第3章 大キレットと穂高岳1991年08月03日(土) ~ 1991年08月06日(火)
大キレット穂高岳縦走1991年8月3ー6日
メンバー hagure1945, その他メンバー1人(妻)
全行程
天候 8/3曇り時々雨 8/4晴れ 8/5曇りのち雨 8/6雨のち晴れ
8月3日 曇り・時々雨 上高地から槍沢のテント場
上高地8:30徳沢明神9:15-9:30徳沢10:30-11:00横尾11:45-13:00一ノ俣14:00槍沢ロッジ15:00槍沢小屋跡15:30
8月4日
槍沢小屋跡5:15 槍ヶ岳山荘10:55-12:10 大喰山12:45-13:00 中岳13:50-14:05 南岳15:35-40 南岳山荘15:50南岳山荘15:50
8月5日晴れ
南岳山荘5:30 キレット7:15-30 北穂高山荘 9:15-10:00 涸沢岳12:55-13:00奥穂高山荘13:15
8月6日
奥穂高山荘5:30 奥穂高岳6:15-25 紀代子平8:10-15 前穂高岳8:45-50 紀代子平9:15-30 岳沢ヒュッテ11:25-12:15 河童橋13:45-14:00 上高地14:15
はじめに
一九九○年に槍ヶ岳から奥穂高にかけて縦走を企でたが天気が崩れて大キレットを越すことができず、槍ヶ岳でだけで終わってしまった。その経緯は槍ヶ岳の章で書いた通りだ。大変な思いをしたがそのままにしてはおけないので、再び大キレットと穂高三山縦走を企てた。昨年の槍ヶ岳登山では雪渓の登りでアイゼンがなくて怖い思いを裕子にさせてしまった。槍ヶ岳の後、剣岳に行った下りに一○本爪のアイゼンを購入した。その+|月に八ヶ岳に行って横岳の山頂付近で使用した。今回も槍沢の雪渓に備えてアイゼンを用意した。今回は槍沢の登りを少しでも稼いでおこうと思い、槍沢小屋跡でテントを張ることにした。
そのために二人用の小さなテントを買った。
三時ころ家を出て早朝沢渡の駐車場に車を止める。そこからバスで上高地に入る。午前八時過ぎ上高地に到着し、いよいよ穂高へのリベンジが始まる。
8月3日曇り・時々雨 上高地から槍沢のテント場
上高地8:30徳沢明神9:15-9:30徳沢10:30-11:00横尾11:45-13:00一ノ俣14:00槍沢ロッジ15:00槍沢小屋跡15:30
(スパゲッティで燃料を使い過ぎ)
上高地のバスターミナルは登山者であふれている。身支度をすばやくして速やかに歩き出す。人込にいるよりはいい。天気はよくない。泣きそうな空模様であるが気温はあるので、Tシャツ一枚だ。今日は槍沢小屋跡までなので気分的には楽である。裕子をつれて一日で槍ヶ岳までは登れない。明神池で穂高神社にお参りして安全のお守りを買う。このお守りは裕子のザックに最後まで付けられて登山の安全を守ってくれた。
徳沢でも十分な休憩をとり、横尾で昼食。今回はス.ハゲティをメ一三ウに考えてきた。ところがこれが思わぬ失敗となった。つまり乾燥麺を苑でるのに燃料を使い過ぎてしまったのだ。このため後に燃料を節約しなければならず、自炊の時に気を操むはめになったのだ。幸い横尾では天気ももって雨も降らなかったので、おいしい昼食をとることができた。ミートソーススパゲティである。この教訓により山には乾燥麺のスパゲティは不向きであることにした。スパゲッティを苑でるので時間もかかってしまった。二重に不向きである。
文句を言いながら午後一時横尾を出る。裕子が元気なのがなにより嬉しい。|ノ俣の橋を渡り、昨年泊まった槍沢ロッジにつくころには小雨模様になった。槍沢の流れの音を聞き、樹林帯の中の細い山道に「槍沢ロッジまで10 分」という小さな道標を足元に見つけたときは、もう少しだと思えた。
ロッジの前を今回は素通りする。
(初めてのテント)
去年ここに泊まったのよね。ネパールの人がいたわよね」と裕子。思い出したように小屋の入り口を覗き込む。
|年前の今頃、朝早く外のベンチに座って朝食をとったのだ。
