千歳川と石狩川の合流点より発信…

水彩画と近況 思い出

コラ-ジュ廊下展  公民館 新19

2013-04-25 10:01:23 | 終戦
  寮に入ってまもなくの頃、母の兄弟も終戦になって帰ってきたのだろう、鉄道状況の悪い中はるばるリック一杯に食料を持ってきてくれた、旭川とか帯広からだからね、しかも汽車には簡単に乗れないの、何日も並んで切符を買わなくてはならない。しかも客車とは限らない機関車の後ろの石炭の上にも機関車の横にも鈴なり状態だった。
 叔父の帰りの切符を買うため並ぶのは私の役目だった、駅前に住んでいたので比較的良かったが何日か並ばなければいけないので、けっこう大変なことだった… よ 
母の親兄弟達も皆樺太だから引き揚げ者だった。なんと言っても食べ物を調達することが大変だった。一度など食料調達に往復10キロぐらいの所を、あれは米だったのではなかったかと思うが、大きなリックに一杯背負って歩いたのとがあるね、栄養失調のしかも病み上がりの小学生が、今思うと人間はすごうい力を備えているとつくづく思う! ひょろひょろで歩くと内股になって学校では馬鹿にされていたからね…





                 

コラ-ジュ廊下展  公民館 新18

2013-04-24 11:36:59 | 終戦
 学校は楽しくて行きたかったが、なかなか行けなかったね妹たちに昼になると食べ物を作ってやらなければならず、学校行っていては出来ないからね。
 食べるものの無い中、当時ザラメ、麦粉など配給になっていたのでカルメ焼きやパンを作って3人で食べていた。カルメ焼きはけっこう、こつがいてふくらし粉の入れるタイミングを誤ると飴になってしまう… のだ
 自分も遊ぶから、どこえ行くにも二人はついて歩いた、三角ベ-スの時も川へ泳ぎに行くときも一緒だった。
駅前には、けっこう同じ年頃の友達がいてね、相沢商店の息子喜坊う、鉄道官舎の宮川貢 大下、向かいの瀬ノ上、呉服屋の息子三原、花屋の息子竹重、電気屋の息子西田、一級上で向かいの駐在の息子……沢山いたね
 西田はカ-バイトを瓶に詰めて遊んで居て覗いて片目を負傷したことを思い出される。
    駅前では沢山の思い出がある!!!





              

コラ-ジュ廊下展  公民館 新17

2013-04-23 11:39:57 | 終戦
 終戦の頃は1銭の単位のお金があったからね、子供は一銭玉持ってあめ玉買いに行っていたね1 5銭札、10銭札なんかもあったよ、100円札もあったが子供では見たことが無い額さ…
 学校に行けるようになって学校へいくが、これまた先生が戦前の教え方のままで誰かが何かすると連帯責任だとクラス全員前に並ばせ”びんた”をとる。こんなこと、まだやっていた、何で叩かれているか皆目分からない…のだ。
 でも学校へ行けるようになって嬉しかった、母が農家の手伝いに行くようになると、まだ1才の弟と4才の妹がいるので子守のため学校へ行けない日があるようになったりした。母も二人連れて行くと仕事にならないし弟をおんぶしていっても妹が残るで、学校へ連れて行ったこともあるが、これが、ちび達にとっては広く走り回るのに最適で授業中でも傍の迷惑関係なく走り回るので勉強どころでは無い… 申し訳ない気持ちで、学校を休んでちび達をつれ外のグランドで遊ばしていた。次の日学校へ行くとお前へ学校サボったと”びんた”をくらった。  こんな先生がいた…のだ !
 当時は各自で学校へ幼児を連れて行くのは許されていたのだが、私の場合は連れて行っていたのは一人だけだったので授業中騒がられると自分も授業出来ないし、皆にも申し訳なさでいっぱいだった。





                 

コラ-ジュ廊下展  公民館 新16

2013-04-22 10:43:53 | 終戦
  小学生の子供にとっては嬉しい引っ越しではあったが、母にとってはこれから子供3人と自立して生活して行かなければならない、本当の苦労の始まりだったと思う。
 農家が中心の小さな村で商店も少ない街であったが駅前なので広場があったので子供に取っては遊び場に困らなかった。
最初のうちはアメリカ軍の物資が配給になっていた、大きいカンのチ-ズや麦粉などこれは食べ物の無いときにはご馳走だった様に思う地元の人は食べたことの無いものだったろう。しかし、配給が無くなると米は農家の街と言えどもだべることは出来ない、毎日が代用食になる。





                      

コラ-ジュ廊下展  公民館 新15

2013-04-21 11:53:59 | 終戦
  岩見沢から各々が各地へ希望して散っていくことになり、我が家の4人は空知の奈井江へ行くことになた。
 奈井江の最初に泊まった所は、うらぶれた江戸時代の旅籠のような小さなもと旅館だろうと思う所で、玄関入った所の3畳間暗い部屋で何ともわびしい思いをした。これからどうなるのだろう…と! 母は特にそう思ってと思う、知り合いもいない知らない街きて薄暗い3畳間!小学校3年生と乳飲み子4才の4人家族で途方に暮れたことだろう。 
 そこへ何日泊まったのかまもなく駅前営業していない旅館を引き揚げ者の寮になり、そこへ落ち着くことになった。これ嬉しかった4人家族なので裏庭のある奥座敷が割り当てられた、旅館の客室なのできれいで子供としてはいっぺんに楽しくなった。
 けっこう大きな旅館で12,3家族が入居した。