93歳で関ヶ原の戦いに参戦した戦国武将、
大嶋雲八に関して、関ヶ原の戦いに勝利した
その後の記録がないか、調べてみました。
慶長5年(1600年)冬、徳川家康の命により
現在の名古屋市昭和区、御器所八幡宮と
神宮寺の修理をしたとの記録がありました。
今日はその”御器所八幡宮”に参拝しました。
名古屋市営地下鉄で行きます。地下鉄駅は、
”御器所”ではなく、”荒畑”で下車します。
神社は、地下鉄駅から歩いて6~7分です。
閑静な住宅街、鎮守の森の木々に囲まれ
御器所八幡宮の社殿が鎮まっていました。
都会の真ん中なのに、清浄な雰囲気…。
野鳥のさえずりが聞こえてきます。
”武の神さま”を祀る八幡宮なのに、
それらしくない優しい雰囲気を感じました。
”武の神さま”らしくない雰囲気…?
それには、ちょっとしたワケがあるようです。
実はこの神社、”御器所八幡宮”となったのは
江戸時代になってからだそうです。
それまでは”八所大明神”と呼ばれていました。
ご祭神は”八所大明神”。つまり天照大神の
御子さんたちを祀る神社だったのです。
ご祭神が途中から変わることはよくあること…。
尾張徳川家は、八幡さまを信仰していました。
尾張徳川家との関わりの中で、ご祭神の
変更があった可能性も考えられるそうです。
さて、400年以上前、大嶋雲八が修理した
建物は、もちろん現存しておりません。
しかし修理の記録を表す棟札の写しが
御器所八幡宮に伝えられていました。
棟札には、「大旦那 大嶋雲八郎 源朝臣光吉
奉 修理八所大明神 御寶殿拝殿 武運長久…
慶長五年 仲冬… 」、と記されています。
93歳で”武運長久”を願うとはすごい…!
もちろん、雲八さんの主君、徳川家康公や
雲八さんの子孫のためかもしれないですね。
この辺りは太平洋戦争の空襲を受けました。
焼夷弾がいくつも命中して、ご本殿も焼失…。
運よくその時、ご神体をご本殿から、お隣の
社務所のほうに移してあったそうです。
社務所へ降り注いだ焼夷弾は、不発弾…。
そのため神社で一番大切なご神体だけは、
奇跡的に焼失を免れたとのことでした。
社務所天井の不発弾跡を見せてもらいます。
天井に残る黒い穴が焼夷弾の跡でした。
大難を小難に…!小難を無難に…!
神さまのパワーで最悪を回避できたかも…。
御器所八幡宮、神社の雰囲気は正直言って
”武の神さま”らしい荒々しさはないですが、
雲八さん他、信長をはじめ多くの戦国武将と
関わりを持っています。歴史ファンは注目…!
名古屋の信長ゆかりのスポットを巡りながら、
”桶狭間の戦い”戦勝の地、桶狭間まで行く
”信長攻路(こうろ)のコースに含まれます。
信長家臣団の中で、大きな勢力を持つ
佐久間家は御器所八幡宮を崇敬しました。
桶狭間の戦いの時、佐久間家メンバーは、
ここから出陣したと伝えられています。
境内には、”佐久間社”もありました。
また、小牧長久手の戦いでは、徳川家康が
御器所八幡宮で戦勝祈願したとの記録が…。
ちなみに家康公をここに案内したのは、
大嶋家の者…。大嶋清衛門と記されています。
清衛門さん、どんな人だったかは不明です。
大嶋雲八との関係もあきらかではありません。
この件に関しては、ずっと調べています。
境内に加藤清正ゆかりの白竜社もあります。
これは、清正公が難航していた名古屋城築城を
無事、完成できるように祈願したお社だとか…。
白竜さんのお陰で、名古屋城は無事、完成…。
後に名古屋城の敷地内から、縁あって
御器所八幡宮に移されたものだそうです。
このように御器所八幡宮は、戦国武将の
守り神として崇敬されてきたようですね。
歴史散策にもってこいのスポットです。
長くなりましたので、次のブログ記事で
”パワースポットとしての御器所八幡宮”を
ご紹介する予定です。では、また…!
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