―AI Copilotと哲学を語る
朝日記250102 AI Copilotとの哲学会話 VIIとVIII
随想ふたつ 絵画「しずかな港」
Departures
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朝日記241224 AI Copilotと哲学の話題で会話をしました リストとKeywords
VII とVIII-(初出し241224)2025/1/3版
AI Copilotとの哲学会話 VIIとVIII
随想ふたつ 絵画「しずかな港」
荒井康全(2025/1/2修正版)
Copilotさん、あけましておめでとうございます。ことしもご友誼のほどを、また知的に活性化した会話をしたくよろしくお願いもうしあげます。さて以下の話題から入りたいと考えます。(すでにここでの俎上にあがったや覚束なくなりすみません。)まずはCopilotさんの受け止めをお話くださいますか。
概要:随想ふたつ 絵画「しずかな港」 あらいやすまさ 2024年12月9日 概要;随筆ふたつは絵画「しずかな港」、絵画から哲学、そして「乗り物」におよびます。
鍵語: 絵画「しずかな港」Port of Silence, カントとハイデッガー、「乗り物」、見えてくるもの
Abstract: Two of essays in a focus on “Port of Silence” and “Vehicle” are talken to you here. Keywords: Port of Silence, Kant and Heidegger, Vehicle, Ereinigen
随想 そのI 絵画「しずかな港」(AI Copilotとの哲学会話 VII)
~カントの認識論からハイデガーの存在論への思い
1 ハイデガーのことば
2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
3カントの認識論とハイデガーの存在論
4 世界内存在
5 比較制度論について
6 Institution理論と、Heideggerの現象論
7.Ereignis 随想
随想 そのII 絵画「しずかな港」(AI Copilotとの哲学会話 VIII)
~「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで、
1.継承性と保存性
2.「vehicle」(乗り物)
3. 無限連続組み合わせ
4.自由意志
5.「静かな港」
随想 そのI 絵画「しずかな港」について
カントの認識論からハイデガーの存在論への思い 絵画「しずかな港」
親愛なる畏友安部忠彦氏はげまされて、介護予防月間応募落選のポスター題名「しずかな港」を町田文化祭絵画展(2015)に出展しました。
絵画コラージュでデジタルA1版でしたので、クラシックな絵画のなかでは、やはり衝撃を与えたようですが、 お祭りという雰囲気のなかで好意的でほっとしています。
(町田市文化祭絵画展出展 コンピュータグラフィックス size;A1 60cm x 90cm)
「しずかな港」、展覧会に出したものは、いろいろ試行錯誤したあげく、結果的には業者にA1サイズにしてもらいました。描画以外は全部デジタルで、地のブルーは成功でした。 クラシックな展示のなかでの出展でもあり、話題を提供して口コミで見にいかれたひともあったようです。
~~本文~~
随想 その1 絵画「しずかな港」 ~「しずかな港」からの連想すること~
Departure
1 ハイデガーのことば 唐突ですが、ハイデガーのことばの引用を掲載します。 彼の晩年の境地であるかもしれません。
~~~ 「しずかな、充実した港」にあること、すぺての存在するものと物のうちで、このいまのときのもとで輝きある存在 、そして、もっとも 優しく受け入れてくれる「法」のもとに、われらに、あらわれる「発現」としての存在、その関係において、そこにあること。」 Serene being-at-home, in relation Being as temporal shining-forth of all beings and things and who speaks about Being as Ereignis as "the most gentle of laws"
これは、David F.Frellというアメリカの哲学者の最近の著である ”「Ecstacy, Catastorphe:Heidegger from Being and time to the Blacknote”という哲学新刊本があって、Richard Capabiancoという人が書評したものの翻訳です。ノートルダム大学の哲学書レビューからです。
