第一部FAC時代
1 木曽駒ヶ岳ボッカ 1962年10月26日~10月28日
10/26 北御所登山口~ウドンヤ峠~七合目付近
10/27 七合目~木曽駒ヶ岳~宝剣岳~七合目
10/28 七合目~ウドンヤ峠~北御所登山口
963年
十七歳の秋、初めて中央アルプスに入る。1963年の冬山合宿を中央アルプスで行う為の偵察行である。私にとっては夏の丹沢での新人歓迎会を水無沢の河原でテント泊で歓迎を受け、沢登りを初めて体験したのと、その後に秩父に一泊で雲取山から笠取山への会山行に次ぐ泊りがけの山であった。
目的はベースキャンプを前岳辺りに設置するための偵察であった。私とリーダーの吉野さんと、先輩の雨宮さんの3人で、親以外の大人と行動するのはこの山の会に入ってか羅のことで、私はまだ高校生だった。
FACのリーダーの吉野さんと先輩の雨宮さんと、初めて本格的な山に入る。山はすっかり秋で、冬も近いと感じられる空気だった。
コースタイムは残っていないが、北御所から3時間ちょっとで登って来た伊那前岳付近で、北御所からの登山道や木曽駒や宝剣岳が見渡せる平坦な場所だった。(写真・上が北御所への尾根、下は宝剣岳と伊那前岳付近)
テントを設営してから、吉野さんと雨宮さんが偵察してくるからお湯でも沸かしておいてくれ
2 初めての冬山合宿 中央アルプス 1962年12月30日~1963年01月06日
1962年
12/30 駒ヶ根~北御所~登山口~伊那前岳付近テント
12/31 停滞
1963年
1/1 停滞
1/2 停滞
1/3 停滞
1/4 木曽駒往復
1/5下山開始9:00~北御所21:00
1/6 帰宅
これから書くのはいまから五十年前のことである。記憶もさほど正確ではないので、いい加減だとは思う。私が初めて経験した冬山合宿である。
1963年の12月夜行列車で新宿を発ち、辰野で飯田線に乗り換えて駒ヶ根駅まで行き、バスで北御所登山道の入口から出発した。
ともかく、その日のうちにベースキャンプまで入ったと記憶する。 その夜からゆきが降り始め、翌朝も降雪と風雪で行動ができなくなった。大きなかまぼこ型のテントともう一つの中型のテントであったと思うが、一週間雪に閉じ込められた。
醤油の瓶を外に出しておいて、割れたのもこのときだと思う。
トイレの用足しも大変だった。お尻を出していると風と雪でバリバリになる。穴掘りをして風よけをしないと落ち着かない。ともかく、テントの中でゴロゴロして過ごすしかない。
この時代はよく歌を歌った。三日目が過ぎたころだろうか。我々で合宿の歌を作った。この正月は全国的にも天気が悪く、気象情報を聞きながら天気図を書いた。私が書いたわけではない。低気圧が日本の上空に二つ並んで目玉のようになった形であった。それが停滞して抜けなかった。
<中央アルプス冬山惨歌> FAC作詞
ⅰ 荷揚げ山行 はやすんで
伊勢滝コースも 順調に
着いたところは 八合目
ブルースカイは 夢のなか
ⅱ 張り綱張る手に冬山の
寒気厳しい ブリザード
稜線見る目が 凍りつき
モルゲンロートは いつのこと
ⅲ きびしゅうござんす アルプスは
二つ目玉の低気圧
時々くれる 差入れに
かすかに見える 青い空
ⅳ 吹雪のやんだそのすきに
テントの中から 這い出せば
ちらりと見える 星屑に
明日のファイトを 湧きたたす
これを新人哀歌の節回しで歌う。今では<新人哀歌>なんて歌える人もいないだろう。 この歌は名曲だ。 冬山の雰囲気出てるし。今歌うと懐かしい。これをテントの中で作り上げた。 三番目の<きびしゅうござんすアルプスは>は実感であった。
たばこが切れて、しけモクに爪楊枝をさして吸ったりもしていた。私は煙にあぶられてたいへんだった。そうしたら先輩がお前も吸えば大丈夫だなどと、無責任なことを言って笑っていた。
下山日の前日の前日、ほんとに夜風が止み、星が見えた。明日は晴れるぞとみんな思った。 翌日、全員で木曽駒ヶ岳と宝剣岳へ行くことになった。この一週間の行動予定は全部中止になって、やってたことは雪かきだった。テントがつぶされてしまうから、毎日していた。
写真は下山する前の日のものだ。初めて目にした風景の素晴らしさに一七歳の自分は興奮したものだった。秋に荷揚げに来た時と様子がまったく違って色のない真っ白な景色に魅了された。
この合宿が忘れられないのは、歌が歌っていない最後の下山にあった。 最後の日、天気は安定していたが、一週間降り積もった雪は、想像以上に深く、このころにはスノーシューなんてものはないから、腰までのラッセルになった。
女性が4人かな、男性が十人くらいだろう。それもキスリングを背負っての行軍だ。 テント撤収し終わって、朝九時にベースキャンプの八合目を出た。
しかし、一向に進めない。飯をくうのもままならず、毛糸のぶあつい手袋を雪にさして、雪を喰いながら歩いた。腹も減って、やがて暗くなって、ライトをつけて下山する。私はまだこどもだったから、この時の先輩たちの胸中がどうであったか知る由もなく、ただひたすらくっついていくだけだったが、この先輩やリーダーを信頼していたのだろう。少しも怖くはなかった。
秋、三時間で下った道を12時間かかって北御所の集落に降りてきた。
民宿に宿をとることができて幸いだったが、雪の中で一夜を明かすようなことになったかもしれない。私もラッセルをやったけど10分ともたなかったような気がする。 でも大勢でいてにぎやかだった。今思うと、この時の記録を残していなかったことがとても残念に思う。日記代わりが歌になった。
忘れられない冬山体験なのだ。この時中央アルプスに入っていたのは我々だけであったと思う。他のテントも人も見なかった。
今の冬山の賑わいが信じられない時代であった。北御所登山口からどのように民宿についたかは覚えていないので、ルートは登山口までとした。
3 袈裟丸山 1963年11月22日~11月23日
11/22 渡良瀬・沢入駅~寝釈迦~小丸山~避難小屋 11/23 避難小屋~前袈裟~後袈裟~中袈裟~奥袈裟~小法師尾根分岐~笹ノ平~小法師岳~原向駅
この袈裟丸山を歩いた日付とコースについては記録がない。写真だけがある。それと、あえてこの記録を載せたのは、私が高校3年生で、翌年の春卒業であった。それもあるけれど、下山して電車に乗ったら新聞にジョンソン大統領の名前と写真があって、その意味がしばらくわからなかった。
私が山に入った日に、ケネディ大統領が暗殺されたのだ。それは帰宅してからわかった。暗殺場面をテレビで放映していたからだ。
ケネディ大統領の暗殺された日に登ったていた山として記録しておきたかった。
山に入っている間に、世界的な事件が起きたのは、この時が最初で最後か、いや、も一つ、2011年3月11日に、雪の美しヶ原にいた。
4 富士山雪上訓練 1964年11月21日~11月23日
11/22 馬返し0:05・0:20 4合目0:55・1:00 5合目1:50・1:55 BC2:15
11/23 BC 5:50 9合目 10:00 富士外輪10:24・10:25 BC 12:30・13:15 馬返し13:57・14:10 富士吉田16:13
なんと夜中に馬返しから五合目まで、登り1時間30分だ。 下りがBCから馬返しまで42分という。まあ、なんと若かったときの記録。驚きだ。 富士山へは外輪にたどり着くのがやっと、時間切れでした。天気は好かった。
5 早池峰山(FAC) 1965年07月17日~07月18日
46年前の記録。FACの時代。早池峰の記録があった。写真も貴重なものだ。自分の山・青春。ヤマレコの記録の欄を借りて整理しておく。 これは自分のものです。山=人生、私にとっては深いかかわりがある。
「早池蜂山」 記 川那辺美智子
山行日 昭和40年7月17日夜19日
パーティL大沢 軍司 酒井 川那辺 神出
7/17 上野19:10(急行十和田)
7/18 盛岡4:25-5:50 平戸駅7:20-7:30 営林署7:50-55 アイオン沢出会い8:15-30 早池峰神社鳥居8:55-9:50 早池峰山頂13:45-14:50 中岳15:30 鶏頭山18:30 岳20:10
7月17日
夜六時十分上野駅発急行「十和田」で、出発・大勢の会員の皆さんに、見送りを受けへ差し入れをどっさりいただき、混んだ列車のワンボンックスを5人で陣取って、盛岡に向いました。差し入れのお菓子を、どれから開け様か、等とちょっともったいぶりながら山へ行く時以外、口にした事もない貴重な(?5:50)品をつまみながら、いろんな話題と笑いで、夜汽車の退屈を、 吹き飛ばして行きました。
仙台を過ぎてやがて松島に近づけば、(実は私は眠っていて少しも知りませんでしたが)、五期の神出さん、美声よろしく「松島あ-の、と歌い出し、残りの三人を、必死になって、眠りにか駆らないように、張り切ったとか。
さて、まだ朝も早い盛岡駅に到着したのが四時二五分でした。一応パッキングをし、ホ-ムの立そばで、おいしい天ぷらそばを、食べ、山田線のホームへと移動したのです。 ここで最高の悪事がおこったのですから、我会も、その部類では常習犯ですね。五人中、まともに切符を買ったのは、ニ人だけ、三人は、;……;……ネ。困ったものです。
山田線の一番列車は五時五〇分発。平津戸駅には一時間半要し、七時二〇分に着きました。 駅長さんと駅員さん一人だけの駅で閑散とした、いとも、呑気な田舎の駅です。登山者名簿に、五人の名前を書き込みます。五月の連休に、来た会員の名前も書いてあり、なつかしく思いながら小雨降るどろんこ道をテ クテクと歩き出したのは七時三〇分。少し歩くと、後から、ガタガタと車の音。「ワー、どろんこ水、はねられる!」と悲鳴をあげて、道の端に逃げたりしたら、その車、女の人達が四~五人乗っていたのですが、前で止めてくれて、運良く、営林署蓉までの長い道を、歩かたくて済んだのです。
雨もやみ、東北の山の朝の空気を一杯に吸って小型四翰の車の荷台に揺られました。 終点の営林署に着いたのは七時五〇分です。運転手さんにお礼を言って、五五分によいよ歩き出しました。快調を歩き出してアイオン沢出合いに着いたのが八時一五分。前夜からの雨、水が、すごい勢いで落下していて、見る目も感歎した蝋のです。差し入れの月餅を食べて八時三〇分出発し、25分で早池峰神社鳥居、いわゆる垢離取場に着きさした。
他のパーティが一組いましたか、何の言葉も、交さず、そこでお店を開いて肉を焼き、頬うばったのです。一時間をそこで費し、九時五〇分に山頂に向け発ちをした。途中雨が降り出して傘をさして歩くも、ムードもたっぷり。けれど、Lの大沢さんが五月に来た時、グリセードで下った時間から計算したらしく、樹林帯を抜ければピーク迄はすぐだからと言って、「あそこで樹林帯がおしまいだゾー」なんて、安心させておき、そこへ行ったらその上に又又樹林帯が続くではありませんか。そんな事、二。三度で、いい加減いやになって来た時、ようやくニッの岩峰が見えて来たのです。岩峰を越えて三〇分位登った所に冷たい水場があって、そこで又ブスに火をつけました。何を作って食べたからちょっと忘れましたが。
ピークから下って来た登山者に聞けば、三〇分も歩けば早池蜂のピークですよと言う事であわてて、ブスをしまいピークめがけて、歩き出しました。次第に岩と這い松の緑が目前一面に広がって来て、ピーク近くに立ち並ぶ岩峰群も、大きく姿を現し、その広大な岩と緑の這松の調和の取れた早池峰山頂付近の静けさが身にしみて快く感じたのです。人は、ほんとに少たく山頂の小屋にほんの三~四人だけがいるのみでした。ピークの小屋に着いたのが午後1時四五分です。早速、有名なウスユキ草を、さがしに出発。誰が最初に見つけるかと夢中になって広い山頂をうろつきました。誰も、本物を見た事がないので、楽しみです。雨があがってうすい霧に包まれた早池峰の山頂で、雨に濡れた白いウスユキ草が、あっちにもこっちにも咲いていたのを見た時、皆は何か悲鳴らしき声をあげながら、そっちの花こっちの花と駆け回ったのでした。
時間的に計算して中岳から鶏頭山への縦走をするかどうかと、皆で話合い、結局、折角来たのだからと、鶏頭まで行く事に決まり、早速出発です。二時五〇分に山頂を離れ、とても広大な山腹を細い道の両側に白く愛ら しいウスユキ草の咲き乱れるのを観ながら、タッタカ、中岳向けて進みました。小さをピークが次から次へと現れるので、どれが本物か迷ったものです。誰が名をつけたか、「ペトコンルート」と言いながら歩いた所は、全くその通りのジャングルで、道は水びたしのびちゃびちゃ道だし、おまけに木ときたら這松とも、普通の松の木とも区別のつかない中途半端な高さの木で、頭をあげたと思ったら.ゴッンと叉、ぶつかる始末でした。(恒、○○さんは例外だったかな?)
