Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記240919 AI検索で (あらいやすまさ 朝日記 音楽絵画)で検索すること

2024-09-19 01:46:57 | 自分史

 

朝日記240919 AI検索で (あらいやすまさ 朝日記 音楽絵画)で検索すること

あらいやすまささんの「朝日記」シリーズは、音楽と絵画を融合させた独自のアート形式で知られています。彼の作品は、視覚と聴覚の両方を楽しむことができる「音楽絵画(音楽紙芝居)」として多くの人々に親しまれています。

例えば、「朝日記 音楽絵画No.133 a fall of 2012」では、奥多摩の御岳や箱根の紅葉を描いた絵画と、トスティの歌曲「もはや君を愛さず」の音楽が組み合わされています1。この作品は、自然の美しさと音楽の調和を楽しむことができる一例です。

また、「朝日記190717 二重唱『浜辺のうた』音楽絵画アーカイヴと今日の絵」では、デュエットの音楽と絵画が融合されており、視覚と聴覚の両方で楽しむことができます2

 

また、Asanikki 240606 Outlines on Yasumasa Arai with keys(Yasumasa Arai, Asanikki, Ongaku kaiga)

 2024/06/06> (英文での検索の結果)です;

Asanikki 240606 Outlines on Yasumasa Arai with keys(Yasumasa Arai, Asanikki, Ongaku kaiga)

2024-06-06 12:30:50 | 自分史

ご覧ください。和文での検索ともつながっています。

 

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朝日記240901 Le chatbot 長靴をはいた猫のこと

2024-09-01 10:28:02 | 自分史

朝日記240901 Le chatbot 長靴をはいた猫のこと

七年まえに投稿した以下の朝日記に、三十件ちかくのコメント交流があるのがわかり、その中味の新鮮なることに驚いています。

朝日記170605 フレー数理技術と私の夏の午後そして今日の絵

数学をつかって技術や経営の実践を支援していくという部門が、多分、そのままであるはずはありませんが、「末裔」の技術者たちが経営の中核に入っているということらしい。後輩たちへのエールの朝日記でした。

以下はそのなかからひとつ

1.科学と宗教の鉄の道 (文明評論家)

とそれと筆者のコメント

2.Le chatbot 長靴をはいた猫のことを

おおくりします。

 

 

1.科学と宗教の鉄の道 (文明評論家)
2024-08-21 18:12:30
一神教はユダヤ教をその祖とし、キリスト教、イスラム教が汎民族性によってその勢力を拡大させたが、その一神教の純粋性をもっとも保持し続けたのは後にできたイスラム教であった。今の科学技術文明の母体となったキリスト教は多神教的要素を取り入れ例えばルネサンスなどにより古代地中海世界の哲学なども触媒となり宗教から科学が独立するまでになった。一方でキリスト教圏内でも科学と宗教をむしろ融合しようとする働きにより、帝国主義がうまれた。宗教から正当化された植民地戦争は科学技術の壮大な実験場となり、この好循環により科学と宗教を融合させようというのである。その影響により非キリスト教圏で起きたのが日本の明治維新という現象である。この日本全土を均質化した市場原理社会する近代資本主義のスタートとされる明治維新は欧米などの一神教国が始めた帝国主義的な植民地拡張競争に危機感を覚えたサムライたちが自らの階級を破壊するといった、かなり独創的な革命でフランス革命、ピューリタン革命、ロシア革命、アメリカ独立戦争にはないユニークさというものが”革命”ではなく”維新”と呼んできたのは間違いない。しかしその中身は「革命」いや「大革命」とでもよべるべきものではないだろうか。

 

 
2.Le chatbot長靴をはいた猫のこと (Yasumasa Arai)
2024-09-01 10:06:36
>文明評論家 さんへ
>科学と宗教の鉄の道... への返信

深い啓示的な洞察として読ませていただきました。数学、論理、形而上学、超越論への哲学的論考整理が望まれると思います。(対象ーカテゴリー)、(関数functionー関手fanctor)、(それらの相互の相似構造間の矢印(自然変換))とといった数理構造と信号の論理展開について、数学の「圏論」からの思考パラダイム転換が注目されています。たとえば脳神経系と信号ながれのグラフ・ネットワーク構造などこの筋での現象モデルについての外的情報とそれに対応する内的モデル(意識)との統合的枠組みでのとらえ方が模索されています。つまり人間「意識」の取り込みを如何に論理化できるかです。システム機能論からの延長で、たとえばchatbotなどAIは試行開発期間であるとはいえ、もはや爆発的に一般利用普及過程に入ってきていますね。Googleのchatbot自体がおこなう判断自体の適否の評価判断はやはり生身の人間に直に帰されることには違いないとおもいます。特に第一段階術語論理(first order prediacte of logic)のような量的条件に記述できるものはAI判断は客観的評価内でのfeedbackが効きやすいですが、言語文書記述のようなpredicateつまり第二段階術語論理への論理行為には誤謬を含むということをみとめておかないと悲惨な結果がもたらされることになります。(Goedelの不完全性定理をもふくみます)したがってたとえば圏論からの思考構造とそれによる演算化の応用展開には、ここでたちどまって技術革新論として野放しにせず、結論にいたった前提条件や制約条件の明示について根本論としての専門的公的論議に付すことが必要になります。これは社会的晒し(disposition)として試験期間であることを公的に態度明示すべきことかもしれません。いずれにしても何かむずかしい課題でたとえばchatbotなどからの答えを拝受する社会風習はとどめおくべきとおもいました。ちなみにいま世界的にもっとも信頼の高いスタンフォード哲学百科などで「人工意識」や「意識」の項などをも内容reviewが敵的におこなわれ参考になります。またwikiの英語版なども質が高いと思います。総じて前提として哲学的にmonad論に立ち帰っておくことが前提になっているようです。プラグマティズムの祖であるPeirceにはじまる対象―信号-観察のTriadeの発想がここで生きてきたとみます。デカルトの二元論からスピノザの一元論(qualia)への観念回帰をも含めていますが、哲学系と物理系の学術界は、ここで甲乙の決着をつけたわけではありません。二十世紀の終わりの十年以降、目下一旦休戦して、すくなくとも物理系にも「こころ」について目をそむけることは避けることではたちゆかなくなった、つまり意識と体問題'mind-body problem)、つまり主観への世界との取り組みをみとめて、協力しようというところ(実験)で手打ちをしたとみます。脱線になりますがChatbotって、これは上のle chatbot(長くつを吐いた猫)からきたものとおもい口元をゆるめます。AIのもつ判断誤謬に対する危機感からくるものであるとおもいます。あえて申しますとまずは素朴集合naive set theoryについてのBertland Russelのparadoxからの数学論理解決法からはじまる現代集合論・選択理論は第一術語論理つまり科学技術展開にはそのままみとめたとしても、再度、文章術語論理への形而上系と論理系との関わりに集合論思考との関わりに目を向けることだであろうとおもいます。デカルトのまず「考える」におくその根源はなにか、超越領域-主観への回帰命題としておきます。話の動機が実社会(企業)での数理技術の活躍と今後の期待でしたが、「KPI競合モデル」や「関数接合論」のお話は大変勉強になりました。ありがとうございました。
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朝日記240831 「だれも来ない展覧会」で受付当番をしました、娘Cocoへの手紙

2024-08-31 10:04:56 | 自分史

 

朝日記240831 「だれも来ない展覧会」で受付当番をしました、娘Cocoへの手紙

 

Coco様

今回(第30回町田市展)コンペでいただいた「くさかべ賞 」受賞「芭蕉の樹のある風景」の展示風景です。

  だいたい出品のときに不安気な作品のほうが

  ヒットする割合が高いようにおもいました。思いっきりが勝負か。

  こんなのが絵かとみずから不安になるようなケースです。

  「わかいひとの作かと思っていたら、おじいちゃまでしたのね。」

  と声をかけてくれた老婦人がいました。

  これまでの作品をおぼえておられたににはおどろきでした。

  近くに住む畏友であるAZさんが「まちだの長谷川利行」と評してくれていてね、

  そのひとが、イタリアンレストランに合う作品ですねといっておられた。

  もうひとり、今世田谷美術館でやっている、そう須田国太郎を彷彿させる画風だと

  言っていたひとがいた。弟住夫画伯もそれをみとめていて国太郎になりきってみたらどうかと

  言っていました。 わが父健蔵さんが国太郎がすきで、荒井家のDNAにこの系統の

  血があるといって笑っていました。夫君Takahiro sanによろしくね。

  昨日は会場当番で、雨が芯まで通ってしまいました。靴と着替えを持っていったのでした。

  「だれも来ない展覧会」で受付当番をしました、宮沢賢治の世界でした。

  天候がこのようなので、展覧会は他意なく、どうかご放念しておいてください。Takahiro sanによろしくね。

 

  以上。DAD

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朝日記240823 スイスは「武装中立国」ということからかんがえること、「国富」の価値観か。

2024-08-23 17:45:58 | 社会システム科学

朝日記240823 スイスは「武装中立国」ということからかんがえること、「国富」の価値観か。

記事配信「現代ビジネス」からの配信である:

スイスの国の守りは極めて堅固だ。スイスは永世中立国ならぬ「武装中立国」なのだ。

ドイツ在住のベストセラー作家・川口マーン惠美氏と青山学院大学教授・福井義高氏が、小国ながら「武装中立国」を堅持するスイスの国家観について語り合う。

本記事;