そこから30分はかかっただろうか、本格的な登山道を登って小屋の土台だけが残っている小屋跡のテント場に横着。すでに3張りのテントがあった。雨は強くはないが降っているので、すばやくテントを組み立てる。二人用の小さなテントである。5分もして設置終了。裕子は初めてのテント山行である。
外張りを張り雨に備
える。マットを敷き、シュラフを出してまずは寝場所をつくる。次に食事の支度である。天気が悪いので外ではできないのでテントの中で料理をする。テントは今回ここだけで、後は小屋に素泊まりの予定にしてある。夕食は何であったか思い出せない。夕刻、食事が終わるころ雨があがり稜線が見えた。明日は何とかなるだろう。
「テントも悪くないわね。なにかぐっすり寝られそう。」と裕子。
ランタンの灯りでテントの中に二人の影ができる。後は寝るしかない。テントが困るのは話し相手がいないと時間をもてあますということだ。
実は今回の山行で大失敗したのは、裕子が沢渡の駐車場に車を泊めた時にカメラを車内に置き忘れてきてしまったことなのだ。だから槍ヶ岳までの写真がないのだ。やむなく槍ヶ岳の小屋でインスタントカメラを買うことになったのだ。それから歩行計を携えてきた。初日上高地から槍沢小屋跡までは23821歩で640カロリーを消費したと記録がでた。
8月4日晴れ 槍沢小屋跡から南岳山荘
槍沢小屋跡5:15殺生小屋10:55-12:10槍ヶ岳山荘12:45-13:00大喰岳13:50-14:05中岳15:35-15:40南岳山荘15:50
朝3時に起きる。夏とはいえ寒い。裕子はまだ眠むたそうであったが、身支度をさせる。朝の食事の支度をし、食事が終わるころには外は明るくなっていた。テントは雨露で濡れてる。砂や小さな石や士を払い落とし撤収する。
五時を過ぎてテント場を出発する。今朝は晴れている。期待できそうだ。
まもなくして雪渓にであう。昨年この雪渓に出あうところに一組の熟年夫婦と会った。今年は誰にもえあうことがない。時間が早いせいもある。さすが8月になると残雪も解けて夏道が長く続いていて、昨年よりは楽であった。それでも雪渓の上を歩くところでは、踏み込むまえにアイゼンを装着する。裕子は昨年剣沢の雪渓を下っているからアイゼンのよさはわかっている。丁寧に装着させ歩く。お花畑の小さな小川で手を漱ぎ花と写真を撮ったりして休憩する。気分はとても楽である。休みながらゆっくり登って槍の穂が見えるところまでくる。槍ヶ岳の尖りが青空に見える。
(ヘリコプターの事故目撃)
殺生小屋まであまり苦労せずに登ってきた。
昨年のようなエピソードはない。裕子も余裕の笑顔を見せてる。11時前だが昼食をとる事にする。インまスタントラーメンであるが、湯を沸かし持参の野菜を少し入れてつくる。うまい。お茶を飲み、一時間以上過ごした。殺生小屋からの九十九折れの最後の詰めの道を登りきると肩の小屋である。午後一時前に到着。休憩しているとヘリコプターの飛んでくる音がした。槍沢に沿って飛んで来たようだ。
「裕子、ヘリだよ。殺生小屋への荷物の運搬だな。見てごらん。」と小屋の広場から眺めていると、突然ヘリが変な動きをして、まつすぐに空中に止まってないで、斜めになったかと思ったら、そのまま落下してしまったのだ。
「ボ1ン」というような、「ガッチャーと というような大きな音がしてヘリが目の前で落ちてしまったのだ。周りにいた人たちも呆気にとられたようすで、みな声もなかった。しばらくして「ヘリが落ちた」という声がした。
乗っていた人はどうなったのか、その後どうなったのかよくわからない。変なもので事故を遠巻きにして眺めていた人達が、その後大騒ぎもせずに自分たちのところにもどっていったのだ。まるで何もなかったかのように。かく言う私も「驚いたね」と裕子に言っただけで食事の支度にとりかかっていたのだ。
どうもヘリは着陸しようとして失敗したようだ。
最近は山小屋のボッカはヘリコプターの担うところになっている。こんな事故も少なくないのかもしれない。
(雷鳥に会う)
槍ヶ岳の山頂は昨年登っているので、今回は割愛。「登るかい」と裕子に聞くと、「登っているからいと と言う。