さて中岳のピークに着いたのが三時五〇分で、ここは通過しました。今度は鶏頭山向けての行動です。案内書は、どこまで信じていいのかわからなくなる程、いい加減を時間計算で、五万分の一地図での計算とは、大夫とは異なり、皆少々頭に来た様でした。その上、前と同じ様に、小さをピークが多くあり、「ここがニセ鶏頭かな」とか「やっぱりさっきのピークがニセ鶏頭かな」となる様は由でして、本物の鶏頭山に着いたのは夕方の6時30分でした。
蚊か、ブヨかわからない虫が、「それ!たまの人間だ。かかれ!」とばかりに、私達の後を追って来ます。気持が悪くて身震いいする程で、それに水場もないし、ビバークはやめにして岳に下る事にしまして、一気に下りました。開けていない山だけあって、道も、あまり良く出来ていず、笹とか、バラとかススキの葉などで、ショートパンツの人ばかりでなく、私どもも、少々傷を受けたりし、だらだらの下りを、石につまづき、笹にすべりしなから、夜八時一〇分、戸数わずか二~三○戸の岳に着きました。
皆、とても元気で、夜間行動しても下って良かった等と話あっての神社に泊る事にしたら、民泊があり、大きな家の二間を借りて泊る事が出来在した。
ご飯を炊いて戴き、ゾッペ等を作って食事し、ひと段落した後、まるで専門の旅館にある様な立派なふとんに、眠ったのです。
一九日朝五時少々過ぎて起床。前日、車をチャーターしておいたので安心です。ところがその車とは別の、四輪車が六時頃、から出ると言うので、それに乗っけて頂き、お世話になった家と岳に別れたのでした。
この日、バスがストライキだと言うので、動いていず、この車、途中の道を歩いている人達を次から次に、乗せ、満載になって○○森林組合前まで来ました。バスが、ようやく、動き出しまして、そこの組合前から大迫まではバスです。川沿いに走るバスは、快適に岩手の山奥を走ります。道がガタガタでなければもっと快適でしたでしょうが、むしろ、その方が情緒があっていいのかも知れきせん。
八時一五分大迫の町に着きまして、すぐタクシーに乗り継いで石鳥谷駅迄向いました。
石鳥谷八時四九分のドン行で一ノ関に向います。いよいよ、我家への道、大船渡線に乗り替え、心が躍り、口には歌などが出る始末。
我漁港、気仙沼の町に着いたのは午後1時14分です。家からの迎えで、車に便乗、海に近し、山に近しの我家に向いました。お風呂と、食事が待っていまして、わずか五時間の暇を、とてものんびり過ごしたのです。
気仙沼を夜七時三五分発の汽車で発ち、一ノ関に九時一七分着きました。誰かさん、売店の店員さんをからかったりしているうちに九時五一分の急行「おいらせ」が到着しまして、短かった早池峰の山行も終え、帰京の途につきました。神出さん、これから叉、飯豊の方へ単独山行出発のため、仙台で下車。我家からの差し入れを手渡して、健闘を願いながら別れたのです。 東北の夜行列車は、後れなくてはならないと言う如く、必ず、定刻より遅れるのです。私達の乗った「おいらを」も、例に洩れる事なく、六時より三〇分も後れて上野に着きました。
そう言う事で早池峰山々行は無事、二十日朝、上野駅着で、終了したのです。
7 鳳凰三山 一九六五年八月四日~八月五日
8/4 青木鉱泉~地蔵岳~観音岳~薬師小屋(テント) 8/5 薬師小屋~夜叉神峠
貴重な写真が残されている。今から46年前、単独で鳳凰三山に出かけた時、偶然にも母校の山岳部の後輩に出会い、先輩顔をふかして楽な思いをした。たまたま引率の先生が、剣道の時の先生で、体育の教師であった。ついてこいよというので一緒に歩いた。キスリング姿がなんとも言えない。タイムコードなどはないが、歩いたことには間違いない。(写真上・地蔵岳付近で。下・地蔵岳から観音岳へむかう)
8 穂高岳夏合宿 1965年08月07日~08月12日
8/8 松本=島々=上高地-涸沢 8/9 北穂高 8/10 滝谷 8/11 ジャンダルム 8/12 事故により松本へ下山・病院に入院
1965年夏合宿穂高岳 涸沢入山 昭和40年8月6~7日 パーティ L 吉野 大島 軍司 神出 細谷
8月6日、夜、急行アルプスにて私達先発隊は、穂高岳涸沢に向って出発の第一歩をふみだした。登山者でいっぱいになった夜明の松本駅から島々ヘ、島々から上高地行のバスに乗りこんだ。
バスの中で私は眠っていたので中ノ湯も大正池も知らずに上高地迄ついた。バス停二階の食堂にて腹ごしらえをして、私達一行は涸沢に向って長い行進が始まった。上高地からすこし歩くと、カツパ橋がある。橋には観光客やキャンパーの姿で混雑していた。この時初めて前穂高の姿を見る、雲一つない晴れた日なので前穂高がカツパ橋の上に浮き上って見える。なんと美しい風景なんだろう、思わず観声をあげずにはいられなかった。
梓川の流れにそって林道を歩きつづけると明神館についた、ここからは明神岳東面が目の前に見える。ここまでくると、この先には観光客の姿は見えなかった。延々とつづく梓川の流れにそって重荷を背にした、私達は快調なペースで歩く。徳沢園に上高地を出てから一時間五○分位でついた。なおも林道を横尾へと歩きつづけた。横尾の手前迄来るとクライマーの憧れである屏風岩が姿を見せる、垂直に切れ落ちた岩は圧・的に見える。いつか、こんな岩壁が登れたらたらいいなと私は思った、そしていつかきっと登って見せると一人言をいっているうちに横尾の小屋についた。
槍ヶ岳廷登る道を涸沢に入る道との別れである。私達は橋を渡った。屏風岩の下を廻って本谷橋についた。
本谷橋から涸沢までの道、これが私たちにとって、えらく時間を消失した。途中で何回か荷を下ろしては休んだ。穂高は見えるのに一向に涸沢にはつかない。私はもう今日中に涸沢に入れないかと心配になった。上高地から約八時間かかって、涸沢のテント場についたと同時に重荷をドカと卸し、すわうこんでしまった。三○分後にはテントも張られ、夕食の時がきた。これで、今日一日の仕事が終ったと思うと急に身体が疲れを感じた。シュラフザックに入るとすぐ深い眠りに落ちこんでいった。 (記 6期 細谷 稔)
新宿 22:00 アルプス2号 松本4:07-4:19 島々 4:50-5:05 上高地 6:55-7:50 明神館 8:30-8:45 徳沢園 9:30-9:40 横尾 11:00-11:55 本谷橋 13:10-13:30 涸沢 16:40
夏季合宿本体入山 記 小林久美
8月7-8日 パーティ L 大沢 加藤 中村 川那辺 山下 小林
陽ざしのさしはじめた冷気のなか、上高地に降り立つ。ざわめくハイカーの中をぬって明神へ歩を運ぶ。木立に囲まれた小道はたとえ天下の滝谷へ通ずる道であっても、キスリングを背負った一団は奇妙にさえ思われる位ハイカーのメッカである。
明神から徳沢園の間もすれちがう人々の列は絶え間なく続き、徳沢園も横尾もかつてのただづまいはない。
横尾橋の近くにて大休止、フライパンでジュージュー焼いた肉の美味しかった事。
約一時間休んだ後,OとKの二名を残して出発、それまで単調な道と違ってペースが乱れはじめた。本谷まで暑さにむせながら冷水で喉を潤す。Oが追いつきKは徳沢へ向ったという。涸沢に入り道は急登となる。少し歩いては休み、又行っては休み、段々バテてくる。荷物の重くなったOは遅くなり、叉トップにいたNは一人先に行ってしまった。後から来るサブザックのハィカーがどんどん追い抜いて行く。ペースがすごく遅くなったためかBCには着かない。やっと小屋が見えても全然近づかない感じである。その直下Yが腹痛を起こし道の脇へ座り込んでしまった。YとともにK先輩も残ったので一入BCを目ざす。小屋のすぐ下なのに何回も何回も休んでやっと天幕地に着く。ちょうど滝谷から帰った先発の方々が降りて来たのでそのまま他の人を迎えに行ってもらう。
なつかしいFACのテント前には先に来たNがニコニコと笑い顔で待っていてくれた。暮れようとする涸沢を囲む山々に向いながら「登りたい」という想いに胸が締め付けられそうになった。
クラック尾根 記 軍司克己
8月9日 パーティ L 加藤 中村 軍司
BC 5:25 北穂高 8:00-8:10 取り付き点 9:00-9:30 ジャンケンクラック 12:00-12:30 稜線14:30-15:30 BC 17:00
加藤さんをリーダーとして、中村さんと私の三人で、5時25分BCキャンプを出発、北穂への道で体調を整えるのに苦労しながら歩む。
天気は快晴、北穂高の山頂に着く。初めてみた北アルプスの全貌は新鮮であり、偉大な光景であり、そしてショックであった。10分の休みの後、取り付きまで歩を進める。B沢の下降は互いに注意を要し、途中取り付き点を一ヶ所あやまって旧メガネの下部に出てしまったが、誤りと気づき再び下降し、P2フランケが真正面に構え、暗く隠れる第一尾根の壁を眺める取り付き点に9時到着。
9時30分に登攀を開始。2ピッチで旧メガネのコルに着き、ここから2mほど降り小さなクラックを利用して、テラス上部に着く。クラックが「入」型に入っており、乗り越すと、広いバンドが走っている。さらに上のテラスを目指す。
ジャンケンクラックは10メートルほどで、真ん中を登る。上は浮石の多い不安定なT6・T7までB沢側に、浮石を注意しながら行くとガラ場で踏み後のあるT8に着く。北穂は赤旗が立てられており、それを目指して登る。さらに、左よりの凹角を登ると踏み跡が北穂高小屋まで導いてくれた。稜線にトップで出る。BCへ下る。
涸沢岳東稜
8月10日 パーティ 中村 軍司
BC 7:30 ザイテン 8:20-9:00 涸沢岳下部 9:40-9:50 取り付き点 10:0-10:20 ツルム 11:30 終了12:20-14:00
今朝も調子よく、ザイテンから、ガラ場をトラバースして取り付く。2時間で登攀終了。
途中ツルムだけが注意すべきところだった。ここで明日、登る女子のために打ったハーケンを後発のパーティに持っていかれてしまった。中央稜パーティのルート指示を行い、N曰く「まるで、ルート指示に行ったみたい」な登攀であった。
「北穂からジャンダルム」 記 高橋
8月11日 パーティ L軍司 山下 高橋
東壁パーティを送り、叉一寝むりして、テントキーパーの二名と四尾根パーティを残して、BCを出る、南稜の登りは風が快い。
北峰で松波岩の横に出て、滝谷をのぞけば、ドームの姿が心憎い。(せっかく、ルートを憶えて来たのに)クラック尾根を前日登って来たGは滝谷の概要を細かく説明してくれる。北峰を下れば滝谷へ入るのであろう、女性クライマーの姿が無性に目につく。雪溪を過ぎ、四尾根へ入る人達に会って、「遊んでるんじゃないと」どなられた。
涸沢槍の頂上から、明日の登攀するルートの説明をGにしてもらう。明日登攀だ、穂高小屋での小休止、小休止はまちがい、大休止でした。
奥穗の頂上を見あげると、雲がある、一線にならんで来る。すわ、寒冷前線だ。さあ、急ごう。雲が来るのは早い。雨が降りはじめた、ジャンヘ向う。馬の背あたりから激しい雨に変った。リーダーは「登るか。」と聞く。「登ります」ここまで来たんだ。こんな所で帰えれるのか、自分の心の中で答える。ジャンダルムの岩が冷たく姿をあらわす。
Tフランケ、正面フェース どれも私の手ではどうにもならない。
頂上に立てば激しい風と雨に写真どころではなく、そうそうに下る。馬の背を過ぎれば、もう水の溜ったホールドも、何も関係がない。広い稜線だ。東壁は、四尾根は、自分への反省が心の中に渦まく。穂高小屋へとびこめば温いお茶が憎い。昼食を取って小屋を出る。病みあがりの私をGは細かく気をくばってくれる。下降しはじめれば、稜線ほどの風はない。無気味な落石の音が、雨の中に響く、小屋を過ぎればBC、エールを・ければ、メガネが出る、天幕の中は、温いホェープズの音だけだった。
夏 (事故報告)
