☆☆☆
生まれてこの方、付き合ったことのないほどの心臓の独走も忘れて、二葉は苗雅からの手紙を、左へ左へと追っていた。
もう一つ、お話をさせてください。
それは、わたくしとの出会いの二日前の夜の出来事です。
これも、あなた以外の人は知り得ないはずのものです。
これまで誰にも言えずにいたことだからです。
なぜ言えなかったのか。
それがいわゆる超自然現象であって、絶対的な確信はあれども、誰にも信じてもらえないと思っていたからです。
だから、これまでずっと封印してきたことを、わたくしは知っています。
初めて会った時にも、大学でご一緒するようになってからも、何度か切り出そうとしていたことも知っています。
それでも、決してあなたは口にしなかった。
そしてそれは、あなたの仮説である、声の魅力と密接に関係している出来事でした。
その出来事の前に、あなたにだけ聞こえる、平安歌人たちの声の話にも触れておきます。
中学校に上がってから和歌に親しむようになったあなたは、たくさんの古歌を詠むようになりました。
ほどなくして、平安末期の歌人たちの声が聞こえることに気づきました。
どういうわけか、その時代の、その時期の人たちに限ってのことでした。
そのことに気づいてから、古から伝わる和歌と歌人が、ただただ秀歌という理由だけで残ってきたのではない、声というものも鉤になっていると思うようになりました。
西行に至っては、聞く人たちを魅了してしまうほどの天恵のような声だったことが、
これほどまでに、大歌人として受け継がれてきた最大の要因だと仮定するようになりました。
けれども、もちろんそれを現代で立証することは不可能です。
どうやっても、あなたの耳の中にだけ響くその声を、他者に聞かせる術はないからです。
さらにその声が、果たして西行のものだと決定づける証拠もないからです。
なのであなたは、誰にもそれを話さずにきました。
そしてあの月夜に、不思議な体験をします。
そうです。
そこであなたは、時代を超えた歌人、西行と思しき人物に出会うのです。
厳密に言えば、その後ろ姿を目にしたのです。
その時に彼の詠った一首で、京都へ法金剛院を訪ねることも、大学での研究対象も決めました。
あなたがもっとも大切にしている歌です。
待賢門院に捧げたものと確信してやまない歌です。
それでも、あの時あなたは、その後ろ姿が西行でないことに気づいていました。
声の違和感に、すぐに気がついたからです。
あなたの耳に響く西行の声と、桜の下から聞こえた声は違っていたのです。
聞き覚えのある声ではあったのですが、違和感を覚えました。
この声は、西行のものではないと。
しかしそのことで、確信に変わったことが一つありました。
西行の魅力の源が、声だということです。
それは逆説的な証明でした。
それまであなたの耳に響いていた、天恵の声で詠まれる歌によって、声こそが西行の魅力の源だと仮定していたところに、別の声が詠じたのです。
西行のものではない他の声が、彼の歌を詠んだのです。
無論、その歌は完結しませんでした。
西行が、彼の声で詠んでこそ、その歌は完結するのです。
昇華するのです。
だから西行本人ではない誰かが詠んだことで、期せずして西行の魅力の源を確信できたのです。
天恵の声が、何よりの西行の源なのだと。
そして二日後、その後ろ姿と声を持った男性に出会います。
唯一あなたの耳に響かない一首を詠った、幻のような人物と出会います。
そうです、それが住友苗雅、わたくしだったのです。
あの日あなたは、初めての一人旅の最初の訪問地として、嵯峨野の竹林に向かいました。
月下の後ろ姿に出会えることを期待して竹林を往来しましたが、とうとう見つけることはできませんでした。
しかし、そのあと昼食のために立ち寄った喫茶店で、わたくしと遭遇するのです。
その時のあなたの表情を今でも忘れません。
二日前の衣紋姿と声がぴったりと重なったことによる驚きの表情です。
さらに、合席をしてからの心象風景の一致の条(くだり)は拍車をかけました。
それから話は、西行の条へと移っていきます。
わたくしが、大学での研究対象を質問されたことからその話題となりました。
あなたはそこで、再びのシンクロニシティを感じます。
西行の歌に導かれて法金剛院を訪ね来たところへ、同じように西行のフィールドワークにやって来たという人物が、幻の人物だったことへのシンクロです。
