千歳川と石狩川の合流点より発信…

水彩画と近況 思い出

コラ-ジュ廊下展  公民館 新14

2013-04-20 10:07:18 | 終戦
稚内、岩見沢にはどのくらいの期間いたのかわからないし、岩見沢の風景は記憶に無い地元の皆さんには、色々気遣ってももらったと思いますが、皆さんも大変な食糧難だから生活が苦しかったはず、小学生にも遠くを見る余裕が無かったのかお寺に沢山の人々が生活する風景しか思い出せない。
 母も誰も知り合いも無く乳飲み子を抱え先もどうなるか分からない、戦争は終わったが不安の中必死で子供達のことを考えていたのだろう。
小さい私でさえ母を助けなければと考えていた…のだから!






                           

コラ-ジュ廊下展  公民館 新13

2013-04-18 10:31:16 | 樺太
 少し思い出したことがありフィ-ドバックして膿胸手術で退院した頃のことを…、長いこと寝たきりで入院していたので、体力も無くなっていたのだと思う。退院すると元気をつけようと父が鶏を木の株のうえで首をマサカリでちょん切り生血を飲ませようとするが、とても飲めなかった”ウエ~”…となって飲み込めなかった、何とか飲ませようと必死の親は固まった血をオブラ-トに包んで飲まされた、首をちょんぎてどんぶりに血を垂らすと、すぐ固まるそれを一口大にして飲ますわけ、飲ます方も一所懸命なら飲む方も泣きながら必死だった。
 それで鶏を飼っていたのだろう、卵を産むとすが自分でつついて食べてしまうこと度々でこれがカルシュウム不足で食べるかとを知った、それから貝殻など砕いて与えることにした。
そんなことで、何とか学校へ行けるようになり…が、まもなく疎開することになる。





                   

コラ-ジュ廊下展  公民館 新12

2013-04-16 13:55:56 | 樺太
稚内では縁故と無縁故で各地へ… 我々は無縁故を選んだ、実際は札比内にじいさんの兄弟が農家やっていたらしいが、会ったことも無い人だったので転がり込むのははばかられたそうだ。
 それで、すぐ岩見沢へ送られた岩見沢ではお寺の本堂に収容された、かなりの人数だった本堂も廊下も人で埋まっていた。何とゆうお寺か今は覚えていない、4条通りに近いお寺だったことは覚えている。何軒か近くにあるので現地へ言って歩いてみたが特定出来なかった。
 なんせ進駐軍が4条通りを轟音で進駐してきたのを恐怖におののきながら、怖い物見たさで見ていたこた…のだ。ギブミ-チョコレ-トどころでは無かった。






                

コラ-ジュ廊下展  公民館 新11

2013-04-15 14:31:28 | 樺太
 ソ連は昭和20年8月9日宣戦布告して8月15日終戦を無視して進行25日大泊到達で戦争は終わったらしい、
一方私たち母子の軍艦は稚内港へ… 軍艦は桟橋へは着けられず沖に留め艀で上陸した…小さい子には珍しい出来事だった!!
 上陸して学校の講堂に収容された、学校は休みたったと思うソ連軍は北海道も目標にしていたらしい。
この頃、玉音放送放送が流れ道に”ひざまつき”泣き崩れている人々を見た…2年生にはあまりのみ込めなかった、戦争は終わったんだ!と感じたがこれからどうなるか皆目分からなかった。この日が上陸して当日だったのか何日かたっていたのか?





                 

コラ-ジュ廊下展  公民館 新10

2013-04-14 12:26:01 | 樺太
終戦直前になってソ連が参戦し国境をこえてきた。火を噴く戦車が国境をこえたと、大人達の話を聞いて恐怖におののきながらの疎開だった!男達は(と言っても若い人ではない)竹槍を持って現地に残った。
我々が軍艦に乗っている頃現地ではソ連軍と戦っていたのだ、2000人の一般人が死亡した。
 我々は、終戦前での出航だったが、昭和20年8月20日出航の3船がソ連潜水艦の魚雷で攻撃お受け1700人の死亡者が出た事件があった、我々もこの船に乗る可能性があったわけだ。
 ”皆さんさようなら”と言って真岡の交換手の若い女性達が自決したのもこの時期だ。