8月11日午後7時35分、天幕内にて、コンロに燃料補給の為コックをゆるめると同時に気化したガソリンが隣にて使用中のコンロに引火して、コンロ消火時に天幕入口附近にて火傷を負う。
ただちに涸沢ヒュテの東大医療班に手当を受け12日早明七名にて横尾山荘に下る、山荘より車で上高地迄行き派出所にて車チャター松本病院に向い入院する。
反 省
今度の事故に関してコンロ使用上のことにあると思うこと。天幕内でのコンロのロックの開閉は今迄天幕外で行われていただろうか?全員が深く反省する次第である。 事故が発生すれば、たとえどんな事故でも、他の人に迷惑が・かるという事を十分に考えなければならないと思う。当事故にかぎらず個々が気をくばり対処出来る問題である。又警察署を初め、東大鉄間クラブ、涸沢ヒュッテ、横尾山荘の皆さんに最後迄御世話下さいました皆様には何と御礼の申し様が無い気がします。 鎌 田 靖 史 記
以上は私が20歳の時の穂高合宿の記録報告。会報より。文中Gとあるのは私のこと。 事故は私が火傷をしたこと。
8 越後三山 1965年09月03日~09月05日
7/27 枝折峠(9:00)~越後駒ヶ岳小屋 7/28 越後駒ケ岳小屋(5:00)~中ノ岳(10:00)~入道山~千本檜避難小屋(16:00) 7/29 千本檜避難小屋(5:00)~大倉集落(10:00)
[hagure1945] -- 20歳の時、無性に越後三山を歩きたくなって、夜行列車に乗り小出からバスで枝折峠までバスで行く。
正直、記憶の多くは失われている。FACの会報に登山記録を寄稿したのだが、今それがない。もし見いだせたら訂正をするが、間違いなく縦走をしているのだ。 写真は、当時カメラを持っていないから一枚もない。
2日目に中ノ岳から八海山に抜けるときに、オカメノゾキの手前で、向かいの岩肌にカモシカが絶壁の上にいたのを覚えている。確かこのときは同じ方向に行く人がいて、私が途中で具合が悪くなって、助けてもらったと記憶している。
中ノ岳は2085mあるが、オカメノゾキは1270mで800mも下がるし、登りかえすのだ。ここで顎を出してへたばった。このとき同じ縦走していた人に助けてもらったのだ。 八海山は岩峰を通らずに巻道を行ったかもしれない。
千本檜で泊まったと思う。
3日目に千本檜から大倉口に降りた。まだロープウェイはない時代だ。 もう、50年も前のことだがヤマレコに記録しておく。
9 南アルプス縦走 1965年10月14日~10月19日
1日目 伊那大島ー鹿塩ー塩川土場ー尾根取り付きー三伏峠(テント泊) 2日目 7:30三伏峠ー8:30烏帽子岳―10:00-20小河内岳ー12:00板屋岳まきみちー13:00高山裏幕営地(テント泊) 3日目 6:00高山裏幕営地ー9:30荒川前岳コルー10:30-40荒川小屋ー11:10大聖寺平ー12:40-13:10小赤石岳ー14:10赤石岳ー16:10百軒洞露営地(テント泊) 4日目 6:00百軒洞露営地―7:20大沢岳ー9:20-30ウサギ岳ー11:00-11:30聖岳ー13:10聖平(テント泊) 5日目 6:00聖平ー9:00西沢渡ー11:30北又渡ー14:00本谷口ー平岡
[hagure1945] -- 1965年、20歳の秋、神出君(当時東大生)と社会人だった酒井さんと3人で、秋の南アルプスの大縦走を行った。まだ若いときだ、今から50年も前のこと、元気であったから、夜行列車で揺られ、登山口の塩川へバスで到着して、4時間歩いて三伏小屋についても元気そのものであった。
三伏小屋から翌日、荒川小屋を目指して歩き出す。確か樹林帯の道を稜線伝いに歩いたと思う。もはや詳細なことは忘れているが、高山裏の幕営地について見上げた荒川岳の大きな姿に威圧されて、その日のうちにここを越えていこうとは3人とも思わずに、午後の早い時間ではあったが、テントを張って停滞してしまったことが強く印象に残っている。
3日目は早朝に出て荒川岳を越え、赤石山頂へいたる。しかしこのときの天気はあまり良くなくて、眺望はなく、ただずんぐりと広い山頂が印象にのっこっている。
赤石岳の山頂を踏んで百間洞のテン場で泊まる。 翌日は兎岳を越えて聖岳に。この「聖」という名前に憧れていた。大きい山だと思う。聖平のテント場まで、雨にはあっていない。聖岳の印象はあまり残っていない。
むしろ最後の下山の日に、尾根をくだって、森林軌道の道を西沢渡まで、さらに終点まで歩いたことが印象に強い。営林署の機動が山の奥深くまで通じていて、途中何回か木材を運ぶトロッコに出会う。枕木の幅が、歩幅と合わずに苦労した。その後どのように帰京したかは定かではない。
10 奥穂高岳 1966年6月20日 上高地-涸沢-穂高岳山荘 6月21日 穂高岳山荘-涸沢-上高地
21歳の夏、昨年の事故で入院した国立松本病院の看護婦のTちゃんと二人で穂高岳山荘一泊の残雪期の登山。若いから怖いもの知らずでしたかね。
上高地から一日で白出のコルまで歩いています。涸沢岳にのぼったかも知れないが、記録はない。
翌日、ザイテングラードのくだりに取り付くところで、Tちゃんとアイゼンがだんごになるから払うようにと注意して後ろを振るいかえった瞬間に、彼女が消えた。
はっとすると、ちょっとしてから、下のほうから「生きてるぞ!」と声がした。
涸沢に向けて200mほど滑り落ちたのだ。 ザイテンの岩場をあせるような気持ちで降りていくと、雪渓の中央で止まっている人影があった。
急いで近づいた。怪我はしていないし、意識もはっきりしていて、「ピッケルが刺さってとまったの」という。ザックはふたが開いて中のものがこぼれてしまったようだ。
Tは3歳年上だから24歳だったかな。 気丈な人で、すこし体制を整えて、雪渓を二人で下った。無事でよかった。
このとき、上高地から島々へのバス道が雪崩で破損していて、一部区間を歩かされた。 そんな青春の甘酸っぱい思い出の山の記録だ。
11 西穂高岳 1966年07月24日~07月25日
7/24 新穂高温泉ー西穂高山荘
7/25 西穂高山荘ー西穂高岳ー西穂高山荘ー新穂高温泉
若いときの思い出と言うのは、かなりあやふやになっているが、この1966年と言う年は、乗鞍でゼミ合宿をして、すずらん高原に長期滞在していたのだ。ゼミがおわって上高地や登山に出かけた。
たぶんこの西穂高はその直後であったと思う。
このときはゼミの男性二人とTちゃんを誘って、西穂山荘に泊まり、翌日西穂高岳を往復したのだ。登山の感想は 「7月24、25と西穂高岳へ行く。私とTと師岡、橋本。天気はよく、槍の姿が印象的、穂高は大きい。 笠岳は一度登りたい山だ。忘れられぬ山。Tはいけない人だ。記念に木彫りの鞍を買う」と書いている。
12 霞沢岳 1966年08月04日(日帰り)
帝国ホテル9:00ー稜線下12:00ー霞沢岳12:40・13:15ー帝国ホテル15:15
昔は帝国ホテルの付近から霞沢岳に食い込む涸れ沢をつめていくコースがあったのだ。
1966年8月4日に一人で往復している。 この年はひと夏この乗鞍の高原で大学のゼミの合宿をし、松本に出たり、していた。この後にクラブの夏合宿が穂高であるのだ。 この記録は当時の日記帳に書かれている記録だ。 ”気持ちのよいのぼり、少々きつかった”とだけ感想が書かれている。
霞沢岳(200名山)~廃道・八右衛門沢をたどって~ http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-128704.html
2004年の記録 まさにこの道を往復したのです。
13 槍ヶ岳北鎌と涸沢穂高合宿(FAC) 1966年08月07日~08月16日
8/7 大町~七倉~千天出会い 8/8 千天出会い~北鎌平 8/9 北鎌平~槍ケ岳~肩の小屋~上高地 8/10 上高地~松本 8/11 上高地~涸沢 8/12 涸沢~奥穂高 8/13 涸沢岳クラック尾根 8/14 涸沢 8/15 涸沢~徳澤園 8/16 徳澤園~上高地
[hagure1945] -- 記録というよりは、思い出を書いてるに過ぎない。
ただ写真がのこっていたので、はっきり言えることなのだ。Fac(エフ・アルペン・クラブ)に入って3年目、20歳の夏である。
キシリングを背負い、夏の合宿は北鎌尾根を登り、槍ヶ岳からだキレットを通り、北穂高から涸沢にテントを張っての合宿だった。
この合宿では、大キレットを歩くことはなかった。槍ケ岳からリーダーの由の産と一緒に上高地に下ったからだ。吉野さんが足を痛めたので、上高地まで荷物持ちで付いていったのだ。このとき吉野さんは41、2ではなかっただろうか。でもすごい大人に見えた。
私の山への思いはこの人の影響を強くうけているかも知れない。このとき上高地で星を見ながらビバーグした。天気はいいから問題なかった。たぶん覚えていないけれど吉野さんから家の話を聞いていたに違いない。会の名かでいつまでたっても最年少だったから、かわいがってくれた。
千天出会いの河原には湯が沸いていて、河原で石をどけて湯船をつくって露天風呂を楽しんだ。翌朝は早くから行動開始。北鎌尾根の付け根からのぼっったのだ。いまではこのコースを歩く人はいない。
このコースで記憶にあるのが独標付近で、残置ハーケンにつけられた30cmほどのザイルを握って、お尻を千丈沢につきだしながらトラバースした個所だ。これは稜線をそのまま詰めていたように思う。今は千丈沢側に巻いてるようだ。
そこを過ぎてからは、大槍の詰めまで、難しいことはなかった。
槍の山頂にぞろぞろとキスリングを背負ったグールプが現れて、みな一様に驚いていた。山頂でかなり休憩したのだろう。写真では缶詰を開けて食べている。
その後、上高地から涸沢に戻り、北穂高に登り、滝谷に入った顔知れない。翌年も再び涸沢での合宿だった。
そうです、この当時高瀬ダムも七倉のダムもありませんんでしたよ。確か。
もう46年も昔の話だから性格には語れないが、北鎌尾根を登ったことは確かだ。
再びビデオ撮影のために来年でかけるかも知れない。意欲はあるが、体力の問題だ。 「日記の記録
6日 すずらん高原から松本へ出る。Tと会う。松本の駅で夜明かし。
7日 4:10の電車で大町へ。本隊と合流。千天出会いまで行き、テント泊
8日 北鎌沢を登る。個人装備が多いのでそれが祟る。北鎌平でテント。
9日 槍の頭に立つ。リーダーの吉野さんの具合が悪く、一緒に槍沢をくだり、横尾でビバーグ。
10日 上高地から松本へ。Tと会う。
11日 後発隊と合流して再び涸沢へ。北穂南稜の鎖場で突然心臓発作を起こす。はじめてのこと。
12日 休養をかねて8期生をつれて奥穂高まで往復。
13日 雨の中、クラック尾根をナベとザイルを組んで登る。
14日 本隊下山。涸沢で停滞。神出クン、高橋さん、酒井さんと私で4人。
15日 徳沢園まで下る。
16日 上高地でバス4時間待ち。高橋が男と間違えられるトイレ入り口事件。
17日 燕に行く予定を立てたが、天気が悪く、Tの家に行く。
18日 天気晴れ。美しヶ原に行く。
19日 11:50の急行で帰京する。」
こういう時期もあったのだ。
14 表銀座・槍ケ岳 1966年09月01日~09月03日
9/1 大町=中房温泉-燕岳-燕山荘
9/2 燕山荘-槍ケ岳-肩の小屋
9/3 肩の小屋-上高地
[hagure1945] -- 「1966年8/31 松本16時着。Tの荷物を手伝い8時の電車で松川へ。Tの実家へ。いきづらい。
9/1 中房から燕山荘へ、山頂往復
9/2 燕山荘から槍ヶ岳山荘まで。16:30到着。二人だけで山頂に行きたかったが疲れたので残念。
9/3 槍の頭に早朝立つ。槍沢下降。
松本でフランセでおしゃべり。23:30の急行で帰京。」
日記に書かれている。このとき、列車に乗るまで松本駅の待合室で二人でいた。幼い二人でした。
