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「桐詠先生――西行殿」
ほんの少し前、事の始まりを告げた声が、今度は後ろから囁く。
振り向くとそこは、宙に浮いたような再びの白光世界となっていた。
「桐詠先生、いいえ西行殿。果たして、ここにお連れすることができました」
「あなたの使命、一切を理解しました――堀河殿」
さっきまで、共に奧千本を歩いていたことが幻のように思えてくる。
「超常月の下で、西行殿が迎えられる邂逅のためのお役目でした。同時に、私自身もこの世界での再会を持つ一人として選ばれておりました」
「そうだったのですね。あの時あなたが口にされた、師という言葉が誘因となって、この時代に生きた証人としての私が、既のところで覚醒しました」
「私からの返歌を耳にすれば、必ず思い出してくださると確信しておりました」
「ええ。その時代に生きたとき、私は佐藤義清(さとうのりきよ)なる人物であり、
後に西行と名乗ったことも思い出すことができました。ずっと私の底にいたその霊が、漸くこの体に融合しました。そして西行として詠んだ歌が、転生した宇野里桐詠(うのさときりよ)として発せられていたことも、すべて理解の下になりました」
「はい。本当に嬉しく思います。そして無事に使命が果たせたことを誇りに思います」
「『無事に』ということは、それが果たせずに終わってしまった可能性もあったということですか?」
「その可能性もありました――超常月の下に入るには、必ず乗り越えなくてはならない課題があるのです」
「課題、ですか――。一体、その課題とはどのようなものだったのでしょうか?」
「それは、過去に生きた時代の記憶を、一つでも思い出すことだったのです。そして、その記憶を契機として、当代で叶えることのできなかった、未完成のままに終わってしまったことを完結させることが、西行殿つまり今生の桐詠先生の霊の終着駅だったのです。その終着駅へ導くことが、この世界の存在である私の使命でした」
「これまでのあなたの言動は、私の記憶を蘇らせるためのものだったと――」
「そういうことになります。私たち使命を与えられた存在は、対象者に過去を想起させるため、いろいろな手段を講じるのです。それでも、その手立ては予定調和のものではないので、こちらの予想と反する方向に進んでしまうこともあります。
その場合、機を熟すに尚早、ということが最大の原因とされてしまいます」
「機が熟していなかったというのは、この世界にたどり着くには、何かが不足していたということですか?」
小さく頷き、彼女は続けた。
「命の核ともいえる霊は、何度かの転生を繰り返します。その繰り返しによって、
さまざまなことを経験します。そうして、霊の終着駅に向けて必要なことを積み重ねていき、その準備が整った時、初めて超常月の下に立つことが許されるのです」
「それでは、私も西行として生きていた時から幾度かの転生を経て、宇野里桐詠の命を生きていたということなのですね?」
「桐詠先生は今の命を生きるまでに、二つの世界を、五度転生なさいました」
「五度、ですか」
「桐詠先生に使者が送られたのは、今回が初めてのことです。初めて与えられた、
超常月に入る機会でした。そして、私がその役を仰せつかりました。高校生の時の相談も、四年後を予告したような物言いも、一昨日の再会も、一対になる歌も、すべて桐詠先生に、西行として生きていた時の記憶の断片を思い出してもらうための手段でした」
「それで、あなたと詠歌したことの記憶が皮切りとなり、この世界を手繰り寄せる機会を得たのですね?」
「はい。西行殿を師と仰ぎ、待賢門院様にお仕えをしていた女房時代の私、堀河との記憶を、解放してくださりました。あとは雪崩を打ったように、一条に結びついていかれたように思えます。それ故、今ここにこうして立つことが叶えられました」
「ここであなたに会う前、憲康との再会を果たしました。あの時先立たれて伝えられなかった言葉を、漸く届けることができました。そして、無常の儚さから解放されるために、無常の世界に身を置くことが、必要だったことも知りました」
