イシグロさんは、村上春樹さんなどと同じく、
プライベートを大切にする、というか、
作品だけで勝負したいと考えている作家なので、
ファンにとっては、こういう番組は大変に貴重だ。
番組自体もとてもよくできていた。
たくさんの断片を複雑につなぐ構成は、
あきらかにイシグロさんの作品を意識している。
特に印象に残ったのは、本人が
自分の作品や小説観について語っているところ。
おおむね確認的な情報ではあるとしても。
「記憶」に残った三つの点についてメモ。
ひとつめは「わたしを離さないで」について。
現在映画公開中ということで、実にタイムリーなのだが、
逆に言えば、激しくネタばれだ。
NHKもずいぶんと大胆な。
もちろん確信犯的なネタばれなのだろうが・・・
この作品についての日本での記者会見の様子が引用されていた。
1990年に最初に取りかかり、途中で放棄。
その後もういちど取りかかり、また放棄。
そして、2001年に取りかかって、なんとか書きあげることができた。
最初にあったのは、「短い一生」を運命づけられた人々
について書くということであり、
クローンというプロットは途中で導入された、と言う。
ミステリー風の作品の構成と、トピックのセンセーショナルさから
どうしても、この作品を「クローニング」を中心に読む人が
多いのはしかたがない。
しかし、イシグロさんが語ったのは、
クローニングは、あくまでも材料であり、
作品の本質ではない、ということだ。
それはおおよそわかっていたつもりだが、
もう一度あの作品を読み返してみたい、と思った。
思えば、押井守さんの「スカイクロラ」もまた、
同じような方法で同じような主題を扱っている。
あの映画も、もう一度見返してみたいなぁ。
二つ目は、
「大人になるということは、自身の至らない点を認め、
それを赦すことだ。」
という言葉。
「生きるということは、何かを失ってゆくことだ」
と言ったのは誰だったか。
三つ目は、
「記憶は死に対する部分的な勝利、死に対する慰めなのだ」
という言葉。
これについて、私は、福永武彦さんの「死の島」の末尾、
主人公の一人である相馬鼎のモノローグを思い出さざるをえない。
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「死の島」 終章 目覚め
人は死ぬ。死によって忘却へと投げ込まれる。
それはまるで我々の現在が
刻々に死んでゆく時間の墓場であるのと同じことだ。
もし我々が我々の時間を過去から救い出して意味づけることができるのなら、
なぜ他人の時間をも過去から救い出して来ることは出来ないのか。
なぜ他人の時間をもう一度生きることは出来ないのか。
人生は常に恐るべき体験に充ちているだろう。
その中には、他人の死が自分の死であるような、
他人の虚無が自分の虚無であるような、
他人の失敗が自分の失敗であるような、
そういう場合もあるだろう。
己は決して自分の体験だけが恐ろしいと言いたいわけじゃない。
己はもっと謙虚に、人生はこのような体験から、
このような失敗から始まると思いたいのだ。
こうした体験によって、人は生の内部にはいって行くことが出来る。
生の内部、それはひょっとすると死と等質のものかもしれない。
この窓の手前が生であり、窓の向こうが死であるとして、
その死から射すこの陰鬱な明るみが窓の内部にあるものを仄白く照し出すように
、
死が照し出してこそ、己たちは生の実体を知ることが出来るのだろう。
窓の外にある空が虚無にすぎなくても、その虚無に照された自分の心が
他人の虚無を思い出し映し出すことの出来る鏡であるならば、
初めて己たちは虚無と虚無とをつなぐ関係を、結びつきを、連体を、
そして愛を、持つことが出来るだろう。
それが小説を書くという行為ではないだろうか。
小説もまた、恰も我々の見た夢の破片を
我々が思い出すことによって夢が成立するように、
現実のさまざまの破片を思い出すことによって成立するのだ。
思い出すということの中には、
無意識の記憶も含まれるだろう、
無意識の願望も含まれるだろう、
もっと暗く混沌とした暗黒の意識も含まれるだろう。
思い出すということは殆ど想像するということと同じだ。
しかし小説によって、己の「小説」によって、
死者は再び甦り、その現在を、その日常を、
刻々に生きることが出来るだろう。
己の書くものは死者を探し求める行為としての文学なのだ、
いなそれは死そのものを行為化することなのだ・・・
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イシグロさんが福永武彦さんから影響を受けた
ということはおそらくないだろう。
もともと同じような質の魂なのだ。
そのことが確認できたのは大きな収穫だった。
その一方で、イシグロさんと村上春樹さんは
かなり違うということもまた確かめられた。
イシグロさんは、村上春樹さんよりもずっと
不器用で、誠実で、周到なようだ。
その本質は、私の愛する福永武彦さんにより近く思われる。
別の言い方をすれば、
イシグロさんや福永さんは、意識的な記憶が中心で、
村上春樹さんは、もっと深い無意識的な部分が軸
というふうにも言えるかもしれない。
今回の震災の直後にこの番組が放映された
ということにも、なにかしら運命的なものを感じた。
だれかが tweet していたが、
被災地の人々にとって、ふるさとは、もう
<記憶の中にしか存在しないもの>
になってしまったのだ。
被災地の人々に限らない。
今回の震災で、多くの日本人が、
多くのものを喪ったのだと思う。
そんなときだからこそ、
すべてが流転する世界の中での、
人の記憶というものの不思議さ、その力について語る言葉は、
多くの人の心に受け入れられたのではないだろうか。
番組の最後に流れた音楽は何だったのだろう?
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