天気もよく常念岳を盟主とした前衛の山並みが美しい。穂高への稜線も雲を呼んではいるが見える。この天気のいいうちに南岳の小屋まで急ごう。今回は予定通りである。肩の小屋でインスタンtカメラを買い求める。あったか らよかったけれど、あやうく写真なしの山登りになるところであった。休憩も早めに切り上げて出発する。
大喰山への稜線歩きは槍沢の登りに比べたら散歩みたいなものだ。ただ雲が多くなって岐阜側にはすっかり雲がついてしまった。長野側だけが明るい。大喰山の山頂はだだっ広い。3000メートルの山の一つである。標識のあるとこで休憩。長閑に歩いているうちにこの山は通過してしまう。中岳の手前で休憩。槍の穂が稜線の上に尖っている。
(水1リットル200円)
中岳も少し急な上りもあったが苦労せずに越える。これも3100メートルの山。天狗池への指導標をいると南岳の小屋は近い。目の前に三角の南岳が見る。小屋の赤い屋根も手の届くところにある。残念なこと穂高は雲の中で、北穂の壁もキレットも見えない。それでも午後4時前、石垣に囲まれた真新しい木の香りのしそう
な小屋に着いた。
入り口に「水1リットル二百円」と張り紙があった。雨水しかないのでやむをえないとは思うが、自炊する者には辛い値段だ。
テントとは違い、小屋は混んでいなければゆっくりできる。ここまで足を伸ばしておいて正解であった。
今日の歩行記録は13762歩で、351キロカロリーの消費ということで、昨日の方が消耗が多い。歩数も一万歩も少ないのだから当然かもしれない。
(夕方キレットが見える)
夕方日の沈むころに雲が動いて奥穂高への山稜が見えた。キレットの一部も見え隠れする。しばらくするとキレッ卜全体が見えてきた。
(学芸大の若者と)
このコースはFACに入っていたころ、夏の合宿で歩く予定であったのが、その時のリーダーの具合が悪くなったので、上高地まで付き添いで下山したために歩いていないのだ。20歳前だと思う。あれから30年近く思い続けてきた山稜である。いよいよ明日歩くぞと思うと胸がわくわくしてくる。
自炊場の部屋で若い男の子たちと一緒になる。山で若い人と出会うと嬉しくなって声をかけてしまう。4人.パーティで学芸大学の学生だという。陽に焼けた顔をしている。
「明日は穂高に行くんでしょ」
「はい」
「君たちの後ろからついて行けば安心かな」
「わかりませんよ」
「天気がいいといいんだけれどね」
「そうですね。でも多分大丈夫そうですよ」
「よ-―し、じゃ、頑張るか。一緒になったら助けてね」
などとお喋りをして、裕子とコーヒーを飲んだ。裕子はこのコースがどんなものなのか知る由もないが、日本では一般コースとしては一番大変なコースであることだけは話してある。一緒に来てくれただけで私としてはとても嬉しいのだ。しかしこのコースについてはガイドブックを何度読み返したことか。それでも行ってみなければ判らないと思った。
自炊場で若者たちと別れ、部屋にもどる。裕子はどこででもすぐ眠れる特技をもっているから、寝床の布団にくるまるとすぐに寝息をたててしまう。昨年に比べれば、だいぶ山にも慣れてきたかもしれない。この山行で十回目になる。私はすぐには寝付けないので談話室でタバコを吸いにいった。
明日の朝晴れてくれればいいなと思いながら、それでも早めに就寝する。
8月5日 霧・曇り後雨 南岳山荘から奥穂高山荘
記憶を辿りながら大雑把な記述をする。南岳山荘は見た目より雰囲気は良かったような気がする。4時ごろには目を覚まして、出かける準備をする。朝何を食べたか忘れた。
昨日の夕方であった学芸大の若者4人の後を追うように一緒に出発する。天気は小雨模様で風はない。これは行けると思って歩き出した。南岳山荘からのくだりは立派なくだり道で、ガイドブックに脅かされるような道ではなく、余裕を持って歩いた。裕子も怖がることもなく着いてくる。