そう言うや否や、憲康の存在、いや数李の存在にも考えが及んだ。
「ということは、もしや彼もまたそれを私に教えるための使者だった、ということですか?」
「はい。数李先生も、私と同じ使者として存在していました。そして、無常という桐詠先生にとっての終着駅の対の一方を昇華させる手段として、あの時と同じ、別れという手段を選ばれました」
「そうだったのですか。あなただけでなく、彼も使命を背負っていたのでしたか――」
それを知った時、最後まで見守り続けてくれた兄のような存在だったことに、改めて感謝をした。
「ただ、一つだけ判然としないこともあるのです」
六条の説明を聞き、そのほとんどは苦もなく消化できたのだが、それでもまだ桐詠には、これから起ころうとしていることとこれまでのことに、一致を見ないことがあった。
「それは、どういったことでしょうか?」
「宇野里桐詠の世界には、西行の痕跡がまったく残っていなかったということです。
つまり、誰一人として西行という人物を知らなかったということです。私自身が西行であることを忘れていたとしても、それとこれは別の問題です。西行も、西行の残した歌も、まったく跡形もない。それなのに、西行として生きた自分が存在したという確固たる記憶がある。これがどういうことなのかが分からないのです」
「実在した自分の記憶は戻ったのに、誰の記憶にも残っていない、ということですね?」
「そうです。歌詠みだった父も祖父も、私の発した歌を西行の歌ということにも気づかずに、宇野里桐詠本人の詠歌したものだと信じていました。西行以外の平安時代の歌人も和歌も残っていて、それらの人々が残した歌を諳んじることのできる二人が、西行を知らない。まるで存在すらしていなかったかのように、ぽっかりと空いているのです」
「そうですね。そのことについては少しお話をしないといけないかもしれません。そしてそれは、この世界の説明にもなると思います」
そう言って、六条であるところの堀河局(ほりかわのつぼね)は、超常世界のあらましを話し始めた。
(つづく)
「桐詠先生――西行殿」
ほんの少し前、事の始まりを告げた声が、今度は後ろから囁く。
振り向くとそこは、宙に浮いたような再びの白光世界となっていた。
「桐詠先生、いいえ西行殿。果たして、ここにお連れすることができました」
「あなたの使命、一切を理解しました――堀河殿」
さっきまで、共に奧千本を歩いていたことが幻のように思えてくる。
「超常月の下で、西行殿が迎えられる邂逅のためのお役目でした。同時に、私自身もこの世界での再会を持つ一人として選ばれておりました」
「そうだったのですね。あの時あなたが口にされた、師という言葉が誘因となって、この時代に生きた証人としての私が、既のところで覚醒しました」
「私からの返歌を耳にすれば、必ず思い出してくださると確信しておりました」
「ええ。その時代に生きたとき、私は佐藤義清(さとうのりきよ)なる人物であり、
後に西行と名乗ったことも思い出すことができました。ずっと私の底にいたその霊が、漸くこの体に融合しました。そして西行として詠んだ歌が、転生した宇野里桐詠(うのさときりよ)として発せられていたことも、すべて理解の下になりました」
「はい。本当に嬉しく思います。そして無事に使命が果たせたことを誇りに思います」
「『無事に』ということは、それが果たせずに終わってしまった可能性もあったということですか?」
「その可能性もありました――超常月の下に入るには、必ず乗り越えなくてはならない課題があるのです」
「課題、ですか――。一体、その課題とはどのようなものだったのでしょうか?」
「それは、過去に生きた時代の記憶を、一つでも思い出すことだったのです。そして、その記憶を契機として、当代で叶えることのできなかった、未完成のままに終わってしまったことを完結させることが、西行殿つまり今生の桐詠先生の霊の終着駅だったのです。その終着駅へ導くことが、この世界の存在である私の使命でした」
「これまでのあなたの言動は、私の記憶を蘇らせるためのものだったと――」