15 1967年冬の遭難事故 千天出会いへ 1967年01月02日~01月05日
1/2 夜行で大町へ 1/3 大町=七倉 1/3 七倉 7:30ー湯俣 13:00 1/4 湯俣7:00ーC1 9:10 湯俣10:00・17:00葛着 1/5 葛ー第三発電所=大町=松本
[hagure1945] -- この記録は悲しい記録である。 FACクラブで一緒にも登った4期生の神出君が、冬の硫黄尾根で滑落、行方不明になった記録である。
1967年1月の新年早々の出来事だ。以下日記に記載された経緯を書く。
12月31日に 小学校の同級生の福岡君のお父さんの葬式
1月2日 (2日の朝、5:30ごろ、神出と大島が稜線で表層雪崩に会い、神出が流されて行方不明になる。)夜行列車で大町へ発つ。FACの冬山合宿へ顔をだしに行く。この3年冬の山には参加していない。
1月3日 6:00 七倉着 七倉山荘で大島と長森に会う。2日の早朝の神出の事故を知らされる。
7:30 大島を残して、長森と湯俣に登る。11:00 湯俣到着。長森をC1に行かせ、指示を待つ。湯俣泊
1月4日 C1に向けて出発7:00、長森と合流9:10 伝令を受けて大島とともに下山する。
葛温泉で、リーダーの吉野さんと合流。
1月5日 葛から第三発電所まで歩き、バスで大町へ。さらに松本で大島を病院に連れて行く。午後1時松本病院へ。
特急あずさで帰京、鎌田宅へ報告。
1月6日 木村会長の指示で茅野へ行き、鹿島さんを探すが会えず、松本へ行く。
1月7日 牛山さんの指示で松本で買い物、大町へ戻り、13:00 葛から湯俣へ行く。綱川と合流。
1月8日 湯俣から大町へ戻る。
1月9日 松本
1月10日 大島・源馬さん、神出クンのご両親も見える。この日の夜行で帰京。
1月11日 朝、鎌田宅へ荷物を置きに寄る。その日大学に出る。ゼミの先生に自分の問題を話す。「ݚ学問を捨てるな」と言われる。Tに電話する。
16 1967年06月15日~06月21日
遺体捜索の残雪の山
槍ヶ岳硫黄沢1967年
6/15 6/16 大町=七倉-湯俣 6/17 湯俣-硫黄沢-
6/18 湯俣
6/19 湯俣-硫黄沢-湯俣
6/20 湯俣-七倉=大町 夜荼毘に付す
6/21 大町-松本から帰京
[hagure1945] -- 17日 午後2時45分、二股左沢、二股地点より上部70mの地点で神出君を発見する。顔は半分雪に埋まっていたが、半分だけ表に出ていた。このときは3人で行動していたと思う。大沢さんと細谷だったと思う。最初に見つけたのは私だったと思う。二股から硫黄沢に入って、しばらく行くと雪の上に黒いものが見えた。・けるように近づくと、紛れもなく神出君だった。 伝令のために細谷が七倉に降りて本隊に連絡をしたと思う。
18日 本隊が夕方到着する。
19日 朝から、遺体のある場所へFACのメンバーがそろって作業をする。 雪渓の上で、神出くんの遺体を表に出して、寝袋に収納する。ザイルに結び、沢筋まで下ろす。私のピッケルを支柱にして下ろし始めたときに、ピッケルのシャフトが折れた。
みんなで協力して、雪渓の切れる所まで下ろしたあと、タンカを作って遺体を載せ、それを男たちが担いで山道を行くのだが、湯俣沢には伊藤新道という三俣小屋への道があるのだが、廃道になっていて、橋も壊れている。みんな沢の中を歩いていく。悲しいけれど必死だった。彼を早く連れてかいりたい。みんなそのような思いであったと思う。 その日は湯股で一泊して、翌日全員が荷物を撤収して大町へ戻る。
夜、大町のどこであろうか、思い出せないが、荼毘に付すように、高く木を組んで彼を焼いた。 みんなで山の歌を歌いながら涙した。 ご両親と妹さんが来ていて、一緒に泣いた。 なんでこんなにいいやつが先に行くのか、悲しくなった。
荼毘の炎が上がるくらい空に雲の合間に光る星を見ていた。
1967年6月21日 遺骨となった神出君は両親に抱かれて家に帰った。
2013年の6月、岐阜県にある神出君の墓に深田さんと酒井さんと3人でたずねた。50年近い月日が流れていた。
17 剣 岳 1967年08月10日~08月15日
8月10日 黒部=番場島~避難小屋
11日 避難小屋~劔岳~劔沢
12日 劔沢~長次郎谷~八峰5.6コル~劔岳~劔沢
13日 劔沢
14日 劔沢ー立山ー室堂
15日 室堂ー富山
[hagure1945] -- 北アルプス縦走のはじまり・剣岳 一九六七年夏の記憶
北アルプスの縦走の出発点を剣岳(2998巴 にしたのは、早月尾根から剣岳にその昔登った声」とによる。私が妻と企てた黒部五郎岳から笠ヶ岳までの縦走と、鹿島槍ヶ岳から唐松岳までの縦走とをつなぎ合わせ、北アルプスを大縦走するには、必然的に剣岳が初めの山となる。剣岳を北アルプス大縦走の最初に取り上げる。もし一つしか山を選ばなければならないとしたら、私は槍ヶ岳や穂高岳を差し置いてこの剣岳を選びたい。この山ほど豪快でかつ繊細、日本にはない山の印象をうける。室堂から見れば恐れられるほど厳粛な姿であり、仙人池・池の平の眺めは荘厳にして優美、剣沢の雪渓から見上ればハツ峰の岩滝谷の暗さとは比べ峻険でありながら明るい。毎年登れるものならこの剣岳を選びたいものである。十代に登った山として思い出の強い山である。
北アルプス北部の縦走は、一九六七年の夏、私が二十一一才のときに始まる。私は上野に拠点を置いていたエフアルパインクラブ(FAB に所属して五年目、夏合宿は剣岳になった。その前二年間は穂高岳掴沢での合宿であったが、剣岳の合宿に、全員喜んだ。FACは谷川岳南面を主たる活動の場としていて、成果をあげていた。アルプスに目をむけたのはその後のことであったから、会員にとっては初めての挑戦であった。
私はFAC時代の登山を記録したノートを引っ越しの際に失ってしまったので、細かいこ―とは分からないが、会員参加者十五人ほどで、横長のキスリングを背負い、興奮しながら上野から金沢行の急行「能登」に乗り込んだ。今から三十年も昔のことだ。私は少し風邪気味であったが、この機姿を逃すことはできないと参箏加した。
早朝富山駅に着き、富山地方電鉄に乗り換え上市へ、そこからバスで馬場島に。天気は雨であった。早月尾根を一列になって登り始める。雨の湿気と汗で、蒸し蒸しとして辛かった。 そこえ虻の襲来である。手で払いのけながら、首を振りながら、雨具のなかでグショグショになっていた。微熱もあり、良い体調ではなかったと記憶しているが、それでも夕刻早月小屋に着いた。早月尾根の唯一ひらたい場所がこの小屋のある処だった。
この当時、伝蔵小屋は休業していたと思う。我々は避難小屋に泊まることになった。雨は一日降り続いていたので、テントを張らないだけでも助かった。私の記憶するこの記〈薄すべき山行の思い出は、この初日の夜にあった。荷物を下ろし、泊まりの準備に取りかかる。食事の支度となって「水」。「水」がない。
避難小屋の脇に雨水を貯めてあるドラムカンを覗きこむと水がない。底の方に泥水が溜まっているのであった。
「 コッヘルを外に出して雨水を集めてくれ」
「その泥水なんとかならないか」
「手拭いもっていないか」
「どうするんですか」
「手拭いで泥をこすんだよ、沸騰させれば後は使えるから」
「大丈夫ですか、飲めますか.」
みんなの心配をよそに、ランプの灯りのなかで行動帷をする。
コッヘルの上に手拭いを被せて、そこに泥水を上からそおっと流す。手拭いの糸の目から水が落ちてくる。少しは澄んだ水が下に落ちるが、茶色の色が残る。何度も繰り返して水をつくる。
「カレーライスだから分からな臺いよ、気にしない気にしない」 などと言い合い鞍がら賑やかであった。私は疲れた体調の性もあって、面白く眺めているだけだ。
この水無し騒動の翌日は天気も回復し、早朝出発。行動中の水をどう確保したのかは記憶にないが、二千五百メートルの森林限界を越えたときは嬉しかったことを覚えている。早月尾根はともかく一直線に剣岳に突き上げていて、森林限界を越えるまでは、なかなか眺望がえられず、黙々と歩いたような気がする。
森林限界を越えたとたんに、天上が開いたようで、気分がホッとしたことが印象的であった。そこから先は本格的なアルペン的な領域になっていた。そして岩場を越えて、ひよこっと山頂にたどりついた。
直接頂上に出るというのは、槍ヶ岳の北鎌尾根がもっとも印象的で、いきなり天に向かって立つという感情をあたえる。この剣岳もその感はある。小さな祠にお参りして無事を祈る。 初めて剣岳の山頂に立った時、周囲は雲に覆われていて、四方を征してというような光景ではなかったと思う。まじかに見た八シ峰は、そのギザギザに尖った岩の連なりが迫力一をもって迫ついた。剣沢にベースキャンプをおいて、八シ峰の各ルートを登った。数日後、私も長次郎のコルからハツ峰に取り付いた。
抱き廻り巖を越えて友を待つ岳蝶のとぶ深鐵の上 岩城正春
長次郎雪渓をつめて、五・六のコルに取り付いて八シ峰を縦走して剣の山頂に立った。紺碧の空の下、気分は最一滝クレオパトラニードルの特徴ある岩やチンネは印象にある。 そして翌年も剣岳の合宿で、剣岳の頂に立ったはずなのだが、いま明確な記憶がない。その二度目の合宿は、体調を壊してテント番をしていたと思う。快晴の剣沢で岩の上で日光浴をしていた。お汁粉を食べたと思う。前年の合宿の時に食べられなかったのを、テント番の時にこっそり実現させたのだ。どんなコースを攻めたかなどというよりも、そんな記憶しか残っていないのだから、お恥ずかしい。この紀行文を書き初めて、若い日々に踏んだ剣岳からの眺望が、少しづつ鑿えってきた。八ツ峰を登禁したときのあの澄みきった青空は美しかった。そして岩が穂高の滝谷の暗い雰囲気と異なって、明るくヨーロッパアルプスの岩場のような感じがした。三の窓、池の平山、八シ峰からの眺めである。池ノ谷の深い切れ込みを上から覗いた。剣岳の頂には、その後三十年間以上、立っていないのだ。九十年の夏に妻と一緒に黒百合のコルまで行ったが、前日の低気圧の通過の影響が残っていて、山頂を渡る雲が飛ぶように早いので、登頂を断念した思い出がある。
湧きあがる雲迅くしてたちまちに視界にあらず大き剣岳 岩城正春
剣嶽八シ峰岩峰にたまきはる胸躍すれわが老いにける 柳瀬留治
18 蓬峠 1970年06月06日~06月07日
土合駅5:00~蓬峠9:50・11:00 土合駅15:30
[hagure1945] -- 妻となる人と初めて一緒に山に行った記念日なのだ。 細かいことは忘れている。時間はいい加減。実際は不明。
唯一6月6日の上野発22時42分の列車に乗ったという問うことだけです。記録には、残雪の上で写真を撮ったという記載があるだけだ。その写真は見当たらない。
だが間違いなく歩いたのだ。若い時なので、飛ぶように歩いていたのではないかと思う。私には記憶がある。
1 木曽駒ヶ岳ボッカ 1962年10月26日~10月28日
10/26 北御所登山口~ウドンヤ峠~七合目付近
10/27 七合目~木曽駒ヶ岳~宝剣岳~七合目
10/28 七合目~ウドンヤ峠~北御所登山口
963年
十七歳の秋、初めて中央アルプスに入る。1963年の冬山合宿を中央アルプスで行う為の偵察行である。私にとっては夏の丹沢での新人歓迎会を水無沢の河原でテント泊で歓迎を受け、沢登りを初めて体験したのと、その後に秩父に一泊で雲取山から笠取山への会山行に次ぐ泊りがけの山であった。
目的はベースキャンプを前岳辺りに設置するための偵察であった。私とリーダーの吉野さんと、先輩の雨宮さんの3人で、親以外の大人と行動するのはこの山の会に入ってか羅のことで、私はまだ高校生だった。
FACのリーダーの吉野さんと先輩の雨宮さんと、初めて本格的な山に入る。山はすっかり秋で、冬も近いと感じられる空気だった。
