この数年慢性的な体調不良に悩まされている。
血液検査をしても値はすべて正常。
いわゆる不定愁訴というものに違いない。
43歳という若さで焼きが回ってしまった感じさえする。
しかし先程拝読したブログ記事と同居する父の在りようから、薄々気づいていたが目を背けていたことが、目の前のアイスコーヒーの実在感と同じくらいハッキリと心に迫ってくる。
父は昭和19年の生まれ。年齢を考慮すればわたしの方が「元気」のはずだけれど、父は日々を精力的に、まるで年齢などただの数字に過ぎないかのごとく生きている。楽器を造り、Facebookに日々寸感を投稿し、ウォーキングはかかさず、食事は矩をこえない。
思い返すと、自分は「自由」を求め勤めていた学校を退職し自営業者となった2018年を分水嶺として、行き来起き伏しの日常がうすらぼんやりとしたもとなっていった。
早起きして出勤し、帰りは遅かった。休日も部活の指導。心身の限界!とあいなった。
他方で仕事柄常に動き回っていた。
そう!人間は動きが止まるといろいろよろしくない。この場合「動」は身体的な観点のみを指さないのは、星野富弘さんのように首から下の自由がきかない方が口に絵筆をくわえて詩画集を出し続けてこられたことが一例。
私は四肢も精神もその自由を行使することを放棄していたのだと思う。こうして損ねた「健康」は取り返しのつく極めて可逆的なものだ。まだ。
この数年の倦怠は人生に時折必要な類の「季節」として必要悪だったと肯定し、しかしその季節が巡る時が来たんだ!と決然と眦を決して前のめりに生きていこう!
差し当たって毎日スタスタ歩こう。地に足をつけて。
そんなような理解が啓かれたのだから、人生の大先輩に感謝を申し上げ、父を敬いたい。