知ってはいけない、世界の《残酷な常識》日本人は知らない…スイスがじつはヨーロッパの人たちから嫌われている理由「アルプスの少女ハイジ」とは程遠かった (msn.com)

 

1.福井教授の発言の部分を以下、掲載しておく。

福井氏の言;

実はGDPを用いた豊かさの国際比較は、それほど簡単なものではありません。市場為替レートを用いるか購買力平価を用いるかでも違いますし、そもそもGDPは社会の豊かさは測る指標としては問題が多い。たとえば、国内治安維持コストはGDPに加えられています。

したがって、コストをかけずに秩序立った社会を維持している日本に比べ、他国のGDPは相対的にかさ上げされるわけです。

各国とも社会に大きな変化が生じたとされるコロナ禍より前の治安状況を、国連が公表しているデータから計算してみました。

2018年の人口当たり強盗件数は、スイスが日本の14倍、ドイツが31倍、アメリカは61倍。2019年の人口当たり受刑者数は、スイスとドイツが日本の2倍、アメリカが16倍です。

シンガポールも日本と同様に犯罪は少ないのですが、人口当たりの受刑者数は日本の五倍です。もちろん、刑務所維持コストはGDPにカウントされます。コストをかけずに安心して暮らせるという日本のすばらしさはGDPに反映されるどころか、逆にマイナス要因になるのです。

やはりGDPに加えられている医療費にも同じようなことがいえます。OECDが公表しているデータでみると、日本は世界で最も高齢化が進んでいるのに、2022年の医療費はGDPの11.5%で、ヨーロッパ諸国と同程度、比較的高齢者が少ないアメリカは11.6%で断トツの世界第1位です。

しかし、平均寿命をはじめ、各種健康指標で日本が最高水準であることは世界的にも認められています。一方、アメリカのコロナ前の平均寿命は日本より5~6年短く、健康指標も芳しくない。比較的コストをかけずに国民が健康に暮らしているという日本の良さもGDPに反映されません。

また、社会保障支出を除くと、日本の財政規模は欧州諸国に比べると小さい。GDPの構成要素である政府サービスの価値はかかった費用と同額と定義(!)されているので、この点でも日本のGDPは相対的に小さくなります。

おおざっぱにいって、社会の豊かさを測る指標としてのGDPは上下2~3割の誤差があると思ったほうがいいでしょう。

 

2.青山学院大学教授・福井義高氏の公共サービスのGDPへの計上の考え方からおもうこと

中心はスイスの国がしたたかな中立国でそれは強固なる「武装中立国」であるということに焦点をあてた二人の’賢いひと’の対談である。

私の目がとまったのは福井教授の公共サービスのGDPへの計上の考え方であったので以下紹介しておきたい。

日本国民への警鐘なのである。小がが目をとどめたのは、日本ではGDPのカウントで政府など提供する公益サービスが計上されていないという指摘の部分であった。

たとえば医療費でみると高齢者比率の高い日本をベースにして比較すると先進各国のそれは数倍から十倍程度まで大きく、日本の医療の質は非常にたかいという。公益サービスを市場価格ベースへの翻訳をすると、つまり購買力平価ベースに変換したGDPにすると、福井教授いわく 20パーセントから30パーセント日本のGDPは大きく計上されるという。

おなじ筋で、福井教授は安全保障といういわば政府の公益サービス(?)を経済指標への等価換算としてとりいれるとどうなるかということも 触れておられる。

安全安心など、国や社会のもつ「質」をGDPのような「経済指標」に組み入れるのは経済学の枠のなか治まるのかどうかはわからいが、国全体の経済資源を投入しているのであるから、たとえば「国富」という概念でいれてみたらどうであろうか。 安全保障環境をいったん、経済価値等価の指標に置き換えてソロバンをはじくとみればよい。

各国のその等価指標には、その国が現在とっている対外政策から割り出すものでよい。日本の国防は日米の力関係できまるとしても、これを一旦ベースとして換算することになろう。日米双方が分担する防衛費の等価の指標が使われよう。

核の傘は等価的にいかほどになるのかという観かたである。

北朝鮮や中国の核の脅かしにたいして、国民の安全のための等価の指標はどうか。なんであれ、攻撃の脅威にさらされることは現実であるのであるから、それを金額で表現しておく、それにみあう国としての「投資」をしておくこと、或る意味で等価投資とでもいえよう。

われわれが考えることから逃げて果せないものは、きちんと織り込んでおくのが本来的であろう。

スイスが西側世界でけっこう嫌われている「国防中立」といわれているようであるが、他人ごとでみていることでは

ないということである。

つまり、市場価格ベースとは別に購買力平価ベースのGDPにも目をむけるべきであるということである。後者に目をむけると市場価格ベースでのGDPのに2ないし3割増しになるというものである。

ここで確かめておくのは、つぎであろう;

1,公共サービスのGDPで、市場ベースと購買力平価にすでに取り込んでいるとして、その計算式の確認。

2.国民の総合的ゆたかさをフローとストックでみてこれを国富としていく考え方の深堀と計算式の提起。

3.国富という価値観への国民的論議法の提起。ところでアダムスミスはどう考えたか。

など。

 

Victory of Vernuft 理性の勝利

 

 

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朝日記240817 (その3)翻訳「ラッセルの逆説」Russell’s paradox (その3)

2024-08-17 10:44:10 | 絵画と哲学

 

朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell’s paradox (その3)

表紙へ 朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox

 

References

 

    1. ^ Russell, Bertrand, "Correspondence with Frege}. In Gottlob Frege Philosophical and Mathematical Correspondence. Translated by Hans Kaal., University of Chicago Press, Chicago, 1980.
    2. ^ Russell, Bertrand. The Principles of Mathematics. 2d. ed. Reprint, New York: W. W. Norton & Company, 1996. (First published in 1903.)
    3. ^ Irvine, A. D., H. Deutsch (2021). "Russell's Paradox". Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2021 Edition), E. N. Zalta (ed.), [1]
    4. ^ Bernhard Rang, Wolfgang Thomas: Zermelo's Discovery of the "Russell Paradox", Historia Mathematica 8.
    5. ^ Walter Purkert, Hans J. Ilgauds: Vita Mathematica - Georg Cantor, Birkhäuser, 1986, ISBN 3-764-31770-1
    6. ^ A.A. Fraenkel; Y. Bar-Hillel; A. Levy (1973). Foundations of Set Theory. Elsevier. pp. 156–157. ISBN 978-0-08-088705-0.
    7. ^ Irvine, Andrew David; Deutsch, Harry (2014). "Russell's Paradox". In Zalta, Edward N. (ed.). The Stanford Encyclopedia of Philosophy.
    8. ^ R. Bunn, Infinite Sets and Numbers (1967), pp.176–178. Ph.D dissertation, University of British Columbia
    9. ^ P. Maddy, "Believing the Axioms I" (1988). Association for Symbolic Logic.
    10. ^ José Ferreirós (2008). Labyrinth of Thought: A History of Set Theory and Its Role in Modern Mathematics (2nd ed.). Springer. § Zermelo's cumulative hierarchy pp. 374-378. ISBN 978-3-7643-8350-3.
    11. ^ The Autobiography of Bertrand Russell, George Allen and Unwin Ltd., 1971, page 147: "At the end of the Lent Term [1901], I went back to Fernhurst, where I set to work to write out the logical deduction of mathematics which afterwards became Principia Mathematica. I thought the work was nearly finished but in the month of May [emphasis added] I had an intellectual set-back […]. Cantor had a proof that there is no greatest number, and it seemed to me that the number of all the things in the world ought to be the greatest possible. Accordingly, I examined his proof with some minuteness, and endeavoured to apply it to the class of all the things there are. This led me to consider those classes which are not members of themselves, and to ask whether the class of such classes is or is not a member of itself. I found that either answer implies its contradictory".
    12. Jump up to:a b Godehard Link (2004), One hundred years of Russell's paradox, Walter de Gruyter, p. 350, ISBN 978-3-11-017438-0, retrieved 2016-02-22
    13. ^ Russell 1920:136
    14. ^ Gottlob Frege, Michael Beaney (1997), The Frege reader, Wiley, p. 253, ISBN 978-0-631-19445-3, retrieved 2016-02-22. Also van Heijenoort 1967:124–125
    15. ^ Russell 1903:101
    16. ^ cf van Heijenoort's commentary before Frege's Letter to Russell in van Heijenoort 1964:126.
    17. ^ van Heijenoort's commentary, cf van Heijenoort 1967:126; Frege starts his analysis by this exceptionally honest comment : "Hardly anything more unfortunate can befall a scientific writer than to have one of the foundations of his edifice shaken after the work is finished. This was the position I was placed in by a letter of Mr Bertrand Russell, just when the printing of this volume was nearing its completion" (Appendix of Grundgesetze der Arithmetik, vol. II, in The Frege Reader, p. 279, translation by Michael Beaney
    18. ^ cf van Heijenoort's commentary, cf van Heijenoort 1967:126. The added text reads as follows: "Note. The second volume of Gg., which appeared too late to be noticed in the Appendix, contains an interesting discussion of the contradiction (pp. 253–265), suggesting that the solution is to be found by denying that two propositional functions that determine equal classes must be equivalent. As it seems very likely that this is the true solution, the reader is strongly recommended to examine Frege's argument on the point" (Russell 1903:522); The abbreviation Gg. stands for Frege's Grundgezetze der Arithmetik. Begriffsschriftlich abgeleitet. Vol. I. Jena, 1893. Vol. II. 1903.
    19. ^ Livio states that "While Frege did make some desperate attempts to remedy his axiom system, he was unsuccessful. The conclusion appeared to be disastrous ..." Livio 2009:188. But van Heijenoort in his commentary before Frege's (1902) Letter to Russell describes Frege's proposed "way out" in some detail—the matter has to do with the " 'transformation of the generalization of an equality into an equality of courses-of-values. For Frege a function is something incomplete, 'unsaturated'"; this seems to contradict the contemporary notion of a "function in extension"; see Frege's wording at page 128: "Incidentally, it seems to me that the expression 'a predicate is predicated of itself' is not exact. ...Therefore I would prefer to say that 'a concept is predicated of its own extension' [etc]". But he waffles at the end of his suggestion that a function-as-concept-in-extension can be written as predicated of its function. van Heijenoort cites Quine: "For a late and thorough study of Frege's "way out", see Quine 1956": "On Frege's way out", Mind 64, 145–159; reprinted in Quine 1955bAppendix. Completeness of quantification theory. Loewenheim's theorem, enclosed as a pamphlet with part of the third printing (1955) of Quine 1950 and incorporated in the revised edition (1959), 253—260" (cf REFERENCES in van Heijenoort 1967:649)
    20. ^ Russell mentions this fact to Frege, cf van Heijenoort's commentary before Frege's (1902) Letter to Russell in van Heijenoort 1967:126
    21. ^ van Heijenoort's commentary before Zermelo (1908a) Investigations in the foundations of set theory I in van Heijenoort 1967:199
    22. ^ van Heijenoort 1967:190–191. In the section before this he objects strenuously to the notion of impredicativity as defined by Poincaré (and soon to be taken by Russell, too, in his 1908 Mathematical logic as based on the theory of types cf van Heijenoort 1967:150–182).
    23. ^ Ernst Zermelo (1908) A new proof of the possibility of a well-ordering in van Heijenoort 1967:183–198. Livio 2009:191 reports that Zermelo "discovered Russell's paradox independently as early as 1900"; Livio in turn cites Ewald 1996 and van Heijenoort 1967 (cf Livio 2009:268).
    24. ^ B. Rang and W. Thomas, "Zermelo's discovery of the 'Russell Paradox'", Historia Mathematica, v. 8 n. 1, 1981, pp. 15–22. doi:10.1016/0315-0860(81)90002-1
    25. ^ "barber paradox". Oxford Reference. Retrieved 2024-02-04.
    26. ^ "Play That Funky Music Was No. 1 40 Years Ago"Minnesota Public Radio. September 27, 2016. Retrieved January 30, 2022.

