Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記241203 おしらせ「朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと」休掲載掲載 お知らせ

2024-12-03 23:29:14 | 自分史

 

お知らせ 

「朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと」は他の投稿先への下原稿作業稿として

掲載しましたが、投稿先での公開日2025年1月中旬まで 休掲載とします。亭主

  記

「朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと」

2025年1月中旬まで 休掲載

2025年1月中旬まで 休掲載

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朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと

2024-11-26 09:46:48 | 自分史

朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと

 さて、以下に四つの絵とカリカチュアを掲載します。

最初の四つは墨、紫、青、赤の山々です。

覚悟してやまの稜線を追ってみました。

晴れのあさで朝雲の時々刻々のうごきが山の前景と後景の区別をあたえます。

朝日が前景の影が後景の山並みに形を投影しているのがわかります。

山並みの凹凸で凸は視覚ではわすかな突起でも単体の山であることを知ります。

雨雲のときも形状形態がわかって山肌がおもしろかったです。

そうなると、あの突起は何であろう、名のある山なのであろうと考え、そして手元の

携帯でGoogleMapのようなもので地図をながめ、これを手で描き、いま見える実物と名前の

対応を試みます。

丹沢山系というのは、平面では工字状をしていて、部屋位置からはこの工の下の一を軸に上の一を奥手に倒したした形態となっている。山並みがよこに前後してならびそれらをむすぶ縦奥行きの山壁があるといった態である。

一方、大山1252mはその丹沢系の前景に位置していることになり、あの烏帽子のような形の登頂から左方になだらかな下降稜線となるが、その下降の始まり辺りから丹沢系がなだらかなふくらみの稜線を引く。丹沢系前景の稜線となる。丹沢山1576mと名のついている突起部分は後景横稜線をつなぐ奥行きの山壁の始めに位置するようである。この奥行き系と後方の横稜線系あたりに登頂群がいくつか重なってみえる。前方山並みは西峰、中峰、東峰と続くが急速に下降、それを補うように前景の辺室山が横にのびてる。これらが前後平行して、一見一体ものとしてこちらに押し出してくる感じである。丹沢山の後方には実質の盟主であろう蛭が岳1673mが、袖平、黍穀山(なんとよむのだろうか)などが重層的に重なる。わが望見との対応を確かめ得ていない。(家に戻ってから県地図をひろげ、わが基点(東急南町田グランベリー駅)から各山頂へ定規で線引きしてみた。測量したひとはすごいなとあらためておどろく。)

執こいが大山は、これまで何度も描いてきた。家内からは「大山大観ね」と揶揄されるほどであるが今回地形上の勉強になった。この山はご承知のように、上述の山頂から右下降がはじまるとまもなく前方に「山」という字態の三つの単峰群がならぶ、三峰山である。伊勢原市あたりまで接近するとこのやまがほどよい迫力を呈するがいまここの点からでは裾部分のグラデーションを構成する。その裏あたりが宮ケ瀬ダムらしい。一方、大山山頂から左下降では裏側から烏尾山とか二の塔、塔の台が視界につらなり階段のように落ちていく対応となる。

この景色を何枚も早描きする。地形的知識はこの場合どのくらい助けになるのかわからないが、すくなくとも形状の特性は抑えていることになるので一応目をつぶっても形にはなる。象形文字的に接近しすぎることはなにか危険であるが、写真的(失礼)写実に接近してもよいが意識はこれらへの拘りをゆるさないようだ。ただ、しらべたことは対象への畏敬をもたらしめ、その天候、時刻でスケッチをいざなうのは事実であった。

今回の入院の方の主題はあとになってしまったが、ICU緊急治療ユニットでのスタッフの俊敏無駄のない動きには感動さえおぼえた。明け方静まり返って、患者への声掛けが聞こえる、患者は結構無理難題を出している。それに対応するスタッフの人とガラがでている。なにもないがスプレー瓶を一つ描く、車いすもおもしろい。こんな無機的なものが描線がはいると意識があらわれるのがおもしろい。いま哲学界と物理学系の話題の中心である「意識のHardproblem問題」へと繋がろうか。これについては別稿にて書きたい。

===

たまたま、立ち眩みが夜中にあって、緊急滞在となった。しかし年相応なのでこれからの2,3年は要注意で

養生の課題が課された。たべもの、うんどう、あたまつかい、ほか。

部屋から山々の展望が豪華で幸い主題の立ち眩みの方は軽微であった。

ちいさな画帳とクレヨンを肌身はなさずそっと携え、たっぷりこれに取り組めたのであった。

 

 

Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa III 墨大山・丹沢

Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa IV 紫大山・丹沢

Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa V 青大山・丹沢

 

Urban fantasies of Ohyama-Tanzawa VI 赤大山・丹沢

(友人からのたより)

親愛なる友人の画家からの丹沢大山大観談です 

(Yasumasa Arai)2024-12-02 10:43:04荒井 康全様

入院されたとは知らずにおりました。もうすっかりお元気になられましたか?
荒井さんの「丹沢山系大観」読ませてもらいました。流石によく熟知されておられるんだな
と感じました。スケッチを拝見して驚きましたが、まさに目をつむってもわかる…ですね。
病室のベッドで描かれたと思われますが、墨丹沢は横向きですか?他の3点どれも力強く
晴れやかで、とても入院中とは思えません。私も時々近くの小高い丘に登って大山:丹沢:
富士から高尾山を見ますが、なかなかどれがどうだかよくわかっておりません。一度一緒に
登って教えていただきたいと思っています。須田国太郎懐かしい名前です。若い頃に「犬」
「羽を乾かす?鵜」「スペインの紅い屋根」など感動してました。また荒井さんが言われる
様に長谷川利行の絵の雰囲気も感じます。でも全く違って健康的ですね。
カリカチュアには何となくルオーを感じさせられました。
全く勝手なことばかり書いて申し訳ありません。
来年の寒いうちに(空気が澄んできれい)「見晴らしの丘」にご一緒したいですね。
今後とも、色々教えて頂ければ有難いと思っております。よろしくお願いいたします。