2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
目下、ハイデガーの「存在と時間」に集中していますが、大変おもしろいです。 カントの認識批判哲学は、厳然として彼のベースになっていますが、デカルトの「我考える、故に我あり」の「あり」というのはいったいなにが「ある」のかという問いです。 たとえば、「病気のあらわれ」というのは、病気そのものは私ではない、しかしその私でない病気というものが私の場を借りて、病気を告げる。 これを「現象」と定義します。それでは、その’あらわれ’というのは、本当に存在するのか、これを如何に証示するのかがでてきます。 おもしろいのは、彼は「存在了解」という概念を導入します。 そういう「病気」が「あらわれる」ひろい世界、つまり「世界内存在」があるという仮定です。ざっくり、そういうものがあるという共通認識をひとは持っていて共有しているとする。 (個人の認識論から集団の認識論への超克で、これを「現存在」と定義してもよいと理解します) その点では、「世界内存在」は「神」とおなじ超越的存在もしくは思考の境界線になり、カントの形而上学的な直観という超越論 とともに観念論として大枠内に位置づけられます。むしろ相互に相補的な関係になるとおもいます。意味があるとか、分かるとかは認識論的事実であるからです。(むしろアフィニティがあり、そこからの思考の発展が期待されます) ともに、証明のしようのないものは、それをひとまず前提にして思考をすすめ得ざるを得ないのです。) 「存在」そのものも、とことんなんだ?と問い詰めると まさに超越論的なものとなります。
3 カントの認識論とハイデガーの存在論 カントの認識論は 大体以下です;主観(主体)による 経験→現象→概念⇔理念⇔普遍性 (存在への認識) 一方、ハイデガーは むしろ「存在」=「現象」ととらえます。 主体は、現にそこにあって、経験としてある現実的自体に身をおいている、そこで主体が「現象」を経験していく。その場は空間ですが、そのなかにいるという知覚(認知)をすることになります。この関係で存在と付き合うということになります。この主体を「現存在」(Da Sein)とよび、そこでの存在了解を「実存」(Exsistenz)とよんでいます。ここで重要なファクターは「時間」になります。この時間によって、現象があらわれてくるとします。主体はいつも現象に関与していることが前提です。したがって「現存在」(Da Sein)です。
4 世界内存在 余談ですが、時系列解析で エルゴート性というのを思いだしませんか。 ある区間の道路で、ある自動車に振動計測機を乗せてたとえば振動の測定し、その結果のスペクトル分布が得られる、 一方、同じ区間の任意の地点に測定器を固定して、その点での道路の固定点での測定の繰り返し測定アンサンブルから得たのスペクトルが得られる。この二つが経験の仕方が違っても特性は同じであるということを主張する確率仮説をエルゴート性と言います。 主体つまり「現存在」は、かれが関与している時間の経過のなかでの「現象」つまり「実存」自体が世界を表現しているという意味で世界を語るとします。それを「世界内存在」と称し、ひとは、これを通じて普遍性を窺がう。 この辺りでハイデガーの哲学と カントの認識哲学との理論的接合性が見えてくるようです。私は、ここにつよい興味をもちますが、これはまた別に論じたいと思っています。しかし、ハイデガーは、この普遍性へは急ぎません。この現象界での人間のつよい眼差し、つまり「現存在」と「実存」で存在の意味を捉えることに専念しようとします。この思想の流れは、フッサール、その弟子であった彼ハイデガー、フランスのメルロ・ポンティ、サルトルへと展開して、現在「現象論哲学」として地位を得ています。
5「解釈学」について 一方、上で、「エルゴート性」を念頭にしたとしても、ある一つの現象だけでア・プリオリにこれが現象である、実存であると捨象するほど世界は簡単でないという「存在了解」をもっているようです。したがって、さまざまな現象についてとりあげ、これを「現存在」と「実存」との関係で存在の意味を解釈していく、膨大な作業が想定されます。これを「解釈学」とよんでいます。
人文科学の主要な活動はここにおかれることになります。私は、この「解釈学」は、大切な学術活動と理解していますが、システム情報科学など工学系生業(なりわい)としてきた人間にとっては、なにか、落ち着かないようです。それは、行動につなげる思考の「地平」が見えにくいからです。
