってみる。晴れの朝には、あさ雲の時々刻々のうごきで山の前景と後景が浮かびあがり、朝日に照らされて前景の影が、後景の山並みに形を投影しているのがわかる。山並みの凹凸の、かすかな凸でもひとつの山と知る。雨雲のときも姿がわかり、山肌を這う白い霧がおもしろい。そうなると、あの頂きは何であろう、名のある山に違いないと地図をながめ、いま見える山を描きながら名を重ねあわせてみる。
丹沢山系というのは、平面では工の字型をしていて、部屋の位置からはこの工の下の一を軸に上の一を奥手に倒した形、山並みがよこに前後してならびそれらをむすぶ縦奥行きの山壁があるといった態である。一方、大山1252mはその丹沢山系の前景に位置し、あの烏帽子のような形の頂から左方になだらかな下降稜線を描き、その下降の始まり辺りから奥へとなだらかなふくらみの稜線を引き、丹沢山系前景へとつながる。丹沢山1576mと名のついている頂きは、後景の横稜線をつなぐ山の背の始めに位置するようである。この山の背と後ろの横につらなる山々の頂きがいくつか重なってみえる。前方の山並みは西峰、中峰、東峰と続くが、急速に下降し、それを補うように前景の辺室山が横にのびる。これらが前後平行して、一見一体のものとしてこちらに押し出してくる感じである。丹沢山の後方には盟主であろう蛭岳1673m、袖平、黍穀山などがいくえにも重なる。わが眺めから確かめてみよう。家に戻ってから県地図をひろげ、わが基点(東急南町田グランベリー駅)から各山頂へ定規で線引きする。測量した人はすごいなと改めておどろく。
大山はこれまで幾度も描いてきた。家内からは「大山大観ね」と揶揄されるほどであるが、今回は地形を調べてみる。この山はご承知のように、上述の山頂から右下降がはじまるとまもなく前方に「山」という字のかたちの三つの山々がならんでいる三峰の山である。伊勢原市あたりまで近づくとこの山が力強くなり、いまここからでは裾野のグラデーションがきれい、むかしのひとは裾濃ともにおいとも。その裏あたりが宮ケ瀬ダムらしい。
一方、大山山頂から左下降では裏側から烏尾山とか二の塔、塔の台がつらなり段々と落ちていく。この景色を何枚も早描きする。地形的知識はこの場合どのくらい助けになるのかわからぬが、すくなくとも形の特性は抑えているので一応目をつぶっても形にはなる。象形文字的になるのはあぶないが、写真のような写実になるのもつまらぬ。ただ、調べることで山々への敬いや、刻々とかわる気配にときめき、手がはしる。

今回の大山大観にみがきをかけたのは、たまたま、立ち眩みが夜中にあり、緊急ICU治療となり、ユニットでのスタッフの俊敏無駄のない動きには感動さえおぼえながら、静まり返える明け方、患者への声掛けが聞こえる、患者は結構無理難題を出している。それに対応するスタッフの人とガラがでている。なにもないがスプレー瓶を一つ描く、車いすもおもしろい。こんな無機的なものに描線がはいると意識があらわれる。いま哲学界と物理学系の話題の中心である「意識のHard problem」命題へと繋がろうか。

体調は年相応でこれからの2・3年は要注意、養生として、たべもの、うんどう、あたまつかい、ほか課される。部屋から山々の展望が豪華で幸い主題の立ち眩みの方はささやか。ちいさな画帳とクレヨンを肌身はなさずそっと携え、たっぷりこれに取り組める時を得る。 

 

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