コースタイムは残っていないが、北御所から3時間ちょっとで登って来た伊那前岳付近で、北御所からの登山道や木曽駒や宝剣岳が見渡せる平坦な場所だった。(写真・上が北御所への尾根、下は宝剣岳と伊那前岳付近)
テントを設営してから、吉野さんと雨宮さんが偵察してくるからお湯でも沸かしておいてくれ
2 初めての冬山合宿 中央アルプス 1962年12月30日~1963年01月06日
1962年
12/30 駒ヶ根~北御所~登山口~伊那前岳付近テント
12/31 停滞
1963年
1/1 停滞
1/2 停滞
1/3 停滞
1/4 木曽駒往復
1/5下山開始9:00~北御所21:00
1/6 帰宅
これから書くのはいまから五十年前のことである。記憶もさほど正確ではないので、いい加減だとは思う。私が初めて経験した冬山合宿である。
1963年の12月夜行列車で新宿を発ち、辰野で飯田線に乗り換えて駒ヶ根駅まで行き、バスで北御所登山道の入口から出発した。
ともかく、その日のうちにベースキャンプまで入ったと記憶する。 その夜からゆきが降り始め、翌朝も降雪と風雪で行動ができなくなった。大きなかまぼこ型のテントともう一つの中型のテントであったと思うが、一週間雪に閉じ込められた。
醤油の瓶を外に出しておいて、割れたのもこのときだと思う。
トイレの用足しも大変だった。お尻を出していると風と雪でバリバリになる。穴掘りをして風よけをしないと落ち着かない。ともかく、テントの中でゴロゴロして過ごすしかない。
この時代はよく歌を歌った。三日目が過ぎたころだろうか。我々で合宿の歌を作った。この正月は全国的にも天気が悪く、気象情報を聞きながら天気図を書いた。私が書いたわけではない。低気圧が日本の上空に二つ並んで目玉のようになった形であった。それが停滞して抜けなかった。
<中央アルプス冬山惨歌> FAC作詞
ⅰ 荷揚げ山行 はやすんで
伊勢滝コースも 順調に
着いたところは 八合目
ブルースカイは 夢のなか
ⅱ 張り綱張る手に冬山の
寒気厳しい ブリザード
稜線見る目が 凍りつき
モルゲンロートは いつのこと
ⅲ きびしゅうござんす アルプスは
二つ目玉の低気圧
時々くれる 差入れに
かすかに見える 青い空
ⅳ 吹雪のやんだそのすきに
テントの中から 這い出せば
ちらりと見える 星屑に
明日のファイトを 湧きたたす
これを新人哀歌の節回しで歌う。今では<新人哀歌>なんて歌える人もいないだろう。 この歌は名曲だ。 冬山の雰囲気出てるし。今歌うと懐かしい。これをテントの中で作り上げた。 三番目の<きびしゅうござんすアルプスは>は実感であった。
たばこが切れて、しけモクに爪楊枝をさして吸ったりもしていた。私は煙にあぶられてたいへんだった。そうしたら先輩がお前も吸えば大丈夫だなどと、無責任なことを言って笑っていた。
下山日の前日の前日、ほんとに夜風が止み、星が見えた。明日は晴れるぞとみんな思った。 翌日、全員で木曽駒ヶ岳と宝剣岳へ行くことになった。この一週間の行動予定は全部中止になって、やってたことは雪かきだった。テントがつぶされてしまうから、毎日していた。
写真は下山する前の日のものだ。初めて目にした風景の素晴らしさに一七歳の自分は興奮したものだった。秋に荷揚げに来た時と様子がまったく違って色のない真っ白な景色に魅了された。
この合宿が忘れられないのは、歌が歌っていない最後の下山にあった。 最後の日、天気は安定していたが、一週間降り積もった雪は、想像以上に深く、このころにはスノーシューなんてものはないから、腰までのラッセルになった。
女性が4人かな、男性が十人くらいだろう。それもキスリングを背負っての行軍だ。 テント撤収し終わって、朝九時にベースキャンプの八合目を出た。
しかし、一向に進めない。飯をくうのもままならず、毛糸のぶあつい手袋を雪にさして、雪を喰いながら歩いた。腹も減って、やがて暗くなって、ライトをつけて下山する。私はまだこどもだったから、この時の先輩たちの胸中がどうであったか知る由もなく、ただひたすらくっついていくだけだったが、この先輩やリーダーを信頼していたのだろう。少しも怖くはなかった。
秋、三時間で下った道を12時間かかって北御所の集落に降りてきた。
民宿に宿をとることができて幸いだったが、雪の中で一夜を明かすようなことになったかもしれない。私もラッセルをやったけど10分ともたなかったような気がする。 でも大勢でいてにぎやかだった。今思うと、この時の記録を残していなかったことがとても残念に思う。日記代わりが歌になった。
忘れられない冬山体験なのだ。この時中央アルプスに入っていたのは我々だけであったと思う。他のテントも人も見なかった。
今の冬山の賑わいが信じられない時代であった。北御所登山口からどのように民宿についたかは覚えていないので、ルートは登山口までとした。
3 袈裟丸山 1963年11月22日~11月23日
11/22 渡良瀬・沢入駅~寝釈迦~小丸山~避難小屋 11/23 避難小屋~前袈裟~後袈裟~中袈裟~奥袈裟~小法師尾根分岐~笹ノ平~小法師岳~原向駅
この袈裟丸山を歩いた日付とコースについては記録がない。写真だけがある。それと、あえてこの記録を載せたのは、私が高校3年生で、翌年の春卒業であった。それもあるけれど、下山して電車に乗ったら新聞にジョンソン大統領の名前と写真があって、その意味がしばらくわからなかった。
私が山に入った日に、ケネディ大統領が暗殺されたのだ。それは帰宅してからわかった。暗殺場面をテレビで放映していたからだ。
ケネディ大統領の暗殺された日に登ったていた山として記録しておきたかった。
山に入っている間に、世界的な事件が起きたのは、この時が最初で最後か、いや、も一つ、2011年3月11日に、雪の美しヶ原にいた。
4 富士山雪上訓練 1964年11月21日~11月23日
11/22 馬返し0:05・0:20 4合目0:55・1:00 5合目1:50・1:55 BC2:15
11/23 BC 5:50 9合目 10:00 富士外輪10:24・10:25 BC 12:30・13:15 馬返し13:57・14:10 富士吉田16:13
なんと夜中に馬返しから五合目まで、登り1時間30分だ。 下りがBCから馬返しまで42分という。まあ、なんと若かったときの記録。驚きだ。 富士山へは外輪にたどり着くのがやっと、時間切れでした。天気は好かった。
5 早池峰山(FAC) 1965年07月17日~07月18日
46年前の記録。FACの時代。早池峰の記録があった。写真も貴重なものだ。自分の山・青春。ヤマレコの記録の欄を借りて整理しておく。 これは自分のものです。山=人生、私にとっては深いかかわりがある。
「早池蜂山」 記 川那辺美智子
山行日 昭和40年7月17日夜19日
パーティL大沢 軍司 酒井 川那辺 神出
7/17 上野19:10(急行十和田)
7/18 盛岡4:25-5:50 平戸駅7:20-7:30 営林署7:50-55 アイオン沢出会い8:15-30 早池峰神社鳥居8:55-9:50 早池峰山頂13:45-14:50 中岳15:30 鶏頭山18:30 岳20:10
7月17日
夜六時十分上野駅発急行「十和田」で、出発・大勢の会員の皆さんに、見送りを受けへ差し入れをどっさりいただき、混んだ列車のワンボンックスを5人で陣取って、盛岡に向いました。差し入れのお菓子を、どれから開け様か、等とちょっともったいぶりながら山へ行く時以外、口にした事もない貴重な(?5:50)品をつまみながら、いろんな話題と笑いで、夜汽車の退屈を、 吹き飛ばして行きました。
仙台を過ぎてやがて松島に近づけば、(実は私は眠っていて少しも知りませんでしたが)、五期の神出さん、美声よろしく「松島あ-の、と歌い出し、残りの三人を、必死になって、眠りにか駆らないように、張り切ったとか。
さて、まだ朝も早い盛岡駅に到着したのが四時二五分でした。一応パッキングをし、ホ-ムの立そばで、おいしい天ぷらそばを、食べ、山田線のホームへと移動したのです。 ここで最高の悪事がおこったのですから、我会も、その部類では常習犯ですね。五人中、まともに切符を買ったのは、ニ人だけ、三人は、;……;……ネ。困ったものです。
山田線の一番列車は五時五〇分発。平津戸駅には一時間半要し、七時二〇分に着きました。 駅長さんと駅員さん一人だけの駅で閑散とした、いとも、呑気な田舎の駅です。登山者名簿に、五人の名前を書き込みます。五月の連休に、来た会員の名前も書いてあり、なつかしく思いながら小雨降るどろんこ道をテ クテクと歩き出したのは七時三〇分。少し歩くと、後から、ガタガタと車の音。「ワー、どろんこ水、はねられる!」と悲鳴をあげて、道の端に逃げたりしたら、その車、女の人達が四~五人乗っていたのですが、前で止めてくれて、運良く、営林署蓉までの長い道を、歩かたくて済んだのです。
雨もやみ、東北の山の朝の空気を一杯に吸って小型四翰の車の荷台に揺られました。 終点の営林署に着いたのは七時五〇分です。運転手さんにお礼を言って、五五分によいよ歩き出しました。快調を歩き出してアイオン沢出合いに着いたのが八時一五分。前夜からの雨、水が、すごい勢いで落下していて、見る目も感歎した蝋のです。差し入れの月餅を食べて八時三〇分出発し、25分で早池峰神社鳥居、いわゆる垢離取場に着きさした。
他のパーティが一組いましたか、何の言葉も、交さず、そこでお店を開いて肉を焼き、頬うばったのです。一時間をそこで費し、九時五〇分に山頂に向け発ちをした。途中雨が降り出して傘をさして歩くも、ムードもたっぷり。けれど、Lの大沢さんが五月に来た時、グリセードで下った時間から計算したらしく、樹林帯を抜ければピーク迄はすぐだからと言って、「あそこで樹林帯がおしまいだゾー」なんて、安心させておき、そこへ行ったらその上に又又樹林帯が続くではありませんか。そんな事、二。三度で、いい加減いやになって来た時、ようやくニッの岩峰が見えて来たのです。岩峰を越えて三〇分位登った所に冷たい水場があって、そこで又ブスに火をつけました。何を作って食べたからちょっと忘れましたが。
ピークから下って来た登山者に聞けば、三〇分も歩けば早池蜂のピークですよと言う事であわてて、ブスをしまいピークめがけて、歩き出しました。次第に岩と這い松の緑が目前一面に広がって来て、ピーク近くに立ち並ぶ岩峰群も、大きく姿を現し、その広大な岩と緑の這松の調和の取れた早池峰山頂付近の静けさが身にしみて快く感じたのです。人は、ほんとに少たく山頂の小屋にほんの三~四人だけがいるのみでした。ピークの小屋に着いたのが午後1時四五分です。早速、有名なウスユキ草を、さがしに出発。誰が最初に見つけるかと夢中になって広い山頂をうろつきました。誰も、本物を見た事がないので、楽しみです。雨があがってうすい霧に包まれた早池峰の山頂で、雨に濡れた白いウスユキ草が、あっちにもこっちにも咲いていたのを見た時、皆は何か悲鳴らしき声をあげながら、そっちの花こっちの花と駆け回ったのでした。
時間的に計算して中岳から鶏頭山への縦走をするかどうかと、皆で話合い、結局、折角来たのだからと、鶏頭まで行く事に決まり、早速出発です。二時五〇分に山頂を離れ、とても広大な山腹を細い道の両側に白く愛ら しいウスユキ草の咲き乱れるのを観ながら、タッタカ、中岳向けて進みました。小さをピークが次から次へと現れるので、どれが本物か迷ったものです。誰が名をつけたか、「ペトコンルート」と言いながら歩いた所は、全くその通りのジャングルで、道は水びたしのびちゃびちゃ道だし、おまけに木ときたら這松とも、普通の松の木とも区別のつかない中途半端な高さの木で、頭をあげたと思ったら.ゴッンと叉、ぶつかる始末でした。(恒、○○さんは例外だったかな?)
