ゆるこだわりズム。

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労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその6

2021年02月15日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその6

 

六、柳田国男の「家族=労働組織」論

 

柳田は、家族やその集まりである村を、労働の組織であるという観点で考察した。

 

「現在の村生活を見ると、単に大小区々の農場、貧富色々の階段に立つ労働団即ち家族が、偶然に相隣りして集落を作って居るかの如き観があるが、実は其間には隠れた連帯があるので、互ひに意外の拘束を各住民の経済活動の上に加えつつあると云ふことは、少しく其成立の事情を考へると、之を認むることが困難で無い。」 (「日本農民史」)

 

「親子」という言葉でさえ、それが血縁的な親と子を示すようになる以前には、労働組織・体系上の親方と子方、労働におけるリーダーとメンバーを指す言葉だったと、柳田は言う。(「オヤと労働」「親方子方」「大家族と小家族」)。

協同労働の組織として村や家族が形成され、オヤによって指導される労働組織という共同生活組織だったものが、権力・利益・富という共同性を破るものが入り込んできてオヤが取り込まれ、オヤとコは労働組織上の言葉から血縁上の言葉へと矮小化された(「農村の家族制度と慣習」)。

 今では、家や家族と言うと、それが血縁的組織であることを疑わない。ところが柳田は、家や家族というものは古くは労働組織であり、それが血縁というものを自然的に持っていたとしても主要な側面ではなくて、協同労働による共同生活組織という側面の方が重要なのだと言うのだ。

家族を捉える柳田の視点は、現代の家族論のどれよりも唯物論的だ。もちろん、現代の家族は柳田の言う家族が社会的に解体され、協同労働組織が階級再生産組織あるいは労働力再生産組織となったものだから、単純に比較することは出来ない。それでも、柳田の「家族=労働組織」論は、当時も現在でも、マルクス主義者たちより遥かに唯物論的であることに、驚かされる。

 


労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその5

2021年02月14日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその5

 

五、中上の労働論の限界

 

労働が、人間が物として自然と連携する行為であるという認識は、マルクスにもある。

 

「人間自身も労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物であり、そして労働そのものは、そのカの物的な発現である。」(『資本論』第一巻)

 

だが、マルクスの物(ディング)と中上の物(もの)とは、対象は同じでも意味が全く異なっている。中上の物には至福があり生命の感動がある。しかし、マルクスの物としての人間には、自己意識はあるが感情(感性)がない。人間の現存在が現実的感性的個体的人間であるというフォイエルバッハの唯物論では、労働論がないために〈愛〉という言葉に原理を与えている。フォイエルバッハの〈愛〉を批判したマルクスは、〈愛〉と一緒に感覚論も捨ててしまったようだ。

物としての労働論において、中上はマルクスを超えた所に辿り着いた。しかし、中上はそこで行き詰まった。

中上の労働論には、対人間活動という視点がない。対自然活動の見地で究極にまで進みえても、そこからの拡がりが果たせなかった。袋小路の最奥にまで辿り着いたが出口を見つけることが出来ず、中上は労働論を放棄してしまった。『岬』や『枯木灘』に輝いた至福の労働は、『地の果て至上の時』(八三年)では色褪せてしまい、中上から労働論が消え

てしまう。

中上の労働論の限界は、労働が対自然活動であると共に対人間活動でもあるという二重性のうち、対自然活動の方向だけにこだわった所にあった。ところが、これと全く逆の考察をした人物がいる。柳田国男だ。

 


労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその4

2021年02月13日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその4

 

四、中上健次の労働論Ⅱ 物としての労働

 

 肉体労働は中上にとって、歪められていない労働のイメージ、〈至福の労働〉のイメージに最も近いものだった。

 

「汗水たらす労働の報酬としてのキレイな金とは、〈キレイな〉この社会での一人の男の在りようであるなら、ひょっとすると、その汗水たらす労働とは、今の、われわれの時代の労働という言葉とは別のものかもしれない。労働者がいつの日か解き放たれて名づけることもいらなくなった状態、ただ、人間としか言いようのない十全な存在の至福の労働である。つまり汗水たらす労働とは、至福の労働のイメージが一等濃いのではないか、と思うのである。狩人のように狩をし、漁師のように漁をする。」(「作家と肉体」)

 

中上は忘れているが、太古において狩人や漁師の労働は孤立した個人の労働としてではなく、他の人々との連帯をもって行なわれていた。労働が対人間活動であることを忘却させてはいるが、労働が対自然活動であるという一方の側面を、中上は突き詰めたのだった。