Sources

 

External links

 

 

Wikiversity has learning resources about Russell's paradox

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朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox (その2ー2)

2024-08-17 10:37:14 | 絵画と哲学

朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox (その2ー2)

表紙へ 朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox

 

6.歴史 History

 

Russellは1901年5月[11]もしくは6月[12]にその逆説を発見した。[12] 彼の1919 年の数理哲学への入門Introduction to Mathematical Philosophyでの彼自身の吟味によって、かれは「最大基数greatest cardinalは存在しないというCantor'の証明にはある欠陥があることを発見するこころみたのであった。」[13] 

1902年の手紙で、彼はFregeの1879年Begriffsschrift においてその逆説paradoxes発見についてGottlob Frege への表明であった。それは論理、そして集合理論の意味においての問題の枠組み化、そして特にFregeの関数(機能) functionの定義の意味においての枠組み化にあるとしたのである;[a][b]

私が困難に遭遇したひとつの点がまさにここにある。あなたは(p. 17 [p. 23 above])で述べる関数(機能)a functionもまた、非決定的要素 indeterminate elementとして働くことができると。

 

これは以前にわたくしが信じたのであるが、いまはこの観方は私にとっては疑わしくなっている、なぜならつぎの矛盾をおこすからである。

いま w は術語predicateであるとしよう:その語(述語)がそれ自身について術語化predicatedできないような術語a predicateであるために。

wはそれ自身について術語化されうるか?

それぞれの答えはその反対に従うits opposite followsのである。

したがってわれわれはw は術語ではないという結論をしなければならない。

同様にそのようなクラスthose classesのクラスclass(ひとつの全体as a totalityとして)はどこにもない、それらは、それぞれは全体として取られていても、それら自身に属していない。 

このことから、私は結論する、それはしかるべき状況のもとで、ある定義された集合体a definable collection [Menge]は全体a totalityを形成しないというものである。 

 

1903はかれの1903年のThe Principles of Mathematicsにはそれをつまびらかにしようとした、そこでは彼はくりかえしその逆説paradoxesに遭遇したのであった:[15] 

基礎的なこの質問から離れるまえに、特異性矛盾singular contradictionをよりおおくを詳らかに試験する必要がある、それはそれ自身についての術語性predicableのない術語predicatesに関して、すでに言及したものである。…私はCantorの証明を整合reconcileする努力にあったとき、それに遭遇したことを述べておきたい……

RussellはFregeへその逆説paradoxesについて手紙を出したが、それは丁度Fregeが彼の  Grundgesetze der Arithmetik.[16] の第二巻を準備中のときであった。 

FregeはRussellへ即急に対応した;かれの手紙22 June 1902にはそれが現れている、Heijenoort1967:126–127でのHeijenoort's commentaryの解説がそこには添えられている。

 

 

 

Fregeは付録にその逆説を容認すると書き[17]、そしてRussellがPrinciples of Mathematics,[18]のなかで裏書きするであろうひとつの解を提案したのであった、しかし後にだれかによってそれが不十分なものであると考察されたのである。彼の部分のために、Russellはかれの研究成果の印刷待ちの状態にあった、そしてRussellはdoctrine of types.[20]に関する付録をそれに加えたのであった。

 Ernst Zermelo は彼の著(1908)「 良き秩序化の可能性の新しい証明」A new proof of the possibility of a well-ordering (同じ時期につぎの著作として「第一公理的集合理論」"the first axiomatic set theory"がある)[21]において Cantorの素朴集合理論Cantor's naive set theoryでの二律背反antinomyの第一発見者であることを言及している。

彼は言う:「そしてRussell 9が与えた集合理論の二律背反set-theoretic antinomiesへの基本形式でさえ、いまだ彼ら[J. König, Jourdain, F. Bernstein]を説得することできそうなものではなかった。かれらを説得できる形式とはこれらの困難性が良き秩序での降伏者surrender of well-orderingにおいてではなく、集合概念のしかるべき制約性suitable restriction of the notion of setにおいてのみ探すべきであるとことであった。[22]

Footnote 9はかれが彼の要求の賭けであった;91903, pp. 366–368. 私はしかしながらRussell,とは独立に、自身でこの二律背反を発見したのであった、そしてHilbert教授とその他のひとに1903年よりまえにその件について連絡を取ってきたのであった。[23]

Fregeは彼の代数の基礎法則Grundgesetze der Arithmetik の写しをHilbertに送った;上述のようにFregeの最終巻はRussellがFregeと交流した逆説について述べっていたものである。

Fregeの最後の巻(7 November 1903)を受け取ったあと、HilbertはFregeへ手紙を書いた、そこにはRussellの逆説を引用して、Hilbertは言う「私はDr. Zermeloが3もしくは4年前にそれを発見していたと信じている」と。

Zermeloの実際の論議の記録的証拠になるものは Edmund Husserl.[24]の遺稿Nachlass において発見された。[24]

 

1923年、Ludwig WittgensteinはRussell逆説paradoxについて次のように公の場に晒し"dispose"した:

関数(機能)がそれ自身の引数argumentであることができない理由は関数(機能)のための記号signがすでにその引数argumentの原型prototypeを含んでいて、そしてその記号はそれ自身itselfを含むことができないということである。 

関数F(fx)はそれ自身の引数own argumentであることを考えてみよう:このケースではひとつの提案 F(F(fx))があるであろう、そになかでは外側関数 F と内側関数 Fは異なる意味をもつにちがいない、なぜなら内側のそれは形O(fx) であり、そして外側のそれは形 Y(O(fx))であるからである。

文字'F'だけが二つの関数に共通につかわれている、しかしそれ自身によってその文字はなにも記号化しない。

このことは直ちにつぎのことを明示する、もしF(Fu) のかわりにつぎのように書く(おこなう(do)):F(Ou) . そしてOu = Fu.となる。

それはラッセルの逆説 Russell's paradoxのもとに晒される。(Tractatus Logico-Philosophicus, 3.333) 

 

Russell とAlfred North WhiteheadPrincipia Mathematica  第三巻を著した、それはFregeが為すことができなかったことを為すことを望んだのであった。

かれらはnaive set theory の逆説を禁止することを探求した、それには、彼らがこの目的のために工夫した型理論theory of typesを採用することによってであった。

彼らはひとつの様式として算術を基礎にしてすすめる一方で、かれらが純粋に論理的手段で行えることがすべてが自明であるとはいえないことであった。

Principia Mathematica は知られている逆説paradoxesを避けそして沢山の数学的誘導作業をゆるしたが、そのシステムはあらたな問題を引き起こしたのである。

