カズオ・イシグロが講師。
フィクション=物語とは何だろうか?
私たちはなぜ、フィクションを書き、
フィクションを読むのだろうか?
なぜ歴史ではなく、辞書ではなく、
ノンフィクションではなく、
小説を書き、小説を読むのだろうか?
という問題をめぐって、
ディスカッションしていた。
1回きりで終わり、議論が
だいぶ切り詰められていたよう
なのが残念だが、でも、面白かった。
フィクションが伝えるのは、
「事実」ではなく「真実」だ。
フィクションはそれを
大きなメタファーによって伝える。
作品全体が大きなメタファーに
なっているような形で。
舞台設定は、「真実」を伝えるために
最も良いものが選ばれるのであって、
「真実」は具体的な事実にはよらない。
同じ「真実」を、いろいろな舞台で
描くことができる。
だから逆に、どの舞台を選ぶかが
難しい問題になる。
イシグロの独特さのひとつは、そこに、
記憶の不信頼性、を盛り込むことだ。
人の記憶を通じて語る、
というスタイルを取ることによって、
それが可能になる。
誰かの記憶として書かれている
小説で語られていることは、
信頼できることなのか?
人は記憶を歪め、忘れ、
そして思い出す。
したがって、そこで書かれていることは、
明らかに信頼できない面を含んでいる。
しかし、そこで語られていることの
信頼できない面を含めて、
「真実」になるのではないのか?
そうしたことも含めて、
生きて体験した大きなことについての
自分の感じた「真実」「心情」を伝えたい。
誰かと分かち合いたい。
それが、小説を書く、
小説を読むということではないか?
というのが、イシグロさんの答え、
のようだった。
* * *
全くうかつにも知らなかったのだが、
「忘れられた巨人」という新作長編が
出版・翻訳されていたのだ。
それは、記憶のことを、
ダイレクトに扱った作品だという。
図書館に行かないと・・・
久しぶりに、生きていてよかった、
と思えるニュースだ。
しかし、早川は、なんで新作は
キンドルで出さないのだろう?
キンドルで出しれくれれば、
高くても買うのに・・・
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