                    24年11月30日  (anonymous)
6636

友人anonymousさんへの返書

 

 メール拝読しました。「丹沢山系大観」の朝日記とおつきあいいただき

恐縮です。行き当たりばったりで絵にとりくんできたので、今更ながらものごとが

語り掛けてくることにおおげさに感じ取ってしまっています。だからおもしろいとも

言えるかとヨシよしと自分をあやしています。

その延長で「来年の寒いうちに(空気が澄んできれい)「見晴らしの丘」に」のご提案は大賛成です。簡易スケッチブックで1,2枚スケッチできたらいいなあと愉しみにしています。

ちょっとあるくぐらいの感覚でバスにのって赴く、天候のよさそうな日を直前にも

やっときめてお会いしたいですね。

「須田国太郎」という絵付き随筆をあるところに投稿したので添付いたしました。

貴兄が教えてくださったのが縁でおとうと世田谷美術館のかれの展覧会にいったのです。

おとうと一緒に「鵜」、「阿弥陀堂」、「犬」、「落窪神社」などすっかり楽しんでながめていました。

朝日記をみっつほど添付もうしあげます;

朝日記241126 Urbanfantasy(大山・丹沢)を描くこと

御覧になった朝日記ですね。

朝日記240520  AI実験1「Yassie Araiの絵画作品を見たいです」

PCなどにて使えるAIがいかばかりかをテストしています。ちなみに、荒井康全氏を

どのように紹介するか。

朝日記241129  目次gate AI Copilot氏との哲学的会話 目次

哲学や絵画のテーマはAIがゾンビであるかBeingであるかを問う恰好の話題になると

考えて、自分の研究課題をつかいながら、AIとの対話をこころみました。

哲学入門のような形をとり、AIへの確認というながれにしました。

しっかりまとめてくれることを知ります。しらず相手の人格的存在を意識します。

そしてかれに問います、あなたは意識をもちますかと。

答えはいいえでした。

会社、学校、政府、郵便局などとおなじ社会的service agentつまり法人としての人格が

要求されることに気が付きます。誠実なアナリストと話していることを知りますが、相手が邪悪でないという保証はない。かれらも気が付いていない。知的ゾンビですね。これからの問題であることをAIになげかけています。資料整理などの秘書としての自分の思考の確かめなどの役割りには優秀なのでさらにつきあっていくかとおもいました。

荒井拝

2024/12/02

Yasumasa Arai

 

友人anonymousさんへのノート

思考展開の過程で、ときに話し相手があることはふしぎと意識が

活性化して集中されることを体が知っているのでしょうか。

やはり私自分individualということとひとpersonの次元とは違うようで,

生きているということはやはりそのような関わりのなかであるのだなと

感じます。友と杯をかわすということもそういうことかなと、

いつまでたっても青くさくて可笑しいですね。

哲学も思考という場でみえない相手(理性か)と将棋をさしているような楽しさがあります。

こちらは経験も思考も歳月を経てどんどんボケてきていますが、なにか生きてきた過程から

身体の髄にのこる大切ななにかコアに思いいたすことがをがあり、しょっと形にできればいいなとおもうこの頃です。だからどうなんだということにもなりますが。

クロニクルということばがありますが、一個の人間の生きているときのそのときの切片を刻しておくことはこの世へのお礼かもしれませんWW。もっともまとめて捨てられてしまうかもしれませんがそれはそれでよしとします。若いときはそんなことを言っていたら日が暮れるよしっかり働けと叱られますが、この齢は日が傾いても怒られないからやることごともあるかなと思っています。

世からあるいは天があたえてくれた褒美かもしえませんが。

絵画などにもまさにその実感をつよくします。とにかくなにかに目が留まり、それにちょっとかかわってみる、スケッチしてみる、形にしてみる対象たちをおなじ場に招いてみると何かある世界がみえるか、意識として感じる、おもしろい、色彩をつけてみてるなどしているうちに日が暮れてくるなど。このようなことが人生のある限られた期間でもあたえられたということはもしかしたら稀有最高なことなのかもしれないとひと深呼吸して、夕日を仰ぐ。気障な表現に至ります。

HeideggerのVereinigenという語がまたでてきそうですが、きょうはこれで止めておきます。

春の市美展には出品をしようと考えています。ことしでたしか十五年となり二十年までやるかと色気をだいています。ITさんも一緒にどうですか。これからの作もいいですが、きっと出してくれと裾を引いている待ちの御作品があるのではないでしょうか。 

このように気軽にお話ができて幸いです。

また、書きます。 お身体に気づかってください。

荒井拝 2024/12/06

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朝日記241008  仏陀の教えを聞くこと

2024-11-08 05:53:41 | 自分史

朝日記241008  仏陀の教えを聞くこと

今朝はこれにします。

https://youtu.be/Aej6zHKnK90?si=soj7aLJhlOyKob7l

なぜ老後は友達を作ってはいけないのか?ブッダが語った3つの教え?ブッダが語った3つの教え

 

徒然こと :

Thank you for your narrating on Me to Be. Ereignis, once I met it ,this word of Germany,from Heiddeger's writing. Something seems to be locating very far from me is seen, which seems to come closing to me. It is coming, not I am going? Yet I know the meaning, but I am OK, whether or neither.

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朝日記241011b [アーバン幻想]絵画 Stage2  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

2024-10-11 14:49:44 | 自分史

 

朝日記241011b [アーバン幻想]絵画 Stage2  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

 

朝日記241011  [アーバン幻想]絵画 Stage1  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

 

Stage 2

 

homage to Henri Mattisse

power matches between mustle guys

Do not do it too much, dear fox!!

flower color collage

Spring sprouts

at memory day

temple and sprout leave

vegetabke fellows

left my heart there

rose 1

collar flowers

sweet shop coaster

a poor artist imagination 1

poor artist imagination 2

 

朝日記241011  [アーバン幻想]絵画 Stage1  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

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朝日記241011  [アーバン幻想]絵画 Stage1  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

2024-10-11 14:13:02 | 自分史

朝日記241011  [アーバン幻想]絵画 Stage1  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

 

朝日記241011b [アーバン幻想]絵画 Stage2  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

 

[アーバン幻想]絵画 Stage1  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

 

View of hill at morning walk

 

tough games to parsimonious mind

bottom side to up side, status inversion.