その流れのまま、あなたは西行の持説をお話くださいました。
西行の西行たる所以が、秀歌というだけでなく、それを詠んだ声だということ。
出家説の一つとして、恋愛説の立場を取っていること。
そのお相手の君は、待賢門院ではないかということ。
それには根拠はないが、絶対的な自信があるということ。
今度は、わたくしの仮説を披露することになりました。
そこで、西行の声を一度だけ聞いたことがあるとお話しました。
その時からあなたは、確定的に住友苗雅という存在が、特別な縁にあるものだと思うようになりました。
自分と同じ体験をしたことがある人物に、二日前の幻想からの再来者に、言を待たずに運命めいたものを感じました。
そして、大学での再会です。
もうここまで来ると、偶然の重なりだとは思えなくなっていました。
それまでの必然のような事実と、学内でまことしやかに囁かれる噂話に煽られるようにして、急速に住友苗雅に惹かれていきました。
と同時に、苗雅という存在について考え始めるようになります。
ほぼ毎日お会いするようになり、いろいろなお話をするようになりました。
その時間が増えれば増えるほど、その気持ちの正体が分からなくなっていきました。
なぜなら、同じ時間の流れの中で、九百年も前に生きた西行という人物にも、益々惹かれていっていたからです。
月夜の出来事があってから、それまでは気づいていなかった西行への想いが、一気に加速を始めていたのです。
しかしそのことであなたは、自分という人間が、少々奇天烈な人間だと思うようになっていきました。
似ても似つかない肖像画でしか見ることのできない古の歌人に、この上ない好意を抱くという不可解な感情を処理できずにいました。
折しも、夏合宿の酒宴で想定外の一矢が放たれます。
正面から矢を受けたあなたは、夜の四条通りで沈思黙考しました。
それから暗示をかけるかのごとく、すぐ横にいる住友苗雅という生身の人間との運命めいたものを尊重することが、正当な行為なのではないかと考えるようになります。
それこそが一般的な考えなのだと、自分をコントロールしようとしました。
すでに住友苗雅へ抱く気持ちが、紛れもない好意であることは自覚していました。
そう考えれば、恋愛相手になることは、何も不自然なことではないことも理解できました。
そして何より、共に過ごす時間が幸福な時間に感じられることは、動かしようのない事実でした。
それは見事にあっという間に過ぎていくほどの時間でした。
これこそが、いわゆる恋人同士の時間だと思える気さえしました。
されど、やはり何かが引っかかりました。
西行への恋心という非現実的なものへの憧憬ということではなく、ただ単に住友苗雅と恋仲になること、否、拡大して言えば、西行以外の人物と恋仲になるということに、どうしても何らかの違和感を禁じ得なかったのです。
その違和感の正体が掴めないことで、現実と非現実の板挟みになっていました。
六条さんとの出会いもまた、その困惑を促進させました。
そして、あの冬のわたくしの告白です。
あなたは、人知れず重ねてきた葛藤へ、その決断を迫られる形となりました。
結論が出された時の再会を願って、わたくしはあなたのそばをいっとき離れました。
そして今日、賽は投げられました。
あなたはここで、この文を読んでいます。
それこそが、結論ということです。
わたくしではなく、非現実の世界を、西行を選んだという結論です。
けれども、何も恐れないでください。
あなたの選択は、何も間違ってはいないのです。
この結論にたどり着いてくれることが、あなたの課題だったのです。
今日この文をお読みいただくことが、わたくしの使命の一つだったのです。
ここまで書いてきたことはすべて過去の出来事であり、
あなた以外誰も知り得ない、あなたの心模様です。
そのことから、わたくしの言うことが眉唾物でないことは、少しは承認してもらえるかと思います。
そして最後に少しだけ未来のことに触れて、この文の終わりにしようと思います。
あなたがこの文を読み終わった後、次に気がつくのは夢から目覚めた時となります。
その時が、二通目の文を開く時となります。
その後、あなたは終着駅へと向かうことになります。
これが、あなたの未来の事実をわたくしが知り得ている証明となります。
まどろみて さてもやみなば いかがせむ
寝覚ぞあらぬ 命なりける
草々
白駒二葉様
住友苗雅
(つづく)
