マルクス剰余価値論批判序説 その23
第二章、社会の外部
一、社会の土台
生産諸関係の総体、社会の経済的構造が実在的土台であり、この土台そのものが社会である。したがって、マルクスの言う「実在的土台」を、社会を上部と下部に分けて、その下部の方を「社会の土台」だと言うのは正しくない。(1)
土台そのものが社会であり、この杜会の上に、社会ではないもの、ゾツィアールなものが乗っているのである。このゾツィアールなものは、マルクスが言うように「社会の外部」ではあるが、それは幻想的な外部であって、実在的なものではない。
マルクスは、実在的土台としての社会について、さらに絞り込んだ規定を行なっている。
大工業が発展するにつれて、それがよってたつ土台である他人の労働時間の取得が富を形成したり創造したりすることをやめるのと同様に、大工業の発展とともに、直接的労働は生産のそのような土台として存在することをやめる。(2)
ここでマルクスは、直接的な商品生産労働と大工業における生産手段(労働手段、機械装置など)の生産労働との違いについて述べているので、複雑な言い方をしているが、問題は、他人の労働時間の取得が生産の土台であるとしている点である。生産という現実生活社会の土台として、労働の取得される形式を捉えているのである。
『資本論』第三巻では、次のように述べられている。
直接的生産者から不払の剰余労働が汲み出される、特殊な経済的形式は、生産そのものから直接に成長してくるとともにその反作用において生産を決定するところの、特定の支配・隷属関係をもたらす。しかしこの上に、生産関係そのものから成長してくる共同制度とともに、同時にその特種な政治的な形態との、経済的な全体の形態が、築かれる。われわれが全体の社会的な構造の、したがってまた、主権・従属関係の政治的形式、要するにそのつどの特種な国家形式の中に見出す、最奥部の秘密、隠された基礎は、いつも、直接生産者に対する生産諸条件の所有者との直接的関係――そのつどの形式が常に自然に即した労働の仕方としたがって彼らの社会的生産力との特定の発展段階に対応する一つの関係――である。これは、同じ経済的土台――同じ主要諸条件をもつ土台――が、無数の異なった経験的状況、自然諸条件、人種関係、外部から作用する歴史的影響、等によって、これらの経験的に与えられた状況の分析によってのみ理解できうる、現象における無限の変形と段階づけとを示しうることを、妨げるものではない。(3)
ここでは、労働の取得される形式が生産関係であるとされ、これが、全体の社会構造の土台であるとされている。この直接的関係――労慟者と生産手段の所有者との直接的関係――が、全体の社会的構造の、最内奥部の隠された基礎・土台なのだ、とマルクスは言う。
直接的労働者から、その労働が収奪される形式が、社会の形式を決定すると言うのである。
ただ、この形式、剰余労働が直接的生産者から、労働者から、取り上げられる形式だけが、さまざまな社会の経済的な形成を、たとえば奴隷制の社会を賃金労働の社会から、区別するのである。(4)
マルクスは、労働者から労働が取り上げられる形式を、労働者と生産手段の所有者との直接的関係に見ている。そして、これこそが社会構造の土台なのだと、言っている。
物的生活諸条件の生産諸関係が実在的土台であり、これが社会であるという言い方から、一歩踏み込んで、労働者と資本家との直接的関係が生産関係であり社会構造の土台である、と言うのである。
それでは、労働者と資本家との直接的関係とは、どのようなものなのか。それは、流通過程において見られる、労働力商品所持者とそれを購買する貨幣所持者との関係である。貨幣を媒介とした、社会的人格相互の関係である。ここでは、労働は買われるのであり、支払を受けるのであるから、労働は収奪されてはいないことになる。
流通過程で契約が成立すれば、労働過程が始まる。労働過程での労働者と資本家との直接的関係は、労働者は資本の付属物としての労働する物になっており、資本家も人格性を剥奪されて資本として(せいぜいが監督・指揮者だが、殆どは代理を立てる)存在するので、流通過程におけるような関係はなくなっている。
したがって、マルクスの言う社会の土台としての生産関係とは、労働力所持者と生産手段の所有者との関係であり、労働過程を前提とした流通過程における関係である。
ここで、流通過程の前提とされている、労働過程が問題となる。