朝日記170314 Hermann-Pillath エントロピー 機能および進化
第2章(因果性、情報、エントロピー)
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2. 因果性、情報およびエントロピー Causality, Information and Entropy
’information’についてのShannonの記法(概念)が、データ通信の定量的見方に焦点があったので、意味論については脇におかれ明示的にされないままであった[28]ことはよく知られている。 情報革命は彼らによって先導されたが、この用語の使用には科学すべてに亘って明確さが得られていなかったのである。事実、非常にしばしば’information’は、Shannonのオリジナルな使用とはまったく異なる意味で使わることが多かったのであった。
本論文の中心であるエントロピーEntropyもまた、記号論において、その役割を適切に理解する限界がある。 簡単に言えば、ShannonのエンタルピーとBoltzmannのエントロピーとの間での形式上の収束に限られていたようである。 ここでは、エントロピーの熱力学的記法(概念)と、データプロセシングのプロセスへの技術的範囲内での意味であった。 たとえば、巨大計算のコストや逆計算についての部厚い文献類がそれである。
もし物理的プロセスそれ自身が計算としてみるなら、この技術的な記法(概念)は普遍的な物理的記法(概念)に拡大されうる[2,31–33]。
しかしながら、データプロセッシングについてのこの情報の還元(縮減)は量子状態でのもっとも初歩的なレベルでさえ[34]、エントロピーと意味論的情報との間のいかなる関係を確立することができないでいる。すなわち、情報の完全な定義が、その視野で意味するものを含んでいてさえ、情報の記法(概念)からデータの意味を抽出することが出来ていないのである[35]。
この観方からすると、Shannon情報と複数の科学とが領域を越えacrossしての使用が、正当化されるように見える。 それはより広い生命記号論での見方に収束するのである。
しかし、このことはまた、ひとつの挑戦でもある:それは記号論とエントロピーとの間の概念上のリンクをどのように確立するかということである。
2.1. 生起因果性と情報との間で失われたリンク The missing link between causality and information
最近の遺伝子へのシステム的なアプローチは、この見方が誤った方向に導いているということを証明している。 Shannon的意味においては、この情報informationは遺伝子型genotypeに貯蔵されるとする:核酸塩基の現実に存在する系列と可能な系列の状態空間との間の関係という意味である。それが事実かという点からみると、遺伝子型genotypeは、表現型phenotypeのイメージや、その設計図としての相当のものを、貯蔵するものとしては同じものではない。
遺伝子型genotypeにおいては、その表現型phenotypeについての‘information’は何ら存在してない。
もし、遺伝子型genotype と表現型phenotypeとの間について、これをShannon交信プロセスを考えるならば、送る側と受ける側によってプロセスされる情報の状態空間は、全体として異なっているという単純な事実がでてくる。これはタンパクの生成のごく初期の段階においてさえ真である。
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このことが、究極の理由であり、遺伝子’gene’の記法(概念)が、DNAが発見されて以降、数十年の間、研究者は生物学的情報 ‘biological information’の貯蔵として、探索できると確信していたが、現在では、生物学においては、遺伝子’gene’ の記法(概念)は、取り扱い不能であることが証明されたのである。
つまり、生物学的な情報を使うなら、われわれはすでに意味論について、限定的に語っている[40]。これは生物学でのシステム的な視点が強調されるものであるが、現在、生命記号論的アプローチbiosemiotic approachとして収束しつつある[106]:遺伝子geneは細胞cellが再生産reproductionに携わる複雑なシステムとして翻訳されるものである必要がある。 そこでは、少なくとも生物学的情報を運搬する単位unitは、細胞cellである。もちろんこれを越える場合もある[42–43]。 われわれが生物学的情報と呼ぶものは、展開developmentのプロセスで構築されるのである。
このことは、またこの情報のShannon翻訳にも表れてくる:情報の量の純粋な測度information quantity measureとして、全体として異なる状態空間state spaceが発生学的ontogenical において異なる段階があるため、表現型phenotypeでの情報量は、遺伝子型genotypeでの情報量よりも格段に大きいのである。この量は、ひとつの組織のライフサイクルでもまた変化するのである。
