宗教学者の山折哲雄さんが、
人生80年時代の死生観について話されていた。
その中で、神仏のひとつの役割りとして、
普通の人間が言うと自己矛盾してしまうメッセージを
代弁する、というものがある、というような
話があって、なるほど、と思った。
たとえば、「殺すな」というメッセージを
普通の人が言えば、
「自分だって、虫や魚や家畜を普段から殺しているだろう」、
と言われてしまう可能性がある。
でも、神がそうおっしゃっている、と言うことはできる。
しかし、死が日常から切り離され、
「生きること」と「死ぬこと」のバランスが
「生きること」のほうに大きく偏った。
死の恐怖が隠蔽され、薄れるとともに、
神も仏も必要とされなくなった。
長期的、広い範囲の視野で語る主体が失われ、
短期的な利益ばかりが語られ、
命さえもが利益と換算される。
そうした中で、引き伸ばされた死である、
老いや病にどう前向きに向かうのか?
昔、インターネットが普及すれば、
今、この瞬間にも、飢えや災害や戦争で失われている命がある、
というようなことが、もっと身近に感じられるようになり、
地球全体を見るような視野も育つ、という説もあったが、
結局、人間は、見たくないもの、
見ないでもすむものは、あまり見ないものらしい。
誰にでもやってくる、老い、病、そして死。
それはわかっているのだが、
それを見ぬ振りをするのでなく、
どう向かい合えばよいのか?
確かに、大きな問題だと思う。
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