自称「おうちゃく病」のあるじの語ることには、
「鹿児島さ居たなだ。鹿児島の端っこ。〇〇さも居たし,△△さも行った。」
いくつか地名を言っているらしいが、よく聞き取れない。質問し返しても、あるじも耳が遠いので、相槌打って聞くばかりだ。
「ふ~ん、そうですか。」
鹿児島、桜島、西郷さん。鶴岡と兄弟市だよ、鹿児島市は。同級生が鍼灸院開いてるよ。奥さん鹿児島美人だし。鹿児島と言われても少しもピンとこない。端っこに何かあったかな?
「よかれんさ行ったもんだ。」
「よかれん…ですか?」
よかれん、よかれん。阿波踊りするのは何とか連ていうのだったな。いやいや、予科練か!あ、帝国海軍の、航空兵の、特攻隊の…練習生だよ。って、待て待て、えらく重たい話じゃないか。
「爆撃されっと、その後片付けに駆り出されて。」
「空襲来ると、防空壕さ潜るんだ。寝てられっから、かえって、楽なもんだ。」
「乗る飛行機なんか、ねぇあんだ。」
「15の時に行ったんだ。」
「志願して、よ。その頃はみんなそうだもんだ。」
お前は体が丈夫でないから、飛行兵なら受からねだろ、暗に(大丈夫だ、兵隊に行かなくて済むだろう)と、学校の先生に言われて受験したそうだ。
各地の学校から選抜されて受験するもので、戦争の末期のことだから、とにかく頭数をそろえるために駆り出されたということか。
一緒に行った何人もの中でなぜか自分も受かってしまって、鹿児島へ行ったという話だった。
15歳ともなれば、予科練に行く意味を知らなかったわけはない。けれども、訓練する飛行機さえもはや無く、土木作業や穴掘りに明け暮れ、空襲に追われ、出撃することなく終戦を迎えた。
世の中の価値観の大転換、それまで戦争に加担してきた大人たちのお見事な転向。どれほどの喪失感、虚脱感、おそらくそれらを上回る解放感に安堵感。
70年以上も昔、この人にも頬紅き15の頃があったという事実に思い至り、にわかにこみ上げるものがあった。
目の前でマッサージを受けながらうとうとしているあるじを見ると、いいったけ苦労を重ねてきたのだ、もう自分の好きにしなさいな、と言って差し上げたい思いに駆られた。
やがて、マッサージが終わると、
「どうれ、よっこらしょ。たもつかねと立ち上がらんね。」
と、座卓の前の定位置に座り、
「お茶飲んで行け。」
と、言いつつタバコに火をつけるのだ。
相変わらず、副流煙は気になるのだが、私の目ぇがうるうるでぃゆのは、タバコのけむりが沁みたせいでもなさそうである。
(注:昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて「どかれん」と呼び自嘲気味にすごした。(中略) 1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。 ウイキペディアより引用)