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マルクス剰余価値論批判序説 その30

2021年03月21日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その30

第三章、剰余価値と社会の外部

 

1、労働価値説

 

労働は、価値ではない。労働が価値(商品)であると見なされるのは、それが貨幣で買われるからである。

労働価値説は、労働者が賃金と引換に労働を提供する事態の、理論的表現である。したがって、労働価値説は、現に賃金労働が行われている現象の説明としては、無条件に正しいものである。

労働価値説に対する批判は、労働が賃金で買われることの批判にならない限り、労働価値説を越えることはできない。賃金労働の存在を認めておいて、労働に価値はないとは言えないのである。

マルクスの労働価値説が批判されるのは、それが剰余価値論と直接に結びついているからである。労働が価値であることは認めても、労働が新たな価値を生み出すことは認められないのである。(1)

マルクスは、労働が価値であること、労働(力)が商品であることが、いかに「狂った」意識であるのかを、その商品論においては論述している(2)。だが、剰余価値(資本)論においては労働価値論を無批判的に適用している。

マルクスの商品論は、商品批判すなわち価値批判であるが、剰余価値論は価値批判としては展開されず、不払労働の収得に対する批判にしかなっていない。

労働を、支払労働と不払労働とに区分して、不払労働の部分が剰余価値を形成するのだという理論は、商品としてその価値が支払われるのは労働ではなく労働力であるという観点の切り替えによって、整合性のあるものとして受け取られる。しかし、この場合の整合性は、商品交換社会における整合性であって、商品交換そのものに対する批判を棚上げにした場合の整合性にすぎない。

マルクスは、剰余価値論において、資本制社会すなわち商品交換社会に対する批判を、意図的に除外して論述している。その訳については、次のように述べられている。

 

商品生産またはそれに属する過程は、商品生産自身の経済的諸法則にしたがって判断されるべきだとすれば、われわれはそれぞれの交換行為を、それ自体として、その前後に行なわれる交換行為とのいっさいの関連の外で、考察しなければならないのである。また、売買はただ個々の個人のあいだだけに行なわれるのだから、全体としての各社会階級のあいだの連関を売買のうちに求めることは許されないのである。(3)

だが、何故許されないのだろうか。

われわれが資本制生産をその更新の不断の流れの中で考察し、個別資本家と個別労働者とのかわりに、全体に、つまり資本家階級とそれに相対する労働者階級とに、着目するならば、事柄はまったく違って見える。だが、そうすればわれわれは、商品生産にとってはまったく外的なものである尺度をあてがうことになるであろう。(4)

 

マルクスは、資本制生産における所有法則の取得法則への転化について論じているので、その姿勢は明確である。商品生産自身の経済的法則によって、所有が取得に転化することを証明すべきだとしているのである。商品交換以外の尺度によって、商品交換から価値増殖が行なわれるという説明は、避けるべきだと言うのである。

マルクスは、当然のことを言っている。しかし、マルクスの剰余価値論やそれにもとづく資本制的取得法則なるものは、マルクス自身が商品交換の諸法則だけにもとづいて論証しているつもりであっても、すでに商品交換の外部が、社会の外部が取り込まれているのである。ただマルクスが、それに気づいていないだけのことなのである。

マルクスは、自分か社会の外部を取り込んでいることを、まったく意識していない。しかし、実際の分析では社会の外部を、まさにその外部性を取り入れている。

 

 


マルクス剰余価値論批判序説 その29

2021年03月20日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その29

 

(11)『資本論を物象化論を視軸にして読む』(廣松編、岩波書店)で高橋洋児氏は、「重要なことは、賃労働に対して労賃が支払われるというあり方は労働力商品を前提とする特殊歴史的なものであるにもかかわらず、それが《労働―労賃〉という一般的な図式のなかで無区別的に捉えられてしまうという点である。(五九五頁)」と述べている。高橋氏は、マルクスの労働力商品説の立場にあるものの、《労働ー労賃〉図式の根幹に迫ろうとしている。「それにしても、労働は必ず労賃を見返りにもたらすべきものという観念が確固たるものとして成立するためには、当事者たちの側にそれなりのいわば根拠認識がなければなるまい。〈労働ー報酬〉関係がくり返し行なわれるというだけでは、なお積極的な根拠づけに欠けると言わざるを得ない。(五九六頁)」という問題意識は、《労働ー労賃〉図式を自明のものとはせずに、なぜ労働が貨幣と引換に処分されるのかという課題に触れている。だが、氏はここまで来ていながら「労働にではなく労働力に支払われるのだという、マルクスの詭弁に同調するのである。対象が労働であるか労働力であるかという区別にかかわりなく、労働は支払われるものだという意識は、かくも強固なものなのである。