天気が悪いので視界がないから高度感がまったくなく、確か飛騨鳴きまでひょういひょいと下った幹事である。飛騨鳴きで写真を撮った。雨が降らずに助かった。最低鞍部から北穂高へののぼりは岩稜をしがみつくように登る。この登りはかなりいやらしいように記憶している。それでもゆっくり登る。多くの登山者がいるので、先は急げない。下ってくる人もいるから、自然時間がかかる。北穂へ取り付くあたりで沢谷さんに出会う。大阪から来た単独の年配女性。この時が最初の出会いだったと思うが、その後何度か出会うことになる。
やはり若者の足にはついていけない。北穂高の山荘に着くと、我々はゆっくり休憩した。ここまで雨が降らないのでほんとに助かるが、視界は聞かないのだ。だからそれほどの怖さも感じないで登りつく。
3時間半ほどで大キレットを通過したことになる。
10時に山荘を出て奥穂高山荘へ向う。正直このコースについて言えば、1966年ごろ、私が所属した山岳会で穂高の夏合宿があってこのあたりを歩いている。滝谷にも入った。何事もなく歩いていたようなので強い印象が残っていない。北峰から南峰に移動するときに滝谷の黒い岩壁が不気味に見えたかな。この稜線で記憶にあるのはクラックの登りだ。凹んだ岩の中を登る。裕子も苦労はシテイルガ岩場を怖がるそぶりもないのであんしんした。稜線を3時間近くかかって涸沢岳に着く。確か涸沢岳への登りが一番気をはったところのように思える。
ガイドブックにも涸沢岳の鎖場のことが事細かに書かれている。この時はなにか楽しみながら登っていたように思える。
涸沢岳の山頂で少し休んでから穂高山荘のある白出のコルに向う。昼過ぎに山荘に到着。ずっと天気が悪いので展望がないままなのだ。雲の中を歩いているようで高度感はまったくなかった。
夜に激しい雨が降った。行動を変更するか考えた。小屋の中で沢谷さんとおしゃべり。六〇代の男性4人組とも出会う。一人は絵葉書を描いていたように思う。カラーのサインペンで器用に絵を書いていた。
8月6日 奥穂高岳から前穂高・岳沢
雨は朝方から小降りで、風も強くない。自炊場で朝の支度をしながら、前穂に縦走することにした。
5時30分にガスって視界のきかない外に出た。それでも外は明るい。奥穂への取り付きは最初の梯子2段である。雨具を着たままではあるが、器用に梯子を裕子は上ってくる。鎖場もあるけれど難しくはない。ペンキマークを拾いながら岩稜を歩けば、祠が祭られている奥穂高山頂に到着。
北岳の向うを張って石積みで3mほど嵩を乗せて祠は祭られているけれど、正式な高さには公認されていない。二人の写真を近くにいた人に撮ってもらう。槍のときもそうだけど、穂高も展望に恵まれず残念だ。
ここからは吊り尾根と言われる前穂高への道を歩む。周りが見えないからのんきなものだ。それでも1時間45分くらいかかって紀代子平に着く。紀代子平には道標があって、前穂高にはそこから登り返す。この登りがきつかった。30分の登り。ガスは晴れることもなく、ただ山頂を踏んだというだけであった。展望はなかった。
紀代子平に戻り、少し休息。天気は回復してきた。虹が出た。これからは天気も晴れるだろうと思いながら、雨具を途中で脱ぎ、気持ちも軽くなって岳沢に下る。二時間近く下るので少しうんざりするが、雨が上がってくれただけでもいい。
岳沢は樹林に囲まれた中にあって、一時間ほど休憩して過ごした。山荘で絵葉書を書いていた人たちと分かれた。そこからさらに河童橋まで一時間三〇分歩いて、にぎわう河童橋に着く。もうすっかり晴れて夏の日差しになる。梓川の辺で一緒に降りてきた沢谷さんや男性と写真を撮った。
大キレットを通過して奥穂高の山頂も踏んで、本来ならすばらしいコースを歩いているにもかかわらず、天気のせいですっきりとは喜べない山となった。上高地には14時15分について、車で坂巻温泉により、汗を流してから家に帰った。
裕子が吊り尾根の鎖場や紀代子平からの下りの鎖場など結構楽しんで下ってくれたのが驚きだった。鎖場は怖くないかと聞くと、怖くないという。岩場でビビらないからいい。今回は大キレットから北穂高へ、さらに奥穂高、前穂と3000mの岩の稜線を歩いたが、大したトラブルもなくとてもよかった。
(写真・大キレツトで学芸大の学生たちと)) (写真・億穂高岳山頂)