「そういうことになります。私たち使命を与えられた存在は、対象者に過去を想起させるため、いろいろな手段を講じるのです。それでも、その手立ては予定調和のものではないので、こちらの予想と反する方向に進んでしまうこともあります。
その場合、機を熟すに尚早、ということが最大の原因とされてしまいます」
「機が熟していなかったというのは、この世界にたどり着くには、何かが不足していたということですか?」
小さく頷き、彼女は続けた。
「命の核ともいえる霊は、何度かの転生を繰り返します。その繰り返しによって、
さまざまなことを経験します。そうして、霊の終着駅に向けて必要なことを積み重ねていき、その準備が整った時、初めて超常月の下に立つことが許されるのです」
「それでは、私も西行として生きていた時から幾度かの転生を経て、宇野里桐詠の命を生きていたということなのですね?」
「桐詠先生は今の命を生きるまでに、二つの世界を、五度転生なさいました」
「五度、ですか」
「桐詠先生に使者が送られたのは、今回が初めてのことです。初めて与えられた、
超常月に入る機会でした。そして、私がその役を仰せつかりました。高校生の時の相談も、四年後を予告したような物言いも、一昨日の再会も、一対になる歌も、すべて桐詠先生に、西行として生きていた時の記憶の断片を思い出してもらうための手段でした」
「それで、あなたと詠歌したことの記憶が皮切りとなり、この世界を手繰り寄せる機会を得たのですね?」
「はい。西行殿を師と仰ぎ、待賢門院様にお仕えをしていた女房時代の私、堀河との記憶を、解放してくださりました。あとは雪崩を打ったように、一条に結びついていかれたように思えます。それ故、今ここにこうして立つことが叶えられました」
「ここであなたに会う前、憲康との再会を果たしました。あの時先立たれて伝えられなかった言葉を、漸く届けることができました。そして、無常の儚さから解放されるために、無常の世界に身を置くことが、必要だったことも知りました」
そう言うや否や、憲康の存在、いや数李の存在にも考えが及んだ。
「ということは、もしや彼もまたそれを私に教えるための使者だった、ということですか?」
「はい。数李先生も、私と同じ使者として存在していました。そして、無常という桐詠先生にとっての終着駅の対の一方を昇華させる手段として、あの時と同じ、別れという手段を選ばれました」
「そうだったのですか。あなただけでなく、彼も使命を背負っていたのでしたか――」
それを知った時、最後まで見守り続けてくれた兄のような存在だったことに、改めて感謝をした。
「ただ、一つだけ判然としないこともあるのです」
六条の説明を聞き、そのほとんどは苦もなく消化できたのだが、それでもまだ桐詠には、これから起ころうとしていることとこれまでのことに、一致を見ないことがあった。
「それは、どういったことでしょうか?」
「宇野里桐詠の世界には、西行の痕跡がまったく残っていなかったということです。
つまり、誰一人として西行という人物を知らなかったということです。私自身が西行であることを忘れていたとしても、それとこれは別の問題です。西行も、西行の残した歌も、まったく跡形もない。それなのに、西行として生きた自分が存在したという確固たる記憶がある。これがどういうことなのかが分からないのです」
「実在した自分の記憶は戻ったのに、誰の記憶にも残っていない、ということですね?」
「そうです。歌詠みだった父も祖父も、私の発した歌を西行の歌ということにも気づかずに、宇野里桐詠本人の詠歌したものだと信じていました。西行以外の平安時代の歌人も和歌も残っていて、それらの人々が残した歌を諳んじることのできる二人が、西行を知らない。まるで存在すらしていなかったかのように、ぽっかりと空いているのです」
「そうですね。そのことについては少しお話をしないといけないかもしれません。そしてそれは、この世界の説明にもなると思います」
そう言って、六条であるところの堀河局(ほりかわのつぼね)は、超常世界のあらましを話し始めた。
(つづく)
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