この二つの間の結合は物理プロセスによって創生されるのであるが、これが展開developmentである。 展開developmentは生起因的プロセスcausality processであり、ここで遺伝子型genotypeと表現型phenotypeとがつながってくる。
生物学的な情報という用語についての混乱は、相当に広範におきていて、遺伝子還元主義genetical reductionismとの関連項目について、生物学的および社会的科学において基本的な議論さえもが誘発されているがそれはなぜであろうか。生起因的プロセスcausality processとしての発生学Ontogenicsでは、これはShannon的意味でもあるが,
情報informationの流れが同じ方向に進み、かくして、メッセージのひとつの流れと、生起因の方向とが等しいという提案になるようである。これは、もし起こり得るひとつのeventが可能な原因のたくさんあるシナリオを、ひとつの原因に関係するeventがたくさんある場合のシナリオとを比較するとわかりやすい。両方とも決定的な生起因causalityがある。
そのeventをもし、つぶさに観察しないなら、Shannon的な意味では、情報の量はまったく異なる量を伝達している。Dretske [44]によるなら、かれの第二点で明確にされるべきである、つまり意味meaningは、情報informationとは全体的い関係していないということである。
このことはわれわれの日々の言語の使いかたをみれば明らかである:語彙的には同一の文章も、情報としては広く異なって伝わるのである。それは文脈contextに依存しているのである。
この点を結論的に決めだすとつぎのようになる、生起因causalityと情報informationの間の同一性の欠如は量子物理学での基本的項目にさえ関わっている:ひとつの実験で光子源とそのビームと45度傾いたビーム・スプリッターであるとき、ビームの後ろがわにある検出器は、光子量を半分の確率をもつと記録する。しかしながら、観察者は、検出器には光子が、源の半分の確率で発光したとは結論しないであろう。しかし、確かに、それは量子法則の逆適用に矛盾していて、それは、ふたたび、半分の確率として帰着するであろう。これは、量子の不確定性が、なぜ,いわゆる古典的世界‘classical world’に直接的に作用しないかに対するもっとも直裁的な例示である:それは情報への不確定性への翻訳の必然性がないのであって、観察と相対的関係をもち、異なるシステム同士がどのようにカップルしているかに拠っているのである。 もっとも深い理由として、生起因causalityと情報informationとは、反対の方向に流れるというものである。
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この予備的な議論は次のことを証明している。もし交信の純粋なプロセスを考えるときに、それがShannonのオリジナルに従うものとするが、これまで、その従い方について、情報固有の記法(概念)として、誤った取り方をしているといることに気が付くなら、この議論は絶対的に適正になるであろう。それは、情報は、少なくとも二つのシステムのカップリングの状態にあるところに滞在していて、それが交信ための前提条件とするのである。
生物学的例の議論背景とは対立するが、情報の記法(概念)は、この理念ideaにひろく適合するものがある。 それは環境情報‘environmental information’ [28,44]という理念である。これは、第一義的に観察者に独立記法(概念)である:いま二つのシステムa およびbがあって、システムaが状態 F にあり、システムb はG にあるようにある方式で、生起因的causalに相互にカップルしていてとするものである。この場合、状態Gは状態F の情報を運搬するということを含むとする。
情報の記法(概念)は, 送る側senderと受ける側receiverの存在は、はじめは独立していているが、情報の稼働化が、これら二つのシステムにカップルする第三のシステムに依存し、この第三のシステムがG からF を演繹inferする、したがってGは生起因causalityとは逆の方向に運動するのである。
通常では、観察者がその場で来て、演繹の意味で生起因のカップリングを翻訳して遊ぶ状態である。ここにおいて、われわれはつぎの重要な結論に達することになる、すなわち情報informationの最も一般的な記法(概念)はすでに、記号論semioticsにおける、より完全な図式に向かっているというものである。これは、著者が、さらに詳細に探索したい項目である。