さて中岳のピークに着いたのが三時五〇分で、ここは通過しました。今度は鶏頭山向けての行動です。案内書は、どこまで信じていいのかわからなくなる程、いい加減を時間計算で、五万分の一地図での計算とは、大夫とは異なり、皆少々頭に来た様でした。その上、前と同じ様に、小さをピークが多くあり、「ここがニセ鶏頭かな」とか「やっぱりさっきのピークがニセ鶏頭かな」となる様は由でして、本物の鶏頭山に着いたのは夕方の6時30分でした。
蚊か、ブヨかわからない虫が、「それ!たまの人間だ。かかれ!」とばかりに、私達の後を追って来ます。気持が悪くて身震いいする程で、それに水場もないし、ビバークはやめにして岳に下る事にしまして、一気に下りました。開けていない山だけあって、道も、あまり良く出来ていず、笹とか、バラとかススキの葉などで、ショートパンツの人ばかりでなく、私どもも、少々傷を受けたりし、だらだらの下りを、石につまづき、笹にすべりしなから、夜八時一〇分、戸数わずか二~三○戸の岳に着きました。
皆、とても元気で、夜間行動しても下って良かった等と話あっての神社に泊る事にしたら、民泊があり、大きな家の二間を借りて泊る事が出来在した。
ご飯を炊いて戴き、ゾッペ等を作って食事し、ひと段落した後、まるで専門の旅館にある様な立派なふとんに、眠ったのです。
一九日朝五時少々過ぎて起床。前日、車をチャーターしておいたので安心です。ところがその車とは別の、四輪車が六時頃、から出ると言うので、それに乗っけて頂き、お世話になった家と岳に別れたのでした。
この日、バスがストライキだと言うので、動いていず、この車、途中の道を歩いている人達を次から次に、乗せ、満載になって○○森林組合前まで来ました。バスが、ようやく、動き出しまして、そこの組合前から大迫まではバスです。川沿いに走るバスは、快適に岩手の山奥を走ります。道がガタガタでなければもっと快適でしたでしょうが、むしろ、その方が情緒があっていいのかも知れきせん。
八時一五分大迫の町に着きまして、すぐタクシーに乗り継いで石鳥谷駅迄向いました。
石鳥谷八時四九分のドン行で一ノ関に向います。いよいよ、我家への道、大船渡線に乗り替え、心が躍り、口には歌などが出る始末。
我漁港、気仙沼の町に着いたのは午後1時14分です。家からの迎えで、車に便乗、海に近し、山に近しの我家に向いました。お風呂と、食事が待っていまして、わずか五時間の暇を、とてものんびり過ごしたのです。
気仙沼を夜七時三五分発の汽車で発ち、一ノ関に九時一七分着きました。誰かさん、売店の店員さんをからかったりしているうちに九時五一分の急行「おいらせ」が到着しまして、短かった早池峰の山行も終え、帰京の途につきました。神出さん、これから叉、飯豊の方へ単独山行出発のため、仙台で下車。我家からの差し入れを手渡して、健闘を願いながら別れたのです。 東北の夜行列車は、後れなくてはならないと言う如く、必ず、定刻より遅れるのです。私達の乗った「おいらを」も、例に洩れる事なく、六時より三〇分も後れて上野に着きました。
そう言う事で早池峰山々行は無事、二十日朝、上野駅着で、終了したのです。
7 鳳凰三山 一九六五年八月四日~八月五日
8/4 青木鉱泉~地蔵岳~観音岳~薬師小屋(テント) 8/5 薬師小屋~夜叉神峠
貴重な写真が残されている。今から46年前、単独で鳳凰三山に出かけた時、偶然にも母校の山岳部の後輩に出会い、先輩顔をふかして楽な思いをした。たまたま引率の先生が、剣道の時の先生で、体育の教師であった。ついてこいよというので一緒に歩いた。キスリング姿がなんとも言えない。タイムコードなどはないが、歩いたことには間違いない。(写真上・地蔵岳付近で。下・地蔵岳から観音岳へむかう)
8 穂高岳夏合宿 1965年08月07日~08月12日
8/8 松本=島々=上高地-涸沢 8/9 北穂高 8/10 滝谷 8/11 ジャンダルム 8/12 事故により松本へ下山・病院に入院
1965年夏合宿穂高岳 涸沢入山 昭和40年8月6~7日 パーティ L 吉野 大島 軍司 神出 細谷
8月6日、夜、急行アルプスにて私達先発隊は、穂高岳涸沢に向って出発の第一歩をふみだした。登山者でいっぱいになった夜明の松本駅から島々ヘ、島々から上高地行のバスに乗りこんだ。
バスの中で私は眠っていたので中ノ湯も大正池も知らずに上高地迄ついた。バス停二階の食堂にて腹ごしらえをして、私達一行は涸沢に向って長い行進が始まった。上高地からすこし歩くと、カツパ橋がある。橋には観光客やキャンパーの姿で混雑していた。この時初めて前穂高の姿を見る、雲一つない晴れた日なので前穂高がカツパ橋の上に浮き上って見える。なんと美しい風景なんだろう、思わず観声をあげずにはいられなかった。
梓川の流れにそって林道を歩きつづけると明神館についた、ここからは明神岳東面が目の前に見える。ここまでくると、この先には観光客の姿は見えなかった。延々とつづく梓川の流れにそって重荷を背にした、私達は快調なペースで歩く。徳沢園に上高地を出てから一時間五○分位でついた。なおも林道を横尾へと歩きつづけた。横尾の手前迄来るとクライマーの憧れである屏風岩が姿を見せる、垂直に切れ落ちた岩は圧・的に見える。いつか、こんな岩壁が登れたらたらいいなと私は思った、そしていつかきっと登って見せると一人言をいっているうちに横尾の小屋についた。
槍ヶ岳廷登る道を涸沢に入る道との別れである。私達は橋を渡った。屏風岩の下を廻って本谷橋についた。
本谷橋から涸沢までの道、これが私たちにとって、えらく時間を消失した。途中で何回か荷を下ろしては休んだ。穂高は見えるのに一向に涸沢にはつかない。私はもう今日中に涸沢に入れないかと心配になった。上高地から約八時間かかって、涸沢のテント場についたと同時に重荷をドカと卸し、すわうこんでしまった。三○分後にはテントも張られ、夕食の時がきた。これで、今日一日の仕事が終ったと思うと急に身体が疲れを感じた。シュラフザックに入るとすぐ深い眠りに落ちこんでいった。 (記 6期 細谷 稔)
新宿 22:00 アルプス2号 松本4:07-4:19 島々 4:50-5:05 上高地 6:55-7:50 明神館 8:30-8:45 徳沢園 9:30-9:40 横尾 11:00-11:55 本谷橋 13:10-13:30 涸沢 16:40
夏季合宿本体入山 記 小林久美
8月7-8日 パーティ L 大沢 加藤 中村 川那辺 山下 小林
陽ざしのさしはじめた冷気のなか、上高地に降り立つ。ざわめくハイカーの中をぬって明神へ歩を運ぶ。木立に囲まれた小道はたとえ天下の滝谷へ通ずる道であっても、キスリングを背負った一団は奇妙にさえ思われる位ハイカーのメッカである。
明神から徳沢園の間もすれちがう人々の列は絶え間なく続き、徳沢園も横尾もかつてのただづまいはない。
横尾橋の近くにて大休止、フライパンでジュージュー焼いた肉の美味しかった事。
約一時間休んだ後,OとKの二名を残して出発、それまで単調な道と違ってペースが乱れはじめた。本谷まで暑さにむせながら冷水で喉を潤す。Oが追いつきKは徳沢へ向ったという。涸沢に入り道は急登となる。少し歩いては休み、又行っては休み、段々バテてくる。荷物の重くなったOは遅くなり、叉トップにいたNは一人先に行ってしまった。後から来るサブザックのハィカーがどんどん追い抜いて行く。ペースがすごく遅くなったためかBCには着かない。やっと小屋が見えても全然近づかない感じである。その直下Yが腹痛を起こし道の脇へ座り込んでしまった。YとともにK先輩も残ったので一入BCを目ざす。小屋のすぐ下なのに何回も何回も休んでやっと天幕地に着く。ちょうど滝谷から帰った先発の方々が降りて来たのでそのまま他の人を迎えに行ってもらう。
なつかしいFACのテント前には先に来たNがニコニコと笑い顔で待っていてくれた。暮れようとする涸沢を囲む山々に向いながら「登りたい」という想いに胸が締め付けられそうになった。
クラック尾根 記 軍司克己
8月9日 パーティ L 加藤 中村 軍司
BC 5:25 北穂高 8:00-8:10 取り付き点 9:00-9:30 ジャンケンクラック 12:00-12:30 稜線14:30-15:30 BC 17:00
加藤さんをリーダーとして、中村さんと私の三人で、5時25分BCキャンプを出発、北穂への道で体調を整えるのに苦労しながら歩む。
天気は快晴、北穂高の山頂に着く。初めてみた北アルプスの全貌は新鮮であり、偉大な光景であり、そしてショックであった。10分の休みの後、取り付きまで歩を進める。B沢の下降は互いに注意を要し、途中取り付き点を一ヶ所あやまって旧メガネの下部に出てしまったが、誤りと気づき再び下降し、P2フランケが真正面に構え、暗く隠れる第一尾根の壁を眺める取り付き点に9時到着。
9時30分に登攀を開始。2ピッチで旧メガネのコルに着き、ここから2mほど降り小さなクラックを利用して、テラス上部に着く。クラックが「入」型に入っており、乗り越すと、広いバンドが走っている。さらに上のテラスを目指す。
ジャンケンクラックは10メートルほどで、真ん中を登る。上は浮石の多い不安定なT6・T7までB沢側に、浮石を注意しながら行くとガラ場で踏み後のあるT8に着く。北穂は赤旗が立てられており、それを目指して登る。さらに、左よりの凹角を登ると踏み跡が北穂高小屋まで導いてくれた。稜線にトップで出る。BCへ下る。
涸沢岳東稜
8月10日 パーティ 中村 軍司
BC 7:30 ザイテン 8:20-9:00 涸沢岳下部 9:40-9:50 取り付き点 10:0-10:20 ツルム 11:30 終了12:20-14:00
今朝も調子よく、ザイテンから、ガラ場をトラバースして取り付く。2時間で登攀終了。
途中ツルムだけが注意すべきところだった。ここで明日、登る女子のために打ったハーケンを後発のパーティに持っていかれてしまった。中央稜パーティのルート指示を行い、N曰く「まるで、ルート指示に行ったみたい」な登攀であった。
「北穂からジャンダルム」 記 高橋
8月11日 パーティ L軍司 山下 高橋
東壁パーティを送り、叉一寝むりして、テントキーパーの二名と四尾根パーティを残して、BCを出る、南稜の登りは風が快い。
北峰で松波岩の横に出て、滝谷をのぞけば、ドームの姿が心憎い。(せっかく、ルートを憶えて来たのに)クラック尾根を前日登って来たGは滝谷の概要を細かく説明してくれる。北峰を下れば滝谷へ入るのであろう、女性クライマーの姿が無性に目につく。雪溪を過ぎ、四尾根へ入る人達に会って、「遊んでるんじゃないと」どなられた。
涸沢槍の頂上から、明日の登攀するルートの説明をGにしてもらう。明日登攀だ、穂高小屋での小休止、小休止はまちがい、大休止でした。
奥穗の頂上を見あげると、雲がある、一線にならんで来る。すわ、寒冷前線だ。さあ、急ごう。雲が来るのは早い。雨が降りはじめた、ジャンヘ向う。馬の背あたりから激しい雨に変った。リーダーは「登るか。」と聞く。「登ります」ここまで来たんだ。こんな所で帰えれるのか、自分の心の中で答える。ジャンダルムの岩が冷たく姿をあらわす。
Tフランケ、正面フェース どれも私の手ではどうにもならない。
