福永武彦さんの「死の島」を読んだ。
とても読みにくい小説で、
今年に入ってから少しづつ読んでいたのだが
やっと結末に到達した。
前回読んだときには、
結末を見たい気持ちが強くて
ゆっくり読めなかったのだが、
今回はじっくりと読むことができた。
とても疲れたが、改めて、
すごい小説だと思う。
「これからの小説では読者が小説の世界の中に本気で参加する
ようにしむけること、つまり読者の想像力が作者によって刺激され、
彼等自身の力で、というより作者と読者との共同作業で、
小説が読まれるようにすること。それが作者の任務だと思うんです。」
主人公?である相馬鼎のこの言葉どおり、
ある視点から構成されてしまったひとつの物語として提示するのではなく、
そうなる前の断片として、我々の記憶の中にあり、そしてときに触れて
取りだされるままの断片として提示することによって、
逆に、それらを読者の記憶の中に植え付ける。
そこから先の構成を読む人に委ねることで、
物語よりもよりいっそう、
読者にとっての現実に近いものにする、
という仕掛け・・・
読む人にとっての<現実=記憶>と入り混じり、
その一部となるような小説。
読んだ人の現実を変えてしまうような力を持つ小説。
特に、萌木素子の内部は、
強烈な力で読者の現実に浸透する・・・
被爆直後のヒロシマの姿が
ものすごい力を持って迫ってくる。
逆に言うと、それ以外のものが
それにまったくつりあっていないのが
欠点と言えるのかもしれない。
相見綾子を、もう少しさらに、聖なるものとして
描くことはできなかったのだろうか?
それは「愛」というにはあまりにもナイーブで弱弱しく見える。
「或る男」は、相見綾子を聖化するための道具だが、
その効果がもうひとつうまくいっていない。
軽薄な人物造型は成功しているのだが・・・・・・
そして、相馬鼎の「小説家」としての<業>もまた、
素子さんに比べて軽過ぎはしないか?
なぜ彼は、小説を書こうと思ったのか?
なぜあんなに中途半端なのか?
なぜ素子さんの絵に惹かれたのか?
二人のうちの一人を選ぶことができなかったのか?
そこには、何かしらの断片があって
しかるべきではないだろうか?
そうした多くの欠点があるとしても、
すべてが虚無であり、究極の愛は心中である、
ということを踏まえた上で、あらゆる死をも超えて、
なお「虚無と虚無をつなぐ」ことが可能である
ということを示そうとしている、
その力技には感動せざるを得ない。
まずは、浦上玉堂の画を見てみなくては。
そして、シベリウスも。
それにしても、
オンデマンド出版で、上下で1万円でしか
手に入らないというのは、ひどい状態だ。
文庫の復刊を望みたい。
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