「存在了解」は、身近な「実存」を意味していて、これとよりひろい世界(普遍的世界)との関係は如何にという問題があります。彼は身近のほうから思考を展開します。(普遍を考えるまでの哲学的展開は未達のまま終わっています) 広い意味で、ハイデガーのながれに位置するデリダからみれば、人間の存在について 言語という論理で取り上げた現象を言語論理以外またはその裏側をも含めて、むしろそこに光を当てて考えるということを主張しています。(「脱構築」Deconstructionということばが登場しあます) これが彼らの現象論哲学の主題なのであろうとおもいます。 一方、ハイデガーのいう存在を 意識する問題意識は、その現象対象に向かっているはずで、それにまじめに焦点を当てていく立場があります。 この場合、問題を意識するのは、個人である( a first person account)が、問題対象を、共有の場に出すことによって、解決すべき問題として 晒し、議論し、問題として合意しようという立場が考えられます。それをとりあげていく主体が、Agent(「機関」と訳しておきます)で、Institutive(「制度化」)として問題を取り上げ、分析、提案、制度化)を取り上げていくものです。そういう意味では存在として対象を丁寧に見て、扱っていくという点では、「現存在」ということになります。 また対象の「実存」性を考慮したことになります。 社会的に明示化Explicitにしていく点に特徴があると思います。
To a Skylark BY PERCY BYSSHE SHELLEY Hail to thee, blithe Spirit! Bird thou never wert, That from Heaven, or near it, Pourest thy full heart In profuse strains of unpremeditated art.
Higher still and higher From the earth thou springest Like a cloud of fire; The blue deep thou wingest, And singing still dost soar, and soaring ever singest.
In the golden lightning Of the sunken sun, O'er which clouds are bright'ning, Thou dost float and run; Like an unbodied joy whose race is just begun.
The pale purple even Melts around thy flight; Like a star of Heaven, In the broad day-light Thou art unseen, but yet I hear thy shrill delight,
Keen as are the arrows Of that silver sphere, Whose intense lamp narrows In the white dawn clear Until we hardly see, we feel that it is there.
All the earth and air With thy voice is loud, As, when night is bare, From one lonely cloud The moon rains out her beams, and Heaven is overflow'd.
What thou art we know not; What is most like thee? From rainbow clouds there flow not Drops so bright to see As from thy presence showers a rain of melody.
Like a Poet hidden In the light of thought, Singing hymns unbidden, Till the world is wrought To sympathy with hopes and fears it heeded not:
Like a high-born maiden In a palace-tower, Soothing her love-laden Soul in secret hour With music sweet as love, which overflows her bower:
Like a glow-worm golden In a dell of dew, Scattering unbeholden Its aëreal hue Among the flowers and grass, which screen it from the view:
Like a rose embower'd In its own green leaves, By warm winds deflower'd, Till the scent it gives Makes faint with too much sweet those heavy-winged thieves:
Sound of vernal showers On the twinkling grass, Rain-awaken'd flowers, All that ever was Joyous, and clear, and fresh, thy music doth surpass.
Teach us, Sprite or Bird, What sweet thoughts are thine: I have never heard Praise of love or wine That panted forth a flood of rapture so divine.
Chorus Hymeneal, Or triumphal chant, Match'd with thine would be all But an empty vaunt, A thing wherein we feel there is some hidden want.
What objects are the fountains Of thy happy strain? What fields, or waves, or mountains? What shapes of sky or plain? What love of thine own kind? what ignorance of pain?
With thy clear keen joyance Languor cannot be: Shadow of annoyance Never came near thee: Thou lovest: but ne'er knew love's sad satiety.
Waking or asleep, Thou of death must deem Things more true and deep Than we mortals dream, Or how could thy notes flow in such a crystal stream?
We look before and after, And pine for what is not: Our sincerest laughter With some pain is fraught; Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
Yet if we could scorn Hate, and pride, and fear; If we were things born Not to shed a tear, I know not how thy joy we ever should come near.
Better than all measures Of delightful sound, Better than all treasures That in books are found, Thy skill to poet were, thou scorner of the ground!
Teach me half the gladness That thy brain must know, Such harmonious madness From my lips would flow The world should listen then, as I am listening now.