頂上に立てば激しい風と雨に写真どころではなく、そうそうに下る。馬の背を過ぎれば、もう水の溜ったホールドも、何も関係がない。広い稜線だ。東壁は、四尾根は、自分への反省が心の中に渦まく。穂高小屋へとびこめば温いお茶が憎い。昼食を取って小屋を出る。病みあがりの私をGは細かく気をくばってくれる。下降しはじめれば、稜線ほどの風はない。無気味な落石の音が、雨の中に響く、小屋を過ぎればBC、エールを・ければ、メガネが出る、天幕の中は、温いホェープズの音だけだった。
夏 (事故報告)
8月11日午後7時35分、天幕内にて、コンロに燃料補給の為コックをゆるめると同時に気化したガソリンが隣にて使用中のコンロに引火して、コンロ消火時に天幕入口附近にて火傷を負う。
ただちに涸沢ヒュテの東大医療班に手当を受け12日早明七名にて横尾山荘に下る、山荘より車で上高地迄行き派出所にて車チャター松本病院に向い入院する。
反 省
今度の事故に関してコンロ使用上のことにあると思うこと。天幕内でのコンロのロックの開閉は今迄天幕外で行われていただろうか?全員が深く反省する次第である。 事故が発生すれば、たとえどんな事故でも、他の人に迷惑が・かるという事を十分に考えなければならないと思う。当事故にかぎらず個々が気をくばり対処出来る問題である。又警察署を初め、東大鉄間クラブ、涸沢ヒュッテ、横尾山荘の皆さんに最後迄御世話下さいました皆様には何と御礼の申し様が無い気がします。 鎌 田 靖 史 記
以上は私が20歳の時の穂高合宿の記録報告。会報より。文中Gとあるのは私のこと。 事故は私が火傷をしたこと。
8 越後三山 1965年09月03日~09月05日
7/27 枝折峠(9:00)~越後駒ヶ岳小屋 7/28 越後駒ケ岳小屋(5:00)~中ノ岳(10:00)~入道山~千本檜避難小屋(16:00) 7/29 千本檜避難小屋(5:00)~大倉集落(10:00)
[hagure1945] -- 20歳の時、無性に越後三山を歩きたくなって、夜行列車に乗り小出からバスで枝折峠までバスで行く。
正直、記憶の多くは失われている。FACの会報に登山記録を寄稿したのだが、今それがない。もし見いだせたら訂正をするが、間違いなく縦走をしているのだ。 写真は、当時カメラを持っていないから一枚もない。
2日目に中ノ岳から八海山に抜けるときに、オカメノゾキの手前で、向かいの岩肌にカモシカが絶壁の上にいたのを覚えている。確かこのときは同じ方向に行く人がいて、私が途中で具合が悪くなって、助けてもらったと記憶している。
中ノ岳は2085mあるが、オカメノゾキは1270mで800mも下がるし、登りかえすのだ。ここで顎を出してへたばった。このとき同じ縦走していた人に助けてもらったのだ。 八海山は岩峰を通らずに巻道を行ったかもしれない。
千本檜で泊まったと思う。
3日目に千本檜から大倉口に降りた。まだロープウェイはない時代だ。 もう、50年も前のことだがヤマレコに記録しておく。
9 南アルプス縦走 1965年10月14日~10月19日
1日目 伊那大島ー鹿塩ー塩川土場ー尾根取り付きー三伏峠(テント泊) 2日目 7:30三伏峠ー8:30烏帽子岳―10:00-20小河内岳ー12:00板屋岳まきみちー13:00高山裏幕営地(テント泊) 3日目 6:00高山裏幕営地ー9:30荒川前岳コルー10:30-40荒川小屋ー11:10大聖寺平ー12:40-13:10小赤石岳ー14:10赤石岳ー16:10百軒洞露営地(テント泊) 4日目 6:00百軒洞露営地―7:20大沢岳ー9:20-30ウサギ岳ー11:00-11:30聖岳ー13:10聖平(テント泊) 5日目 6:00聖平ー9:00西沢渡ー11:30北又渡ー14:00本谷口ー平岡
[hagure1945] -- 1965年、20歳の秋、神出君(当時東大生)と社会人だった酒井さんと3人で、秋の南アルプスの大縦走を行った。まだ若いときだ、今から50年も前のこと、元気であったから、夜行列車で揺られ、登山口の塩川へバスで到着して、4時間歩いて三伏小屋についても元気そのものであった。
三伏小屋から翌日、荒川小屋を目指して歩き出す。確か樹林帯の道を稜線伝いに歩いたと思う。もはや詳細なことは忘れているが、高山裏の幕営地について見上げた荒川岳の大きな姿に威圧されて、その日のうちにここを越えていこうとは3人とも思わずに、午後の早い時間ではあったが、テントを張って停滞してしまったことが強く印象に残っている。
3日目は早朝に出て荒川岳を越え、赤石山頂へいたる。しかしこのときの天気はあまり良くなくて、眺望はなく、ただずんぐりと広い山頂が印象にのっこっている。
赤石岳の山頂を踏んで百間洞のテン場で泊まる。 翌日は兎岳を越えて聖岳に。この「聖」という名前に憧れていた。大きい山だと思う。聖平のテント場まで、雨にはあっていない。聖岳の印象はあまり残っていない。
むしろ最後の下山の日に、尾根をくだって、森林軌道の道を西沢渡まで、さらに終点まで歩いたことが印象に強い。営林署の機動が山の奥深くまで通じていて、途中何回か木材を運ぶトロッコに出会う。枕木の幅が、歩幅と合わずに苦労した。その後どのように帰京したかは定かではない。
10 奥穂高岳 1966年6月20日 上高地-涸沢-穂高岳山荘 6月21日 穂高岳山荘-涸沢-上高地
21歳の夏、昨年の事故で入院した国立松本病院の看護婦のTちゃんと二人で穂高岳山荘一泊の残雪期の登山。若いから怖いもの知らずでしたかね。
上高地から一日で白出のコルまで歩いています。涸沢岳にのぼったかも知れないが、記録はない。
翌日、ザイテングラードのくだりに取り付くところで、Tちゃんとアイゼンがだんごになるから払うようにと注意して後ろを振るいかえった瞬間に、彼女が消えた。
はっとすると、ちょっとしてから、下のほうから「生きてるぞ!」と声がした。
涸沢に向けて200mほど滑り落ちたのだ。 ザイテンの岩場をあせるような気持ちで降りていくと、雪渓の中央で止まっている人影があった。
急いで近づいた。怪我はしていないし、意識もはっきりしていて、「ピッケルが刺さってとまったの」という。ザックはふたが開いて中のものがこぼれてしまったようだ。
Tは3歳年上だから24歳だったかな。 気丈な人で、すこし体制を整えて、雪渓を二人で下った。無事でよかった。
このとき、上高地から島々へのバス道が雪崩で破損していて、一部区間を歩かされた。 そんな青春の甘酸っぱい思い出の山の記録だ。
11 西穂高岳 1966年07月24日~07月25日
7/24 新穂高温泉ー西穂高山荘
7/25 西穂高山荘ー西穂高岳ー西穂高山荘ー新穂高温泉
若いときの思い出と言うのは、かなりあやふやになっているが、この1966年と言う年は、乗鞍でゼミ合宿をして、すずらん高原に長期滞在していたのだ。ゼミがおわって上高地や登山に出かけた。
たぶんこの西穂高はその直後であったと思う。
このときはゼミの男性二人とTちゃんを誘って、西穂山荘に泊まり、翌日西穂高岳を往復したのだ。登山の感想は 「7月24、25と西穂高岳へ行く。私とTと師岡、橋本。天気はよく、槍の姿が印象的、穂高は大きい。 笠岳は一度登りたい山だ。忘れられぬ山。Tはいけない人だ。記念に木彫りの鞍を買う」と書いている。
12 霞沢岳 1966年08月04日(日帰り)
帝国ホテル9:00ー稜線下12:00ー霞沢岳12:40・13:15ー帝国ホテル15:15
昔は帝国ホテルの付近から霞沢岳に食い込む涸れ沢をつめていくコースがあったのだ。
1966年8月4日に一人で往復している。 この年はひと夏この乗鞍の高原で大学のゼミの合宿をし、松本に出たり、していた。この後にクラブの夏合宿が穂高であるのだ。 この記録は当時の日記帳に書かれている記録だ。 ”気持ちのよいのぼり、少々きつかった”とだけ感想が書かれている。
霞沢岳(200名山)~廃道・八右衛門沢をたどって~ http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-128704.html
2004年の記録 まさにこの道を往復したのです。
13 槍ヶ岳北鎌と涸沢穂高合宿(FAC) 1966年08月07日~08月16日
8/7 大町~七倉~千天出会い 8/8 千天出会い~北鎌平 8/9 北鎌平~槍ケ岳~肩の小屋~上高地 8/10 上高地~松本 8/11 上高地~涸沢 8/12 涸沢~奥穂高 8/13 涸沢岳クラック尾根 8/14 涸沢 8/15 涸沢~徳澤園 8/16 徳澤園~上高地
[hagure1945] -- 記録というよりは、思い出を書いてるに過ぎない。
ただ写真がのこっていたので、はっきり言えることなのだ。Fac(エフ・アルペン・クラブ)に入って3年目、20歳の夏である。
キシリングを背負い、夏の合宿は北鎌尾根を登り、槍ヶ岳からだキレットを通り、北穂高から涸沢にテントを張っての合宿だった。
この合宿では、大キレットを歩くことはなかった。槍ケ岳からリーダーの由の産と一緒に上高地に下ったからだ。吉野さんが足を痛めたので、上高地まで荷物持ちで付いていったのだ。このとき吉野さんは41、2ではなかっただろうか。でもすごい大人に見えた。
私の山への思いはこの人の影響を強くうけているかも知れない。このとき上高地で星を見ながらビバーグした。天気はいいから問題なかった。たぶん覚えていないけれど吉野さんから家の話を聞いていたに違いない。会の名かでいつまでたっても最年少だったから、かわいがってくれた。
千天出会いの河原には湯が沸いていて、河原で石をどけて湯船をつくって露天風呂を楽しんだ。翌朝は早くから行動開始。北鎌尾根の付け根からのぼっったのだ。いまではこのコースを歩く人はいない。
このコースで記憶にあるのが独標付近で、残置ハーケンにつけられた30cmほどのザイルを握って、お尻を千丈沢につきだしながらトラバースした個所だ。これは稜線をそのまま詰めていたように思う。今は千丈沢側に巻いてるようだ。
そこを過ぎてからは、大槍の詰めまで、難しいことはなかった。
槍の山頂にぞろぞろとキスリングを背負ったグールプが現れて、みな一様に驚いていた。山頂でかなり休憩したのだろう。写真では缶詰を開けて食べている。
その後、上高地から涸沢に戻り、北穂高に登り、滝谷に入った顔知れない。翌年も再び涸沢での合宿だった。
そうです、この当時高瀬ダムも七倉のダムもありませんんでしたよ。確か。
もう46年も昔の話だから性格には語れないが、北鎌尾根を登ったことは確かだ。
再びビデオ撮影のために来年でかけるかも知れない。意欲はあるが、体力の問題だ。 「日記の記録
6日 すずらん高原から松本へ出る。Tと会う。松本の駅で夜明かし。
7日 4:10の電車で大町へ。本隊と合流。千天出会いまで行き、テント泊
8日 北鎌沢を登る。個人装備が多いのでそれが祟る。北鎌平でテント。
9日 槍の頭に立つ。リーダーの吉野さんの具合が悪く、一緒に槍沢をくだり、横尾でビバーグ。
10日 上高地から松本へ。Tと会う。
11日 後発隊と合流して再び涸沢へ。北穂南稜の鎖場で突然心臓発作を起こす。はじめてのこと。
12日 休養をかねて8期生をつれて奥穂高まで往復。
13日 雨の中、クラック尾根をナベとザイルを組んで登る。
14日 本隊下山。涸沢で停滞。神出クン、高橋さん、酒井さんと私で4人。
15日 徳沢園まで下る。
16日 上高地でバス4時間待ち。高橋が男と間違えられるトイレ入り口事件。
17日 燕に行く予定を立てたが、天気が悪く、Tの家に行く。
18日 天気晴れ。美しヶ原に行く。
19日 11:50の急行で帰京する。」
こういう時期もあったのだ。
14 表銀座・槍ケ岳 1966年09月01日~09月03日
