実際「ヨハネによる福音書の14章」によれば、イエス自身が彼の「名によって」祈る事を勧めているので、「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」というフレーズで祈りを締めくくること自体は聖書の教えに沿っています。 しかし一方で、単なる慣習で無意識にこのフレーズを結び文句に使わなければ何となく気が済まない、といったことであれば、このフレーズは「おまじない」に成り下がっていると言えるでしょう。
ここでこのフレーズに関連して3つの事を考えてみたいと思います。先ずはそもそも祈りとは何か?何のために祈るのか?という事ですが、大抵第一に頭に浮かぶのは「お願い」になろうかと思います。 祈りを定義するならば、「天上界との交信(天上界への積極的な働きかけ)」であって、「お願い」はその中の一つにすぎません。聖書に見る例としては「感謝の祈り」「執成しの(他者のための)祈り」「大きな感動や崇拝を表現する祈り」など他にも様々です。
次に「イエス・キリストの御名によって」の「キリスト」の意味は何かということですが、イエスという人物の苗字だと誤解される事も屡々あるようですが、本来はヘブライ語の「発音:mashiyach」で「(解放者・救い主として)聖別され油を塗られた者」という意味になります。
「祈り」について、そして「イエス・キリスト」については、後により詳しく見ていきたいと思います。
3つ目に「名によって」の「名」について見てみましょう。例えば上記の「ヨハネによる福音書の14章」ではギリシャ語の「発音:ónoma」が使われていますが、この言葉には「名前」という意味の他に「権威」という意味もあります。
なので、天上界への語り掛けを「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と締めくくるのであれば、その際にはただ「型」にはまり流れに任せるのではなく、是非「私たちを解放・救いに導く権限を持つ方のその権威によって天上界と交信している」という想い、イメージをハッキリ持って行いたいですね。
天上界のパワーを最大限引き出して、安心と満足そして心からの笑顔に満たされた日々を送れるのならば、それを拒む理由は無いですよね。ただ、そのためには天上界のパワーを本気で信頼することが大前提になります。これは一見当たり前の事のように思えますが、実はその最重要となる「信頼」を妨げる「理由」を私たち自身が知らず知らずのうちに作ってしまう事があります。例えば心理の領域では「恐れ」だったり「自己過信」などが邪魔な要素になったりします。この事についてはまた後により詳しく見ていきますが、「信じる心」が極めて重要であることはまず最初に押さえておきたいと思います。
それゆえ、その「信じる心」を生じ育むのに「宗教」が一翼を担う事があります。またそれが私たちを霊的に良い軌道に乗せることもあるという事も否定しません。しかし同時に、そんな宗教が逆に私たちと天上界の間に挟まる障害物にもなり得るという事も事実です。
中世ヨーロッパでは、宗教を用いて特定少数の人間や団体に富や権力が集中してしまいましたし、日本でも明治時代に教育の根本精神となる「聖なる教え」として国民に授けられた「国家神道」があり、これが後に日本を無謀な侵略戦争に導いていった残念な経緯もあります。 現在に於いても、「宗教」はその導き手となるトップが自らの都合で人々を操作できる場になり得るし、実際そうなっている例は多々あります。もちろん教会の献金に関する「神に捧げよ」的なメッセージのように比較的無害なものから、地下鉄サリン事件のような忌むべき行為の背景にある教えまで、その性質・度合いは様々です。
このブログでは、私たちと天上界との繋がりのキーとして「新約聖書」を紹介・お薦めしていきますので、これを書いている私もキリスト教から学ぶことは多々ありますし、キリスト教会にも頻繁に足を運びます。しかしその一方で、キリスト教が持つ様々な「型」に縛られることで、天上界とのやり取りが滑らかさを失ってしまう事もあろうかと危惧もしています。
幾つか例を挙げていきますが、例えば感謝や願いなどを込めた祈りが大抵「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」というフレーズで結ばれるのを見ますが、これは何かの魔法の言葉又は「おまじない」の類でしょうか?
(次回に続く)