(12)上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店)によれば、次の通り。「『市場』を『市民社会』と同一視すれば、『市場』の外に『社会』はないことになるが、実は『市場』の外には市場原理の及ばない『家族』という領域があって、そこへ労働力を供給していた。」(六頁)。「家事が『収入を伴わない仕事』であるとは、それが不当に搾取された『不払い労働』であることを意味する。この『不払い労働』から利益を得ているのは、市場と、したがって市場の中の男性である。」(三七頁)。「フェミニストの要求は、第一に再生産費用の不均等な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることにある。」(一〇六頁)。上野氏のこの優れた著作の欠点は、マルクスの労働価値論および剰余価値論を、あまりにも無批判に前提している点である。「資本は労働を買うと

見せかけながら、その実労働力を買っている(二九六頁)」という、マルクスが批判抜きで賃金の現実形式について述べているものをそのままに受け取って、労働(労働力)が支払われるものであるという資本制的意識から、「不払い労働」を批判する。社会の外部としての家事労働を捉えながら、「社会」や「外部」や「労働」については常識的見解に囚われている。社会を公的、家族を私的領域としてしまうことは、マルクスにとっては思いもよらぬことだが、このような常識的理解に読者を導いたのは、マルクスの叙述によるのである。賃金を労働力商品への支払いと見なすことは、私的交換の社会を平等人格相互の公的領域として受け取らせ、その外部が私的領域であるかのように思わせ、労働には

対価が当然であるという資本家的常識を植えつけるのである。しかし、上野氏が、家事労働が「社会の外部」で行われていることを見抜いたのならば、労働そのものが社会の外部で行われているものであることに、気づくべきである。上野氏にそれをさせなかったのは、氏の再生産概念である。上野氏は、再生産のカテゴリーに一般的生産(生産物の生産)を含めない(七四頁)。しかし、生産とは再生産である(MEW二三、五九一頁)。物の生産も人間の生産も同じことなのである。人間の生産を別格に扱うのは、どのような理由によるのだろうか。(もちろん、労働をその結果(対象化)としての生産物から見るのは、間違っている)。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その28

2021年03月19日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その28

 

(1)たとえば、岩佐茂氏は次のように言う。「社会的諸関係のこれらの関係のうち、マルクスは、物質的生産にかかわる生産諸関係(物質的関係)を社会の土台として、それ以外の他の諸関係を何らかのかたちで土台によって規定される社会の上部構造として特徴づけた。」(『人間の生と唯物史観』青木書店、一一六頁)。このように岩佐氏は、社会を土台と上部構造に分けている。しかし、岩佐氏自身がこの文の直前で述べているように、「社会的諸関係は物質的関係(生産関係)、社会的(social) 関係、政治的・法的関係、精神的関係に区分することができる」のならば、ゲゼルシャフト的関係とゾツィアールな関係とを、共にゲゼルシャフトの関係としてしまうことは、社会という日本語の没概念性に、あまりにも無自覚ではないのだろうか。

(2)『資本論草稿集』第二巻、四九六頁。

(3)MEW 二五、七九九ー八〇〇頁。

(4)MEW二三、二三一頁。

(5)「労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形式にもかかわりなく考察されなければならない」(MEW二三、一九二頁)。「これまでにわれわれがその抽象的な諸契機について述べてきたような労働過程は、使用価値〔この使用価値が誰のための使用価値なーーのかをマルクスは言わない 注7参照〕をつくるための合目的的活動であり、人間的欲求を満足させるための自然的なものの取得であり、人問と自然とのあいだの素材転換の一般的な条件であり、人間的生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形式にもかかわりなく、むしろ人間的生活のあらゆる社会形式に等しく共通なものである。」(同、一九八頁)。

(6)「労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外部でおこなわれる。」(MEW 二三、一八九頁)。「流通の前提とは、労働による諸商品の生産であるとともに、諸交換価値としての商品の生産でもある。」(『資本論草稿集』第一巻、二九七頁)。