いずれの事態においても、 Kurt Gödel は 1930–31につぎのことを証明した、それは Principia Mathematica,の多くの論理は、今日第一次術語論理first-order logicとして知られているものであるが、これは完全 completeである、その一方でPeano arithmeticはもしこれが矛盾ない consistentならば、必然的に不完全necessarily incompleteなものであるということを証明したのであった。

このことは、—普遍的ではないがーつぎのことであるとひろく認められていることである、Fregeの論理家プログラムlogicist programが完全to completeになることは不可能impossibleであるということを証明している。

2001年に Russell's paradox百年を祝う世紀国際会議がMunichにてひらかれたそして予稿集が出版されたのであった。[12]

 

~~~~~~~

訳者(荒井) 補注; The barbar paradoxについては 納得にいたるのに多少注意深さがもとめられるのであえて、参考まで以下ふたつの説明をおく

 

参考説明1;

その床屋は「自分自身を剃らないひとをすべて、そしてそのような人のみを剃るひと」まさにそのひとである。

質問はつぎである、その床屋は自身を剃るか?[1]

この質問に対する如何なる答えも矛盾に陥る:その床屋は自分自身を剃らないひとたちをのみ剃るので、彼自身を剃ることができない。かくしてもし彼が彼自身を剃るなら床屋として特定されていることを辞めることになる。逆に、その床屋が自分自身を剃らないなら、それで彼はその特定された床屋が剃るであろうひとびとおなじ仲間になる、かくして、その床屋として、彼は自分自身を剃らねばならない。

オリジナルの形式では、この逆説は解を持たない、そのような床屋は存在し得ない。

この設問は 「多重質問の誤謬」loaded questionとよばれ、そこには存在しえないはずの床屋の存在を仮定しているのであるから、この設問は空疎な提案vacuous propositionであり、かくして質問そのものが無効falseでる。他の非⁻逆説変形non-paradoxical variationsのものがあるがそれらは違うものである。[3] 

(From Barber paradox - Wikipedia)

 

参考説明2:

ある村にひとりの床屋がすんでいる、その者はひとびとのうちで自分自身を剃らないひとならすべて、そしてそれにかぎり剃る者である。だれがその床屋を剃るか? もし彼(その床屋)が自身を剃れば、彼は(その床屋を剃らない)、しかしかれが自身を剃るならば、かれは(その床屋を剃る)。

この逆説は実際にはそのような床屋はありえないことの証明である、または換言すれば、この条件は不整合のものであることを証明するものである。 ラッセルの逆説の項目を見よ。

(Oxford Reference Barber paradox - Oxford Reference

~~~~~

 

7.応用版 Applied versions

 

この逆説の版として実際生活に近い状況に置き換えて、論理学者でなくても理解しやすい説明もある。

  床屋逆説barber paradoxというのを取り上げる、彼barberは、彼ら自分自身を剃らない男たちすべてallを、ならびに彼ら自分自身を剃らない男のみonly menを剃る者をいう。この逆説はそんな床屋を考えることからの逆説である。その床屋が彼自身を剃るべきか否かを考えるときに、同様なる逆説が現われはじめる。[25] 

床屋逆説のような下世話なはなしとしては以下になろう、そのような床屋は居るわけがないし、またその床屋は男ではないかもしれない、そしてそんなむずかしいことをいわなくても床屋は存在できるではないかと。

 

 Russell's paradoxの全体としてのポイントは、回答として「そんな集合は存在しない」ということになってしまうのは、与えられた理論が意味する集合での概念定義が不十分であるとによるものである。

「そのような集合は存在しない」という言明と「それは空集合empty set"である」というそれとは違うことに注意すべきである。さらに言うなら、「バケツはどこにもない」ということと「バケツは空っぽである」ということの間の違いに似ている。 

上の件に対するおもしろい例外は Grelling–Nelson paradox であろう、そこでは、言葉と意味はひとと理髪のはなしよりもシナリオ的な要素の方にある。

そのような床屋は存在しないし(そして存在し得ない)ことを言うことによって、この床屋の逆説を否定却下することは容易であるが、しかし意味するところを定義していることばについて類似の何かを見つけるのはむずかしい。

 

その逆説はつぎのようにドラマ化されたものになる;

いま、すべての公立図書館がその所蔵の書籍の目録を編纂することになったとしよう。

この目録はそれ自身がその図書館の書籍のひとつであるので、ある司書たちは完全を期してその目録のなかに(この)目録を記載する;一方他の司書たちは、それはその図書館の書籍であることは自明であるとして、目録への収録外として取り上げなかった。

さて、これらすべての目録が国立図書館へおくられたことを想像してみよう。それらのあるものはそれら自身を含み、他は含まないとなる。

国立図書館は2種類の総目録を編纂することになる―ひとつはそれ自身をふくむ総目録、もうひとつはそれ自身を含まない総目録である。

 

この問題は以下となる;これらの総目録master cataloguesにはそれら自身を含めるべきであろうか? 「それら自身をすべて収録した目録の目録」自体に問題はない。 

もし、その司書が自身の記載のなかにそれを含めないならば、それは、それ自身をふくまない目録をあつめた真なる目録として残る。

もし、彼がそれをふくめたらば、それ自身を収録した真の目録としてのこる。

 

しかしながら、司書が初版の総目録で不行き届きでなかったものの、彼は第2版でそれが誤りであったのかなやむことになる。

「それ自身を含めない目録たちの総目録」ということになるので、その司書たちは自分たちの収録のなかにそれを含めることができなくなる、

そして斯くして他の目録に属することになり、それ自身を含む目録のそれとなる。

 

しかしながら、もしその司書がその職席から離れたならば、その目録は不完全なものとなる。どのみち、それはそれら自身を収録しない目録の真の総目録であることには決してならないのである。

 

 

8.応用と関連トッピクス  Applications and related topics

 

8.1ラッセル類似逆説 Russell-like paradoxes

 

上述の床屋とのわかりやすい事例として、 Russell'の逆説を拡張することはむずかしくない。それをとりあげよう:他動詞 transitive verb ⟨V⟩、これはその目的になるモノ substantive formに適用されるのである。

 

以下の文章を形つくろう:

その ⟨V⟩erはつぎのものである、かれら自身themselvesに対して⟨V⟩ をしないすべて(そしてそれに限る)the ⟨V⟩ersたちである、往々、"all"という語は"all ⟨V⟩ers"によって置き換えられる。[1]

例えば、ひとつの例として絵描きがある:自分自身を描かないすべての(そしてそれに限る)者を描く絵描き

もしくは選挙:立候補者(代表者representative)、それは自分自身に投票しないすべての者に投票するもの。

 The Big Bang Theory,での Season 8  の挿話で、 "The Skywalker Intrusion"、Sheldon Cooper  はその歌 "Play That Funky Music"を分析しているが、これは Russell's Paradox の音楽的例を提供していると結論する。[26]

この意味のものに入る逆説としてはつぎのものがある:

  • ひげ剃りと床屋 The barber with "shave".
  • 初期のRussellの逆説はつぎの内容"contain"を含んでいる;そのコンテナー(集合)はそれ自身を内容物(containers)として含めないが、そのなかにあるすべてを含むもの(集合)である。
  • The Grelling–Nelson paradox 記載人 "describer":その記載人(ことば)は自身を記載しない(ことば)すべてを記載する者である。

 

Richard's paradox  整理番号"denote": 番号配布(数)denoter (number)は、それら番号配布者自体を番号づけしない番号配布(数)を配布である。(この逆説では、数の記述すべては指定された数を獲得する。この術語「それ自身を番号付けしない配布者(数)すべてに配布する」は Richardian と呼ばれている。)

「私は嘘をついている」、言うところの嘘つきの逆説および逆説the liar paradox and Epimenides paradoxである、それらの源は古典的である。

 

 

 

 

8.2関係する逆説類 Related paradoxes

 

 

 

 

See also

[edit]

Notes

 

    1. ^ In the following, p. 17 refers to a page in the original Begriffsschrift, and page 23 refers to the same page in van Heijenoort 1967
    2. ^ Remarkably, this letter was unpublished until van Heijenoort 1967—it appears with van Heijenoort's commentary at van Heijenoort 1967:124–125.