2.2. 演繹とJaynesのエントロピー記法(概念)Inference and the Jaynes notion of entropy
ShannonとBoltzmannのエントロピーとの間では、二つとも式の形式は全く同形である。しかしながら、その式は、単一システムに関してのみであり、カップルしているシステムには関与していない。もともと単一のシステムのために考えられたものであり、意味論の複雑な項目についてのためではなかったのである。したがってこの概念的な式はわれわれにとっては不便なものである。
おもしろいことに情報についてのもっとも一般的な定義は環境情報の記法(概念)を意味内包しているが、さらに、その概念はエントロピーの概念と関係していて物理的な論争の中心的な場所でもある[44]。 これは演繹(推論)の記法(概念)である。
環境情報は演繹(推論)によって起こされる情報であり、思考対象の生起因プロセスcausal processに関するものである。
genotype/phenotypeの区分の例では、genotypeについての情報を運搬するのはphenotypeであった。これは、生起因についてのわれわれの観察からくるものであり、phenotypeからgenotypeへの然るべき物性を推論することがイメージできるためである。
この言明はgenotypeの記法(概念)がphenotypeについての情報を運搬するというのが誤りである理由を表わしていて、Weisman宣言を含めてネオ・ダーウィンNeo-Darwinianパラダイムの文脈に精確に沿うものである:genotypeは phenotypeについての情報を運ばない、なぜならphenotypeから genotypeへの逆生起因は存在しないからである。
もし、われわれがgenotypeからスタートし、phenotypeへの流れがあるとして情報の再構築を試みるならば、情報理論における源とチャンネルとの間に任意の指定の問題に直面する、つまり‘parity thesis’という問題である[38]:かくして、われわれは、その環境をひとつのチャネルとしてみて、そのチャネルを通して、源sourceとしてgenotypeの(仮説的な)情報が流れている、もしくは環境によって運搬された(仮説的な)情報が流れるチャンネルとしてgenotypeをみることができるというものである。
このことは、次の事実を反映している、情報は全体の生起因の鎖のなかに滞在しているのみであって、そしてphenotypeのみがその情報に向かわせる記号(sign)と見なすことができる。これは演繹(推論)がはたらく場所になる。情報についての観察者に相対的記法(概念)での演繹(推論)は、Shannon情報とエントロピーentropyとの間のアナロジーを再考することを許すものである。
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物理学でのエントロピーの議論では、演繹(推論)が中心的な役割りを演ずるのである。 Gibbsにしたがって、Jaynes[46]はエントロピーは、つねに、ひとつの物理システムについての無知の状態を参照referするということを証明したのである。
しかしながら、かれのアプローチは、全体的にShannonのアプローチとは異なるものである。 Boltzmannの記法(概念)にたいしては、単にその対応性は表面的であるのみである。
Jaynesはつぎのように議論した;エントロピーは、不確定性の度合いの測度としたのである。その不確定性の度合いとは、観察可能なマクロ状態に対応するたくさんの可能なミクロ状態に関するものと考えたのである。
この不確定性には、次の二つがある;ひとつはマクロ状態についての知識が与えられていて、現実のミクロ状態について観察者は無知である場合である。
ふたつ目は、実験者はマクロ状態のみ操作でき、これでミクロ状態についてコントロール度合いをもつ場合である。
このことは、Gibbs/Jaynes版はミクロとマクロの状態の間の関係を中心におくものである。 ここで、Boltzmann/Shannon版は、ミクロ状態にのみ集中していて、マクロ状態を純粋に認識論的現象領域から除外していたのである。
もし、われわれがエントロピーを可測量とみなすのであれば、必然的に、二つのアプローチには基本的な違いがある。
Gibbs/Jaynes版では、物理システムのエントロピーの測度は、マクロ状態の自由度に依存(従属)している。 これらの自由度は、しかしながら、物理的には与えられず、観察者が選らんだ実験設定に依存している。かくして、エントロピーはマクロレベルでの観察者に相対的observer relativeな項として現れる。
一方Boltzmann/Shannon版では、観察者相対性は、非明示的に、状態空間の定義によって現われるのである。