そして、この方向から中上は、労働の隠された根底に到達した。

 

「労働の原型にあるのは物との交感であり、物質的恍惚とでも言うやつである。そして自分が物を前にして、自分もまた、物として、物質としてまず在ることに気づく。」(同)

 

労働で物を相手にするとき、自分が物として相手の物と格闘および共闘する場面に置かれる。労働とは、人間が物として別の物たちととりかわす運動なのだ。

ところが現実には、人間は物ではなく労働力を買われる商品であり、相手にする物たちもまた物ではなく商品や商品の原型として存在する。物と物との共闘や格闘で流す爽やかな汗は、商品(貨幣)に関わる労働では濁らざるをえない。

中上は小説家としての想像力で、貨幣の存在を超えた労働の地平に、自分を横超させた。中上の身体の中に、太古の労働の記憶が刻まれていたのだろう。

 


労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその3

2021年02月12日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその3

 

三、中上健次の労働論Ⅰ 土方労働

 

中上の労働論は、『黄金比の朝』(一九七四年)での《売り》と《買い》との非対称性の強調に伴う素朴な労働価値論の描写を見過ごすことは出来ないが、やはり何といっても、『岬』(七五年)や『枯木灘』(七七年)における「土方労働」に託した、自然的労働価値論の表現に輝いている。

 

「秋幸は土方を好きだった。日と共に働き、日と共に働き止める。一日、土を掘り、すくい、石垣を積み、コンクリを打った。土を掘りすくっても、物が育ち稔るわけではなかった。石垣を積み、側溝をつくり、コンクリを打って、自分が使うのではなかった。人には役立っても秋幸には徒労だった。だがその徒労がここちよかった。組の現場監督の秋幸は銭勘定ではなく、日を相手に働くその事だけでよかった。 」(『枯木灘』)

 

「肉体労働が好きである。土方が好きである。それが労働の原型にもっとも近いと思うのである。」(「作家と肉体」七六年)

 

中上は、肉体労働としての土方に、労働の価値を感じていたのだった。もちろん、土方労働が労働の原型にもっとも近いと中上が言うのは、あまりにも一面的であり、中上の労働論が挫折せざるをえない問題をはらんでいることを端的に示してはいる。だが、肉体労働としての土方労働にしか、それも禁欲的にそれにのめり込むことでしか、もはや労働の価値に浴することが出来ないほどに、労働が歪められているという告発の方が、ここでは大切だろう。

中上は、自然相手の肉体労働に快楽を覚え、それが労働の原型のイメージに近いものであるとさえ言っている。精神労働ではなく肉体

労働が労働の原型に近いと言っているのでは自分の身体を動かして、それが自分には徒労だが人には役立つ。そのような労働が、労働の原型だと言っているのだ。

土方労働のイメージは、単に肉体労働というものではない。 自分にではなく人に役立つ労働というイメージなのだ。それを中上は、労働の原型に重ね合わせた。

 


労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその2

2021年02月11日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその2

二、労働論の深層化

 

批判の思想家であるマルクスの労働論には、近代労働者の労働論と、それに対する批判も含まれている。先に見た二つの観点も、マルクス労働論の主要な論点であることは、田畑稔『マルクスのアソシエーション』で掘り起こされている。労働という人間の活動が、価値生産的な活動だけでなく、また、労働が個人の孤立的な行動ではない事は、マルクスにとって基本だった。

問題は、マルクス労働論の核心を突いて、西洋労働観という歪んだ観点の下に築かれたそれを崩し、より正しい労働論の構築にある。マルクス労働論を崩す道具はある。柳田国男と中上健次の労働論だ。まず、中上の労働論を見てみよう。

マルクスは労働論を、自然対人間という観点と、人間対人間という観点の、二つの観点で分析した。しかも、この二つの観点の違いは位相の違いではなく、分析の便宜上のものと思われる。つまり、ここでの人間(労働する人間)は、自然と対等で同等な人間であって、自然も人間も物(ディング)として扱われている。物象(ザッへ)ではない。物としての人間の労働を、マルクスは労働論の根底に据えたと見ることが出来る。

賃金労働などの経済的価値生産労働は、物象としての労働と化しているので、その根底に隠されている物としての労働を見つけなければならない。そのような考察の最高のものに、中上健次の労働論がある。