「カラマーゾフの兄弟」の二つ目の小説は、
ずっと気になっていたので、楽しみに読んだのだが、
ちょっとがっかり、というか、かなりがっかり。
さすがに専門家で、ネタは山ほど揃っていて、
それらについては素直にとても面白かった。
しかし、全体としての構成があまりにひどいと思う。
冗長な繰り返しが多く、流れも感じられず、
ただ、断片を寄せ集めた、という感じで、
読みにくいことこの上ない。
ネタはたくさんあるから、ということで
気楽に企画したのに、いろいろ忙しくて手がつかず、
タイムリーに出さなければ、というプレッシャーで
完全に崩壊してしまった、というところか。
これだけのネタがあるのに、
もったいなさすぎる。
全体としてミステリー仕立てにしたかったようで、
空想の結果を最後まで出さずに引っ張るのだが、
いっそのこと、ある程度最初のほうで、
空想の結果のプロットを全部出してしまって、その後に、
主要論点を一つづつ証拠で固めてゆく、というほうが
よかったのではないかなぁ・・・
外語大学長なので忙しいのはよくわかるが、
それにしても、さすがにここまでひどいものを
出版してしまうというのは、なんだかなぁ。
研究者としてのプライドとモラルを疑ってしまう。
編集者も、もっと手伝ってあげればよかったのに。
専門書ではなくて、どうせ新書だから、
という感じなのかなぁ。
その割りに、内容はかなりマニアックで、
一般読者に親切とは言いがたいのですが・・・
9/26の追記
池田信夫さんが、ブログでこの本を取り上げていた。
そこで書かれている「大審問官のあたりのやりとりは、
社会主義の末路を預言していたのでは?」
ということは、確かに、カラマーゾフの本編を読んた時に感じた。
だから、ロシア革命こそがカラマーゾフの続編、というのは、
皇帝殺し、という意味ではそのとおりだし、
それが人間の現実だ、ということも確かなのだが、
もしも作品が書かれたとしたら、逆に、
そうならないような世界像を描かれていたはずだ。
皇帝殺しのテロルが未遂に終わって、
どんなふうに落とし前がつくのか?
どんな哲学、世界像が提出されてくるのか?
小説のプロットなどではなく、
そここそが、続編(というか、本編)に対する興味の核心なのだが、
この新書の言うように「肉体の物理的復活」の思想なんだろうか???
近代に超克、という観点からすると、
漱石の「明暗」と並んで、未完に終わったのが全く惜しまれる。
しかし、社会主義は負けてしまい、
「近代の超克」は結局未だに実現されていなくて、
資本はますます猛威を振るっているわけだから、
どちらの作品も、未完に終わる運命だったのかもしれない。
9/28にさらに追記:
finalvent さんのブログでも取り上げられていて、
そこでは、福音書との対応関係などから、
アリョーシャ=キリストという論点が強調されていた。
イワン、リーザ、ドミトリー、スメルジャコフ、
そして、コーリャ・・・は、
みんなキリストを試み、誘惑する悪魔、ということらしい。
ゾシマは賢者か。
確かに、言われてみると、
これはとてもすっきりくる。
そう思ってみると、ドストエフスキーの作品は、
みんな福音書的なわけで、さらに一般化して、
「西欧文学の大半は、福音書か黙示録だ」、
などと言ってみたい気持ちになったりする^^;
いずれにせよ、近代的人間に絶望し、
生涯をかけてキリスト教の根本思想の復活を
願ったドストエフスキーが
満を持して構想した新しい福音書。
ますます、未完に終わったのが惜しまれる。
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