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**記事のタイトルSUFFIXについて**

AやBのアルファベットは訪問日が異なる場合につけておりAがBより古い訪問日となっております。 1や2の数字はシリーズの記事になっておりますのでご覧になる時の参考になさって下さい。 何度も訪問した所はシリーズとしてカテゴリーに 纏め閲覧をし易くしました。

東京第二陸軍造兵廠 岩鼻火薬製造所B

2022-10-16 17:15:30 | 東京第二陸軍造兵廠ser.
東京第二陸軍造兵廠シリーズ
 岩鼻火薬製造所B      ここ 2022年UL
 深谷製造所櫛挽工場B    ここ 2022年UL     
 板橋火薬製造所その他の遺構 ここ 2020年UL
 弾道検査管B        ここ 2020年UL
 電気軌道C板橋火薬製造所  ここ 2020年UL
 板橋製造所モニュメントB  ここ 2015年UL
 板橋火薬製造所招魂之碑   ここ 2015年UL
 深谷製造所給水塔      ここ 2015年UL
 板橋製造所モニュメントA  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫2  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫1  ここ 2015年UL
 忠海製造所長浦毒ガス貯蔵庫 ここ 2015年UL
 忠海製造所トイレ      ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所2     ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所1     ここ 2015年UL
 忠海製造所1        ここ 2015年UL
 岩鼻火薬製造所A      ここ 2015年UL
 電気軌道B板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 電気軌道A板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 深谷製造所櫛挽工場A    ここ 2014年UL
 弾道検査管A        ここ 2014年UL

コンクリート製のトンネルのようなものは「昭和10年完成の射場跡」です。
かつて群馬の森一帯は、明治15年から昭和20年まで操業した陸軍の
火薬製造所でした。黒色火薬や無煙火薬が製造され、この射場は小火器専用として
使用されたものです。



















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東京第二陸軍造兵廠 深谷製造所櫛挽工場B

2022-01-27 12:01:53 | 東京第二陸軍造兵廠ser.
東京第二陸軍造兵廠シリーズ
 深谷製造所櫛挽工場B    ここ 2022年UL     
 板橋火薬製造所その他の遺構 ここ 2020年UL
 弾道検査管B        ここ 2020年UL
 電気軌道C板橋火薬製造所  ここ 2020年UL
 板橋製造所モニュメントB  ここ 2015年UL
 板橋火薬製造所招魂之碑   ここ 2015年UL
 深谷製造所給水塔      ここ 2015年UL
 板橋製造所モニュメントA  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫2  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫1  ここ 2015年UL
 忠海製造所長浦毒ガス貯蔵庫 ここ 2015年UL
 忠海製造所トイレ      ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所2     ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所1     ここ 2015年UL
 忠海製造所1        ここ 2015年UL
 岩鼻火薬製造所A      ここ 2015年UL
 電気軌道B板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 電気軌道A板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 深谷製造所櫛挽工場A    ここ 2014年UL
 弾道検査管A        ここ 2014年UL

第二次大戦中に櫛挽ヶ原500ヘクタールに及ぶ藤澤、本郷、岡部、榛澤、用土の五ヶ村に跨がる
全地域の林間に、東京第二陸軍造兵廠櫛挽製造所として大小350棟に及ぶ建造物が構築され
1944年10月に開所し10ヶ月後に終戦を迎えた。













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東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所その他の遺構

2020-02-27 06:26:54 | 東京第二陸軍造兵廠ser.
東京第二陸軍造兵廠シリーズ
 深谷製造所櫛挽工場B    ここ 2022年UL     
 板橋火薬製造所その他の遺構 ここ 2020年UL
 弾道検査管B        ここ 2020年UL
 電気軌道C板橋火薬製造所  ここ 2020年UL
 板橋製造所モニュメントB  ここ 2015年UL
 板橋火薬製造所招魂之碑   ここ 2015年UL
 深谷製造所給水塔      ここ 2015年UL
 板橋製造所モニュメントA  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫2  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫1  ここ 2015年UL
 忠海製造所長浦毒ガス貯蔵庫 ここ 2015年UL
 忠海製造所トイレ      ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所2     ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所1     ここ 2015年UL
 忠海製造所1        ここ 2015年UL
 岩鼻火薬製造所A      ここ 2015年UL
 電気軌道B板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 電気軌道A板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 深谷製造所櫛挽工場A    ここ 2014年UL
 弾道検査管A        ここ 2014年UL

