93歳で関ヶ原の戦いに参戦した戦国武将、
大嶋雲八をめぐる岐阜県の歴史探訪です。
岐阜県加茂郡富加町の加治田地区にある
龍福寺は雲八さんの子孫、旗本大嶋家の
墓があり、ゆかりの地だと言われています。
岐阜県博物館の企画展”家康と美濃の
諸将”では龍福寺所蔵の”大嶋雲八知行
目録写”が展示されていました。
江戸時代、雲八さんの子孫は、加治田の
領主でした。龍福寺とも深いつながりが
あって、この文書が残されたと思われます。
龍福寺は古い歴史を持つお寺です。
”大嶋家ゆかりの寺”と言うより、戦国武将
”佐藤紀伊守忠能ゆかりの寺”として
歴史マニアの間で知られているようです。
今日はその”紀伊守”の話がメインです。
戦国時代、桶狭間の戦いに勝利した信長が
勢いに乗って、美濃に攻め入る時のことです。
信長の美濃侵攻を阻もうとして、美濃の国
斎藤方、3人の城主は結束を固めました。
頑固で知られる堂洞城主、岸勘解由…。
斎藤家の血を引く関城主、長井隼人…。
そして加治田城主、佐藤紀伊守です。
そこに信長側から紀伊守に調略の手が…。
紀伊守の心は揺れ動き、加治田城と領民を
守るため、信長に内通することを決めました。
”反信長”の立場で、固く結束していた他の
2人の武将は、紀伊守の裏切りを知りました。
「裏切者~!、紀伊守を許すものか…!」
岸勘解由は怒り狂い、直ちに信長&
紀伊守連合軍との戦いを始めました。
「城を焼き尽くすのじゃ~!」
信長と紀伊守は岸勘解由の城、堂洞城に
攻め入ります。激しい戦いになりました。
信長に攻められて、ついに堂洞城は落城…。
戦は信長&紀伊守軍の勝利となりました。
紀伊守は加治田城と領民を守り抜くことが
できたのです。しかし戦の勝利の代償は、
あまりにも大きかった…。
紀伊守はこの戦いで、堂洞城に人質として
送った娘、八重緑姫と、武勇に優れた
息子、右近右衛門を失ってしまったのです。
さて、この後、紀伊守はどうなったか…?
紀伊守は戦いの後、信長の勧めで養子を
とって、彼に加治田城主の座を譲りました。
加治田城主となった斎藤新五はその後、
”本能寺の変”で信長とともに亡くなりました。
時は流れて江戸時代、加治田は雲八さんの
子孫、旗本大嶋家の領地となったのです。
さて、話は佐藤紀伊守に戻ります。
紀伊守は隠居した後、仏門に入りました。
加治田に龍福寺を建立し、戦いで亡くなった
多くの人々の菩提を弔ったそうです。
一方、京都の公家さんとも親しく交流があり、
度々、酒を酌み交わしていた記録があります。
紀伊守、心穏やかな晩年を過ごしたのかも…。
もう随分前のことになりますが、龍福寺で
歴史講座が開催されたことがあります。
テーマは”佐藤紀伊守とその時代”、
つまり今日、長々と書いたこの話でした。
私にとって初めて参加する歴史講座でした。
いくら歴史が好きと言っても、推し武将の他、
詳しくないし、私でも理解できるかなぁ~?
講師さんの話しについていけるかしら…?
ちょっと心配になって主催者さんに相談…。
主催者さんが、「歴史講座は参加する前に、
その時代の流れや、関係する人物について、
ざっくりと予習しておくといいですよ。」
「前もってちょっと調べておくと、講師さんの
話がよく理解できると思います。”予習”が
大きなポイントとなるかもしれないですね。」
そこでテーマに従って、信長の東美濃侵攻に
関係する地名、人名について調べました。
ここでちょっと問題が浮上…!
友達が言いました。
「”堂洞城”ってどう読むの…?」
「”岸勘解由”ってどう読むの…?」
「”佐藤紀伊守忠能”ってどう読むの…?」
いや、そう言われると、私だって自信ないよ。
どうほらじょう…?それとも、どうぼらじょう…?
きしかげゆ…?だと思うけど…。
佐藤紀伊守は、通称”きいのかみ”だから
忠能ってよくわからない。”ただよし”か…?
そこで、主催者さんに尋ねてみました。
やさしい主催者さん、重要な人物の名前、
地名に全部フリガナをふって下さいました。
「まるで小学生だな~。」
後で主人にさんざん笑われました。
それから何年か経った後、この歴史講座で
とりあげた”佐藤紀伊守の時代”がそのまま、
一冊の歴史漫画になって登場しました。
”夕雲の城”という歴史漫画です。
これ一冊読むだけで、佐藤紀伊守をめぐる
この時代の流れが本当によくわかります。
実によ~くできた漫画だと思いました。
主人に連れて行ってもらって、著者である
渡辺先生のサイン会にも参加しました。
初めて体験した漫画家さんのサイン会…。
サインの他、漫画の登場人物のイラストも
書き添えて下さいました。感激でした。