9/1 大町=中房温泉-燕岳-燕山荘
9/2 燕山荘-槍ケ岳-肩の小屋
9/3 肩の小屋-上高地
[hagure1945] -- 「1966年8/31 松本16時着。Tの荷物を手伝い8時の電車で松川へ。Tの実家へ。いきづらい。
9/1 中房から燕山荘へ、山頂往復
9/2 燕山荘から槍ヶ岳山荘まで。16:30到着。二人だけで山頂に行きたかったが疲れたので残念。
9/3 槍の頭に早朝立つ。槍沢下降。
松本でフランセでおしゃべり。23:30の急行で帰京。」
日記に書かれている。このとき、列車に乗るまで松本駅の待合室で二人でいた。幼い二人でした。
15 1967年冬の遭難事故 千天出会いへ 1967年01月02日~01月05日
1/2 夜行で大町へ 1/3 大町=七倉 1/3 七倉 7:30ー湯俣 13:00 1/4 湯俣7:00ーC1 9:10 湯俣10:00・17:00葛着 1/5 葛ー第三発電所=大町=松本
[hagure1945] -- この記録は悲しい記録である。 FACクラブで一緒にも登った4期生の神出君が、冬の硫黄尾根で滑落、行方不明になった記録である。
1967年1月の新年早々の出来事だ。以下日記に記載された経緯を書く。
12月31日に 小学校の同級生の福岡君のお父さんの葬式
1月2日 (2日の朝、5:30ごろ、神出と大島が稜線で表層雪崩に会い、神出が流されて行方不明になる。)夜行列車で大町へ発つ。FACの冬山合宿へ顔をだしに行く。この3年冬の山には参加していない。
1月3日 6:00 七倉着 七倉山荘で大島と長森に会う。2日の早朝の神出の事故を知らされる。
7:30 大島を残して、長森と湯俣に登る。11:00 湯俣到着。長森をC1に行かせ、指示を待つ。湯俣泊
1月4日 C1に向けて出発7:00、長森と合流9:10 伝令を受けて大島とともに下山する。
葛温泉で、リーダーの吉野さんと合流。
1月5日 葛から第三発電所まで歩き、バスで大町へ。さらに松本で大島を病院に連れて行く。午後1時松本病院へ。
特急あずさで帰京、鎌田宅へ報告。
1月6日 木村会長の指示で茅野へ行き、鹿島さんを探すが会えず、松本へ行く。
1月7日 牛山さんの指示で松本で買い物、大町へ戻り、13:00 葛から湯俣へ行く。綱川と合流。
1月8日 湯俣から大町へ戻る。
1月9日 松本
1月10日 大島・源馬さん、神出クンのご両親も見える。この日の夜行で帰京。
1月11日 朝、鎌田宅へ荷物を置きに寄る。その日大学に出る。ゼミの先生に自分の問題を話す。「ݚ学問を捨てるな」と言われる。Tに電話する。
16 1967年06月15日~06月21日
遺体捜索の残雪の山
槍ヶ岳硫黄沢1967年
6/15 6/16 大町=七倉-湯俣 6/17 湯俣-硫黄沢-
6/18 湯俣
6/19 湯俣-硫黄沢-湯俣
6/20 湯俣-七倉=大町 夜荼毘に付す
6/21 大町-松本から帰京
[hagure1945] -- 17日 午後2時45分、二股左沢、二股地点より上部70mの地点で神出君を発見する。顔は半分雪に埋まっていたが、半分だけ表に出ていた。このときは3人で行動していたと思う。大沢さんと細谷だったと思う。最初に見つけたのは私だったと思う。二股から硫黄沢に入って、しばらく行くと雪の上に黒いものが見えた。・けるように近づくと、紛れもなく神出君だった。 伝令のために細谷が七倉に降りて本隊に連絡をしたと思う。
18日 本隊が夕方到着する。
19日 朝から、遺体のある場所へFACのメンバーがそろって作業をする。 雪渓の上で、神出くんの遺体を表に出して、寝袋に収納する。ザイルに結び、沢筋まで下ろす。私のピッケルを支柱にして下ろし始めたときに、ピッケルのシャフトが折れた。
みんなで協力して、雪渓の切れる所まで下ろしたあと、タンカを作って遺体を載せ、それを男たちが担いで山道を行くのだが、湯俣沢には伊藤新道という三俣小屋への道があるのだが、廃道になっていて、橋も壊れている。みんな沢の中を歩いていく。悲しいけれど必死だった。彼を早く連れてかいりたい。みんなそのような思いであったと思う。 その日は湯股で一泊して、翌日全員が荷物を撤収して大町へ戻る。
夜、大町のどこであろうか、思い出せないが、荼毘に付すように、高く木を組んで彼を焼いた。 みんなで山の歌を歌いながら涙した。 ご両親と妹さんが来ていて、一緒に泣いた。 なんでこんなにいいやつが先に行くのか、悲しくなった。
荼毘の炎が上がるくらい空に雲の合間に光る星を見ていた。
1967年6月21日 遺骨となった神出君は両親に抱かれて家に帰った。
2013年の6月、岐阜県にある神出君の墓に深田さんと酒井さんと3人でたずねた。50年近い月日が流れていた。
17 剣 岳 1967年08月10日~08月15日
8月10日 黒部=番場島~避難小屋
11日 避難小屋~劔岳~劔沢
12日 劔沢~長次郎谷~八峰5.6コル~劔岳~劔沢
13日 劔沢
14日 劔沢ー立山ー室堂
15日 室堂ー富山
[hagure1945] -- 北アルプス縦走のはじまり・剣岳 一九六七年夏の記憶
北アルプスの縦走の出発点を剣岳(2998巴 にしたのは、早月尾根から剣岳にその昔登った声」とによる。私が妻と企てた黒部五郎岳から笠ヶ岳までの縦走と、鹿島槍ヶ岳から唐松岳までの縦走とをつなぎ合わせ、北アルプスを大縦走するには、必然的に剣岳が初めの山となる。剣岳を北アルプス大縦走の最初に取り上げる。もし一つしか山を選ばなければならないとしたら、私は槍ヶ岳や穂高岳を差し置いてこの剣岳を選びたい。この山ほど豪快でかつ繊細、日本にはない山の印象をうける。室堂から見れば恐れられるほど厳粛な姿であり、仙人池・池の平の眺めは荘厳にして優美、剣沢の雪渓から見上ればハツ峰の岩滝谷の暗さとは比べ峻険でありながら明るい。毎年登れるものならこの剣岳を選びたいものである。十代に登った山として思い出の強い山である。
北アルプス北部の縦走は、一九六七年の夏、私が二十一一才のときに始まる。私は上野に拠点を置いていたエフアルパインクラブ(FAB に所属して五年目、夏合宿は剣岳になった。その前二年間は穂高岳掴沢での合宿であったが、剣岳の合宿に、全員喜んだ。FACは谷川岳南面を主たる活動の場としていて、成果をあげていた。アルプスに目をむけたのはその後のことであったから、会員にとっては初めての挑戦であった。
私はFAC時代の登山を記録したノートを引っ越しの際に失ってしまったので、細かいこ―とは分からないが、会員参加者十五人ほどで、横長のキスリングを背負い、興奮しながら上野から金沢行の急行「能登」に乗り込んだ。今から三十年も昔のことだ。私は少し風邪気味であったが、この機姿を逃すことはできないと参箏加した。
早朝富山駅に着き、富山地方電鉄に乗り換え上市へ、そこからバスで馬場島に。天気は雨であった。早月尾根を一列になって登り始める。雨の湿気と汗で、蒸し蒸しとして辛かった。 そこえ虻の襲来である。手で払いのけながら、首を振りながら、雨具のなかでグショグショになっていた。微熱もあり、良い体調ではなかったと記憶しているが、それでも夕刻早月小屋に着いた。早月尾根の唯一ひらたい場所がこの小屋のある処だった。
この当時、伝蔵小屋は休業していたと思う。我々は避難小屋に泊まることになった。雨は一日降り続いていたので、テントを張らないだけでも助かった。私の記憶するこの記〈薄すべき山行の思い出は、この初日の夜にあった。荷物を下ろし、泊まりの準備に取りかかる。食事の支度となって「水」。「水」がない。
避難小屋の脇に雨水を貯めてあるドラムカンを覗きこむと水がない。底の方に泥水が溜まっているのであった。
「 コッヘルを外に出して雨水を集めてくれ」
「その泥水なんとかならないか」
「手拭いもっていないか」
「どうするんですか」
「手拭いで泥をこすんだよ、沸騰させれば後は使えるから」
「大丈夫ですか、飲めますか.」
みんなの心配をよそに、ランプの灯りのなかで行動帷をする。
コッヘルの上に手拭いを被せて、そこに泥水を上からそおっと流す。手拭いの糸の目から水が落ちてくる。少しは澄んだ水が下に落ちるが、茶色の色が残る。何度も繰り返して水をつくる。
「カレーライスだから分からな臺いよ、気にしない気にしない」 などと言い合い鞍がら賑やかであった。私は疲れた体調の性もあって、面白く眺めているだけだ。
この水無し騒動の翌日は天気も回復し、早朝出発。行動中の水をどう確保したのかは記憶にないが、二千五百メートルの森林限界を越えたときは嬉しかったことを覚えている。早月尾根はともかく一直線に剣岳に突き上げていて、森林限界を越えるまでは、なかなか眺望がえられず、黙々と歩いたような気がする。
森林限界を越えたとたんに、天上が開いたようで、気分がホッとしたことが印象的であった。そこから先は本格的なアルペン的な領域になっていた。そして岩場を越えて、ひよこっと山頂にたどりついた。
直接頂上に出るというのは、槍ヶ岳の北鎌尾根がもっとも印象的で、いきなり天に向かって立つという感情をあたえる。この剣岳もその感はある。小さな祠にお参りして無事を祈る。 初めて剣岳の山頂に立った時、周囲は雲に覆われていて、四方を征してというような光景ではなかったと思う。まじかに見た八シ峰は、そのギザギザに尖った岩の連なりが迫力一をもって迫ついた。剣沢にベースキャンプをおいて、八シ峰の各ルートを登った。数日後、私も長次郎のコルからハツ峰に取り付いた。
抱き廻り巖を越えて友を待つ岳蝶のとぶ深鐵の上 岩城正春
長次郎雪渓をつめて、五・六のコルに取り付いて八シ峰を縦走して剣の山頂に立った。紺碧の空の下、気分は最一滝クレオパトラニードルの特徴ある岩やチンネは印象にある。 そして翌年も剣岳の合宿で、剣岳の頂に立ったはずなのだが、いま明確な記憶がない。その二度目の合宿は、体調を壊してテント番をしていたと思う。快晴の剣沢で岩の上で日光浴をしていた。お汁粉を食べたと思う。前年の合宿の時に食べられなかったのを、テント番の時にこっそり実現させたのだ。どんなコースを攻めたかなどというよりも、そんな記憶しか残っていないのだから、お恥ずかしい。この紀行文を書き初めて、若い日々に踏んだ剣岳からの眺望が、少しづつ鑿えってきた。八ツ峰を登禁したときのあの澄みきった青空は美しかった。そして岩が穂高の滝谷の暗い雰囲気と異なって、明るくヨーロッパアルプスの岩場のような感じがした。三の窓、池の平山、八シ峰からの眺めである。池ノ谷の深い切れ込みを上から覗いた。剣岳の頂には、その後三十年間以上、立っていないのだ。九十年の夏に妻と一緒に黒百合のコルまで行ったが、前日の低気圧の通過の影響が残っていて、山頂を渡る雲が飛ぶように早いので、登頂を断念した思い出がある。
湧きあがる雲迅くしてたちまちに視界にあらず大き剣岳 岩城正春
剣嶽八シ峰岩峰にたまきはる胸躍すれわが老いにける 柳瀬留治
18 蓬峠 1970年06月06日~06月07日
土合駅5:00~蓬峠9:50・11:00 土合駅15:30
[hagure1945] -- 妻となる人と初めて一緒に山に行った記念日なのだ。 細かいことは忘れている。時間はいい加減。実際は不明。
唯一6月6日の上野発22時42分の列車に乗ったという問うことだけです。記録には、残雪の上で写真を撮ったという記載があるだけだ。その写真は見当たらない。
だが間違いなく歩いたのだ。若い時なので、飛ぶように歩いていたのではないかと思う。私には記憶がある。