無事に手術成功。約五時間の手術だった。icuにて夕方の面接が可能。話も出来た。早ければ明朝より経口摂取での食事が可能との事。ご祈念頂いた方々に感謝の意を表する。
ドナーについては自死を選んだ人でありリンパ球,体格,血液型等が華と合致していた。
移植は運とフットワークと経済力で決まる。臓器をチャーター機で運搬し、経験の有る医師を呼ぶ。臓器運搬のみで一千万を要する。
介助を常に出来るかどうか、遠方であっても手術を受ける病院迄連れて行けるかどうか。一般的な仕事はしていられない。
特に海外での心臓移植については賛否両論有るが、金で解決出来るなら数億積んでも良いと考えていた。結局は他人の命の順番を札束で払い落とす行為だが、それの何が悪い。買えるから買うだけだ。
当の華が望まないので実行しなかっただけである。
手術中の彼女は身体と意識を切り離し、常に近くに居た。こちらが幽体となり手術室に入ろうかと考えていたが、その必要は無かった。身体から自由となった彼女は飛び回り、踊り回っていた。
室内は粉末化した光に満ち、纏わり付く湯の様な温みが有った。これが彼女の通常の波動である。
脳死は人の死ではないという意見について書いておきたい。
脳の死は即ち人の死だ。植物状態はこれとは異なる。脳幹が働いているかいないかの違いだ。
脳死した人物の臓器を取り出すとシルバーコードで魂と繋がっている為、魂に痛みを感じる等の説が有るが迷信である。
シルバーコードなるものは存在するが、痛覚は伝えない。その人物に生きる意思が無い限り、シルバーコードが繋がっていたとしても蘇生する事は無い。徐々にコードは外れて行く。
脳死後の臓器摘出を殺人と呼ぶ意見もあるが、極論だ。脳死は心臓が動いていようと、数日後に確実に止まる。その臓器で救える命が有る。臓器提供に反論している間に、救える命の可能性を潰す事に他ならない。
提供するか否かは人の価値観による。底の浅いスピリチュアリズムで臓器移植を悪にする考え方こそ悪である。
次いでに記すが、エホバの証人とモルモン教はキリスト教ではない。キリスト教の基本的教理を否定している。
カトリックに於ける臓器提供は至高の人間愛の行為であるとされる。
今回、我々の信教や華が霊的職能者である事に関して揚げ足を取り、臓器移植を受ける事に対して「狡い」「モラルが無い」等とオンラインショップの問合せを利用した感想が来たのである。
「狡い」については単なる嫉妬である。何と心地良い嫉妬であろうか。そう言われる程度には事実、自分は狡猾であるし必要な貨幣は稼ぎ出す事が可能である。
貨幣はこの世で何かを成す際の交換の媒介物であるに過ぎないと、常々意識しておくと人並み以上の経済力が身に付くものだと伝えておきたい。
彼女の健康が買えたのだから、それで良いではないか。
尤も、自分より高潔である妻は退院後、ドナーの果たせなかった夢を代わりに果たすそうである。