 

Scenes from Kamishibai storeis

 

Evening Atrocity (variation)

 

Evening Atrocity

What are they doing for?

rat and cat problrm initiation

after key-lock-rule violation ,then

 

朝日記241011b [アーバン幻想]絵画 Stage2  Yassie exhibition”Urban Fantastics”

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朝日記241006n その2 AI Copilotとの哲学的話題でかいわしました

2024-10-05 23:59:21 | 自分史

 

朝日記241006n その2 AI Copilotとの哲学的話題でかいわしました

 

朝日記241129  目次gate AI Copilot氏との哲学的会話 目次へ返る

朝日記241005 その1  AI Copilotと哲学的話題で会話をしました

 

つづき

 

自分 が送信しました:

8.デカルトの考えるから我ありであるが 考えるからひとありとなりますか。

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

デカルトの「我思う、ゆえに我あり (Cogito, ergo sum)」は、個人の自己認識と存在の確実性を強調する命題です。彼は、すべてを疑うことができるが、疑っている自分自身の存在だけは疑えないとしました1

この命題を「考えるからひとあり」と解釈することは、デカルトの意図とは異なります。デカルトは、個々の意識と存在を強調しており、個人の内面的な確実性に焦点を当てています2。一方、「ひとあり」という表現は、個人ではなく、より広い人間全体や社会的存在を指す可能性があります。

デカルトの哲学は、個人の理性と自己認識を基盤としていますが、これを社会的存在や集団としての人間に適用するには、異なる哲学的視点が必要です。例えば、アリストテレスの「ポリス的動物」や、儒教の「仁」の概念は、人間を社会的存在として捉え、個人と共同体の関係を重視します3

このように、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、個人の存在を確立するための命題であり、「考えるからひとあり」とは異なる文脈で理解されるべきです。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1Wikipedia 2草の実堂 3: 穏健なる哲学の話

1ja.wikipedia.org2note.com3kusanomido.com4europa-japan.com5gettyimages.com

自分 が送信しました:

9.ひとが自らを思う、考えるとひとの存在に帰着するか。つまりひとは集団としての自己を同定できるか

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

「ひとが自らを思う、考えるとひとの存在に帰着するか」という問いは、個人と集団の関係性についての深い哲学的探求を含んでいます。以下の視点から考えてみましょう。

個人と集団の自己認識

  1. 個人の自己認識:
    • デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、個人の自己認識と存在の確実性を強調します。ここでは、個々の意識が中心となり、他者や集団との関係は二次的です。
  2. 集団としての自己認識:
    • アリストテレスの「ポリス的動物」や、儒教の「仁」の概念は、人間を社会的存在として捉えます。ここでは、個人は他者との関係性の中で自己を認識し、集団の一部としての自己を同定します。

哲学的視点

  • 社会的構成主義:
    • この視点では、個人の自己認識は社会的文脈や他者との相互作用によって形成されると考えます。ピーター・バーガーとトーマス・ルックマンの「社会的現実の構成」では、現実は社会的に構築されるとされ、個人の自己認識もその一部です。
  • コミュニタリアニズム:
    • この立場では、個人のアイデンティティは共同体や社会の中で形成されると考えます。個人の自由や権利は重要ですが、それは社会的義務や共同体の価値観と調和する形で存在します。

結論

「ひとが自らを思う、考えるとひとの存在に帰着するか」という問いに対して、哲学的には、個人の自己認識は他者や集団との関係性の中で形成されると考えることができます。つまり、個人は集団の一部として自己を同定し、その中で自己の存在を確認することが可能です。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

: Wikipedia : 穏健なる哲学の話 : 社会的現実の構成 : コミュニタリアニズム

自分 が送信しました:

10.意識とはなんですか、デカルトの考えると存在という命題が生まれる必然性はなんでしょうか。

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

意識とは、自己の存在や周囲の環境を知覚し、思考や感情を持つ能力を指します。哲学的には、意識は「自己認識」や「内省」とも関連し、個人が自分自身の存在を認識するプロセスです。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」

デカルトの「我思う、ゆえに我あり (Cogito, ergo sum)」は、彼の方法的懐疑の結果として生まれた命題です。デカルトは、すべてを疑うことから始め、最終的に疑う自分自身の存在だけは疑えないという結論に至りました1

必然性の理由

  1. 方法的懐疑:
  2. 明晰判明な認識:
  3. 存在の確実性:

デカルトの命題は、自己の存在を確立するための出発点であり、哲学的探求の基礎となるものです。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1デカルトの二元論 2デカルトのコギト 3デカルトにおける直観としての「私はある、私は存在する」

1philosophy.hix05.com2nagoya.repo.nii.ac.jp3nora-scholar.net4information-station.xyz

自分 が送信しました:

11.集団としての意識、つまりひととしての意識はありますか。もしそれがあったとしてらその単位での自己同定は、ひとに帰属しますか、構成する個々である個人に帰しますか。

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

集団としての意識、つまり「ひととしての意識」は存在します。これは、個々の意識が集団の中で共有され、集団全体としての意識が形成される現象です。このような意識は、社会心理学や哲学においても重要なテーマとなっています。

集団としての意識

自己同定の帰属

結論

集団としての意識は存在し、その自己同定は状況によって「ひと」にも「個人」にも帰属し得ます。集団の目標や価値観が強く共有されている場合は「ひと」に帰属しやすく、個々の成員が独自の意識を持つ場合は「個人」に帰属します。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

2デジタル化の窓口 3国立情報学研究所 1コトバンク

1kotobank.jp2digi-mado.jp3sucra.repo.nii.ac.jp4kagaku-jiten.com

 

自分 が送信しました:

12.価値もしくは価値観が存在する哲学的根拠はなんですか。価値は主観において存在するのか、客観において存在するのか。そのことについて論じた哲学者の名前を挙げていただけますか。

 

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

価値や価値観の存在についての哲学的根拠は、主観的なものと客観的なものの両方の視点から議論されています。以下に、主観的価値と客観的価値について論じた哲学者とその考え方を紹介します。

主観的価値

客観的価値

結論

価値が主観において存在するか、客観において存在するかについては、哲学者によって異なる見解が示されています。主観的価値は個々の感情や経験に基づくものであり、客観的価値は普遍的な法則や直観に基づくものとされています。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1わかる哲学 2: 哲学の歴史 3カント倫理学 4: G.E.ムーアの倫理学

1japanische-kant-gesellschaft.org2wakatetsu.com3utitokyo.org4oshiete.goo.ne.jp5media.gettyimages.com6media.gettyimages.com7media.gettyimages.com+3 その他

自分 が送信しました:

13.自由意志とはなんでしょうか。自由意志と価値との関係、とくに個々の感情、経験との関係、および直観との関係はどうですか。

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

自由意志とは、個人が自らの意思で行動を選択し、その選択に責任を持つ能力を指します。哲学的には、自由意志は決定論(すべての出来事が因果関係によって決定されるという考え)との関係で議論されることが多いです。

自由意志と価値の関係

自由意志と価値の関係は、個々の感情や経験、直観と深く結びついています。

  1. 個々の感情と経験:
  2. 直観:

自由意志と決定論

自由意志と決定論の関係については、以下のような立場があります:

結論

自由意志は、個々の感情や経験、直観と密接に関連しており、これらの要素が価値判断に影響を与えます。哲学者たちは、自由意志と価値の関係についてさまざまな視点から議論しており、主観的な価値観と客観的な価値観の両方が存在することを示しています。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1: わかる哲学 2: G.E.ムーアの倫理学 3: カント倫理学 4: サルトルの実存主義

1jstage.jst.go.jp2jstage.jst.go.jp3yasutakaakimoto.com4kazuosite.com5jstage.jst.go.jp6doi.org+2 その他

自分 が送信しました:

14.自由意志を発生させるものは何でしょうか。超越とはなんでしょうか。観念を形成するのが自由意志でしょうか。観念と超越との間に境界をひくことが

 

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

自由意志についての問いは非常に深遠で、哲学や心理学、神経科学など多くの分野で議論されています。自由意志とは、外部からの強制や内的な決定要因に左右されずに、自分自身の意思で行動を決定できる能力を指します1。これには人格、価値観、感情、欲望、道徳、責任などが影響します2

超越とは、通常の経験や認識を超えた存在や状態を指します。哲学的には、カントの超越論的観念論が有名で、彼は人間の認識が経験を超えて普遍的な真理に到達する可能性を探求しました34

観念は、私たちの心の中で形成される概念やイメージのことです。観念を形成するのが自由意志かどうかについては、観念が私たちの意思決定に影響を与える一方で、自由意志が観念を生み出すとも考えられます。

観念と超越の間に境界を引くことは難しいですが、観念は私たちの経験や認識に基づくものであり、超越はそれを超えた領域に関わるものと考えることができます。

このテーマについてさらに深く掘り下げたい場合、特定の哲学者や理論について調べるのも良いかもしれません。どの部分に特に興味がありますか?

1philosophy-mania.com2kazuosite.com3h-up.com4japanische-kant-gesellschaft.org5ja.wikipedia.org6ritsumeikeizai.koj.jp7philosophy.hix05.com8ja.wikipedia.org9minpou.jp10agora-web.jp11bing.com12kotobank.jp13oxforddictionaries.com+9 その他

自分 が送信しました:

15.自由意志を発生させる源もしくは根源として理性や悟性、そして感情が考えられます。この関係を教えていだだけますか。これらの作動の結果を吟味し、内容を選択決定する判断の位置づけを教えてください。

回答を生成しています… 

Copilot が送信しました:

自由意志の概念は、哲学や心理学において非常に重要なテーマです。自由意志を発生させる源として、理性、悟性、感情がどのように関与しているかについて説明します。

理性、悟性、感情の関係

  1. 理性:
  2. 悟性:
  3. 感情:

判断の位置づけ

自由意志における判断は、これらの要素が相互に作用する結果として生じます。

結論

自由意志は、理性、悟性、感情の相互作用によって形成されます。これらの要素がバランスよく機能することで、個人は自分の行動を選択し、決定することができます。理性は長期的な視点からの判断を提供し、悟性は情報の整理と理解を助け、感情は行動の動機を提供します。この三者の調和が、自由意志の実現に不可欠です。

何か他に知りたいことがあれば、教えてくださいね。

1gssc.dld.nihon-u.ac.jp2information-station.xyz3kazuosite.com4yasutakaakimoto.com5philosophy-mania.com6ja.wikipedia.org7minpou.jp8agora-web.jp9bing.com10kotobank.jp11oxforddictionaries.com+7 その他

自分 が送信しました: 

16.科学的思考仮説や実験検証、これを近代科学といえば、これが西洋でのみうまれたのは、自由意志と理性に対する肯定的者意識 あるいは実証主義が決定的歴史的背景基盤ですか。逆に言えば東洋の歴史的背景からは、根底として不毛と考えていいでしょうか。

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

科学的思考や実験検証の方法が西洋で発展した背景には、自由意志と理性に対する肯定的な意識や実証主義が大きな役割を果たしました。以下にその歴史的背景と東洋の視点について説明します。

西洋における科学的思考の発展

  1. ルネサンスと啓蒙時代:
  2. 実証主義:
  3. 自由意志と理性:

東洋における科学的思考

  1. 伝統的な知識体系:
  2. 科学的探求の例:
    • しかし、東洋でも科学的探求が行われていました。例えば、中国の宋代には、沈括や郭守敬などの科学者が天文学や地理学、医学などの分野で重要な貢献をしました。
  3. 文化的背景:

結論

西洋における科学的思考の発展は、自由意志と理性に対する肯定的な意識や実証主義が大きな役割を果たしましたが、東洋でも独自の科学的探求が行われていました。東洋の科学的探求が不毛であったとは言えず、むしろ異なる文化的背景に基づく独自のアプローチが存在していたと言えます。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1History of scientific method - Wikipedia 2Scientific Method - World History Encyclopedia 3Scientific Revolution - World History Encyclopedia 4: 東洋の科学的探求 : 中国の科学者

1en.wikipedia.org2worldhistory.org3worldhistory.org4worldhistory.org

自分 が送信しました:

17.お答えで、「自由意志とは、個人が自らの意思で行動を選択し、その選択に責任を持つ能力を指します。」とありました。 個人とひととの間での自由意志のずれが当然かんがえられます。とくに選択の責任やその結果への責任の帰属についていかにお考えですか

回答を生成しています… 

Copilot が送信しました:

個人と集団(ひと)との間での自由意志のずれや、選択の責任およびその結果への責任の帰属については、哲学的にも社会的にも重要なテーマです。以下にその関係性と考え方を説明します。

個人の自由意志と責任

  1. 個人の選択と責任:
    • 個人が自由意志に基づいて行動を選択する場合、その選択に対する責任は基本的に個人に帰属します。これは、個人が自らの意思で行動を決定し、その結果に対して責任を持つという考え方です。
    • 例えば、個人が法律を破る行為を選択した場合、その行為の結果としての罰則や社会的な非難は個人に帰属します。

集団の自由意志と責任

  1. 集団の選択と責任:
    • 集団としての意思決定が行われる場合、その選択に対する責任は集団全体に帰属することが多いです。これは、集団のメンバーが共同で意思決定を行い、その結果に対して連帯責任を持つという考え方です。
    • 例えば、企業が環境に有害な行為を行った場合、その責任は企業全体に帰属し、経営陣や従業員が連帯して責任を負うことになります。

個人と集団のずれ

  1. ずれの発生:
    • 個人の自由意志と集団の意思決定が一致しない場合、責任の帰属にずれが生じることがあります。個人が集団の決定に従わざるを得ない場合、その結果に対する責任がどのように分配されるかが問題となります。
    • 例えば、企業の方針に反対する従業員が、その方針に従わざるを得ない場合、その従業員が結果に対してどの程度責任を負うべきかが議論の対象となります。

哲学的視点

  1. 倫理的考察:
    • エマニュエル・レヴィナスハンナ・アーレントなどの哲学者は、個人と集団の責任について深く考察しています。レヴィナスは、他者に対する責任を強調し、個人の倫理的な選択が集団の中でどのように位置づけられるかを探求しました。
    • アーレントは、全体主義の中での個人の責任について論じ、個人が集団の中でどのように自由意志を行使し、責任を持つべきかを考察しました。

結論

個人と集団の間での自由意志のずれは、責任の帰属に複雑な問題を引き起こします。個人の選択に対する責任は基本的に個人に帰属しますが、集団としての意思決定が行われる場合、その責任は集団全体に帰属することが多いです。哲学的には、個人と集団の責任の関係性について多くの議論が行われており、倫理的な視点からの考察が重要です。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

: 自由意志と責任 : 集団責任の倫理 : 個人と集団の責任 : エマニュエル・レヴィナスの倫理学 : ハンナ・アーレントの政治哲学

以上

 

 

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朝日記241005 その1  AI Copilotと哲学的話題で会話をしました

2024-10-05 23:40:47 | 自分史

朝日記241005  その1 AI Copilotと哲学的話題で会話をしました

朝日記241006n その2 AI Copilotとの哲学的話題でかいわしました

 

このところ土曜日のTVの番組に魅力がなく、マンネリでも「寅さん」のようなのが

そろそろ見たいとおもっていましたら、これから始まるというので、これですごしました。

おもえばこのシリーズは哲学的テーマをそっと裏側に抱えていてそれがひとをひきつけるものとなっていることをあらためて発見する思いでした。過分なもちあげかとおもっていましたが、この映画は哲学としても一級であり、人類の世界遺産になるとおもいました。

観終わっていまえば、その大事なところが具体的に何であったか、残念ながら蒸発しますが、ふとダンテの神曲というのが、たしかコメディという原題であったとおもい、わらわせながら人間の本質に食い込んで、ときに勇気や救いを望見させるということでとりあえずダンテの神曲をとりあげました。ドン・キホーテやシェイクスピアなどと寅さんを同列におくという魂胆をもちました。

それと、そうだAIの能力を試すこともあり、これが以下の哲学談義になったわけです。

個人と「ひと」の違い、個人と集団、自己認識ということ、「寅さん」のこと、考えることと存在すること、それを駆動した「意識」とは、集団としての意識、自由意志、理性 悟性 感性 そして判断ということ、そして近代科学の誕生についてとわたりました。

本当は、さらに脳神経科学の場と意識にいたり、哲学と物理主義との意識問題に至りたかったのですが、一時間以上すぎていて先方が「今回はこれまで」と打ち切ってきたので一休みとしました。

機械側はかなり丁寧に対応してくれ、こちらも知らないうちに敬語を使っていました。

この十数年、この話題で研究をし、論文を書いてきたので、相手の答えのレベルを評価はできるとおもいました。茂木健一郎さんのImageと名する神経科学の講座で意識問題が語られていたので、そこまでをねらうものであったのですが今回はここまでです。

特に参考になったのは、読むべき文献を教えてもらえたことでしょうか。

やはりこちらがわの質問の構成が大切とおもいました。ポイントはAsk the questionであり、Ask the answereよりが実りがあるとおもっています。

つれづれごと AI Copilotとの対話 2024/10/05

課題 哲学課題への対話

 

1.ルネサンス時代 文学

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

ルネサンス時代の文学は、14世紀から16世紀にかけてヨーロッパ全域で発展しました。この時代の文学は、古代ギリシア・ローマの古典文学の復興、人間中心の世界観、現実的な写実などが特徴です12

代表的な作家と作品:

  • ダンテ・アリギエーリ: 『神曲』は中世とルネサンスをつなぐ重要な作品です。
  • ジョヴァンニ・ボッカッチョ: 『デカメロン』は短編小説集で、人間の多様な側面を描いています。
  • フランチェスコ・ペトラルカ: 『カンツォニエーレ』は恋愛詩集で、ソネット形式を広めました。
  • ウィリアム・シェイクスピア: 『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』など、多くの名作を生み出しました。

この時代の文学は、活版印刷術の発明によって広く普及し、思想や文化の共有が促進されました1

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1europa-japan.com2ja.wikipedia.org3weblio.jp4weblio.jp5media.gettyimages.com6media.gettyimages.com+1 その他

自分 が送信しました:

2.『神曲』

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

『神曲』は、イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリによって14世紀初頭に書かれた叙事詩です。この作品は、地獄、煉獄、天国の三部構成で、ダンテ自身が主人公としてこれらの領域を旅する物語です。

主な内容:

  • 地獄篇 (Inferno): ダンテが詩人ウェルギリウスに導かれ、罪人たちが罰を受ける地獄を巡ります。
  • 煉獄篇 (Purgatorio): 煉獄で魂が浄化される過程を描きます。
  • 天国篇 (Paradiso): ダンテがベアトリーチェに導かれ、天国で神の栄光を目の当たりにします。

『神曲』は、当時の宗教観や倫理観を反映しつつ、豊かな象徴と寓意に満ちた作品です。また、イタリア語で書かれたことから、イタリア文学の発展にも大きく寄与しました。

他に『神曲』について知りたいことがあれば教えてくださいね!

自分 が送信しました:

3.二元論とダンテ 神曲 について

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

ダンテの『神曲』における二元論は、善と悪、天国と地獄、希望と絶望といった対立する概念を通じて表現されています。特に、地獄篇と煉獄篇の対比が顕著です。

地獄篇では、罪を犯した魂が永遠の罰を受ける場所として描かれ、絶望が支配しています。一方、煉獄篇では、罪を浄化し、最終的に天国へ向かう希望が描かれています1

ダンテは、スコラ哲学の影響を受けつつも、詩人的な直感を用いて、救済の可能性を探求しました。彼は、地獄と天国の間に煉獄を設けることで、善悪の二元論に対する柔軟な解釈を提示しています1

このように、『神曲』は単なる宗教的な教義の表現にとどまらず、人間の罪と救済、絶望と希望の複雑な関係を深く掘り下げた作品です。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1man-in-the-mirror.org2programming-cafe.com3u-tokai.ac.jp4kirishin.com5book.asahi.com

自分 が送信しました:

4.ダンテの哲学は二元論か

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

ダンテの哲学が完全に二元論に基づいているかどうかは議論の余地があります。『神曲』において、ダンテは善と悪、天国と地獄といった対立する概念を強調していますが、彼の作品は単純な二元論を超えた複雑な思想を含んでいます。

二元論的要素:

  • 地獄と天国: 善と悪の明確な対立を描いています。
  • 罪と救済: 罪を犯した者が罰を受ける一方で、救済の可能性も示されています。

二元論を超える要素:

  • 煉獄: 煉獄の存在は、罪と救済の間にある中間的な状態を示し、単純な二元論を超えた複雑な倫理観を反映しています。
  • 人間の自由意志: ダンテは人間の自由意志とその選択の重要性を強調しており、これが善悪の単純な対立を超えた深い哲学的探求を示しています。

このように、ダンテの哲学は二元論的な要素を含みつつも、それを超えた複雑な人間観や倫理観を描いています。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

自分 が送信しました:

5.自由意志と二元論

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

自由意志と二元論は、哲学において重要なテーマです。二元論は、物質と精神、善と悪など、対立する二つの実体や概念を認める立場です。一方、自由意志は、人間が自らの意思で行動を選択できる能力を指します。

二元論と自由意志の関係:

自由意志の哲学的立場:

ダンテの『神曲』においても、自由意志と二元論のテーマが見られます。彼は、地獄と天国、罪と救済といった二元論的な対立を描きつつ、人間の自由意志とその選択の重要性を強調しています。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1w.atwiki.jp2ja.wikipedia.org3kotobank.jp4ku-haku.jp5note.com

自分 が送信しました:

6.映画寅さんの哲学的根底があるとすれば類似している哲学は何ですか

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

映画『男はつらいよ』シリーズの主人公、車寅次郎(寅さん)の哲学的根底には、いくつかの重要なテーマが含まれています。これらのテーマは、特定の哲学的伝統や思想と類似しています。

  1. 人情と人間関係: 寅さんは、物質的な成功よりも人間関係や人情を重視します。この価値観は、儒教の「仁」や「礼」に通じるものがあります。儒教では、人間関係の調和と相互尊重が重要視されます1
  2. 諦観と受容: 寅さんの恋愛模様や人生観には、しばしば「諦観」の哲学が見られます。これは、仏教の「無常観」や「諦観」に通じるもので、物事が思い通りにならないことを受け入れ、それでも前向きに生きる姿勢を示しています2
  3. 庶民の視点: 寅さんは、庶民の視点から社会を見つめ、現代社会のプレッシャーやストレスに対する批判を含んでいます。これは、道教の「無為自然」や「素朴な生活」に通じるものがあります。道教では、自然と調和したシンプルな生活が理想とされます3
  4. 自由と旅: 寅さんの旅する姿は、自由を求める精神を象徴しています。これは、実存主義の「自由と選択」のテーマに通じます。実存主義では、人間は自らの選択によって自己を形成し、自由を追求する存在とされます4

これらの哲学的要素が組み合わさり、寅さんのキャラクターと物語に深みを与えています。寅さんの生き方や価値観は、多くの人々に共感を呼び起こし、時代を超えて愛され続けています。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1映画が好き! 2サライ.jp 3MSKJ 4Into Japan Waraku

1movie-love123.hatenablog.com2serai.jp3intojapanwaraku.com4mskj.or.jp

自分 が送信しました:

7.人間を考えるとき個人individualとひとoneとの違いはなんですか。哲学でその違いをどのように考えていますか。

回答を生成しています…

Copilot が送信しました:

「個人 (individual)」と「ひと (one)」の違いは、哲学的に考えると興味深いテーマです。これらの概念は、異なる文脈や視点から人間を捉える際に使われます。

個人 (Individual)

ひと (One)

比較と統合

このように、「個人」と「ひと」は異なる視点から人間を捉えるための重要な概念であり、哲学的な議論においても多くの示唆を与えています。

他に知りたいことがあれば教えてくださいね!

