日々の寝言~Daily Nonsense~

Sergiu Celibidache

「音楽」を感じさせてくれる演奏家、
指揮者は世の中に少なくないが
(その数百倍もの、「音楽することの少ない」
演奏家が居ることが事実だとしても)、
その中で、チェリビダッケが私にとってきわめて
特殊であるのは、その音楽へのアプローチのしかたが、
並外れて意識的、思弁的、哲学的だった、
ためだと思う。

多くの優れた音楽家たちは、言ってみれば、
「本能的」に「音楽」に到達している。
チェリビダッケ自身もそうした本能から出発したのだと思うが、
そこからさらに、「音楽とは何か」について深く考え、
現象学(と実存主義)をベースとする
実践的な音楽の哲学へと向かった。

たとえば、「音楽は一回毎の絶対的な経験である」ということについて、
チェリビダッケほど意識的であったクラッシックの演奏家は少ないだろう。

実際、生前には、市販されている録音は海賊版以外ほとんど無く、
まさに「幻の指揮者」という言葉にふさわしい状態だった。
彼の言葉を伝える伝記などを読むと、
このことの裏には、単なる好き嫌いではなく、
「音楽」についての哲学的考察に支えられた信念があったことがわかる。

ボンで聞いたベートーベンの「田園」は、確かに、その信念、即ち、
「音楽」が単なる感覚のセンセーションではなく、
また、作曲家や演奏家の自己表現などでもなく、
「「音楽」は演奏の都度、新たに、絶対的なものとしてその場で生成される」
のであり、その場に居合わせる人だけの絶対的な体験である、ということ。

そのような「音楽」が、ロックやジャズのような
センセーショナルな熱狂の中だけでなく、
西洋古典音楽において、それらとは異なった種類の、
静かな冷え切った熱狂の中において可能であり、
かつそこで生れるものが、ロックやジャズとは別種の
深い感動を与えることができる、
ということを明らかに実証していた。

そこでは、集中力の高さによって音楽をつなぎ止めるのではなく、
ごく自然に、いともたやすいことのように「音楽」が生まれていた。
それはあたかも、地味だが丁寧な仕事を尽くされた織物が
広がってゆくような、あるいは、目の前に延々と続く巨大な伽藍が
次々と生み出されて行くのを見ているような、唯一無比の経験だった。

チェリビダッケは「音楽は人間のようなものだ」とも言っている。
人間もまた、音楽同様、その人生の各瞬間瞬間に生成し、そして消えてゆく、
一回切りの現象だ。こう言ってみるとごくあたりまえの感じだが、
このような考え方を確かに証してくれるチェリビダッケの音楽、そして、
そこにおけるレコーディング拒否の意味は、現在における人間の尊厳の希薄さ、
「生きている」という感覚の希薄さ、にまでもつながってゆくように思われる。

人間が瞬間瞬間に生成してゆくものだとすれば、
どうしてこの「いま、ここ」を大事にしないわけにゆくだろうか?
チェリビダッケの音楽の「常に生成し続ける」感覚、そして、
曲の最後の一音が鳴り終わったときに、
すべてがはっきりと見渡せるような感覚、
これらは、とても「生きている」ことの感覚と
類似しているように思われる。
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