このブログは、キリスト教に対する批判や価値の否定を目的としているものではありません。
「不幸せ」から脱出し、明るく喜び満たされた日々を送るために最も重要なキーが天上界との繋がりであって、そのための至上のマニュアルが聖書であるという事が、最もお伝えしたいことです。その一方で、宗教の持つ「伝統」や「慣習」の中には、天上界との滑らかな交信の妨げになりがちなものもあり、検証するに値する部分がある事。そして「妨げ」や「つまづき」になる要素は取り払っていきたいと考えるのです。
宗教の共通項の一つに、救いや悟りは自らの意識改革や行いによって「獲得」または「到達」するという概念がありますが、一方で例外的にキリスト教に於いては、「神の犠牲の愛と恵みによって、救いは既に提供されていて、救いを得るにはそれを信じて受け取るだけ。後の話はそれから。」という事になります。確かにそのこと自体は聖書の教えと一致していると言えますが、「キリスト教」という宗教そして「教会」という組織の中でどうしても起こりがちなのが、「信じることを公言するように個人が導かれ、『救われた』という断定が人間(牧師及び周りの信徒達)によって(意識的に又は無意識のうちに)下される、少なくともそのような形をとってしまう事だと思います。
ここで考えたいことは、一つは「救い」にせよ「悟り」にせよ「解放」にせよ、それを客観的に断定できるのは、人間ではなく天上界の権威ではないのかという事。そしてもう一つは、「信じる事」が唯一絶対かつ必須の条件であるからこそ、その「信じる」とは何かという事に十分に考えを巡らせず、また十分な説明もせずに、「信じましたね?」「はい、信じました。」に持っていくのはいささか乱暴なのではないかという事です。
ここで有名な個所、「ヨハネによる福音書」の第3章第16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の中の「信じる」を見てみたいのですが、ギリシャ語の「発音:pisteuō」が使われていて、これは「信頼する」というニュアンスを持った「信じる」になります。即ち、解放者・救世主として油を塗られたメシアについて歴史上起こった事(処女懐胎及び再臨など)を単に史実として認めること、又は「神の子である」という定義を受け入れるという事よりも、「このメシアの力と権威と愛に自らの人生を100%委ねれば絶対間違えが無いんだ。」という確信の下、信頼して従っていく決心。これこそが問われるのではないでしょうか。
(次回に続く)