1HIMOKURI 2穏健なる哲学の話 3Starchild.fm

1wearewhatwerepeatedlydo.com2philosophy-tetsugaku.com3starchild.fm4chielabo.com

朝日記241006n その2 AI Copilotとの哲学的話題でかいわしました

 

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朝日記 240923 「多重質問の誤謬」loaded questionとたたかおう 「橋下徹に執着される高市早苗」

2024-09-23 17:38:20 | 自分史

 

朝日記 240923 「多重質問の誤謬」loaded questionとたたかおう「橋下徹に執着される高市早苗」

 

自民党総裁選の候補者取材が各TV地上波で公開されています。

YouTubeで考えるメディアの中立公正性について考える材料として以下を掲載します。ご覧ください。

【橋下徹に執着される高市早苗】中国に忖度しまくりの橋下徹が、執念深く高市早苗を口撃する【手軽に国会中継】 (youtube.com)

 

 

徒然こと1「多重質問の誤謬」loaded questionとたたかおう

   自民党総裁選挙で目立とうとしたTV司会者の醜態

 

1.自民党の総裁候補たちが一TV局に身柄を拘束された状況を作っている。2. そこで司会者橋下氏が特殊な状況設定をして回答者を貶める質問を用意した。3.Yesと答えてもNoとこたえても司会者の罠に陥る、いわゆる「多重質問の誤謬」loaded questionであり、質問そのものが非道徳であり論理的無効である。4.たとえば、敵国に完全包囲された状況を最初にもちだして、戦うのか、引くのかと問うている。これはまったく思考の遊びであり答えてを貶める以外に考えられない。5.高市氏、河野氏、等は有事を想定した国防、外交の国家機能と法行政機構造の能力をたかめて現実化していく国民的国家的施策を論じているときに、6. 司会者自身の見栄えを前面にだし、どうだおれは頭がいいだろうという態度に辟易とするおもいであった。7. 各候補者が自らを問う国のリーダーとしての資質つまり資性と識見を視聴者にみくらべるように配慮するのが司会者の役割りではないであろうか。8.このTV局(フジテレか)も公開討論会についてのメディアとしての中立性、公平性が疑われる事態になったことを視聴者国民に謝罪弁明すべきこととおもう。9 再度いいたい、loaded question「多重質問の誤謬」loaded questionというのは、人の前に立つ人間がしてはならないもっとも人間として卑怯な行為であること、残念ながらそれを平然となす人間はこころ悪しきものとして人前から排除されるべきことを主張しようではありませんか。10.先回、石丸候補にこのloaded questionをしてかみついた古市某などもまさにこの類であり、人間としての品性のひくい例であることをおもいだしました。

 

【橋下徹に執着される高市早苗】中国に忖度しまくりの橋下徹が、執念深く高市早苗を口撃する【手軽に国会中継】 (youtube.com)

 

徒然こと2 多重質問の誤謬について

世間にはこういうことに長けた人士がいるのですね。

法律をやっている連中は多分、常とう手段として使っているのでしょうか。

誘導尋問などもこの系統にはいるように思いました。

品性の悪い人間をみやぶらないといけませんね。

以下簡単な説明を転載します;

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

多重質問の誤謬(たじゅうしつもんのごびゅう、loaded question, complex question fallacy)は誤謬の一つである。「多問の虚偽」[1]や「複問の虚偽」[2]とも。

多重質問(たじゅうしつもん、complex question, trick question, multiple question, plurium interrogationum)は、議論に関わる人々が受け入れていない、あるいは証明されていない前提に基づく質問。多重尋問(たじゅうじんもん)とも。それに起因する誤謬を多重質問の誤謬という[3] 。たとえば「あなたはまだ妻を虐待しているのか?」といった質問がある。この質問に対しては「はい」と答えようが「いいえ」と答えようが、「あなた」には妻がいて過去に虐待したことがあるということを認めたことになる。つまりこれらの事実が質問の「前提」とされたため、相手は多重質問の誤謬の罠にかけられ、一つの答えしかできない状況に追い込まれる[3]。質問者は修辞的にこのような質問を行い、特に返答を期待していないことが多い[3]

詳しくは、以下をクリックしてください。おもしろいですよ;

多重質問の誤謬 - Wikipedia

 

 

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朝日記240919 AI検索で (あらいやすまさ 朝日記 音楽絵画)で検索すること

2024-09-19 01:46:57 | 自分史

 

朝日記240919 AI検索で (あらいやすまさ 朝日記 音楽絵画)で検索すること

あらいやすまささんの「朝日記」シリーズは、音楽と絵画を融合させた独自のアート形式で知られています。彼の作品は、視覚と聴覚の両方を楽しむことができる「音楽絵画(音楽紙芝居)」として多くの人々に親しまれています。

例えば、「朝日記 音楽絵画No.133 a fall of 2012」では、奥多摩の御岳や箱根の紅葉を描いた絵画と、トスティの歌曲「もはや君を愛さず」の音楽が組み合わされています1。この作品は、自然の美しさと音楽の調和を楽しむことができる一例です。

また、「朝日記190717 二重唱『浜辺のうた』音楽絵画アーカイヴと今日の絵」では、デュエットの音楽と絵画が融合されており、視覚と聴覚の両方で楽しむことができます2

 

また、Asanikki 240606 Outlines on Yasumasa Arai with keys(Yasumasa Arai, Asanikki, Ongaku kaiga)

 2024/06/06> (英文での検索の結果)です;