(7)厳密に言えば、このように言うのは間違っている。商品が消費過程に入った際に使用価値になるというのは、商品が商品ではなくなるということではない。商品は、流通過程では交換価値という規定性で現われるが、消費過程では使用価値という商品のもう一方の規定性が現われるのである。使用価値も交換価値と同様に、商品の規定の一つなのである。生産物の使用価値という規定は、生産物が商品となることによって与えられたものである。商品生産以前の労働生産物は、交換価値ではないのはもちろんだが、使用価値(他人のための使用価値)でもないのである。労働生産物が使用価値と見なされるのは、それが商品であるからである。したがって、使用価値という言葉は、それが他人のための使用価値として対象的・媒介的に存在するものなのか、それとも自分の直接的使用を指しているのかで、区別されなければならないのである。これを無視すると、労慟が元来使用価値の生産であるという誤った見解を引き出すことにつながる。労働とは、生命発現(生命維持)の人間的行為であって、対象化活動というような使用価値生産(商品生産)活動ではないのである。このような、使用価値生産労働への批判から「非対象化的労慟」を考え出した今村仁司氏(『労働のオントロギー』勁草書房、二二〇頁)は、それを抽象的人問労働あるいは社会的労働になぞらえている。今村氏の見解は魅力的だが、氏の社会論がマルクス同様混乱しており、その労働論の理解を妨げている。抽象的人間労働とは直接的に社会的な労働(ゲマインシャフト的労働――ゲマインヴェーゼンとしての労働)であって、社会的労働とは具体的有用労働(商品生産労働)のことである。社会的あるいは連合的と言うだけでは、それが直接的か媒介的なのか、はっきりしない。このような混乱は、マルクスに責任がある。

(8)「生産過程一般、これはどんな社会状態にも属するもので、したがって歴史的性格をもたず、人間的といってもよいものである。」(『資本論草稿集』第一巻、三九〇頁)。

(9)「この部面での取得の法則として現われるのは、労働による取得、等価交換だから・交換はただ同じ価値を別の具体物で返すだけだ。要するに、 ここではいっさいが『美しい』。だが、すぐにどぎもを抜かれるような結末になるだろう。しかも等価の法したがって。」(マルクスからエンゲルスへの手紙、一八五八年四月二日付、『全集』第二九巻、二四九頁)。

10)MEW二三,五六二頁。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その27

2021年03月18日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その27

 

5、社会の外部

 

労働賃金という形式は、労働が、人問生活の土台であり、人間生活の自然根源的共同制度であることを、隠すのである。それは、貨幣という外的物的な物象が、人間労働に替わって共同制度(ゲマインヴェーゼン)となることによってである。

賃金(貨幣)という直接的に社会的な物と、労働という社会の外部とは、共に、人問の自然的および歴史的な本質としてのゲマインヴェーゼンの、物的および人問的な存在である。それはゲマインヴェーゼンが、物において現われたものと、人間の活動において現われたものとの、違いである。そして、労働が社会によって隠蔽されているからこそ、貨幣のゲマインヴェーゼンの直接性が、社会を超越したものとして現われるのである。貨幣の超越性は、労働本来の反社会性の物的な現われである。

マルクスの分析は、資本制生産の原理の全てを捉えている。ただ一点、マルクスの決定的な誤りは、社会を絶対化したことである。

労働の直接的な交換が、人間の本質としての共同制度であることと、資本制社会が貨幣を媒介とした間接的で物的(対象的)な労働の交換であり、労働は私的な場所で行なわれようとも労働者たちのゲマインシャフト的な結合によってその力を発揮するものであることを、マルクスは理解している。そして、労働過程を私的(排他的)なものとすることによって、その私的な生産物を社会的生産物(商品)として流通させることによって、資本が増殖することも理解している。

ところがマルクスは、労働過程が社会の外部にあることを認めない。したがって、外部を構造的に取り込む(隠蔽する)ことによって、社会は剰余価値を生み出すということを、実際の分析によって行なっているにもかかわらず、労働過程をも社会的過程であるとしてしまうのである。

社会によって社会を批判し、社会のさらなる社会化を求めるという、マルクスの社会の形而上学は、マルクスが決定的な点でそのプルジョア性を克服できなかったことを、示している。

この点を突いたのが、フェミニズムの家事労働論だろう。しかし、このせつかくの有効打も、家庭内での労働力の再生産労働が社会の外部にあることは指摘できても、労働そのものが社会の外部にあることには気づかないので、社会の外部にある家庭内労働を社会の内部における労働として認めよという、複雑怪奇に転倒した主張となっている。(12)

