労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその6
六、柳田国男の「家族=労働組織」論
柳田は、家族やその集まりである村を、労働の組織であるという観点で考察した。
「現在の村生活を見ると、単に大小区々の農場、貧富色々の階段に立つ労働団即ち家族が、偶然に相隣りして集落を作って居るかの如き観があるが、実は其間には隠れた連帯があるので、互ひに意外の拘束を各住民の経済活動の上に加えつつあると云ふことは、少しく其成立の事情を考へると、之を認むることが困難で無い。」 (「日本農民史」)
「親子」という言葉でさえ、それが血縁的な親と子を示すようになる以前には、労働組織・体系上の親方と子方、労働におけるリーダーとメンバーを指す言葉だったと、柳田は言う。(「オヤと労働」「親方子方」「大家族と小家族」)。
協同労働の組織として村や家族が形成され、オヤによって指導される労働組織という共同生活組織だったものが、権力・利益・富という共同性を破るものが入り込んできてオヤが取り込まれ、オヤとコは労働組織上の言葉から血縁上の言葉へと矮小化された(「農村の家族制度と慣習」)。
今では、家や家族と言うと、それが血縁的組織であることを疑わない。ところが柳田は、家や家族というものは古くは労働組織であり、それが血縁というものを自然的に持っていたとしても主要な側面ではなくて、協同労働による共同生活組織という側面の方が重要なのだと言うのだ。
家族を捉える柳田の視点は、現代の家族論のどれよりも唯物論的だ。もちろん、現代の家族は柳田の言う家族が社会的に解体され、協同労働組織が階級再生産組織あるいは労働力再生産組織となったものだから、単純に比較することは出来ない。それでも、柳田の「家族=労働組織」論は、当時も現在でも、マルクス主義者たちより遥かに唯物論的であることに、驚かされる。