Asanikki 240606 Outlines on Yasumasa Arai with keys(Yasumasa Arai, Asanikki, Ongaku kaiga)

2024-06-06 12:30:50 | 自分史

ご覧ください。和文での検索ともつながっています。

 

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朝日記240901 Le chatbot 長靴をはいた猫のこと

2024-09-01 10:28:02 | 自分史

朝日記240901 Le chatbot 長靴をはいた猫のこと

七年まえに投稿した以下の朝日記に、三十件ちかくのコメント交流があるのがわかり、その中味の新鮮なることに驚いています。

朝日記170605 フレー数理技術と私の夏の午後そして今日の絵

数学をつかって技術や経営の実践を支援していくという部門が、多分、そのままであるはずはありませんが、「末裔」の技術者たちが経営の中核に入っているということらしい。後輩たちへのエールの朝日記でした。

以下はそのなかからひとつ

1.科学と宗教の鉄の道 (文明評論家)

とそれと筆者のコメント

2.Le chatbot 長靴をはいた猫のことを

おおくりします。

 

 

1.科学と宗教の鉄の道 (文明評論家)
2024-08-21 18:12:30
一神教はユダヤ教をその祖とし、キリスト教、イスラム教が汎民族性によってその勢力を拡大させたが、その一神教の純粋性をもっとも保持し続けたのは後にできたイスラム教であった。今の科学技術文明の母体となったキリスト教は多神教的要素を取り入れ例えばルネサンスなどにより古代地中海世界の哲学なども触媒となり宗教から科学が独立するまでになった。一方でキリスト教圏内でも科学と宗教をむしろ融合しようとする働きにより、帝国主義がうまれた。宗教から正当化された植民地戦争は科学技術の壮大な実験場となり、この好循環により科学と宗教を融合させようというのである。その影響により非キリスト教圏で起きたのが日本の明治維新という現象である。この日本全土を均質化した市場原理社会する近代資本主義のスタートとされる明治維新は欧米などの一神教国が始めた帝国主義的な植民地拡張競争に危機感を覚えたサムライたちが自らの階級を破壊するといった、かなり独創的な革命でフランス革命、ピューリタン革命、ロシア革命、アメリカ独立戦争にはないユニークさというものが”革命”ではなく”維新”と呼んできたのは間違いない。しかしその中身は「革命」いや「大革命」とでもよべるべきものではないだろうか。

 

 
2.Le chatbot長靴をはいた猫のこと (Yasumasa Arai)
2024-09-01 10:06:36
>文明評論家 さんへ
>科学と宗教の鉄の道... への返信

深い啓示的な洞察として読ませていただきました。数学、論理、形而上学、超越論への哲学的論考整理が望まれると思います。(対象ーカテゴリー)、(関数functionー関手fanctor)、(それらの相互の相似構造間の矢印(自然変換))とといった数理構造と信号の論理展開について、数学の「圏論」からの思考パラダイム転換が注目されています。たとえば脳神経系と信号ながれのグラフ・ネットワーク構造などこの筋での現象モデルについての外的情報とそれに対応する内的モデル(意識)との統合的枠組みでのとらえ方が模索されています。つまり人間「意識」の取り込みを如何に論理化できるかです。システム機能論からの延長で、たとえばchatbotなどAIは試行開発期間であるとはいえ、もはや爆発的に一般利用普及過程に入ってきていますね。Googleのchatbot自体がおこなう判断自体の適否の評価判断はやはり生身の人間に直に帰されることには違いないとおもいます。特に第一段階術語論理(first order prediacte of logic)のような量的条件に記述できるものはAI判断は客観的評価内でのfeedbackが効きやすいですが、言語文書記述のようなpredicateつまり第二段階術語論理への論理行為には誤謬を含むということをみとめておかないと悲惨な結果がもたらされることになります。(Goedelの不完全性定理をもふくみます)したがってたとえば圏論からの思考構造とそれによる演算化の応用展開には、ここでたちどまって技術革新論として野放しにせず、結論にいたった前提条件や制約条件の明示について根本論としての専門的公的論議に付すことが必要になります。これは社会的晒し(disposition)として試験期間であることを公的に態度明示すべきことかもしれません。いずれにしても何かむずかしい課題でたとえばchatbotなどからの答えを拝受する社会風習はとどめおくべきとおもいました。ちなみにいま世界的にもっとも信頼の高いスタンフォード哲学百科などで「人工意識」や「意識」の項などをも内容reviewが敵的におこなわれ参考になります。またwikiの英語版なども質が高いと思います。総じて前提として哲学的にmonad論に立ち帰っておくことが前提になっているようです。プラグマティズムの祖であるPeirceにはじまる対象―信号-観察のTriadeの発想がここで生きてきたとみます。デカルトの二元論からスピノザの一元論(qualia)への観念回帰をも含めていますが、哲学系と物理系の学術界は、ここで甲乙の決着をつけたわけではありません。二十世紀の終わりの十年以降、目下一旦休戦して、すくなくとも物理系にも「こころ」について目をそむけることは避けることではたちゆかなくなった、つまり意識と体問題'mind-body problem)、つまり主観への世界との取り組みをみとめて、協力しようというところ(実験)で手打ちをしたとみます。脱線になりますがChatbotって、これは上のle chatbot(長くつを吐いた猫)からきたものとおもい口元をゆるめます。AIのもつ判断誤謬に対する危機感からくるものであるとおもいます。あえて申しますとまずは素朴集合naive set theoryについてのBertland Russelのparadoxからの数学論理解決法からはじまる現代集合論・選択理論は第一術語論理つまり科学技術展開にはそのままみとめたとしても、再度、文章術語論理への形而上系と論理系との関わりに集合論思考との関わりに目を向けることだであろうとおもいます。デカルトのまず「考える」におくその根源はなにか、超越領域-主観への回帰命題としておきます。話の動機が実社会(企業)での数理技術の活躍と今後の期待でしたが、「KPI競合モデル」や「関数接合論」のお話は大変勉強になりました。ありがとうございました。
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