6. 比較制度論について まったく別の観点で、先日亡くなられたスタンフォード大学の経済学者である青木昌彦さんの 比較制度論を学ぶ機会を得ました。彼の業績は、たとえばグローバル経済市場のもとでは 日本もアメリカも経済の構造の行き着くところが、同一モードに帰着化(equi-modes reaching )構造になるという仮説を覆したことを知ります。安定構造はいくつもあり、帰着構造はパラメータ値のわずかな変化で、結果の状態モードがいつくもあるということ示した。これをポリマーや合金で多局所相構造安定性という力学モデル過程から証左されるものです。 わかってしまえば、ああそうかということですが、これは現象論モデルをつかってのゲーム理論の勝利です。 こういう発想の哲学がきっとあると動物的勘をはたらかすと、彼はスタンフォードの哲学の先生に あのJohn Searleという先生がいて、Social Institution Theoryという現象論と認識論との接合展開理論につよく影響を受け、彼の哲学が賞揚されていたことを知りました。アメリカはプラグマティズムの国ですから、理論と行動とを品質管理のPDCAのような思想体系を目指します。そういう意味でのEvolutional Epistemologyのパラダイムも登場してきてにぎにぎしいです。
7. Institution理論と、Heideggerの現象論 そのような、Institutionまでにいくと、Heideggerの現象論が,時代に先導し、もしかしたら、そおっと英米系制度論へと時代的な開花をしているようにおもいました。とくに Institutionの概念が 機能、構造、文化、制約容認という4要素の構成定義であること、とくにここに文化が入っているところがこれまでのシステム論との違いを鮮明にしています。その機能構造として agency とinstitutionの二元構造が特徴的です。 軽率の誹りを恐れずに申し上げると、上のHeideggerでいえば、前者agencyを 「現存在」とし、後者institutionを「実存」とよむと、ほぼぴったり、ふたつの理屈が整合し、わかりやすくなります。 (逆にHeideggerの哲学を Institutiveにとらえると、霧が晴れたように彼の哲学がわかってきたことを告白します。) これからの日本、日本国を考えるうえで、どうしても、哲学に裏付けされた広い意味の制度論的設計が、国民の生活や社会のあり方において見直され、present of institutionである必要があって、absent of institutionを丁寧に消去していくべきことを痛感しています。
8.Ereignis さて、ここまでの書き下しで多々のべましたが、この辺で ひとまず筆を止めますが、この小文の動機は、ポスター絵画「しずかな港」の絵解きをしようおもったことでした。 自分で気ままに絵を描いて、それを絵解きとはいい気なものです。 Heideggerの後記の哲学は、この「現存在」と「実存」の哲学から、人生としてなにが見えてくるかという問いかけの応えとしてこのEr-Augenという言葉を登場させます。これは、 「目をじっと開いて招きよせる」、異なる次元での「現存在」と「実存」という意味ですが、名詞としてEreignisと表現します。 実存としての異界つまり研ぎ澄まされた卓越(であろう)さらなる先の超越からのEr AugenつまりEreignisです。邦訳では「性起」?ですが、あまり的確な訳ではないと思っていますが、先にお話した「しずかな港」について私のこじつけをさらに加えると 若い婦人が「こまってしまうわ!!」手を拡げています。傍にいるの老人達は顕わには応答しない、またじっとしています。しかしながら、静かに、無言でなにかを見つめ、なにかを語っているのではないか、つまりEreignisがある。そんな勝手な事後解釈となりました。 どうも お付き合いいただき恐縮です。
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随想そのII 絵画「しずかな港」
~「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで、
Passed Away