陸軍兵器廠の板橋の火薬工場が東京第二陸軍造兵廠へ改称。

当地は、明治4年に兵部省が板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を
火薬製造の用地に求め、同9年に発足した官営工場としては日本最古の部類に属する
板橋火薬製造所内にあたる。同36年には同所に陸軍火薬研究所も設置された。

終戦後、跡地には学校や工場、研究所等が入所した。
当地には、板橋火薬製造所時代の煉瓦造建築物の物理試験室やRC造建築物の燃焼実験室
弾薬の性能を実射し検査した弾道管、露天式発射場を形成した土塁や的となった
射垜(しゃだ)などの建築物や遺構が現存しています。









 
 防爆壁?



 燃焼実験室(奥2階建)試験室(手前平屋)

 


東京第二陸軍造兵廠 弾道検査管B

2020-02-10 05:55:41 | 東京第二陸軍造兵廠ser.
東京第二陸軍造兵廠シリーズ
 深谷製造所櫛挽工場B    ここ 2022年UL     
 板橋火薬製造所その他の遺構 ここ 2020年UL
 弾道検査管B        ここ 2020年UL
 電気軌道C板橋火薬製造所  ここ 2020年UL
 板橋製造所モニュメントB  ここ 2015年UL
 板橋火薬製造所招魂之碑   ここ 2015年UL
 深谷製造所給水塔      ここ 2015年UL
 板橋製造所モニュメントA  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫2  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫1  ここ 2015年UL
 忠海製造所長浦毒ガス貯蔵庫 ここ 2015年UL
 忠海製造所トイレ      ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所2     ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所1     ここ 2015年UL
 忠海製造所1        ここ 2015年UL
 岩鼻火薬製造所A      ここ 2015年UL
 電気軌道B板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 電気軌道A板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 深谷製造所櫛挽工場A    ここ 2014年UL
 弾道検査管A        ここ 2014年UL

板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠)内におかれた火薬研究所があり
弾薬の性能実験などが行われていました。
長さ十数メートル、内径686mmのコンクリート製で、これは技術者の間ではトンネル
射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定
観測する装置であり、戦前の同廠構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向かって撃
ち込まれていた事が分かります。







 弾道検査管(爆速測定管)の標的

東京第二陸軍造兵廠 電気軌道C(板橋火薬製造所

2020-01-29 14:19:30 | 東京第二陸軍造兵廠ser.
東京第二陸軍造兵廠シリーズ
 深谷製造所櫛挽工場B    ここ 2022年UL     
 板橋火薬製造所その他の遺構 ここ 2020年UL
 弾道検査管B        ここ 2020年UL
 電気軌道C板橋火薬製造所  ここ 2020年UL
 板橋製造所モニュメントB  ここ 2015年UL
 板橋火薬製造所招魂之碑   ここ 2015年UL
 深谷製造所給水塔      ここ 2015年UL
 板橋製造所モニュメントA  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫2  ここ 2015年UL
 忠海製造所毒ガス貯蔵庫1  ここ 2015年UL
 忠海製造所長浦毒ガス貯蔵庫 ここ 2015年UL
 忠海製造所トイレ      ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所2     ここ 2015年UL
 忠海製造所発電所1     ここ 2015年UL
 忠海製造所1        ここ 2015年UL
 岩鼻火薬製造所A      ここ 2015年UL
 電気軌道B板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 電気軌道A板橋火薬製造所  ここ 2014年UL
 深谷製造所櫛挽工場A    ここ 2014年UL
 弾道検査管A        ここ 2014年UL

陸軍兵器廠の板橋の火薬工場が東京第二陸軍造兵廠へ改称。



 写真に見える、道路のように見えているのが板橋火薬製造所を通る電気軌道跡です。
 軌道は北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の
 物資や人の運搬に大きな役割をはたしていました。

 明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園、野口研究所付近)や本部
 (現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付)を結ぶために軌道が延伸
 していきます。以降も軌道網の整備は進められ大正12年の構内図によれば、ほとん
 どの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった
 兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。