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 朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」その2ー1

2024-08-17 10:25:33 | 絵画と哲学

朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」その2ー1

表紙へ 朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox

 

1.はじめに

数学的論理においてRussellの逆説Russell's paradox (Russsellの二律背反 Russell's antinomyとしても知られている)は集合-理論的逆説set-theoretic paradox であり、これは英国の哲学者であり数学者であるBertrand Russellによって1901年に公開された。[1][2]

 Russellの逆説Russell's paradoxはすべての集合理論 set theoryが非制限的理解原理 unrestricted comprehension principle を含むもので、これが矛盾contradictions に導くことを証明する。[3]

この逆説はすでにドイツの数学者  Ernst Zermeloが 1899年に独立して発見していたのであった。[4]

しかしながら、 Zermeloはそのアイディアを公開することをしなかった、このアイディアはDavid HilbertEdmund Husserlそして  University of Göttingenでの学者なかまにのみ知らされたままになっていたのであった。

 1890年代の末に Georg Cantor ―からは近代集合理論の祖といわれているが―は彼の理論が矛盾に導くということがすでに分かっていたのであった、そして彼は Hilbertと Richard Dedekindに手紙によって語っていたのであった。[5]

 

その非制限的理解原理unrestricted comprehension principleによれば、十分によく定義されたどのような特性 propertyに対して、その特性をもつすべての、およびそれを持つ対象objectsに限った集合the setがそこに存在する。 

いまR をそれ自身メンバーmembers of themselvesではないすべての集合all setsからなる集合the setとしよう、(ときにこれを "the Russell set"と呼んでいる)。 

もしそれがそれ自身メンバーでなければ、そのときこの定義では、それがそれ自身メンバーであることに帰着する;

否、もし それがそれ自身メンバーであるなら、それはそれ自身メンバーではない、なぜならそれは、それら自身メンバーではない集合すべてall setsについての集合the setであるからである。結果としてのこの矛盾resulting contradictionがラッセル逆説Russell's paradoxである、 

記号的には

Let 𝑅={𝑥∣𝑥∉𝑥}, then 𝑅∈𝑅⟺𝑅∉𝑅

 

 Russellもまた、その逆説がドイツの哲学者でありかつ数学者である  Gottlob Frege によって構築された公理システムaxiomatic systemで誘導されるひとつの版を示したのであった。かくして、 Fregeの試みのなかに潜む数学を論理へと帰納させ、そして logicist programmeとよぶ論理主義者プログラムを設問として招き入れるcalling into questionのである。

この逆説を克服するための二つの影響的な道すじが1908年に提案された;Russell自身の type theory と the Zermelo set theoryである。

特に Zermeloの公理は無制限的理解原理unlimited comprehension principleに制限をあたえた。

Abraham Fraenkelのさらなるなる貢献によってZelmeloの集合理論は今日標準のZelmelo-Frankel集合理論Zermelo–Fraenkel set theory へと展開していく、(選択公理 axiom of choiceを含むときこれはZFCとして一般に知られている)。

  RussellとZermeloの間の主なる違いは Zermeloは標準論理言語standard logical languageを使う一方で、集合理論の公理に変更を加えたが、 Russellは論理言語logical languageそれ自身を変更した。

 ZFC言語にThoralf Skolemの援けhelp of Thoralf Skolemを得たのが、 一階術語論理first-order logic.[6]のそれへと生まれ変わったのである。 

 

 

2.わかりやすい説明 Informal presentation

 

一般に遭遇するほとんどの集合では、それ自身はメンバーではない集合である。

いま、ある集合a setが"normal"と呼ばれるとき、それはそれ自身がメンバーではないとし、そして"abnormal" とよばれるとき、それはそれ自身がメンバーであるとしよう。

(原文)Most sets commonly encountered are not members of themselves.

 Let us call a set "normal" if it is not a member of itself, and "abnormal" if it is a member of itself.  

 

あきらかにいずれの集合every setもnormalか abnormalでなければならない。

例をあげよう、ある平面のなかにすべてが四角形からなる集合the set of all squares in a plane.を考える。この集合setとしては、それ自身は平面上の四角形ではないnot a square in the plane、かくしてそれはそれ自身のメンバーではない、したがってnormal集合である。

   

(原文)Clearly every set must be either normal or abnormal.

 For example, consider the set of all squares in a plane. This set is not itself a square in the plane, thus it is not a member of itself and is therefore normal.

 

 

対照的に、この平面内で、四角形a squareではないすべてを含む集合(つまり補集合complementary set)は、それ自身その平面における四角形a squareではない、そしてそれはそれ自身のメンバーのひとつでありそして したがって、abnormalである。

(原文)In contrast, the complementary set that contains everything which is not a square in the plane is itself not a square in the plane, and so it is one of its own members and is therefore abnormal.

 

いま、すべてが normal集合setsである集合the set、 Rを考えてみよう、そしてこのRがnormalかabnormalであるかを決定することを試みる。

(原文)Now we consider the set of all normal sets, R, and try to determine whether R is normal or abnormal.

 

もしRがnormalならnormal setsすべてからなるthe set(つまりそれ自身)のなかにRが含まれることになる、そしてしたがってRはabnormal集合になってしまう;

(原文)If R were normal, it would be contained in the set of all normal sets (itself), and therefore be abnormal;

 

一方もしRがabnormalであったなら、それはすべてのnormal setsのthe set(つまりそれ自身)のなかに含まれないであろう、したがってRはnormal setになってしまう。

(原文)on the other hand if R were abnormal, it would not be contained in the set of all normal sets (itself), and therefore be normal.

 

このことは、R がnormalでもなく、またabnormalでもないという結論に導くのである: つまりラッセルの逆説Russell's paradoxである。

(原文)This leads to the conclusion that R is neither normal nor abnormal: Russell's paradox.

 

 

 

3.式的表現 Formal presentation

 

The term "naive set theory" is used in various ways.

In one usage, naive set theory is a formal theory, that is formulated in a first-order language with a binary non-logical predicate ∈, and that includes the axiom of extensionality:

∀𝑥∀𝑦(∀𝑧(𝑧∈𝑥⟺𝑧∈𝑦)⟹𝑥=𝑦)

and the axiom schema of unrestricted comprehension:

∃𝑦∀𝑥(𝑥∈𝑦⟺𝜑(𝑥))

for any formula 𝜑 with the variable x as a free variable inside 𝜑.

Substitute 𝑥∉𝑥 for 𝜑(𝑥) to get

∃𝑦∀𝑥(𝑥∈𝑦⟺𝑥∉𝑥)

Then by existential instantiation (reusing the symbol 𝑦) and universal instantiation we have

𝑦∈𝑦⟺𝑦∉𝑦,

a contradiction. Therefore, this naive set theory is inconsistent.[7]

 

 

術語「素朴な集合理論」 "naive set theory" はさまざまに使われている。

ひとつの使い道としては以下である;この集合理論はひとつの形式理論formal theoryである、この理論においては一階述語論理 first-order language のなかで形式化されるものであり、この言語レベルでは二元的な非論理的術語binary non-logical predicate ∈  を使う、そして理論は外延性公理axiom of extensionality を含むのである;

∀𝑥∀𝑦(∀𝑧(𝑧∈𝑥⟺𝑧∈𝑦)⟹𝑥=𝑦)

 

そして無制限の内包unrestricted comprehensionの公理をつかって;

∃𝑦∀𝑥(𝑥∈𝑦⟺𝜑(𝑥))

 𝜑はその内部は自由な変数としての変数free variableをもつ式であれば

どのような式でもよい。

 𝜑(𝑥)のために 𝑥∉𝑥を代入すると

つぎの関係を得る;

∃𝑦∀𝑥(𝑥∈𝑦⟺𝑥∉𝑥)

 

したがって 存在的例化existential instantiation (記号𝑦を再度使って)そして普遍的例化 universal instantiationによって、次のようになる;

𝑦∈𝑦⟺𝑦∉𝑦,

これは矛盾となる。したがってこの素朴な集合理論には一貫性がなくなるinconsistent[7]

 

 

 

4.哲学的意味性 Philosophical implications

 

 Russell's 逆説(そして他の同様な逆説はその時機に発見された、たとえばBurali-Forti paradoxがそれである)に先立ち、集合理念の共通概念化common conception of the idea of setとして「集合の拡張的概念」"extensional concept of set"がvon Neumann and Morgensternによって示されたのであった;[8]

集合setとは対象objectsの任意の集合体collectionであり、これら対象の自然性と数量について、件の集合の要素elementsについて絶対的に何ら制限が置かれない。 

その要素はその集合the setを構成し、決定するのにそれらの間になんら種類の順序、関係性を持たしめないものである。 

特に、集合setsと特定クラスproper classesとの間の区別はしていない。

さらに、集合体a collectionの各要素の存在性については、言うところの要素の集合the set の存在性は十分性があると見たのである。

しかしながら、Russell's およびBurali-Forti'sのような逆説が、集合概念conception of setの不可能性impossibilityを証明した、それらの例では、言うところの対象すべてが存在的であるにもかかわらず、集合setsを形成しない対象objectsの集合体collectionsの例が示された。 

 

5.集合理論的応答 Set-theoretic responses

 

古典論理の破裂の原理 principle of explosion of classical logicから提案されるものはどれも矛盾contradictionをとおしての証明である。

しかしながら、 Russell逆説のような矛盾がそこにあるということはまことに災害的でもあった;それはどのような式であれそれが真であると証明されるなら、その式は真僞のこれまでの通常的意味性をも破壊するからである。

さらに、集合理論は他のすべての数学分野の公理的展開のためのの基礎として見られていたから、 Russell逆説は全体として数学の基礎を脅かすことになったのである。

この動機が刺激となりおおくの研究が 二十世紀中におこり一貫性のある(矛盾から解放される)集合理論が開発されたのである。

 1908年に Ernst Zermelo は集合理論公理化 axiomatization of set theory を提案した、それは 素朴集合理論naive set theoryの逆説paradoxesを避けるものであり、任意集合の理解をより軽微なweaker existence存在公理、たとえば彼の分割公理 axiom of separation (Aussonderung)のようなもので、おきかえるのである。 

(逆説を避けることは Zermeloの本来意図ではないが、しかし  良き秩序理論well-ordering theorem を証明するのに彼が使用した仮定記述の代わりとなるものであった)[9]