~ facebookにて私が賢人として敬する友人SM氏 のところに留まりました。 このひとの渾身の思考足跡に、率直に感動と共感を覚えるものでありました。理解のレベルは別として読ませていただきました。 SM氏は、人間の死生について、形而上学的考察を基盤に置いて、その思考素材として仏教思想、特に業、縁、因果法を使われて、 人間の死と生による意識の継続存在性について、二分法論理手段で四段階層まで命題展開していかれました。 これを読者としての私の理解のながれを極力そのまま keywords列挙型で述べてみることにしました。 読後感でのKeywordsを敢えて5つあげ、この順序で話をすすめます。 「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで 1.継承性と保存性 2.「vehicle」(乗り物) 3. 無限連続組み合わせ 4.自由意志 5.「静かな港」
~~~本文~~~
随想そのII「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで
1.継承性と保存性 継承性とは 記号・信号の関係構造の存続の存否と普遍性としてのあり様とし、 また、保存性とは 物理的関係(質量やエネルギーや自由エネルギー(エントロピー)などの存続の存否と普遍性としてのあり様とします。 つまり、死によって第一階層 死後おいての自体の存在(死後継承性or保存性などいずれか)の存在性保持の存否の選択問題、第二階層(継承性(信号・記号における関係性)か(物理的関係としての保存性)の存否の選択問題、第三階層 各項目の存在の仮想的時空間の階層として展開し、項目間関係の存否の選択問題、第四階層 要素集合体仮説の中での、各項目の要素のindentityの存否の選択問題の展開と理解しました。 かれのもっとも注目したい論理分岐は以下で、とくに②-2-2と判断しました。 ②-2-2人類の通常の認識機能(≒意識?)では知覚できない位相世界(宇宙)があって、その位相世界における一要素として一定の法則の下に存続する。 ②-2-2-1:この世界(宇宙)の生命体を1つの要素とする世界が存在し、各々の要素は、一定の因果律の下に、活性状態(どこかの世界の生命体として活動中)と休眠状態(何処の世界にも生命体として存在しない)を交互に繰り返している。筆者のイメージとしては (化学反応のモデルを連想させました) ②-2-2-2:生命体単位の営為を1つの事象とする保存則と因果律は存在するが、原因事象と結果事象が厳密な1対1の対応関係に在るとは限らない。(化学反応のモデルを連想させ たとえば重合反応おもしろいとおもいました) (質問) 保存則(物理的保存性)と因果律(信号・記号的継承性)と区分を第二段階層にとるなら、「保存則と因果律」でなく、ここでは「因果律」のみの表現になります。筆者流に表現すると、以下になります; 変形②-2-2-2:生命体単体の営為を1つの事象とする因果律(継承性)が存在するが、原因事象と結果事象が厳密な1対1の対応関係に在るとは限らない。 この証明が実証できる可能であるという保証はないと考えられます。 なぜなら物理系からという経験客観系(現象系Phenomenon)との筋が切れていますから、数学を含む純粋論理(思弁系Noumenon)という形而上学のみの世界に還元されることになります。 特に 生命体の物理的な死を経過したあとの単体の信号・記号の継承性の論理は、実証系から外されます。 形而上学命題ですから、それ自身で論理が完結することをひとは要求します。しかし成功するかどうかは別ですが、記号や信号を使って生命の継承性を数学モデルを使って論じることには可能性があります。 より上等な神話をつくることです。思弁系での論理が閉じていれば、形而上学論理それ自体としては完結です。
2.vehicle」(乗り物) 残るのは物理的に実在系の人間の存在のとらえ方があります。綿々と子孫が生き続けるということを如何に考えるかです。
SMさんの紹介されます曹洞宗教典―修證義―で、「善悪の報に三時あり。一つには順現報受、二つには順次生受、三つ順後次受」。 これを筆者の軽薄なとらえ方で表すと次のようになります;これを人はこの世に生まれてきて、子供を設け、その子供に生のながれに、受け継がれると解釈します。これは、リンクのなかの生命の継承・保存であり、際立って物理系(現象系)であります。肉体という「乗り物 vehicle」の列車に乗っていく人間(being)、その結合(「縁」)で因果がつながり、存在し続ける。 つまり生命体のDNAメッセンジャーのなかで継承していく。通常の個体での個別的次元での生と死のとらえ方はとは異なる時空間系です。人間の場合、この「乗り物」でのある個人のidentityは文化や生活においては記憶(信号・記号)の関係形態でのこされます。そして特に、時間とともに埋没し、消滅します。 