生まれてこの方、付き合ったことのないほどの心臓の独走も忘れて、二葉は苗雅からの手紙を、左へ左へと追っていた。
もう一つ、お話をさせてください。
それは、わたくしとの出会いの二日前の夜の出来事です。
これも、あなた以外の人は知り得ないはずのものです。
これまで誰にも言えずにいたことだからです。
なぜ言えなかったのか。
それがいわゆる超自然現象であって、絶対的な確信はあれども、誰にも信じてもらえないと思っていたからです。
だから、これまでずっと封印してきたことを、わたくしは知っています。
初めて会った時にも、大学でご一緒するようになってからも、何度か切り出そうとしていたことも知っています。
それでも、決してあなたは口にしなかった。
そしてそれは、あなたの仮説である、声の魅力と密接に関係している出来事でした。
その出来事の前に、あなたにだけ聞こえる、平安歌人たちの声の話にも触れておきます。
中学校に上がってから和歌に親しむようになったあなたは、たくさんの古歌を詠むようになりました。
ほどなくして、平安末期の歌人たちの声が聞こえることに気づきました。
どういうわけか、その時代の、その時期の人たちに限ってのことでした。
そのことに気づいてから、古から伝わる和歌と歌人が、ただただ秀歌という理由だけで残ってきたのではない、声というものも鉤になっていると思うようになりました。
西行に至っては、聞く人たちを魅了してしまうほどの天恵のような声だったことが、
これほどまでに、大歌人として受け継がれてきた最大の要因だと仮定するようになりました。
けれども、もちろんそれを現代で立証することは不可能です。
どうやっても、あなたの耳の中にだけ響くその声を、他者に聞かせる術はないからです。
さらにその声が、果たして西行のものだと決定づける証拠もないからです。
なのであなたは、誰にもそれを話さずにきました。
そしてあの月夜に、不思議な体験をします。
そうです。
そこであなたは、時代を超えた歌人、西行と思しき人物に出会うのです。
厳密に言えば、その後ろ姿を目にしたのです。
その時に彼の詠った一首で、京都へ法金剛院を訪ねることも、大学での研究対象も決めました。
あなたがもっとも大切にしている歌です。
待賢門院に捧げたものと確信してやまない歌です。
それでも、あの時あなたは、その後ろ姿が西行でないことに気づいていました。
声の違和感に、すぐに気がついたからです。
あなたの耳に響く西行の声と、桜の下から聞こえた声は違っていたのです。
聞き覚えのある声ではあったのですが、違和感を覚えました。
この声は、西行のものではないと。
しかしそのことで、確信に変わったことが一つありました。
西行の魅力の源が、声だということです。
それは逆説的な証明でした。
それまであなたの耳に響いていた、天恵の声で詠まれる歌によって、声こそが西行の魅力の源だと仮定していたところに、別の声が詠じたのです。
西行のものではない他の声が、彼の歌を詠んだのです。
無論、その歌は完結しませんでした。
西行が、彼の声で詠んでこそ、その歌は完結するのです。
昇華するのです。
だから西行本人ではない誰かが詠んだことで、期せずして西行の魅力の源を確信できたのです。
天恵の声が、何よりの西行の源なのだと。
そして二日後、その後ろ姿と声を持った男性に出会います。
唯一あなたの耳に響かない一首を詠った、幻のような人物と出会います。
そうです、それが住友苗雅、わたくしだったのです。
あの日あなたは、初めての一人旅の最初の訪問地として、嵯峨野の竹林に向かいました。
月下の後ろ姿に出会えることを期待して竹林を往来しましたが、とうとう見つけることはできませんでした。
しかし、そのあと昼食のために立ち寄った喫茶店で、わたくしと遭遇するのです。
その時のあなたの表情を今でも忘れません。
二日前の衣紋姿と声がぴったりと重なったことによる驚きの表情です。
さらに、合席をしてからの心象風景の一致の条(くだり)は拍車をかけました。
それから話は、西行の条へと移っていきます。
わたくしが、大学での研究対象を質問されたことからその話題となりました。
あなたはそこで、再びのシンクロニシティを感じます。
西行の歌に導かれて法金剛院を訪ね来たところへ、同じように西行のフィールドワークにやって来たという人物が、幻の人物だったことへのシンクロです。