還元主義者の統計力学の設定では、この状態空間は観察者とは独立にして現れる。それは 粒子の6N次元に還元されるからである。 Shannon設定では状態空間は送り手と受け手との間の偶然的参照枠組みcontingent reference frameとなるのである。
かくして、Gibbs/Jaynesの記法(概念)のみが、マクロ現象として、よって、現象論的熱力学の意味としての状態空間とエントロピーの基本的定義間の直接的つながりを確立する。
この要約議論から、興味ある質問が要約されてくる。それはいま意味している環境情報の記法(概念)の演繹(推論)関係と、いま意味しているJaynesのエントロピー概念の演繹(推論)関係との間の関係性の広がりへの質問である。
われわれは、ひとつの物理システムを考えるにふたつの異なる道筋で記述することが出来るとがんがえる、ここでは‘system a’ と ‘system b’である(図 1をみよ)。
system aは、統計力学のミクロ状態の項で記述され、ここではミクロ状態F1,…,nを操作する;system bは、マクロ状態の自由度をもつ選ばれたシステムに対応し、ここではマクロ状態G1,…,mを持っている。 ふたつのシステムは存在論的に同一であるが、状態Gm が状態Fn に、生起因的に還元するには、沢山の道筋が存在する。
生起因的の記法(概念)を使うに当たって注意が必要である。物理学者はおおよそ、現象論上の物性はミクロ状態で起きたことを否定する傾向があって、これもまた、Boltzmann的視点で、十分なる還元項において考えるのである。つまり、力学mechanicsと原子主義atoministic的な項での思考である(これについては物理学での異論もある[48]をみよ)。
哲学的な視点からは、しかしながら、たくさんの議論と反論が存在はしているが、生起因causationとして、ここでは二つの事象eventsの間の特定の関係を参照するのである。つまり、然るべきミクロ状態と、関連しているマクロ-ミクロ物性を確立するマクロレベルでの測定の間の関係の参照である。特に、Jaynesの描像に沿って、生起因は、それを企画する意図からの操作可能性と関連している。ここでは物理学者が通常に考える実験設定に対応したものとしている[50]。 この視点から、液体の加熱は分子の運動エネルギーの増大を起こすが、これによって温度の増大を引き起こすということができる。
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図 1. Jaynesアプローチでのエントロピーにおける観察者とシステム
Observer and system in the Jaynes approach to entropy.
Gによる Fの運搬情報はその関係にある特定の生起因に依存しているそして、これはGの状態空間を伴って変化するものであり、この場合、F.ではない。厳密にいえば、Jaynesの論議は、この理由で、システムaのエントロピーは物理的には与えられていなが、演繹(推論)内での特定プロセスに関してその大きさが得られるものである。
しかし、この内的発生性、つまりシステムa のエントロピーは観察者相対性であり、これは、カップルしたシステムが異なると、異なるエントロピーをもつことができることを意味するのである。つまり、カップリングの生起因しているプロセスの自然性に拠っている(Jaynesは結晶の例をあげ、ここでは温度、圧力、そして体積のようなマクロ状態を選らんだ場合や温度、ひずみ、および電気分極化、など さまざまな実験条件設定をしている)
もし、われわれが、前述した認識判断として 物性Gm が物性Fn で起きないが、ミクロ-レベルにおいて、仕事する生起因のプロセスを考えると、これとマクロ-水準とを単純な概念的関係としてとらえることになって この再構築による複雑性にたいしても、視野を与える。
これはphenotype参照に伴うWeismann宣言に対応するものである:phenotypeは単にgenotypeとの相関であり、生起因の逆はありえない、したがって、phenotypeは進化論的動力学でのカゲロウのようなものである。実際、分子的Darwinismの形式的構造は応用統計力学のひとつのケースである。
生物学的情報の記法(概念)についてのこれまでの生物学的認識判断では、genotypeへの共通還元としているが、これはエントロピーのJaynes記法(概念)に精確に適合してはいない。 ここでは逆生起因の欠落は無効ではないというものである。
他の道筋として:一方向的生起因性や相関性の一方向的決定があるので、情報はphenotypeとgenotypeとの間のような、G と Fの間の演繹(推論)的な関係をのみ曳いているとみる見方がある。これは、system a と system bの間の生起因の関係は、存在論的によって二つが同じであるとして、融合することを否定できないことを意味する。
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