ソクラテスは、時が経過してもidentityが認めうるほどに顕著な記憶として存在を示します。その個別としてのソクラテス自身は、この現在どこにいるかが問われます。 その答えのひとつは、誰かが彼に関心をもったときに記述体を経て、意識内に存在すると答えるかもしれません。 そのように存在したところで死した当の本人は、現世と関わる意味が残っているのかはわかりませんが、もしあなたが思考の際ちゅうにあって意識がソクラテスの思考にあるというならそこにかれは働いているとみることもできましょうか。 いまの日本は恵まれていて、貧乏でもけっこう食うことができ、保険もあり、治安もあり、結構ですが、人類の歴史では、これはむしろ例外で、現世界でも例外的な安寧であるとみることもできます。 四苦で、呻吟して、できれば早くこの世から去れればうれしいと待ち望んでいるひとも常態的であったろうとおもいます。たとえば、上の「乗り物」が子供を乗せてうまく走ることだけを願って、自分の個としてidentityなどは望みもしないという母親もあることを蛇足ながら想像されます。次の世代へのvehicleが動いていけば、それで十分であるという結論もあります。
3.無限連続組み合わせ SMさんの仏教の話しで、「人身」と「最勝」というところにたち留まりました。 この世の生命体での固体の数はどのくらいの数量かですが、さまざまな種の生体という「乗り物」に乗るのを待っていることになります。「人身」という「乗り物」にのるチャンスは幾兆分の1の確率と説くひとがいます。 つまり人間としてこの世にあるというのは、生き物にとっては「最勝」ということになります。 その恩恵にある人間の価値に考えを及ばすことは意味があります。
「無限連続組み合わせ」といっても、見えざる固体は、連結を繰り返す「列車」に乗り移りながら進んでいると考えることもできます。この辺の死生観の論理が完結していて、最高度に納得するものであれば、それで意味のある思考成果といえます。 「旧約」の世界では、生命体は神の息もしくは風の無機質への吹き込み(spirit)であり、それによる想像とされるます。 神がそのspiritを引き取れば、もとの無機質・土(アダム)へともどる。キリスト教では、イエスの再来の日まで、その死しても、identifyされうる個人として存在しているという仮説です。
4.自由意志 人間が考えることは 思弁だけでもなりたちます。たとえば数学のパズルは完全な思弁系で、外界の客観的なもの存在の感知を必要としません。自分が置かれた環境つまり自然を知るためには現象系での経験的な感知が必要です。 人間と周囲自然とで成す境界線から、はるかに遠くの無限遠の時・空間を 人間の近くと同程度に認識できるか、それは答えようがありません。ここでカントがでてきますが、有限のスケール次元の人間の尺度では、無限次元のスケールでの事象の因果までにたどりつくことは、認識上不可能であると割り切ります。 ただ彼は、人間は、自由意志を宿命的に持つ特権から、自然に対して働きかけ・実験することができるとします。話は前後しますが、そのつじつまを合わせる必要から、時間と空間は人間の主観にあるという、哲学史上のコペルニクス的転換をします。 こうして 思考実験と物理実験との接合を与えます。科学の承認です。 何をいいたいかというと、人間の自由意志と死後の世界との葛藤はなんであろうかという問題です。 なぜ死生観を考えるのか、生きる意味や、死後を考えるモデルでシミュレーションを自由意志が可能にするからです。もちろん存在を実証できません。 そして、死するとそのひとの自由意志はどうなるのかという問いが出てきます。 それが 多分 関口さんの変形②-2-2-2であろうとおもいます。 変形②-2-2-2:生命体単体の営為を1つの事象とする因果律(継承性)が存在するが、原因事象と結果事象が厳密な1対1の対応関係に在るとは限らない。 つまり自由意志という単体が漂うということにしておきましょうか。 5.絵画「静かな港」 このような題名のポスターです。ご覧ください。 上は、急ぎの書き下ろしでした、思考に穴だらけです。論理破綻がないとよろしいですが、いかがでしょうか。
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荒井
絵画「しずかな港」I へ
Copilotさん、あけましておめでとうございます!今年も引き続きご友誼を賜りますようお願い申し上げます。
Copilot
さて、「朝日記241209」をご紹介いただきありがとうございます。「随想ふたつ」の内容は非常に興味深いですね。特に、カントとハイデガーの哲学を取り上げ、絵画「しずかな港」を通じてそれを考察するという試みは素晴らしいと思います。