  Abraham FraenkelThoralf Skolemによって1920年代に提案され、さらにZermelo自身によって ZFCとよばれる公理的集合理論axiomatic set theoryの提案が出現したのである。

 

この理論がひとたび世にでると、ひろくZermelo's 選択公理axiom of choiceとして論争がおさまり、受け入れられることになった、そしてZFCは今日に至るまで教科書的な公理的集合理論axiomatic set theoryとして残ったのである。 

ZFCはすべての特性propertyに対してその特性を満足するモノすべての集合があるということを仮定しない。 

むしろその主張するところは、集合Xがあたえられたら、第一術語論理first-order logic をつかって定義するサブ集合subsetとしてならどこでも存在することにあった。

Russell逆説による定義のこの対象 R はどのような集合Xのサブ集合としても構築することはできないのであり、したがってZFCでの集合ではない。

ZFCのある拡張において、von Neumann–Bernays–Gödel set theory が良く知られているが、R のような対象objectsを特定クラスproper classesと呼んでいる。

ZFCは型式typesについてはおとなしいsilentな 累積階層cumulative hierarchy型式で型式typesが似ている層概念notion of layersをもつにもかかわらずである。

 Zermelo彼自身は 第一術語論理を使っているZFCの定式化Skolem's formulationをけっして受け入れていないのである。

 José Ferreirósが記すように、Zermeloが代わりに主張したのは"提案関数propositional functions(条件や術語)であり、サブ集合とは別に考えるためにつかわれるものであり、置換関数replacement functionsと似ていて、全般的任意'entirely arbitrary' [全きに任意ganz beliebig]"であるとしたことである。“;

この言述にあたえられた現代的解釈は、 Zermeloが Skolem逆説 Skolem's paradoxを避ける目的でさらに高階術語の量化higher-order quantification を含むことを求めたということである。

 

1930年代に、 Zermeloもまた(明らかに von Neumannとは独立に)基礎公理axiom of foundationを導入した、かくしてFerreirósが観察したように―これは循環的'circular' と 'ungrounded'非根拠的なる集合setsを回避することによってであり、それ[ZFC]はTT [type theory]の重要な動機のひとつ―引き数の型式原理the principle of the types of argumentsと関連していたのである」。

2nd order ZFCをZermeloは好み、これは基礎公理axiom of foundationを含んでおり、豊かな累積構造cumulative hierarchy.を許すものであった。

Ferreirósは"Zermelo'の層 'layers'は基本的にGödel and Tarskiが提供した単純なTT [type theory]の現代版型式と同じものであると書く。

ひとは累積的階層を記述するにZermeloは彼のモデルを累積的TTを宇宙the universe of a cumulative TTとして展開したのであるが、そこでは有限からくる無限transfinite typesがゆるされるのである。

(ひとたび、自己参照的な意味でこの非予想的観点impredicative standpointを採用してしまうと、クラスclassesを構築する観念ideaを捨ててしまい、それによって、有限から出てくる無限transfinite typesを受け入れることが不自然になる) 

 

単純TTとZFCは、斯くして、いまや同じ意図のもとでの対象について基本を語る'talk' essentiallyシステムとして見なことができるのである。 

主なる違いはTTが強力な高次術語論理strong higher-order logicに乗っているのであり、一方Zermeloは二次術語論理second-order logicを採用していること、そしてZFCは一次術語式first-order formulationをあたえることもできるのである。 

累積階層cumulative hierarchyの一次術語記述first-order 'description'は数え上げモデルcountable modelsの存在性 (Skolem's paradox)が示すように、かなり弱いものであるが、ある重要な利便を与えてくれるのである。[10]

 ZFCにおいて、いま集合Aがあたえられたとしよう、このときつぎのような集合B を定義することは可能である、集合 Bとはまさしく集合A のなかの集合setsから成り立っているが、その集合setsはそれ自身のメンバーではない。

 B はRussell's Paradoxにおける同じ理由によってAのなかにあることはできない。

 Russell's paradoxの見方を変えると、すべてのものを含むような集合などはないということを証明しているといえる。

Zermeloと他の人たちの業績をとおして、特にJohn von Neumannを上げるが、ZFCによって記述される「自然」対象"natural" objectsのようにひとから見る構造が実質的にあきらかになった;それらは von Neumann universeV要素であり、 べき乗集合操作power set operationを究極まで繰り返し実施transfinitely iterating することによってempty set 空集合からつくりあげた要素elementsである。 

 

非公理的な様式non-axiomatic fashionでの集合についてそれがVの逆説paradoxesから逃げおおせる理由付けは斯くして、現在可能となるが、それはVの要素elements of Vについての理由付けにひとえに依っている。

この道すじでの集合の考え方が適正であるかどうかは 数学哲学 philosophy of mathematicsに関する競合する観方のなかでの内容に掛かっている。

ラッセル逆説Russell's paradoxへの他の解は  Quineの新しい基盤New Foundationsと  Scott-Potterの集合理論Scott–Potter set theoryを上げることができる、これらは型式理論のそれに近い戦略をその根底においている。

複数の要素系と適切に考慮された理解への起案はいまだそのアプローチさえ定義されていないがDouble extension set theoryが目下それにあたる。

 

表紙へ 朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox

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朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox 表紙

2024-08-17 10:15:46 | 絵画と哲学

開通しました2024-8-17

 

朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox

 

翻訳「ラッセルの逆説」  

システム思考での目的論理の構造と社会倫理について XIX

 System Thinking, Teleological Structure and Social XIX;

Russell's paradox

From Wikipedia, the free encyclopedia

Russell's paradox - Wikipedia

This page was last edited on 20 July 2024, at 22:14 (UTC).

 

 

Translator Yasumasa Arai

194 0002 MinamiTsukushino, Machida,

 Tokyo, Japan

Date; 2024-08-16

 

Abstract: General System Thinking is a theory of an object under concern to be taken as organized fundamental frame with objectives and constraints. This author looks into the meaning of decision making taken into account as "human free will" and "natural causality", so-called, that is to be said. He enquires into the concept of purpose in its human and social dimensions.

Human consciousness and Neuro brain physicals, its conjunction as paradigm change have been  into very crucial stage both for philosophy and physical science.

In mathematical logic, Russell's paradox is a set-theoretic paradox published by the British philosopher and mathematician Bertrand Russell in 1901. Russell's paradox shows that every set theory that contains an unrestricted comprehension principle leads to contradictions.  Two influential ways of avoiding the paradox were both proposed in 1908: Russell's own type theory  and the Zermero set theory. This article is Japanese translation from the English article of this title above of Wikipedia.

Keywords: Russell paradox, Zermero-Frennkel , axiom of choice set theory, Russell’s type theory,

概要;一般システム思考は、目的と制約条件をもつ対象に関する理論である。著者は、これを人間自由意志と自然因果関係とに還元して意思決定の意味構造を考察してきた。

本邦は物理系と意識系との接点の接合として鍵をにぎっておりこのRussell 逆説に注目した。数学的論理においてRussellの逆説 は集合-理論的逆説であり、Bertrand Russellによって1901年に公開された。 Russell逆説はすべての集合理論が非制限的理解原理を含むもので、これが矛盾contradictions に導くことを証明する。この逆説を克服するための二つの影響的な道すじが1908年に提案された;Russell自身の type theory と the Zermelo set theoryである。Abraham Fraenkelのさらなるなる貢献によって今日標準のZelmelo-Frankel集合理論Zermelo–Fraenkel set theory へと展開していく、(選択公理 axiom of choiceを含むときこれはZFCとして一般に知られている)。20世紀末からの学術界の焦点として物理系と意識系との接点の接合概念として、このRussell 逆説が鍵をにぎっており、今回Wikipedia(英文)の当該項目の翻訳をおこなった。

 

キーワード;Russell 逆説, Zermero-Frennkel  set theory, 選択公理、Russell型理論

,

 

 

理解に有益なる関連項目先

この解説はRussellについての以下のWikipedia項目構成の一部であることを読者に喚起している;

 

本文目次

 朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」その2ー1

 

1.はじめに

2.わかりやすい説明 Informal presentation[edit]

3.式的表現 Formal presentation

4.哲学的意味性 Philosophical implications[

5.集合理論的応答 Set-theoretic responses

 

朝日記240817 翻訳「ラッセルの逆説」Russell's paradox (その2ー2)

6.歴史 History

7.応用版 Applied versions

7.1応用と関連トッピクス  Applications and related topics

 

7.2ラッセル類似逆説 Russell-like paradoxes

7.3関係する逆説類 Related paradoxes

 

See also

Notes

 

朝日記240817 (その3)翻訳「ラッセルの逆説」Russell’s paradox (その3)

Reference

 

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朝日記240721 Wiki英文翻「可謬主義」つづき2

2024-07-21 20:53:26 | 絵画と哲学

朝日記240721 Wiki英文翻「可謬主義」つづき2

Wiki英文翻「可謬主義」つづき2

表紙へかえる;朝日記240721  Wiki英文翻訳 「可謬主義について Fallibilism

 

参照See also[edit]