労働することが社会人の条件であると思われている状況では、労働が社会の外部にある非(反)社会的なことだという主張は、受け入れがたいものではあるだろう。特に、「労働の社会的性格と所有の私的性格との矛盾」を説く立場からは、労働が社会的なものではなく非社会的なものであって、社会の外部に存在するものだと言うのは、理解に苦しむ前に拒絶されるに違いない。

 


マルクス剰余価値論批判序説 その26

2021年03月17日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その26

 

4、〈労働ー労賃〉図式

 

しかし、実はここに、大きな落とし穴がある。

マルクスは、プルジョア経済学と同様に、労働が支払われるものであることを認めている。全額か一部かの違いはあるものの、労働が貨幤によって買われている、労働に貨幣が支払われていることを、自明な前提としてマルクスは、剰余価値論を組み立てているのである。

労働(労働力)が貨幣で買われる(売られる)ものであるという、資本制生産に独自なイデオロギーを前提にして、労働(労働力)が一定額の貨幣と交換に取得されることの超越性を、プルジョア経済学と同様に無視して、剰余価値の謎が解き明かされるのである。

労働に対して貨幣が支払われる、労働すれば貨幣が得られる、労働にはそれに見合う貨幣が支払われて当然だ、労働には正当な貨幣額が与えられるべきだ、などと言うのは、資本制生産社会に独自の意識であり、まさに資本制生産関係の社会意識である。

このような意識と、それに照応する剰余価値論をこそ、マルクスは批判しなければならなかったのだ。

奴隷制では、労働者の労働は労働者ごと取り上げられる。封建制では、労働者の労働のある部分が取り上げられる。資本制では、労働者の労働の全てが取り上げられる。奴隷制と資本制との違いは、前者が労働者ごと全ての労働を取り上げるのに対して、後者は労働者の労働だけを全て取り上げる、ということである。したがって、労働力の再生産は、前者では奴隷主が直接行い、後者では資本家がそれに必要な貨幣額を労働者に渡す形で問接的に行われる。したがって、労働者が自主的(!)に自分たちの再生産を行なっているように見える。

労働が支払われるのではない。賃金は労働(労働力)の対価(正当な額かどうかに関わりなく)ではない。

マルクスは、労働が支払われることを直接には問題にしないので、貨幣関係の役割を取り違える。

 

労働賃金という形式は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることの、一切の痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。……賃金労働者の無償労働を貨幣関係が隠すのである。(10)

 

貨幣関係(貨幣形式)が隠すのは、賃金労働者の部分的無償労働ではない。労働賃金という形式は、支払労働と不払労働という区別の痕跡を消し去ったりはしない。全く逆である。労働賃金という貨幣形式は、賃金労働者の不払労働を明るみに出すのである。それによって、労働が支払を受けるものであるという意識を、生じさせるのである。

賃金労働者で、自分の労働の全てが支払われていると考えている者が、いるだろうか。一切、無償労働はしていないと思っている者が、いるだろうか。自分の労働の一部が、資本家などに搾取されていると思わない者が、いるだろうか。

マルクスが、貨幣関係は労働者の無償労働を隠しており、労働者は労働賃金という形式によって、労働の全ての対価を受け取っているかのように思い込まされているのだと言っても、労働者は自分の賃金がそのようなものだとは、思っていないのである。

労働賃金という形式、あるいは貨幣関係は、労働が支払われるものであることや、労働が価値であるという意識を植えつける。そしてさらに、賃金額が実際の労働の価値から離れていることをも、意識させるのである。

この、実際の賃金額が不当ものであるという意識は、労働が価値である、労働は貨幣で買われるという意識を、いっそう強固なものにする。

マルクスが一言うのとは全く逆に、労働賃金という形式は、労働が商品であり、労働は貨幣で買われるものであり、労働は正当な対価を受け取っていない(できるだけ安く買おう、できるだけ高く売ろう)という意識を、労働者にも資本家にも植えつけるのである。

したがって、労働者が、自分の労働は全ての対価を受け取っていないと気づくことは、まさにプルジョアイデオロギーに絡め取られることなのである。不払労働にも支払え! 無償労働の搾取を廃止せよ!  という、マルクスの剰余価値論から直接に発生する要求は、労働が貨幣で買われるという資本制生産の基礎を、何ら傷つけないどころか、ますます強固にするのである。(11)