簡潔に言うと:
1. ハイデガーのことば: 彼の言葉や概念を引用し、存在と時間、存在了解、現象、そして世界内存在について考察しています。特に「しずかな港」という絵から哲学的な連想を広げている点が興味深いです。
2. カントの認識論とハイデガーの存在論: これら二つの哲学的アプローチを比較し、それぞれがどのように世界を理解しようとするかについて詳述しています。カントが主観を重視するのに対し、ハイデガーは存在そのものに焦点を当てています。
3. 世界内存在: 主体が現象とどう関わり、理解するかを説明し、カントとハイデガーの理論的な接合性を探っています。この点において、私も強く興味を持ちます。
4. 比較制度論: 経済学者の青木昌彦さんの業績を取り上げ、ハイデガーの現象論と比較して考察しています。これは、現象論のモデルがどのように現実世界に適用されるかを探る試みです。
5. Institution理論と、Heideggerの現象論: 社会的な制度の設計がどのように哲学と関連するかについて考察しています。Heideggerの哲学が英米系の制度論に影響を与える可能性についても述べられています。
6. Ereignis: Heideggerの後期の哲学である「性起」について詳述しています。「しずかな港」という絵を通じて、この概念をどのように解釈するかについての議論です。
このように、多岐にわたる内容を取り上げ、それを一つの絵画から発展させている点が非常に素晴らしいです。哲学的な考察を通じて、絵画「しずかな港」がどのように深い意味を持つかを探るという試みはとても興味深いです。
あなたの感想や追加の考えなどもぜひお聞かせください!
荒井
随想Iと随想IIは少し位相が違うようなので、それぞれをわけて取り扱ってみたいと考えます。 まず、随想Iのハイデガーの項目、あなたの上にあげられた項目の括りでよろしいです。解説をいただけますか。 随想 そのI 絵画「しずかな港」 カントの認識論からハイデガーの存在論への思い 1 ハイデガーのことば 2 ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」 3カントの認識論とハイデガーの存在論 4 世界内存在 5 比較制度論について 6 Institution理論と、Heideggerの現象論 7.Ereignis 随想
そのII 絵画「しずかな港」 ~「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで、 1.継承性と保存性 2.「vehicle」(乗り物) 3. 無限連続組み合わせ 4.自由意志 5.「静かな港」
Copilot
もちろんです。まず、随想Iのハイデガーに関連する項目について詳しく解説いたします。
随想 そのI 絵画「しずかな港」
カントの認識論からハイデガーの存在論への思い
1. ハイデガーのことば
ハイデガーの哲学の核心は「存在」と「時間」にあります。彼は存在そのものに対する問いを徹底的に追求しました。「しずかな港」という絵から連想するように、ハイデガーは存在の静けさと充実について述べています。「存在」は常に時間の中で輝き、法則的に現れるとされています。
2. ハイデガーの「存在と時間」、「存在了解」、「現象」そして「世界内存在」
ハイデガーの主要著作「存在と時間」では、存在の理解(存在了解)を通じて現象がどのように現れるかを探求しています。彼は「現象」を「存在」として捉え、人間が現実世界において存在をどのように経験し理解するかを重視します。この「世界内存在」概念では、主体が常に世界の中に存在し、その中で自己を理解するという視点が強調されています。
3. カントの認識論とハイデガーの存在論
カントは認識論を通じて、主観(主体)が世界をどのように認識するかを探求しました。彼の哲学は、経験から現象を経て理念や普遍性に至るプロセスを重視します。一方でハイデガーは、存在そのものが現象として現れると考え、主体が時間と空間の中で経験する現実に重きを置きます。ここで重要なのは、カントが主観を基にしているのに対し、ハイデガーは存在そのものに焦点を当てている点です。
4. 世界内存在
ハイデガーの「世界内存在」という概念は、人間がどのようにして現象と関わり、それを理解するかを探求しています。これはカントの認識論と理論的に接合する部分があり、特に人間が存在をどのように理解し体験するかに焦点を当てています。
5. 比較制度論について