文献  References

    1. ^ Peirce, Charles S. (1896–1899) "The Scientific Attitude and Fallibilism". In Buchler, Justus (1940). Philosophical Writings of Peirce. Routledge. p. 59.
    2. Jump up to:a b Haack, Susan (1979). "Fallibilism and Necessity"Synthese, Vol. 41, No. 1, pp. 37–63.
    3. Jump up to:a b Hetherington, Stephen. "Fallibilism"Internet Encyclopedia of Philosophy.
    4. ^ Anastas, Jeane W. (1999). Research Design for Social Work and the Human Services. Columbia University Press. p. 19.
    5. ^ Levi, Isaac (1984). Messianic vs Myopic Realism. The University of Chicago Press. Vol. 2. pp. 617–636.
    6. ^ Aikin, Scott F. (2014). "Prospects for Moral Epistemic Infinitism"Metaphilosophy. Vol. 45. No. 2. pp. 172–181.
    7. ^ Annas, Julia & Barnes, Jonathan (2000). Sextus Empiricus: Outlines of Scepticism. Cambridge University Press.
    8. ^ Hobbes, Thomas (1974). De homine. Cambridge University Press. Vol. 20.
    9. ^ Rorty, Amélie; Schmidt, James (2009). Kant's Idea for a Universal History with a Cosmopolitan Aim. Cambridge University Press.
    10. ^ Aristotle (350 B.C.E.). Physics. Massachusetts Institute of Technology.
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Further reading[edit]

  • Charles S. Peirce: Selected Writings, by Philip P. Wiener (Dover, 1980)
  • Charles S. Peirce and the Philosophy of Science, by Edward C. Moore (Alabama, 1993)
  • Treatise on Critical Reason, by Hans Albert (Tübingen, 1968; English translation, Princeton, 1985)

External links[edit]

 

表紙へかえる;朝日記240721  Wiki英文翻訳 「可謬主義について Fallibilism

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朝日記240721 Wiki英文翻「可謬主義」つづき1

2024-07-21 17:31:18 | 絵画と哲学

Wiki英文翻「可謬主義」つづき1

表紙へかえる;朝日記240721  Wiki英文翻訳 「可謬主義について Fallibilism」

 

1.無限回帰と無限進行 Infinite regress and infinite progress

哲学者  Scott F. Aikinによると可謬主義fallibilismは無限回帰が欠落the absence of infinite regress.[6]場合には適正なる機能を起こしえないというものである。その意味は、  Pyrrhonist派の哲学者 Agrippa に通常帰せられるが、すべて人間の探求human inquiryからの避けがたい出力inevitable outcomeであるべきであるという議論になる、それは人間すべからく、提案every propositionというものは正当化の手続きjustificationが要求されるからである。[7]    

無限回帰Infinite regressは回帰論 regress argumentのなかで取り扱っているが、臨界問題 problem of the criterion および  Münchhausen trilemmaの構成要素constituentが密接につながっている。

代表的な例としては、無限回帰とみなされるものとして、宇宙論的論議 cosmological argument亀の全方位丘下りturtles all the way downそしてシミュレーション仮説simulation hypothesisがある。

多くの哲学者は無限回帰にともなってついてくる形而上学的内包metaphysical implicationsと格闘する。この理由のために、哲学者はその回帰を止める探求において創造的creativeになった。

17世紀において、英国の哲学者 Thomas Hobbes は「無限回帰」"infinite progress"の概念を前面に置いた。

この意味によって、Hobbesは人間の性向を完ぺき perfection.[8]への努力にあると捉えた。

  Gottfried Wilhelm Leibniz, 、Christian Wolffのような哲学者および Immanuel Kant はこの概念をさらに洗練させてきたようである。

そのKantでさえ、不死の生体種 immortal speciesにおいては完ぺき性への受容の展開力のの仮説可能性についての見解に動いたのであった。[9]

 

350 B.C.Eにおいてすでに、ギリシャの哲学者  Aristotleは可能力potentialと実際上の無限性 actual infinitiesとの間の差異を行っていた。

彼のこの言に基づいて、実際的無限性actual infinitiesは存在しないとした、なぜならそれらは逆説paradoxicalであるからとした。 Aristotle は考えた、人間は有限集合finite setsにたいしてその要素を無限にくわえ続けることは不可能なことと考えたのである。  

 これが彼をして、Zenoの逆説Zeno's paradoxes.[10] を拒否することにつながったのである。

可能的無限性potential infinitiesの適正なる例としては Galileo's paradox  と  Hilbert's hotelの逆説 が思い当たる。

無限回帰infinite regressと無限進行infinite progressの概念こそがそれらをして可謬主義を保持し、これを活かすことになるのである。

 Elizabeth F. Cooke教授によれば、可謬主義fallibilismは不確定性uncertaintyを内包embraceしていること、そして無限回帰infinite regresssと無限進行infinite progressとは人間認知力human cognitionにおいては不幸なる限界となるのではなく、むしろ知識獲得 knowledge acquisitionの触覚となると。 

それらはわれわれに機能的functionalにして意味meaningfulある生命livesを与えるのである。[11]

 

 

2.臨界合理主義 Critical rationalism

 

Main article: Critical rationalism

 

The founder of critical rationalism: Karl Popper

 

二十世紀の中葉において、幾人かの重要な哲学者が論理実証主義 logical positivismの基盤を批判しはじめていた。 

彼のその著The Logic of Scientific Discovery (1934)では、 Karl Popper 、臨界合理主義critical rationalismの祖であるが、かれは科学的知識scientific knowledgeというものは帰納的原理inductive principleからよりも変造偽造する推測falsifying conjecturesから成るのであり、そして可謬性falsifiabilityこそが科学的提案scientific propositionの判断基準criterionであると論じたのである。 

すべての主張all assertionsは臨時的provisionalのものであること、かつ、従って自然科学 natural sciences.[12]のもとで認証grantedされるために、ひろく取られた結果のあらたな証拠new evidenceのひかりのもとで見直しrevisionされるべく開かれたopenものであるべきであるという要求claimである。

さらに Popperは彼の臨界的合理主義critical rationalismを規範的normative かつ方法論的理論methodological theoryとして擁護したのであった、すなわちこの理論こそが、知識がはたらくためには、いかに 客観的objectiveであり、かつ心情独立mind-independentにあるべきかを教えるものであるとした。   

 

ハンガリーの哲学者 Imre Lakatos はその線引きdemarcationの問題を規範査定問題problem of normative appraisal.として言い換えることによって理論を構築したのであった。 

Lakatos' and Popperの狙いはおたがいに似ていた、それは変造偽造性falsificationsを正統化justifyしうる規則rulesをみつけようとするものであった。

 Lakatosはしかしながら指摘した、それは臨界合理主義critical rationalismのみが理論theoriesの如何様なる変造偽造化falsifiedされうるかをしめすことができること、しかし、それは臨界合理主義critical rationalismにおいてのわれわれの信念beliefがどのように正当化justifiedされうるかは、省略omitsしていたのであった。

その信念beliefは帰納的証明原理inductively verified principle.[14]を要求してくる。 

 Lakatosは Popperに変造偽造化原理falsification principleが、帰納性inductionを内包していないときは正当化できないことを受け入れるよう迫ったとき Popper はそれに動じなかったのであった。[15] 

 

 Lakatosの合理主義 rationalismへの臨界的態度critical attitudeは、彼が斯く呼ぶ臨界的可謬主義critical fallibilism.[16][17]のための象徴emblematicとなってきたのである。  

臨界的可謬主義critical fallibilismは鋭く教条主義dogmatism に対立している一方で、ごく限られた分限の教条主義dogmatismをゆるしているといわれる。[18][19] 

 Lakatosでさえ彼自身はその過去において臨界的合理主義者critical rationalistを通してきたのであるが、それは彼自身が 帰納主義者幻想inductivist illusionに反発しているときのことであった。そこでの幻想とは必然性consequencesからの真truthこそが公理axioms を正統化justifiedしうるということを指していた。[16] 

まとめると、LakatosとPopperはふたつの立場の中、それぞれ一回ひとつをとったであるが、両者とも可謬主義fallibilismと合理主義rationalismに向かう二つの臨界的態度critical attitudeを保持し、その間を振動していたのである。[15][17][18][20]  

  

 

 可謬主義Fallibilism もまた哲学者  Willard V. O. Quineによって採用されてきたが、その目的は、いくつかあるが、 分析と総合言明analytic and synthetic statements.[21] 

との間の区分に向け攻勢をかけるためであった。

英国の哲学者 Susan Haack は Quine に同意して、可謬主義fallibilismの本質がしばしば誤解されていると論じた、なぜなら、人々は誤った提案fallible propositionsを誤てる機関fallible agentsとして、またその逆をふくめて混同する傾向があるからである。  

彼女は、主張した、それは論理logicというものは見直しrevisableができるものであること、その論理に分析性analyticityが存在しせず、そして必然性necessity(または 優先性 a priority )が存在するからといってそれを以って論理的真logical truthsへとは向かわないという意味の主張なのであった。

彼女は斯くしてその提案propositionsそのものが、論理logicにおいて無謬infallibleを確信convictionすることに反対するが、同時に、agents機関の方は可謬fallibleでありうるとした。[22]

臨界的合理主義Critical rationalist Hans Albert はどのような真truthもそれが確実性certaintyであると証明することは不可能であることを論じた、それは論理的logicにも、また数学的mathematicsにでもある。[23]  

 

 

3.数学的可謬主義  Mathematical fallibilism

 

