といっても、大したものではありませんが。
そこで感じたのは、やはり単純に宗教(団体)というものについて偏見の目で見ることは間違いであるのではないか、ということでした。
ただし、これは僕が宗教団体というものに対して頭からのめりこんでいる、またはそのつもりである、という意味ではないことをご了承下さい。
まあそもそも、実際に自分の目でそこにいる人たちを見て、よく宗教というものが偏見ありきの視点で語られる場合によく言われるような、「のめりこんでしまう」ような人はあまりいない(いるにはいるっぽい気もしますが 笑)ように感じます。
実際にちょくちょく顔を出してみて実感することは、宗教団体とはいっても、それは「宗教というものを媒体とした人の集まり」に過ぎず、「人の集まり」であるという点からみれば、世間一般的に良しとされることの多い、学生の部活動などと同様のものであるということです。
つまり、違いは何を媒体としているか、という事に過ぎない訳です。
それを実際にその実情を知りもしないで単純な偏見から語ってしまうのは良くない気がします。
ただ、そのような世間の偏見の目が、宗教団体を健全なままにとどめておける枷になっているのもまた事実でしょう。
やはり危険な部分はあるでしょうし、それが政治に介入してしまえば尚更であると思われるし、歴史がすでにそのことを証明しています。
今回の記事ではあまり多くを語ることはしませんが、またいずれテストが終わってから、そして今年以内には例の「『宗教』について」、の続きとなるものを書くことにします。
今日のことで再確認したことは、すでに述べたような、宗教というものに関わる人たちも、やはり人間なのであり、そこには世間一般的に言われるような人間的な関わりが存在しているのだ、ということです。
宗教団体に関わる人々は一般的には少数派であるという認識に立ち返れば、このようなことを実際に目で見て感じる必要はないように思いますが、しかし自分と違う世界に生きている(と自分が感じる)人々に対して、何も知らないのに偏見の目「だけ」で語ってしまうことは間違いなのであり、それは人の心に闇を灯してしまうという点において時にそれは危険であると言えるように思います。
読んで下さり、ありがとうございました。
…そろそろテスト勉強の方にシフトしていかないとなー。
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