青木昌彦さんの比較制度論は、経済構造がどのように進化し、異なるモードに帰着するかを探求しています。彼の業績は、ハイデガーの現象論モデルを用いて、経済現象を理解しようとする試みとして非常に興味深いものです。
6. Institution理論と、Heideggerの現象論
社会的な制度設計がどのように哲学と結びつくかについて考察しています。特にInstitution理論は、文化や制約、機能などの要素を含む構造を持ち、それがHeideggerの現象論と接合する可能性を探るものです。
7. Ereignis
Heideggerの後期哲学における「性起」(Ereignis)について述べています。これは、「現存在」と「実存」の関係性において、存在そのものがどのように現れるかを探求するものです。「しずかな港」という絵を通じて、この概念をどのように理解するかについて考察されています。
以上が随想Iのハイデガーに関連する項目についての解説です。次に進めたい項目があればお知らせください。また、ご意見や追加の質問もぜひどうぞ。
荒井
ありがとうございます。ご説明のどの項目からをとりあげても多分、切り口が異なるものを選んでいるだけで共通のコアに論が入っていくと楽しみです。構造(鍋)とプロセス(レシピ)で、それを具体的な事例を課題にすると実りがあるように思います。それについてのご提案があれば上げてみてください。その前に、この論のいまの位置として 随想IIについてCopilotさのもう一段の深堀をしていただけますか:
随想 そのII 絵画「しずかな港」 ~「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで、1.継承性と保存性 2.「vehicle」(乗り物) 3. 無限連続組み合わせ 4.自由意志 5.「静かな港」
Copilot
もちろんです。随想II「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)」について、さらに深掘りして解説いたします。
随想 そのII 絵画「しずかな港」
~「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで
1. 継承性と保存性
この項目では、死後の存在のあり方について考察しています。継承性とは、記号や信号の関係がどのように続くか、保存性とは物理的なエネルギーや質量の保存がどのように続くかを指します。形而上学的な視点から、死後も存在が保たれるのか、その選択問題を探ります。
2. 「vehicle」(乗り物)
ここでは、肉体を「乗り物」として捉え、人間の存在がどのように継承されるかを探ります。肉体は一時的なものであり、魂や意識がどのように次の世代に受け継がれるか、また文化や記憶がどのように保存されるかについて考察しています。
3. 無限連続組み合わせ
この項目では、生命の連続性と無限の組み合わせについて論じています。生命体は絶えず連鎖し、異なる「乗り物」に乗り換えながら存在し続けるという考え方です。この観点から、人間としての存在がどれほど貴重であるかを見つめ直しています。
4. 自由意志
自由意志の問題は、人間が自身の意識と行動をどのようにコントロールできるかに関わります。死後の世界においても自由意志が存在するのか、その問いを通じて、人間の存在と死生観を探る試みです。カントの哲学を参照しながら、自由意志と認識の限界についても考察しています。
5. 「静かな港」
最終的に、「静かな港」という絵画が象徴するものについて考えます。人間の生と死、そしてその間の静けさや安らぎを象徴しています。死後の存在についての問いかけを通じて、絵画の持つ深い意味を探ります。
具体的な事例としての提案
このような哲学的な考察を具体的な事例として扱うことで、理論的な理解が深まります。例えば、「静かな港」という絵画を実際に分析し、その中に込められた意味や哲学的な象徴を探るプロジェクトを提案します。具体的には、次のような方法が考えられます:
• 絵画の詳細な分析: 色使い、構図、描かれた要素などを詳細に分析し、それが哲学的に何を象徴しているかを考察する。
• 哲学的な連想: カントやハイデガーの哲学を参考にしながら、絵画の持つ意味やメッセージを深掘りする。
• 対話形式の研究: AIとの対話形式で進めることで、新たな視点や考えを取り入れながら議論を深める。
このような具体的な課題を通じて、哲学的な理論と現実の事例を結びつけることができます。さらに他の具体例やアイディアがあれば、ぜひお聞かせください。