その流れのまま、あなたは西行の持説をお話くださいました。
西行の西行たる所以が、秀歌というだけでなく、それを詠んだ声だということ。
出家説の一つとして、恋愛説の立場を取っていること。
そのお相手の君は、待賢門院ではないかということ。
それには根拠はないが、絶対的な自信があるということ。
今度は、わたくしの仮説を披露することになりました。
そこで、西行の声を一度だけ聞いたことがあるとお話しました。
その時からあなたは、確定的に住友苗雅という存在が、特別な縁にあるものだと思うようになりました。
自分と同じ体験をしたことがある人物に、二日前の幻想からの再来者に、言を待たずに運命めいたものを感じました。
そして、大学での再会です。
もうここまで来ると、偶然の重なりだとは思えなくなっていました。
それまでの必然のような事実と、学内でまことしやかに囁かれる噂話に煽られるようにして、急速に住友苗雅に惹かれていきました。
と同時に、苗雅という存在について考え始めるようになります。
ほぼ毎日お会いするようになり、いろいろなお話をするようになりました。
その時間が増えれば増えるほど、その気持ちの正体が分からなくなっていきました。
なぜなら、同じ時間の流れの中で、九百年も前に生きた西行という人物にも、益々惹かれていっていたからです。
月夜の出来事があってから、それまでは気づいていなかった西行への想いが、一気に加速を始めていたのです。
しかしそのことであなたは、自分という人間が、少々奇天烈な人間だと思うようになっていきました。
似ても似つかない肖像画でしか見ることのできない古の歌人に、この上ない好意を抱くという不可解な感情を処理できずにいました。
折しも、夏合宿の酒宴で想定外の一矢が放たれます。
正面から矢を受けたあなたは、夜の四条通りで沈思黙考しました。
それから暗示をかけるかのごとく、すぐ横にいる住友苗雅という生身の人間との運命めいたものを尊重することが、正当な行為なのではないかと考えるようになります。
それこそが一般的な考えなのだと、自分をコントロールしようとしました。
すでに住友苗雅へ抱く気持ちが、紛れもない好意であることは自覚していました。
そう考えれば、恋愛相手になることは、何も不自然なことではないことも理解できました。
そして何より、共に過ごす時間が幸福な時間に感じられることは、動かしようのない事実でした。
それは見事にあっという間に過ぎていくほどの時間でした。
これこそが、いわゆる恋人同士の時間だと思える気さえしました。
されど、やはり何かが引っかかりました。
西行への恋心という非現実的なものへの憧憬ということではなく、ただ単に住友苗雅と恋仲になること、否、拡大して言えば、西行以外の人物と恋仲になるということに、どうしても何らかの違和感を禁じ得なかったのです。
その違和感の正体が掴めないことで、現実と非現実の板挟みになっていました。
六条さんとの出会いもまた、その困惑を促進させました。
そして、あの冬のわたくしの告白です。
あなたは、人知れず重ねてきた葛藤へ、その決断を迫られる形となりました。
結論が出された時の再会を願って、わたくしはあなたのそばをいっとき離れました。
そして今日、賽は投げられました。
あなたはここで、この文を読んでいます。
それこそが、結論ということです。
わたくしではなく、非現実の世界を、西行を選んだという結論です。
けれども、何も恐れないでください。
あなたの選択は、何も間違ってはいないのです。
この結論にたどり着いてくれることが、あなたの課題だったのです。
今日この文をお読みいただくことが、わたくしの使命の一つだったのです。
ここまで書いてきたことはすべて過去の出来事であり、
あなた以外誰も知り得ない、あなたの心模様です。
そのことから、わたくしの言うことが眉唾物でないことは、少しは承認してもらえるかと思います。
そして最後に少しだけ未来のことに触れて、この文の終わりにしようと思います。
あなたがこの文を読み終わった後、次に気がつくのは夢から目覚めた時となります。
その時が、二通目の文を開く時となります。
その後、あなたは終着駅へと向かうことになります。
これが、あなたの未来の事実をわたくしが知り得ている証明となります。
まどろみて さてもやみなば いかがせむ
寝覚ぞあらぬ 命なりける
草々
白駒二葉様
住友苗雅
(つづく)