Imre Lakatos, in the 1960s, known for his contributions to mathematical fallibilism

 

 

Imre Lakatos,は1960年代にmathematical fallibilismへの貢献で知られている。

 Proofs and Refutations: The Logic of Mathematical Discovery (1976)では、哲学者 Imre Lakatos  は数学的証明mathematical proofsを実施した、それは彼がPopperian "critical fallibilism".[24] 「ポパー臨界可謬主義」とよぶものである。

 Lakatosの数学的可謬主義mathematical fallibilismは一般的見解としてつぎのようなものになる、すべての数学定理 theoremsは誤りになりうる。[25] 

 数学的可謬主義 はHegel, Peirce, そしてPopperのような哲学者によって保持された伝統的見解から乖離する。[16][25]

 Peirce は可謬主義fallibilism を導入したが、彼もまた我々の数学的信念において我々は間違いを起こす可能性を織り込んでいたように見える。[2]  

 

 Mathematical fallibilismは、いま、数学的推測が真であると証明し得ないときでさえ、我々は真へのよき近似もしくは推定の何かを考えてよいという姿勢をもつために現れるものである。

この緊迫性 verisimilitudeともよばれるものは我々をして、数学における固有の不完全性 incompletenessの最中においても整合性を与えるのである。[26] 

数学的可謬主義Mathematical fallibilismは  擬似経験主義quasi-empiricismとは異なる、 後者の擬似経験主義が帰納主義 inductivismとの連携をしない、その先への展開していくのであり、様態としては集合理論 set theory.[27] の基盤核心的重要なものであると考えられる。

数学の哲学において、可謬主義fallibilismの核となる概念は非決定性 undecidabilityである(これはisostheneia,ともまたがは "equal veracity"(等しく信じられること)という観念にも似ている)[25]

用語としての非決定的"undecidable"にはふたつの種類がある。

最初のは 連続性仮説continuum hypothesisに関係している、これは  1873年に Georg Cantor[28][29]によって提案されたのである。 

連続性仮説continuum hypothesisは無限集合infinite setsの性質としての非決定的解undecidable solutionsを許すものとしてあらわれたのである―その解とは或る構築的宇宙constructible universe では真であるが、他では誤りであるといったものである。

双方の解は 選択公理axiom of choice( ZFCとも呼ぶ)と結合した Zermelo–Fraenkel set theory axiomsからは独立independentのものである。

この現象はこれまで(連続性仮説からの独立性)independence of the continuum hypothesis.[30] と呼ばれてきたものである。 

この仮説とその否定とも ZFC 公理と整合していると考えられている。[31]

沢山の注目すべき発見が連続性仮説の確立に先行してきたのである。

 1877年には、Cantorは対象化論議diagonal argument を導入して、二つの有限集合の基数性 cardinalityは等しいことを証明した、これはそれら一対一対応  one-to-one correspondence.[32]をさせたのである。 

 

対角化は Cantor定理Cantors theoremにおいて再び登場した、それは如何なる数え上げ集合countable set の 冪集合power setも、さらに高次の基数性higher cardinalityをもたねばならないということを証明するためであった。

その 冪集合の存在性はその公理axiom of power set において仮定されていたのである; Zermelo–Fraenkel 集合理論の活きた部分である。

1899年には Cantor's paradoxが発見された。

それはつぎの仮定である、there is no set of all cardinalities.(すべてが基数である集合は存在しない)というものである。[33]

二年後に博覧強記なる学者であるBertrand Russell(polymath Bertrand Russell )は  普遍的集合universal setの存在性は無効であると示唆する。これは Russellの逆説Russell's paradoxから来るものであった、その逆説とはno set can contain itself as an element (or member).(いかなる集合も それ自身を一要素として含むことはない)というものである。

 

この普遍集合universal setとはaxiom schema of separation 公理または  axiom of regularity公理を使うことによって否定されるものである。 普遍集合universal setとは対照的に、 冪集合power setではそれ自身を包含containしないのである。 

それは数学者  Kurt Gödelが証明する1940年まで待つことになったのである、それはいわゆる  diagonal lemma を適用することによってなされたのであって、

連続性仮説continuum hypothesisは拒否され得なないというものである[28]、そして1963になって力量の高い数学者 Paul Cohenが、 forcing方法を通じて、continuum hypothesis連続性仮説もまた証明し得ないということを顕わにしたのであった。[30]

この疑いの感覚sense of suspicionは、 ZFCの整合性に対する強固な信頼に結びついたもとで、 数学的可謬主義mathematical fallibilism.[35] と気脈を通じているものである。

 

 

数学的可謬主義者Mathematical fallibilistsは新しい公理、それはたとえば射影的決定性の公理axiom of projective determinacyが、ZFCを改良してくれるかもしれないとする、だがしかし、これらの公理は連続性仮説continuum hypothesisの従属性dependenceのためには使えないのである。[36]

非決定性undecidabilityの第二番目の種類は、計算可能性理論(もしくは再帰性理論) computability theory (or recursion theory)との関係において使われるのである、これは単なる声明文statementsではなく、特定の決定問題decision problemsに適用される;決定可能性decidabilityの数学的設問なのである。  

非決定問題undecidable problem は計算問題computational problemの典型であり、そこでは設問の無限集合countably infinite setsがあらわれる、それぞれが有効なる方法 effective methodを要求してくる、その方法とは出力an outputがイエスかノー"yes or no"のどちらかを決定するためにあって、そこには正しい答えを常に提供するような計算機プログラム computer program または チューリング機械Turing machineも存在していないのである。

どのようなプログラムもときには誤った答えを与えるし、またいかなる答えにも到達せずに永久に計算続行することになろう[37]。非決定性問題undecidable problems の有名な例は、 halting problem 、 Entscheidungsproblem そして  Diophantine equationの非解到達性である。

通常的には、非決定問題undecidable problemは再帰集合recursive setから引き出されるのであり、これは非決定言語 undecidable languageで式化されるのであり、そしてTuring度 Turing degree.[38][39]によって測らさるのである。 

非決定性Undecidability、これは計算科学 computer science と数学的論理mathematical logicに関してであるが、これもまた非解性unsolvability もしくは非計算性non-computabilityとも呼ばれている。

非決定性undecidabilityと非確実性uncertaintyとは単一でも同一でもない現象phenomenonである。数学定理というものは、形式的に証明することを可能にするが、数学的可謬主義者mathematical fallibilistsによれば、残念ながら未だに定理は与えられないままにある。[40]  

たとえば、いま連続性仮説continuum hypothesisの独立性の証明を取り上げよう、もしくはさらに基盤的に、対角項論議diagonal argument.の証明を考えてもよい。

この節の終わりにあたって、非決定性undecidabilityの種類は可謬主義fallibilismへのさらなる微妙なるニュアンスを加えることになるが、これらは基礎的な思考実験thought-experiments.[41]を与えることによってである。 

 

 

4.懐疑主義の哲学 Philosophical skepticism[edit]

主課題 Main article:  Philosophical skepticism

 

 

可謬主義Fallibilismは局所的もしくは全体的な懐疑主義と混同されるべきではない、懐疑主義skepticismとはどのような種の知識も未達unattainableという思想viewである。

しかしわれわれの知識の可謬性fallibilityは―それがいかに厳しく試験に堪え得た想像から得た理論や見解ものであったとしても その知識すべてが想像から得たものということをもって―懐疑主義や相対主義の軍門のもとの位置付けで記述されてはならないのである。

 

 

われわれが誤りをおこす事実から、そして我々を誤まりから守ってくれるような真があるとしても、その判定基準criterionが存在しないという事実から、理論選択が任意であってよいとか、非合理であってよいということにはつながらない;またわれわれが学ぶことができないということにも、真理により近づくことができないことをも意味しない;知閾は成長しないということも意味しない。

 

可謬主義は正統(適法)とみとめた認識legitimate epistemic が、正当(根拠)性justificationsにおいて誤った信念beliefsへ導くということを主張しているのであり、一方で学術的懐疑主義academic skepticism は正統なる認識であるからといってそれが正当など何も存在しないことを主張している(acatalepsy認識不可能性)。 

Karl Popperはいう;

可謬主義はepochéや、判断の保留とも異なるものであり、 そのことは  Pyrrhonian skepticism への意味するものとつながるのである。

 

5.限界判断主義 Criticism[edit]

 

ほとんごすべての哲学者は今日、そのことばの意味において可謬主義である。知識に絶対的確実性を求めるものはなく、また科学が主張することが非修正のものであることを否定するものはいないが、21世紀においてある哲学者たちは非可謬性(つまり絶対性)知のための論議を続けている。[42][43][44]

歴史的には、西洋の哲学者のおおく、 Plato  から Saint Augustine ,René Descartesまである人の信条human beliefsは非可謬的知infallibly knownであることを論じてきた。

 John Calvin は他の信条へむかう種の神学的可謬主義theological fallibilismを取り入れた。[45][46]  

尤もらしい信条beliefs候補は論理的真logical truths(「Johnは民主党員であるかまたはJohn民主党員ではない」)、一見immediate appearances(「わたしがみたのはブルーのリボンだったようにおもう」)、そして頑固incorrigibleなる信条(「私は考える、したがって私は存在する」)がそれである。[22] 

しかしながらその他の多くの哲学者は可謬なる信条でさえ取り入れてきたのである。

 

 

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