ということだとすれば、逆に、知的であるからこそ、
「見えるものが見えなくなる」「見えるものを見ようとしない」
ことも起こる。
京極夏彦の最初の小説「うぶめの夏」は、
このテーマを正面から扱っているが、
こうした「隠蔽」、あるいは、集団的な無視、歪視、差別、
意味の「転倒」にとても敏感なのが柄谷行人だ。
たとえば、「マルクスその可能性の中心」に収められた
「階級について-漱石試論I」には、
有島と漱石を比較しながら次のように書かれている。
「漱石は、作品において、「中間階級」としての人間の葛藤
-自然と規範に引き裂かれた-をあたうかぎり描いている。
彼は一方で「自然」の衝動を肯定せねばならず、
他方でその結果としての「罪」をまぬがれない
という背反をくりかえし書いたのである。
だが、それは「人間存在」の普遍的なあり方だろうか。
むしろそれは漱石自身の「存在」あるいは「生活」にもとづいている。
そして、それは(当時の)「教育ある且尋常なる士人」
によって共有されたものなのだ。」
「性欲の自意識を露出した作家たちとちがって、漱石は抑圧された
欲望の象徴化機構を逆説的にとらえたといえる。「道草」という作品の
厚みはそこにある。しかし、「自然」や「不安」という
普遍的表現は、その転倒をそのまま形而上的におおいかくすのである。」
結局、漱石の葛藤は、急速に変化してゆく日本の中で、
「自然」(=地底)、あるいは、「自然主義的現実」
を無視することはできず、しかし、その一方で、
それを「獣に近い」と位置づけるしかなかった、
という点にあるわけだ。逆に言えば、そうした位置づけは、
漱石にとって「自然を馴らす」ための方法だった、のかもしれない。
漱石が、自身のそうした<やり方>に、
どれくらい意識的であったのか、は別として。
これに対して、有島は、「霊と肉」の葛藤を通じて
「最も深刻にキリスト教に内面を喰い破られた人間」として、
キリスト教を転倒することからはじめ、逆に、
プロレタリアート、という社会的観念に到達する。
「たぶん有島は漱石から何の影響もうけなかったが、その嫌悪は
ある認識を共有しているがゆえに生じたのである。この関係は、
いくらかショーペンハウエルとニーチェの関係に似ている。
ショーペンハウエルは、 will を、世界および自己の根底に
みとめた男であり、同時にそれを恐れて扼殺しようとした男である。
漱石も必死にそれを殺そうとした。そして、彼が実際の肉体的衰弱を
それの克服ととりちがえたとき、「則天去私」という神話が
できあがったのである。
この神話は1950年代に、江藤淳によって破壊された。
だが、やがて圧倒的にふくれあがった新中産階級によって、
新たな神話が形成されたのである。それは ”地底”の消滅の
結果にほかならない。この神話はもはや「則天去私」など信じない。
しかし、それは、漱石の苦悶、葛藤、不安、恐怖を
抽象的に昇華した上で、それを人間存在の普遍的な姿として
見出すのである。さらに、こうした非歴史的な思考は、
同時に、それ自身の歴史性を問わない歴史主義的な実証主義
によって補完されている。私が神話とよぶのは、
漱石論の基底にある、このような相補的なイデオロギーである。
漱石論の再考は、われわれがその上にある知的基盤そのものの
解体を迫るのである。」
”地底”は消滅したのだろうか?
現実的には、「抗夫」が働いた炭鉱は無くなり、
スラムもずっと小さくなった。喧嘩や暴力は減り、
人工的都市に暮らしていれば、恐ろしい、
獣のような「自然」を目にすることはほとんどない。
実際、漱石や有島にとっての葛藤のリアルさと、
現在の我々にとっての葛藤のリアルさには大きな違いがあるだろう。
我々は、ずっと文明化され、ある面では弱体化し、
不安、我々にとっての「地底」は、かなり抽象化されてしまっている。
しかし、もちろん、人間の中から「地底」が無くなることはない。
だから、それは、より巧妙に隠蔽されただけ、とも言える。
現在の我々の「文明基盤、知的基盤そのもの」を
疑わない人たちに、違和感を感じることがある。
まっすぐ素直に、自身の向上や成長、自身の属する組織の
成長、文明の向上を目指す人の姿は、
ある意味まぶしいのだが、しかし、やはり、
どこか違う、という感じがするのだ。
その一方で、疑い深い自分を省みて、
こんなにも疑い深いのは、愛が足りなかったからなのか?
愛とは信じること、なのだから・・・
などとも思うのだが。
それはともかく、村上春樹が漱石ととてもよく似ているのは、
第一に、こうした「地底=アンダーグラウンド」
への感受性であるだろう。
村上春樹も、おそらくは、疑い深い人なのだと思う。
(漱石に較べて、外からはそれほど不幸には見えないのが
不思議なのだが)そしてまた、その感受性にもかかわらず、
あるいは、それゆえに、そうした「地底」を、
野放しにはできず、扼殺、あるいは、慰撫するしかない。
それを不誠実、と言われることもあるのだが、
しかし、誠実に生きることは難しく、
大多数の日本人もまた、そうした不誠実さを抱えている、
という事実によって、村上春樹は読まれ続ける。
こうした観点から見れば、オウムが引き起こしたサリン事件は、
明らかに、こうした隠蔽に対して、突発的に現れた大きな亀裂、
意識的にせよ無意識的にせよ忘却していた「地底」の
「日常」への噴出であり、だから、村上が「アンダーグラウンド」を、
どうしても書かざるを得なかったというのは、とても自然だ。
村上の主観にとっては、それは、
デタッチメントからコミットメントへの移行、かもしれないが、
しかし、第三者的には、それは、やはり
地底を慰撫するための行為のように見える。
それはあたかも、荒ぶる神をあえて呼び出し、
そして、お鎮まり願う、ことによって、
それを封印し、心の平安を得る、という儀式に似ている。
文明は、地底=欲望をそのドライビングフォースにしているが、
その一方で、そのことを恥じ、
それを「野蛮」として隠蔽する方向に発展する。
逆に言えば、だからこそ、どんな文明も衰退する。
そして、辺境から、また、新たな地底、
新たな野蛮・野生が現れてくる。
しかし、そうこうするうちに、地球は温暖化し、
いまや、物理的な「自然」、が、再び、大きな牙を剥いて、
あらゆる文明を粉砕する日が近づいているのかもしれない。
だからこそ、そんな「文明」の知的基盤を疑っている場合ではなく、
とにかく、全力を尽くして自然の脅威と戦うしかない、のかもしれない。
自身の向上・成長、について真顔で語る、まぶしく輝く人々は、
それを察知しているのかもしれない。
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