夏目漱石の「草枕」の冒頭で彼が例の「智に働けば角が立つ…」にて画帳を抱えて山越えのスケッチの旅にでる。 徒然なる思いのつながりで西洋人のものの思い方を詩に託し、東洋のそれとの違いにふれる。外は清々しく雲雀が気持ちよく空に囀る。英文学の学士様であるから、むかしおぼえたロマン派の詩人シェリーの「To Skylark」のなかの一節くらいはさっと口からこぼれよう; 「We look before and after And pine for what is not; Our sincerest laughter With some pain is fraught; Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」 この詩を漱石は次のように訳する; 「前を見ては、後えを見ては、物欲しと、あこがれるるかなわれ。腹からの、笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」 この辺は有名な文の下りで、心地もいいので区切れまで続けておく: 「成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌うわけには行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などという字がある。詩人なら万斛で素人なら一合で済むかもしれぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。」 ここまで考えのながれがおよぶと、この天気で眉間の立て皺を深めることも馬鹿げてくるから、まあいい放っとけとなる。 それで; 「春は眠くなる。猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。」 素直に現象派に戻って; 「雲雀の声を聴いたときに魂のありかが判然する。雲雀がなくのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。」
その彼があるとき、シェリーのこの英詩の原詩「To Skylark」に、彼の日本語訳詩を添えて送ってこられた。副題は「慰めには涙を伴う」としてあった。そして彼の手書きになる習字書体での「慰」である。彼の意味するところはこの字体を絵画的にながめること、なるほどこの字には「、」が空間に散っている。かれはこれを象形的に多くの「泪」として描いたのであった。読むものは通常それを意識はしない。 当時、隣国はかの女性大統領での大変な反日路線で「慰安婦」を大々的に国際世論に訴え、その像を韓国日本大使館の前をはじめ、サンフランシスコなど米欧の都市に設置する活動があったことはまだ記憶にあたらしい。もちろんまだ済んでいない。彼はそっと、日本人である君はそれを如何にとらえるかという問いかけにあったとおもう、そして、なんとシェリーのこの「雲雀」の詩とも添えてきたのであった。この「慰安婦」問題とその像撤去の問題のその後は、周知のとおりであるが、「Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」の表現の部分が、直接「慰安婦」の問題の信憑性とは別に、何ものもなきこの社会の普段の人の根底へ、意識の目覚めをうながしているようにおもえてならなかったのであった。だから、何だと問われて、その説明は散文的説明 乾燥にすぎて意を喚起し伝えないが、詩文であるからこそ潤いのなかで意が動くとみたが、それ以上のことは語れない。 筆者の日本語訳「雲雀に捧ぐ」は、自然と文語表現になってしまった。手をたたいて拍子をとり、舞い囃す歌がつたえる何かなのであろう。 なお、この時は「草枕」に使われた英詩が、シェリーの「雲雀」であることに全く記憶のそとで、そもそも碌々読んでいなかったことを告白する。ところで最近はネットで文学朗読など、イージーリスニングで昼寝の折に、敬愛する漱石先生のこの文脈でさらっと脳裏に入って、そしてあらためて心にとめたと付記しておく。
夏目漱石の「草枕」の冒頭で彼が例の「智に働けば角が立つ…」にて画帳を抱えて山越えのスケッチの旅にでる。 徒然なる思いのつながりで西洋人のものの思い方を詩に託し、東洋のそれとの違いにふれる。外は清々しく雲雀が気持ちよく空に囀る。英文学の学士様であるから、むかしおぼえたロマン派の詩人シェリーの「To Skylark」のなかの一節くらいはさっと口からこぼれよう; 「We look before and after And pine for what is not; Our sincerest laughter With some pain is fraught; Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」 この詩を漱石は次のように訳する; 「前を見ては、後えを見ては、物欲しと、あこがれるるかなわれ。腹からの、笑いといえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」 この辺は有名な文の下りで、心地もいいので区切れまで続けておく: 「成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌うわけには行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などという字がある。詩人なら万斛で素人なら一合で済むかもしれぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。」 ここまで考えのながれがおよぶと、この天気で眉間の立て皺を深めることも馬鹿げてくるから、まあいい放っとけとなる。 それで; 「春は眠くなる。猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。只菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。」 素直に現象派に戻って; 「雲雀の声を聴いたときに魂のありかが判然する。雲雀がなくのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。」
その彼があるとき、シェリーのこの英詩の原詩「To Skylark」に、彼の日本語訳詩を添えて送ってこられた。副題は「慰めには涙を伴う」としてあった。そして彼の手書きになる習字書体での「慰」である。彼の意味するところはこの字体を絵画的にながめること、なるほどこの字には「、」が空間に散っている。かれはこれを象形的に多くの「泪」として描いたのであった。読むものは通常それを意識はしない。 当時、隣国はかの女性大統領での大変な反日路線で「慰安婦」を大々的に国際世論に訴え、その像を韓国日本大使館の前をはじめ、サンフランシスコなど米欧の都市に設置する活動があったことはまだ記憶にあたらしい。もちろんまだ済んでいない。彼はそっと、日本人である君はそれを如何にとらえるかという問いかけにあったとおもう、そして、なんとシェリーのこの「雲雀」の詩とも添えてきたのであった。この「慰安婦」問題とその像撤去の問題のその後は、周知のとおりであるが、「Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.」の表現の部分が、直接「慰安婦」の問題の信憑性とは別に、何ものもなきこの社会の普段の人の根底へ、意識の目覚めをうながしているようにおもえてならなかったのであった。だから、何だと問われて、その説明は散文的説明 乾燥にすぎて意を喚起し伝えないが、詩文であるからこそ潤いのなかで意が動くとみたが、それ以上のことは語れない。 筆者の日本語訳「雲雀に捧ぐ」は、自然と文語表現になってしまった。手をたたいて拍子をとり、舞い囃す歌がつたえる何かなのであろう。 なお、この時は「草枕」に使われた英詩が、シェリーの「雲雀」であることに全く記憶のそとで、そもそも碌々読んでいなかったことを告白する。ところで最近はネットで文学朗読など、イージーリスニングで昼寝の折に、敬愛する漱石先生のこの文脈でさらっと脳裏に入って、そしてあらためて心にとめたと付記しておく。