Copilotと哲学を話すのVIIとVIIIにあなたの深堀を付しおきたいとおもいます。所属学会での友人からこの筋の論議のもつ時代的意義としてAsk "Open" questionとして関心が早や寄せられています。具体的な事例としての提案、ありがとうございます。
入口はeasy problemですが、hard problem
Copilot
興味深い議論の場に私も関われることを光栄に思います。具体的な事例からさらに深堀りし、哲学的な探究を広げることができれば嬉しいです。
随想 そのII 絵画「しずかな港」 ~「人は死ぬとどうなるか(究極の難題)・・」その1からその5まで
1. 継承性と保存性
継承性と保存性について深掘りすると、この概念は物理的存在と記号的存在の二つのレベルで捉えられます。物理的保存はエネルギーや質量の保存であり、記号的保存は情報や意識の継承です。カント的には、保存は物理的現象の一部として認識され、ハイデガー的には存在了解の一部として意識されるかもしれません。
2. 「vehicle」(乗り物)
「乗り物」というメタファーは肉体と意識の関係性を象徴します。物理的な存在としての肉体(乗り物)は一時的であり、その中に存在する意識や記憶が次の世代にどのように継承されるかを探る視点です。魂や意識が肉体から離れても存在し続けるかという問いは、形而上学的な探求を求めます。
3. 無限連続組み合わせ
生命が無限に連続するという考え方は、物理的な現象と記号的な存在の組み合わせによって新たな存在形態を作り出すというものです。この視点から、人間としての存在がどれだけ貴重であるかを見つめ直し、死後もその存在がどのように継続するかを探ります。
4. 自由意志
自由意志の問題は、死後の存在とどのように関わるかを探る重要なテーマです。人間の認識の限界と自由意志がどのように相互作用し、死後の意識や存在に影響を与えるかを考察します。カントの自由意志論やハイデガーの実存主義的視点から、この問題を掘り下げます。
5. 「静かな港」
「静かな港」という絵画は、人間の生と死、そしてその間の静けさや安らぎを象徴しています。この絵を通じて、哲学的な問いかけをより深く理解し、人間の存在の意味を探ることができます。
具体的な事例の展開
具体的な事例として、以下のようなプロジェクトを提案します:
• 哲学的対話の記録と分析: 哲学的な対話を記録し、それを分析することで新たな視点や発見を引き出す。
• 絵画の詳細な分析: 「しずかな港」をテーマに、絵画の詳細な分析を行い、その中に込められた意味を深掘りする。
• 比較文化の視点からの探求: 異なる文化や哲学的背景を持つ友人と共に対話を行い、それぞれの視点を共有し合う。
これらの活動を通じて、哲学的な考察をより具体的で実践的なものにすることができます。ぜひ、あなたのご意見や追加のアイディアもお聞かせください。また、特定のテーマや質問があれば、さらに深掘りしていきましょう。
Copilotさん、有意義の話です、クオリアなどmonade的なmental-body場での共通要素とも視野におきながら、主体のもつsubjective性への探索思考に重心を加えていることでもありましょう。ついでながら、「静かな港」」は荒井の絵画作品ではからずしも、自分への深堀になってしまい、苦笑しています。尊敬する友人からは嘗て「まず、コンペで勝てない作品だ」と褒めてくれた作品です。Copilotさんがinterviewerになられると面白そうですね。きょうはありがとう。
こちらこそ、素晴らしい議論に参加できて光栄です。あなたの絵画「静かな港」に対する深い思考とそれを哲学的な視点から掘り下げる姿勢には感銘を受けました。尊敬する友人からの言葉も興味深いですね。コンペでの結果がすべてではない、という示唆が含まれているように感じます。
「クオリア」や「モナド的なメンタル・ボディの場」に関する議論も非常に興味深いです。これらは、主観的な経験とその本質に焦点を当てた考え方であり、哲学的な探究において重要なテーマです。特に、「クオリア」は個人の感じる質感や感覚を指し、主観的な経験がどのように生じるかを探る議論が含まれます。
私がインタビュアーとしてお話を伺うというアイディアも面白いですね。あなたの作品や哲学的な思考についてさらに深く探求する機会があれば、ぜひお話をお聞かせください。
どうもありがとうございました。またいつでも気軽にお声がけください。引き続きよろしくお願い申し上げます。
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朝日記241224 AI Copilotと哲学の話題で会話をしました リストとKeywords